そのイヤホンを外させたい

これまでに読んだ舞城王太郎作品を振り返る


舞城王太郎『ビッチマグネット』を読んだ。

ビッチマグネット (新潮文庫)

ビッチマグネット (新潮文庫)


芥川賞候補にもなった作品で、舞城さんの作品としては物語としてのハチャメチャ度の低い、わりと落ち着いた中編かなと感じた。

きっと、芥川賞欲しかったから行儀の良さを重視したのかなと思う。

本作についての芥川賞選評で、高樹のぶ子さんが、

裏の裏は表、という屈折した回路をとりながら、少女の成長が語られる。

と述べていた。

この感じ、よく分かる。

舞城作品の語り手って本当に饒舌だ。

「そこは読者の想像にゆだねちゃってもいいんでない?」

って部分まで先回りして説明するので、
正直「くどいわ」、「ちょっとはこっちに考えさせろ」と辟易することも少なくない。

「まるで壁のようだ」とも評されたその独自の文体にも、この特徴は大きく反映されているように思う。
あらゆる面でマキシマムな小説家ですよね。



正直、本作に関してはこれといって言うこともないのだが、読んでいて、舞城王太郎ってやっぱり自分にとって特別な小説家だよなぁと感じた。

よく「一人の小説家と同時代を生きる喜び」について語った文章を目にするけど、正にそんな感じ。全作品を一気に読むほどのめり込む、ということはないものの、気が向いた時に作品を手に取って読んできた。


あらためて既に読んだ氏の作品を数えたら、なんと10作品!
「こんな読んだっけ?」って感じです。


舞城作品のあらすじってあっちゅー間に忘れるので雑な感想にはなりますが、せっかくなので読んだ順に並べておきますね。

煙か土か食い物

煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)


一番はじめに読んだ著者のデビュー作。
これは3回くらい読んだので、あらすじちゃんと覚えてます。
サリンジャーのグラース家サーガを意識した家族の物語。

本格推理なのか、純文学なのか、はたまたそれ以外の何かなのか?

なんてお行儀の良い疑問は後から浮かんだもので、読んでいる間はその破格の面白さにグイグイ引っ張られて寝食を忘れました。

これから舞城作品を読もうとしてる知人には、このデビュー作から読むことをおすすめしています。

阿修羅ガール

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)

書店の棚でシェア率の高い新潮文庫に早い段階から入っていたこともあって、デビュー作の『煙か土か食い物』よりも本作で舞城初体験となった読者が多いのでは?

しかーし、残念なことに本作は最初に読む舞城作品としては不適当だ。

良作ではあるんだけど、作家性のようなものがやや希薄なので、新しさに耐性のない読者には悪ふざけとしか映らず、「そこまでか?」という感想を口にする人がたくさんいたのを記憶する。

好き好き大好き超愛してる。

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)


これも芥川賞候補作。
審査員の石原慎太郎から「タイトルを見ただけでうんざりした」と評されたものの、内容そのものはわりとおとなしめだったと思う。
愛の重みのようなものをSFチック(ラノベチック)に描いた連作です。

みんな元気。

みんな元気。 (新潮文庫)

みんな元気。 (新潮文庫)

個人的には、舞城作品の中ではこれがワースト1位。身を入れて読んでいないのでもはや全く内容を覚えていない。
阿修羅ガール』同様、本作から読みはじめるのはおすすめしません。

世界は密室でできている。

世界は密室でできている。 (講談社文庫)

世界は密室でできている。 (講談社文庫)

名探偵ルンババを主役にした青春ミステリー。読んでいる時は気づかなかったが、どこかで本作はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』がモチーフになっていると知って、なるほどなーと思った。
その影響もあってか、数ある中でも最も瑞々しい読後感があります。

スクールアタック・シンドローム

熊の場所 (講談社文庫)

熊の場所 (講談社文庫)

スクールアタック・シンドローム (新潮文庫)

スクールアタック・シンドローム (新潮文庫)


短編集から入るのもおすすめです。
特に『スクールアタック・シンドローム』は、現代の「暴力」がテーマになっていて、「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」は、もっと批評が書かれていいんじゃないかなぁと。

じゃあ、お前が書けよって話ですね。
そのためには読み返さないと。

暗闇の中で子供

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

デビュー作に続く奈津川家サーガ第二弾。本作の語り手は三男の三郎。

物語として破綻しまくっているので文庫本にもなっていない問題作だが、おれは舞城さんの作品の中でこれがダントツで好き!

まだ読んでない人は絶対読むべきだと思うわ。

ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ

という一節に出会った時、それまで小説を読んできた自分を肯定されたような気がして嬉しかった。

九十九十九

九十九十九 (講談社文庫)

九十九十九 (講談社文庫)


他の小説家や評論家からは高く評価されているメタ小説。

やりたいことは説明されれば大体分かるんだけど、作者が本作を書く原動力の在所がおれにはイマイチよく分からなくて、終始言語ゲームに見えてしまった。

読む人によって好き嫌いが分かれる作品かなー。

ディスコ探偵水曜日

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

現時点での舞城さんの代表作にしてゼロ年代最強のバケモノ小説。

文庫本で上中下巻のある長編だが案の定ストーリーはグッチャグチャ。
中巻読んでる途中で「何と闘ってるか分からない」と思わず呟いてしまったほど。

けど、われわれの世代が共有している「ぼんやりとした壮絶」の感覚をこの小説がある程度まで背負っているのは確かだと思う。

「世界は密室でできている」というプレート(看板だっけ?)を掲げて世界に抵抗するディスコの姿がめっちゃエモーショナルで印象的。


好きな作品以外は内容忘却の嵐で恥ずかしい限りです。

が、各作品のおすすめ度に関してはそこそこ自信ありなので、これから舞城作品を読もうかなという方いたら参考にしてみてくださいな〜。

ジュブナイルの衣をかぶった人生哲学の書/小野不由美『十二国記 月の影 影の海』

現在中学2年生で卓球部の練習に燃えている従姉妹の娘に好きな小説をたずねたら、「十二国記!」という答えが返ってきた。

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)


小野不由美の作品はこれまで手に取ったことがなかった。

今思えば、自分はこの小説家を無意識のうちに避けていたのかもしれない。

原因はおそらく、漫画家の藤崎竜だ。
彼は『十二国記』と並ぶ彼女の代表作である『屍鬼』の漫画版を描いている。

屍鬼 1 (ジャンプコミックス)

屍鬼 1 (ジャンプコミックス)


おれは、小学4年くらいの時に藤崎さんの代表作『封神演義』を読んで「知的バトル」の何たるかを知ったが、自分と同じようにこの作品にハマっていた同級生の女子連中が大の苦手だったのだ。

簡単に言えば、ヨウゼンやテンカといった男性キャラを現実のアイドル並みに崇め立てることによって「イタい自分」を巧妙に演出し、スクールカーストの中の隠れ蓑とするのが、そやつらの常套手段だったように思う。とてもインチキ臭かった。

そのような藤崎漫画の読者に対する生理的な嫌悪感が、いつの間にか作品そのものに対する嫌悪にすり替わり(ごめんなさい)、漫画の原作者である小野不由美という小説家にまで拡大していった。おかげで、アラサーになるまで、「小野不由美=勘違い処女が好む小説家」という認識が消えなかった(ごめんなさい)。


さて、ここまで失礼なことを書いてしまったらもう後は褒めちぎるしか道はないように思うのだけど、実際読んで抜群に面白いのだから何の問題もない。

『月の影 影の海』は、十二国記シリーズの記念すべき第1作であり、昨今人気の「異世界転生もの」の走りである。

が、本作の読み応えはそれらの後発作品とはだいぶ違っている。

異世界なのにドン底


本作の印象を一言で表現するとすれば、「ビターな教養小説」になるんじゃないかと。

異世界に放り込まれた主人公陽子の直面する状況がとにかく過酷なんです。この素晴らしい世界に祝福をどころの話ではない。

舞台設定が現実とは異なる以上、ある日突然知らない世界にやってきた主人公が右往左往する場面はこの手の作品の定番だと思うのですが、本作はその「右往左往」がこれでもかってくらい徹底して描かれています。

紙幅で言うと、文庫本上下あるうちの上巻全部と下巻の冒頭あたりまで世界の輪郭が見えてこない状況で、ただただハードなサバイバル生活が続きます。

夕方近くに起きて、あてもなく歩き、夜を戦って過ごす。寝る場所は草叢で、食べるものはわずかの木の実で、それで三日を数えた。


なんて記述がさらっとされるような主人公の孤独な旅が延々と描かれる。


「小説家になろう」に投稿されるいわゆる「なろう系ファンタジー」では、読者に手っ取り早くカタルシスを与えるために、最初から主人公最強だったり反則的な特殊能力を持っているといったチート設定がされていることが多い。「俺TUEEEEEE」ってやつですね。

本作の陽子も、物語の冒頭で景麒(ケイキ)から剣とそれを振るうための能力(正確には戦闘の際陽子の肉体を操る幻獣)をもらいはするのですが、彼女の行く先を示してくれる協力者が現れないため(現れても結局裏切られたりする)、「なろう系ファンタジー」特有の無双感が全く見られない。「俺TUEEEEEE」ならぬ「私YOEEEEEE」状態です。

優しくて強い小説

ファンタジックな設定はこの物語の衣装にすぎない

これは、解説中にある北上次郎さんの言葉。
核心を突いた批評だと思う。


本作や栗本薫さんの「グイン・サーガ」などもそうですが、ひと昔前のファンタジーには、読者に自分自身の生きる目的や姿勢を深く考えさせるような問いかけ通奏低音としてあったと思うのです。優しさと強さを同時に兼ね備えた包容力のある作品が多かった。物語を読むことによって、エネルギーを自分の中にちょっとずつ溜めていく感覚を読者が持つことができた。


それに比べて、今の「なろう系ファンタジー」は、読者に「溜め」を促すというよりかはガス抜きとしての「抜け」を提供する作品が多いかなと思う。

前者に比べて後者が劣っていると言いたいわけではありません。

昔と今では世の中の空気というものも全く違うし、仮に今十二国記のような正統派の教養小説が出てきても、なんだか胡散臭く感じて、内容にスッと入っていけない読者も多いはず。

小説家の問題意識のあり方は彼らの属する時代によって異なります。今の作家たちは今の読者の心情に最も響くような形を模索した結果、あのようなスタイルに到達したのだと思います。それは、とても自然で健全な読者と作者の関係性です。

とは言いつつも、やっぱり、昔と比べて物語の役割って味気ない方向に変わってきたよねぇ。ちょっと寂しい。

それでも、物語を糧に生きていく


小説、延いては物語を読むことの効用が「溜め」→「抜け」になってしまった理由は、昔と比べて社会と、その中で生きるわれわれ一人一人の心の余裕がなくなってきたからじゃないだろうか。

効率重視の世の中で、すぐに役立つかわからない長たらしい小説をわざわざ読む暇が多くの人にはないのだ。どうせ本を読むんだったら、著者の主張が明白で速読もできる自己啓発書を読んだ方が得ですし。何かしらの見返りがないと本を読まない。みんな読書で成功したがっている。

そんな世の中の風潮に逆らってまで小説を読んだり書いたりといった鈍臭い行為を続ける人は、まぁちょっと変わってるかもしれない。

でも、本作の最後で陽子に備わったしなやかな強さと、選ばれし者としての風格は、やはり小説的な鈍臭い手続きを経ることでしか備わらないし、理解もできない代物じゃないかとおれは思います。

彼女が景麒に言う作品冒頭の「許す」と最後の「許す」では、言葉としての重みが全く違うことに読んだ人は気づきます。

小説を読んで心を耕す。
そんな時代遅れのライフハックの今日的意義をあらためて考えさせられました。

余談ですが、久しぶりに従姉妹の娘に会ってその成長に驚いたのと、「従姉妹の子供」って正式には何ていうのだっけ? という素朴な疑問が湧いたので調べたところ、「従姪(じゅうてつ)」と呼ぶらしい(従姉妹の息子の場合は「従甥(じゅうせい)」。

本作の中で陽子の肉体の中に入り込んで彼女のピンチを救う幻獣の名前は「冗佑(ジョウユウ)」です。なんか似てませんか? 一読を勧めてくれたマイじゅうてつに感謝です。ごきげんよー。

絶対他力と自己啓発

歎異抄』を読んでみた。講談社学術文庫に入ってる梅原猛全訳注のやつです。


歎異抄 (講談社学術文庫)

歎異抄 (講談社学術文庫)


本書には原文に加え読みやすい現代語訳と訳者による丁寧な解説が付いており、古文を読み慣れていない自分のような人間でもすんなり読むことができる。


さらに、本書に取り掛かる前段階として吉本隆明『今に生きる親鸞』も読んでいたので準備はバッチリだった。


今に生きる親鸞 (講談社+α新書)

今に生きる親鸞 (講談社+α新書)



この本もそうだけど、一般人向けの新書や文庫での吉本さんの平易な語り口がめっちゃ好きです。
氏の難しい方の著作をろくに読みこなせてない身ではあるけれど、物書きとしてのたたずまいのようなものに憧れを感じる。



さて、『歎異抄』。



結論から言うと、俺のような煩悩まみれの人間にとって、懐が広い親鸞の思想は大変ありがたみがある。



親鸞と言えば、悪人正機という言葉が有名かと思う。


善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。


ってやつね。



善人ですら極楽浄土へ行けるのだから、悪人が極楽浄土に行けて当然だろうって考え方です。



普通逆ですよね。



悪人ですら極楽浄土に行けるのだから、善人が極楽浄土に行けて当然というのが、ごく普通の人が抱く道徳観でしょう。



なぜこのようなトンデモ理論が出てくるのかというと、親鸞の善悪に対する認識は普通人よりも抽象度が高いのです。



人の善行と悪行なんてものは、阿弥陀如来の及ぼす力に比べると大した問題ではないと親鸞は言い切ります。



善いことをしようが悪いことをしようが、念仏さえちゃんと唱えれば阿弥陀様は救ってくれるよ。
逆にポイントアップを狙って善いことをしても、それは結局は自分のためでしかないのでそのことによって救われるとかはないよ。
そう言っているのです。



ここで親鸞は、人の善行の中に隠された偽善を良しとせず、ちゃんと批判の目を向けています。
浄土真宗は一般的には戒律のゆるい宗教と考えられがちですが、善行に対するごまかしを許さない点では、他の宗教より厳格だと言えそうです。


吉本隆明氏が本の中で述べているように、親鸞の思想は、われわれがコンビニでアフリカなど海外の貧しい子供たちのために募金をした際に感じる、あの説明し難いモヤモヤした感情の正体について、とことんまで突き詰めて考えているのです。


悪人正機」の例でも分かるように、親鸞は人間の判断や行動の結果なんて、念仏を唱えた時に得ることのできる阿弥陀如来の御加護に比べれば大した問題ではない、という極端な思想を持っていました。彼自身の言葉で言う絶対他力、身も蓋もない言い方をすれば、万事他人任せ運任せ。「他力本願」という言葉もここから生まれたそうです。



「善行も努力も気が向いた時にしたかったらすればいい。でも、だからって何もないよ」



してもしなくても同じだけどしたいんだったらすればいいさ、というゆるいスタンス。



戒律の厳しい時代にこんなこと言うのは死ぬほどハードル高かっただろうし、逆風もあったと思います。破戒僧めが、と。
現代人から見ても、親鸞の考え方は努力不要論に見えなくもないし、即座に受け入れ難いのではないかと思う。「自分は楽してあとは全部天任せかよ」っていうね。



善人でも悪人でも、念仏を一度でも真面目に唱えるだけで誰でも浄土に行ける。


このような信仰の簡略化には、当時の社会状況が大きく関係しています。


親鸞の生きた時代は、貴族と農民の貧富の差が激しく戦も絶えなかったこともあって、人の「命の値段」が恐ろしく安くなっていました。早い話、生きることそれ自体が無理ゲー化している過酷な時代だったわけです。


本来ならば、宗教ってそのような人達を救済する受け皿として機能しなければならないのですが、当時主流だった天台宗の教えでは、長年に渡る厳しい修行を経て始めて悟りを開くことができるとされていました。


天台宗には「千日回峰行」という荒業があることで有名だ。

大峯千日回峰行 達成者の僧侶が過酷な修行を振り返る - ログミー



何でわざわざこんなことをするのかというと、要するに自身の肉体を徹底的に痛めつけることで幻覚やエクスタシーを生み出し、即身成仏(生きながら仏と同じ状況になること)したと勘違いするためです。それが悟りを開く唯一の道だとされていた。


これが本当だったら、ごく限られた人間しか救いがないことになってしまいます。そうだとしたら、毎日の生活で手一杯の庶民は何を頼りに生きていけばいいのか分からなくなってしまう。


彼らのニーズを満たすために生まれたのが法然の浄土宗であり、その思想をさらに徹底させた親鸞浄土真宗なわけです。

「厳しい修行なんかしなくたって、念仏さえ唱えれば浄土に行けるよ」


もちろん、彼らの思想にも色々と問題があり、それが理想の仏教の形とは言えません。


しかし、「絶対他力」の思想が当時の社会を生きた生身の人間の苦悩と向き合い、それを反映したものであったことは確かです。



翻って、現代はどうだろう。


今の日本では、親鸞がいた時代のように飢え死にしたり、ある日突然始まった戦で命を落としたりということはないけれど、精神の方面だけ見れば、それほど変わらない気がします。昔だったらなかったようなストレスも増えた。


書店の棚には自己啓発書がズラーっと並んで、「努力をして他人との競争に勝たない限り生き残るませんよ」とわれわれに語りかけてくる。


先日、新しい大統領が決まったアメリカ合衆国では、日本よりもさらに多くの自己啓発書が書店の棚を占領しているとのことです。


今回の大統領選でドナルド・トランプに票を投じたのは、自己啓発書の中にあるような見せかけの希望を嫌というほど口の中に突っ込まれてきたにも関わらず、結局何一つ自分たちの置かれた辛い現実が変わることがないことに絶望した、そんな人々だったのではないか。


そのような世界情勢から、あらためて親鸞の他力の思想について考えを巡らしてみると、『歎異抄』の内容がより今ここに接近するなぁと感じたのでした。

『20歳の自分に受けさせたい文章講義』はアラサーが読んでも得るところが大きかった


量か質か。

ブログを書いている人間なら、たびたび耳にするであろう二者択一だ。

今のところ、量は質を凌駕するという考え方が優勢かと思います。

量をこなさないと質も上がらないのでつべこべ言わず書け、ということですね。

とはいえ、いかに早く大量に記事を生産することが重要だと言っても、早い段階から文章の書き方を文章術の本などで学んで、書き手としてのレベルアップを図っておいて決して損はないでしょう。

20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)

20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)


『20歳の自分に受けさせたい文章講義』は、これまで刺激的な内容の新書を世に送り出してきた星海社新書のラインナンップのなかでも、マスターピースと呼べる1冊だと思う。

著者の古賀史健氏は、堀江貴文の『ゼロ』や『嫌われる勇気』といったベストセラーを手掛けた売れっ子のライターである。

もっとも、本書の刊行はそれら2冊よりも前である。

ライターとしての自身の文章術を1冊の本として体系化する作業は、著者のキャリアにプラスに作用したことは間違いない。

タイトルの「20歳」という言葉を見て、初歩的な文章テクニックしか載っていないと思うのは早合点だ。

おそらく、日頃ビジネス文書などを書き慣れた会社員の方が、本書にとっての良い読者になれるのではないかと思う。

ほら、20歳かそこらの頃って、既存の文章術なんかに頼らずとも自分はうまい文章が書けるはずという根拠のない自身があったりするじゃないですか。

だから、本書を一読してもあまり響かないんじゃないかな。自分の物書きとしての至らなさをそこそこ客観的に見ることのできるアラサーだからこそ、読んで身に染みる部分も多い。

本書のなかで、著者は“書く技術”はそのまま“考える技術”だと言っている。
では、“考える”とは具体的にどういうことか。それは、頭のなかの「ぐるぐる」を、伝わる言葉に“翻訳”するということである。

上手い文章を書くために必要なのは、この“翻訳”の意識と技術なのだ。

以下、“翻訳”の技術を向上させるのに必要な4つの要素と、ためになったテクニックを順にメモしておく。


リズム

文章を語る上でよく引き合いに出される「文体」という言葉。

その正体は、文章のリズムである。

リズムの悪い文章は読みにくい。

では、どうすれば文章にリズムが出るのか。

カギは接続詞である。

接続詞を意識するだけで文章は論理破綻し難くなる。

リズムの良し悪しは、文と文のつなげ方、論理展開で決まる。

構成

接続詞が論理展開を補強する接着剤の役割なら、論理そのものは「主張」、「理由」、「事実」の組み合わせによって構成される。

書き手の「主張」が客観的な「事実」に基づいた「理由」によって裏打ちされたとき、読み手はその文章を論理的だと感じる。

実際には、「事実」→「主張」→「理由」の順で構成する書き方が自然で書き手の言わんとするところがスムーズに伝わりやすい。

読者

読者に「当時者意識」を起こさせるための起“転”承結のテクニックは汎用性が高い。

文章の冒頭で仮説を立てて読者の興味を引けば途中で飽きずに最後まで読み切ってくれる。

ブロガーにとって、この箇所が最も役に立つかもしれない。

編集

推敲とは、単に文章の誤字脱字を赤ペンで直す作業を指すのではない。

鬼軍曹になったつもりで、不必要と思われる箇所はバッサリと大胆にカットしよう。

推敲とは、つまるところ「もったいない」や「せっかく書いたのに」というサンクコスト(埋没費用)をいかに捨て去るかが勝負なのだ。

文章でも映像でもプロの仕事は削りの技術を学ぶ格好の教材だ。

一流の書き手は例外なく優れた編集者でもあるのだから、どんどん吸収して盗むべし。


ブログは、基本的には何を書いてもいいという個人の自由な表現の場だ。

しかし、その自由さゆえに何をどのように書いたらいいのか途方に暮れることがある。

そういうときは、回り道をいとわず、本書にあるような文章術を試してみてほしい。思っていた以上の気づきがあるし、文章の幅も広がるはずだ。

非恋の時代に心を病むことについて/トイアンナ『恋愛障害』

交際相手のいない男女の割合が過去最高を記録したというニュースが話題になっていた。


本格的な「恋愛氷河期」の時代がやってきたのかもしれない。


結婚願望のある人が8割を超えるというのは、多くの人が現在恋愛をしたくてもできない状態にあることを如実に物語っている。


ちょうどタイミング良く、現代の恋愛の困難さについて書かれた本を読み終えたところでした。



著者はライターのトイアンナさん。ブログもよくバズってるので恋愛クラスタの住人なら知らない人はいないでしょう。


「恋愛障害」というのは本書における著者の造語で、恋愛において対等なパートナーシップを作ることができず長期的に苦しむことを指す。



本書は、大きく分けて以下の3つのパートで構成されています。


1.「恋愛障害」の様々な症例を男女ともに列挙


2.不安や寂しさの原因となる過去の記憶と向き合い、ポジティブな方向に解釈を変える方法について


3.日頃の行動を通じて自尊心を回復させる具体的な訓練法について



1のパートだけでも十分な情報量です。外資系企業でのマーケティング業務や500人以上にも及ぶヒアリングおよび恋愛相談という豊富な経験が活きており、読んでるこちらがちょっと嫌味に感じるくらい詳細なタイプ分けをしてくれています。


女性パートは、僕自身が似たタイプの女性に遭遇した経験があり、なんだか既視感がありました。男性にコントロールされやすい女性って総じて心が無防備なんですよね。だから、こちらから弱点がはっきり見えるし、その部分を攻撃すると簡単にダメージを与えることができる。多くのクズ男は感覚でやってると思いますが、本書では彼女たちの成り立ちや普通の女性との違いについても説明されているので、あらためて腑に落ちるところが多かったです。


男性パートは、恐る恐るという感じで読みました。笑

男性の方で、もしこの本を読んでいて辛くなったら、本を閉じて休憩してください。私の経験では、男性のほうが「自分は傷ついてなんかいない」と強がる傾向にあります。ページをめくりながら笑えなくなってきたら、一度コーヒーブレイクを取りましょう。 p77


との前置きがあったものの、いざ読んでみるとやはり少しだけ腹が立ちました。笑
ダメなのは自分だと頭では理解しているのに、それでも「いや、俺だけのせいではないだろ」という強い反発を覚えました。


二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』を読んだ時にも同じ焦燥感を抱きました。


すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)



男性ってインチキな自己肯定をしていても女性と比べてそれを同性から指摘されることが極端に少ないので、そのぶん自覚を促すためには第三者からの辛口な批判が必要になるのだと思います。



2については、幼児期~思春期における親(特に母親)との歪んだ関係性や、学校でいじめに遭ったなどのマイナスの情動記憶が、いかにその後の恋愛のハードルを上げ得るかということが詳しく書かれています。これは心理学の本なんかにもよく出てくるので、ほぼ間違いのない事実なんでしょう。


現在の自分が抱える不安感や寂しさの原因であるつらい過去と向き合う重要性を、著者は面白い比喩で表現しているので引用します。

たとえば夜寝ている時に、誰かに見られている気がして目が覚め、窓の外に白い影がユラユラしていて怖くて眠れなくなった場合を考えてみましょう。
この時に、その白い影の実体がなんなのか確認しないと、漠然とした恐怖が続いて眠れなくなってしまいます。でも、思い切って窓を開けて確認したら、昼間干したワイシャツだったとしたらどうでしょう。その後安心してグッスリ眠れるはずです。
現在の漠然とした不安感や孤独感も、多くはこの昼間干したワイシャツと似ています。p124


過去の記憶に蓋をして見ないようにすればするほど、それは存在感を増し、恐怖の感情を呼び起こすということが分かります。勇気を出して目を向けてみれば、拍子抜けするほど些細な出来事だったりもすることも珍しくないようです。


3は、日頃の生活を通じて、失われた自尊心を取り戻すための具体的な方策が色々と書かれています。

  • 「ついでの買い物をお願いする」
  • 「好きな食べ物を作って一人占めする」
  • 「返信をスルーする」
  • 「自分の胸がときめく服を買う」


などなど、手取り足取り。


まるでリハビリじゃないですか!
これこそ正に「恋愛障害」ですよ。


今後、こういう人がますます増えていくだろうことは目に見えてますから、これはゆゆしき事態だと思う。小中学校のカリキュラムに「恋愛」を加えてもいいのではないか。中途半端な理解しか促さない性教育を補てんする目的で。


そして、さらに問題なのは、冒頭に挙げたニュースにもあるように、たとえ「恋愛障害」であっても、交際相手がいる時点で優秀というのが今の日本社会なのです。


「恋愛障害」というのは、考えようによっては日々激化する恋愛市場において不器用ながらも格闘した名誉の負傷、勲章であって、真の不安要素は傷つくことを必要以上に恐れて傍観者を決め込んでいるその他大勢なのかもしれません。


恋愛はもはやスキルでいいのかもしれない。

社会に対してベタになると死ぬ/トークイベント:宮台真司×二村ヒトシ『希望の恋愛学』を語る

 

先日、社会学者の宮台真司さんとAV監督の二村ヒトシさんによるトークイベント『希望の恋愛学』を語るに参加してきた。


場所は下北沢にある世田区立男女共同参画センターらぷらす研修室。変な名前。

 

 

僕は知らなかったのだけれど、二人によるトークイベントはこれで通算4度目になるらしい。


それもあってか、とても自由な雰囲気でナンパやAVをはじめ色々なことに話は飛んでいたのだけど、二人が言わんとしてることはアプローチの方向は違えど共通しているように感じました。


自分的に気になった部分をちょっとまとめてみる。


目次

 

 社会は単なる“なりすまし”

 

まず、二人の話の大前提となっている考え方が二つ。

 

・個人にとってこの社会で生きることはそもそも“なりすまし”に過ぎない。


・真の性愛や猥褻は常にその“なりすまし”社会の外側に位置するものである。

 

大昔に人類は狩猟・採集の生活から農耕・牧畜の定住社会に移行した。


そのような社会においては、共同体を崩壊に導くような個人プレーは制度によって厳格に管理される。安定した生活を維持するには集団を乱すような逸脱は極力排除しなければならない。


しかし、人間には理性もあれば本能もあるので、常に統制のとれた社会の中で生きることに抵抗を感じる人種も当然のように出てくる。


そういった人々の鬱屈を晴らすために昔の共同体が用意したのが、定期的に行われる祝祭だった。自由セックスありのお祭りですね。


制度化された集団の外にガス抜きもしくは生物としての本来性への回帰の場を設けることによって、社会の秩序を保ってきたという長い長い歴史が人類にはある。

 

社会の外側に本当の自分に帰れる場所があるからこそ、人は動物とは異なり理性的な集団生活を営むことができたんですね。


現代でも、スケールの差はあれどそのような浄化の営みは機能していたのです。


ところが、宮台さんが言うには90年代後半のあたりからそのへんの事情が変わってきたという。


社会に100%調和するクソ人間の増加


社会というのはもともと人間の作ったものなのでよく見ればほころびも多いし、テキトーに対処してお茶を濁してしまえばいい事柄も実は多かったりする。
 

だが、近頃は欠陥だらけの世の中に必要以上に同調し、その結果他人への攻撃に走ったり、ストレスから精神を病んでしまう人が増えた。


「性で幸せになれない人間は制度に走る」

「権利の獲得と性で幸せになることを混同する人間が増えた」

 

2つとも宮台さんの言葉なのだが、どちらも同じことを言っている。


社会で最適化できれば自分は性愛においても満たされるという勘違いが多くの人に共通認識になっているということです。


こういう人はどちらかというと男性に多いのではなかろうか。


社会的なポジションをチラつかせることでしか女性を口説く術を知らないおっさんや、相手を物格化することで女性から性愛における表面上の快感だけを得ようとする恋愛工学性も上の最適化人間に該当するだろう。


だが、仮に社会というとんちんかんな枠組みの中で他人を思うがままにコントロールすることができたとして、そんなことに最大幸福を感じてる人間は色んな意味で不自由でありクソですよね。


二人が口を揃えて言ってたことであり、僕自身もあらためてそう思った次第だ。

 

社会に対してベタにならない


二人の話の中で一番に良いなと思った言葉です。


われわれは望むと望まざるに関わらず、今ある社会の中で生存していかなければいけない。毎日働いてちゃんと飯を食っていかなければならない。


でも、だからと言って社会に対して全面的信頼を置く必要はない。なぜなら、いつの時代だって人間性全てを包みこむ完璧な社会なんてなかったかし、たぶんこれからもありっこないからである。


本物の自分は社会の外側にしかいない。
その事実をちゃんと理解している人間だけが時々そこへ出かけて行って自分にとって大事な何かを獲得し、もといた場所に帰ってくることができる。


行きて帰りし物語」のリアルバージョンというわけです。僕はテクニックとかマウンティングなどよりこちらの方が好きですね。

 

*何度も話題に上がったカンパニー松尾さんの作品が非常に見てみたくなりました。今度借りてみます。

*(懇親会も楽しく飲み食いさせていただいた。ありがとうございました。)

 

社会という荒野を生きる。

社会という荒野を生きる。

 

 

 

 

二村ヒトシ/川崎貴子『モテと非モテの境界線』の感想

モテと非モテの境界線 AV監督と女社長の恋愛相談

モテと非モテの境界線 AV監督と女社長の恋愛相談



『モテと非モテの境界線』という対談集を読んだ。


著者(というより対談してる人)は、AV監督の二村ヒトシと、働く女性のサポートを事業の根幹にすえる人材会社を経営する川崎貴子


前者にについては過去に別の著作を読んで書評も書いているので知っていました。



が、後者の存在はこの本を読むまで知りませんでした。出会いに恵まれない女性ってわりと多いんですね。


独身男性として普通に暮らしてる分にはそういった女性の方々とは面白いほどエンカウントしないので、川崎さんがやられているような独身女性向けコンサルティングが需要があること自体新鮮な驚きがありました。


さて内容はというと、二村さんの著作を既にいくつか読んでいる身としては、それほど目新しい要素はないかなと思った。いつも通り、幼児期に形成される「心の穴」の理論を前提に、恋愛市場における男女のマッチングの困難さの確認に多くが割かれている。川崎さんは、自立した女性という立場から男性にありがちなキモい自己肯定を客観的にビシビシ糾弾する役割といった感じか。


二人の対談以外にも現実の独身男性の相談を受けたりと色々やってるのですが、それらを通して結局なにを言ってるのかと言えば、他人基準ではなく自分基準をちゃんと把握した上で恋愛や結婚はした方がいいよ、ということなのだと理解しました。


本書のタイトル通り、世の中にはモテる人と非モテの人の2種類がいることになっていて、パッと見ではその違いは明らかに感じられるのだけど、実際には両者の線引きはそう簡単にできない。なぜなら、「心の穴」への適切な対応が取れてないがゆえに不毛なモテ方をしてしまう人も存在するからだ。はた目には異性に不自由しないように見える人が、内面的には非モテのそれと全く同じ躓きがあるゆえにいつまで経っても自分にピッタリの相手に巡り会えないという事態も決して少なくないのである。


僕は、そのような不毛なモテスパイラルの後にはわりと深刻な女性不信が待っていることは分かっているつもりです。二村さんが理想としているようなお互いの「心の穴」をおざなりにすることのない異性との本来的な触れ合いが実現できれば、金などなくてもかなり幸福度の高い人生を送れるでしょうね。それはもう間違いない。


だがしかし、
それ結構ムズクね?
とも思うのである。やはり。


それができたら話は早いというか、逆にそれができないからこそ、女遊びにハマったり婚活塾で金ふんだくられたりするのではないかと思う次第である。卵が先か鶏が先かという話になっちゃうので恐縮ですが。


でもまぁ、本書でお二方が言うようにベストな恋愛と結婚のあり方ってそれこそ人それぞれなので、理想の恋愛のあり方を言葉で定義しようとしてる自体マニュアル思考に陥っている証左なのかもしれません。やっぱ難しいわ。


以上、簡単な感想でした。