そのイヤホンを外させたい

わたしたちの住む街には得体の知れない何かが潜んでいる/乙一『GOTH』

エッジの効いた短編小説が読みたいなぁと思った。

手に取ったのは、乙一の『GOTH』。

GOTH 夜の章 (角川文庫)

GOTH 夜の章 (角川文庫)

GOTH 僕の章 (角川文庫)

GOTH 僕の章 (角川文庫)


1冊に3話ずつで全6編。
何だか懐かしい感じがしたが、最初の「暗黒系」以外はこれが初読。


小説執筆の第一歩として、乙一の作品群を参考にするワナビーは多いのではないかと思う。


実際、乙一は上記「暗黒系」の執筆プロセスを小説ハウツー本の中で公開している。


その影響もあってか、自分のように「暗黒系」だけ読んで済ませてしまう人も少なからずいるのではと想像します。


もったいない。
他の作品も読んで損はないです。


「夜の章」と「僕の章」全6作品を通して読んで、「これ、青春小説だな」って思った。


本作の語り手である「僕」は、正常な感覚を持った人間ではなく、どちらかというと彼が接触する猟奇殺人犯たちに近い存在として描かれている。ヒロイン役である森野夜も「僕」ほどではないにせよ、人間の暗黒面を好む傾向がある。本来なら、彼らのようなギークに普通の読者が感情移入することは困難だ。


にも関わらず、実際に読んでみると抵抗なく「僕」と同じ視野を持てるので不思議に感じるだろう。


なぜそのようなことが起こるのかを考えるに、おそらく、『GOTH』には自分たちの住む街には得体の知れない何かが潜んでいるかもしれない、という青春期の危機感のようなものが作品の背後にあって、それは読者にとっても馴染みのある感覚だったからではないか。


自分は、本作を読んでいて荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険 第4部』を思い出した。


杜王町に潜むシリアルキラー吉良吉影と『GOTH』に登場する殺人鬼たちが重なる。現に「リフトカット事件」には、人間の手の収集を好む犯人が登場する。


作者は、後年ジョジョのノベライズでも第4部を選んでいる。このことから見ても、少なからぬ影響を受けていたことは間違いないだろうと思う。

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day (集英社文庫)

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day (集英社文庫)


乙一作品は叙述トリックにこだわり過ぎて小説として軽いと批判されがちだけど、今回読んでみて、ラノベっぽい類型化された人物設計とは裏腹に、“青春と自傷”とでも呼べそうなあの頃の不穏な感情が呼び起こされました。

それでは。

男らしさ、女らしさの根拠はどこにあるのか/映画『大奥〈男女逆転〉』

『大奥〈男女逆転〉』という映画を観た。
興味深い男女逆転劇。

大奥 <男女逆転>通常版DVD

大奥 <男女逆転>通常版DVD

よしながふみ原作の人気コミックを嵐の二宮和也柴咲コウ主演で映画化した異色時代劇。謎の疫病によって男の人口が減少した架空の江戸時代を舞台に、女将軍の寵愛を求めて美しい男たちが謀略を繰り広げる。
内容(「キネマ旬報社」データベースより)


謎の疫病による男性人口の減少に伴い社会的な男女の地位が逆転した江戸時代。恐るべき設定である。

「女性が上がる必要はない。男が下がればそれで済む」

なんてカッコつけて、自分はTwitterで呟いたことがある。

が、実際に「じゃあ下がってみろ」となった場合このような世界で生きていくことになるわけだ。

ごめん、とても無理だ。

遊郭で売られている美少年を女たちが和気あいあいと談笑しながら値踏みするシーンなどは背筋がゾッとした。女性はこのような現実を今も生きているわけで……分かったようなことを言って実は何も分かっていなかった。自分が思っているほど今の世の中は男女平等ではない。


この作品が面白いのは、一口に男女逆転と言っても全てにおいてバトンタッチしてしまうわけではないという点。
社会的な地位は逆転しても、結局男と女が互いの内面の価値を量り合えるのは、男女本来の「男らしさ」、「女らしさ」が噴出した時なんだよね。

水野が大奥の中で破竹の勢いで出世できたのは、結局彼が男らしかったから。吉宗が規則に逆らって水野に自分の下の名前(水野の幼馴染の名)を呼ぶことを許したのは、彼女が情に流されやすい女だったから。

だとするなら、男が男であること、女が女であることって、車を持ってるとか綺麗に着飾ってるなんていう外部的なものとは全く別の次元に根拠を置いているのではなかろうか。


現代は男と女で家事を分担するのも当たり前になってきてけれど、まだ過去の常識に囚われて一方の権利だけ声高に主張する人間も多い。彼らが恐れてるのは、男が男でなくなること、女が女でなくなること、だ。

しかし、果たして性というものは男が洗濯をしたり女がフルタイムで働いたくらいで簡単に揺らぐものなのだろうか。その点を、現代人はまだ考える余地があると思う。

最終的な水野の処分など安っぽいヒューマニズムに辟易させられたけど、ジャニーズ主演のエンタメだからしょうがない。なにはともあれ、考えるきっかけを与えてくれる内容でした。

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

恋愛は良いとこ取りが不可能/映画『ブルーバレンタイン』

ブルーバレンタイン』という映画を観た。

ブルーバレンタイン [DVD]

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ひと組のカップルの出会いと別れを通して、愛が生まれる瞬間と終焉を痛切に描いたラブロマンス。ディーンとシンディの夫婦は結婚7年目を迎え、ひとり娘を授かるも感情の溝は深まるばかり。しかし出会った頃のふたりは若く、夢に満ちていた。
(「キネマ旬報社」データベースより)

あらかじめ聞いてはいたものの、観ててつらい。とても残酷だ。恋愛の甘さと苦さ両方をもった作品ですね。

1組の男女が出会ってから夫婦になり最終的に破局するまでの物語。過去と現在の二人の姿を対比的に見せる手法が効果的で、恋愛の喜びと脆さを同時に味わうことができる。好きだったのに何でこんな出来栄えになっちゃうの? 世の中何か間違ってる。


二村ヒトシの対談集『淑女のはらわた』に、「恋は衝動的なもので愛は理性的なもの」という名言があります。この映画は正に二つの概念の違いを明瞭に描き分けていると思う。


「恋愛」という単語の真ん中に「/」を入れて「恋」と「愛」に分けて考えるのは時に大切なんですね。それぞれのフェイズで全く取るべき手段が異なるから。


ただ、恋と愛の違いとか口で言うのは簡単だけど実際やってみるとちっともうまくいかないもんです。男と女のことはアダムとイブの時代から決して良いとこどりができないようになっているのかもしれない。


普通の恋愛映画と違って作り手のドライな視線を感じることのできる一作でした。

ではでは。

京都を舞台にしたポップな哲学散歩小説/原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』

前に本の感想を書かせてもらった哲学ナビゲーターの原田まりるさんが、小説を出したということで買って読んでみました。


物語プラスαの乳酸菌小説

まず、タイトルといい、版元といい、表紙のイラストといい、岩崎夏海さんの「もしドラ」こと『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を彷彿とさせる。

出版不況の昨今、過去の成功例にならってある程度の売り上げを確保することは大事ですよね。読んで面白ければ、タイトルとか売り出し戦略がベストセラーのそれと似ていても文句ないです。

自分は本書のように、小説を読みながら何らかの専門知識を獲得できる物語プラスαの作品を、“乳酸菌小説”と勝手に呼んでいます。

なぜ乳酸菌かというと、ちょっと前にロッテが「乳酸菌ショコラ」という商品を売り出しましたよね。チョコレートの中に乳酸菌が入ってるアレです。

チョコと言えば、甘くておいしくて食べ過ぎると虫歯になる嗜好品の王様です。それに乳酸菌が入るって、すごくエポックメイキングな発明だと僕は思うんです。甘いだけで皆が満足していたチョコに乳酸菌という有用性を付加したわけですから。余計なお世話、もとい消費の革命と言えます。

これと同じ流れが「もしドラ」以降、物語にも生じており、年々刊行点数が増えてる印象がある。

前はこの現象をかなり悲観的に眺めていたのですが、本書含めその手の作品をいくつか読んでみたら意外に楽しく読めた。なんで現在は中立です。

人類の長い歴史からすれば、小説というのはまだ生まれて間もない表現形式だから、今後も柔軟に変化していくのかもしれませんね。

難しい思想を日常にインストール

さて、本書はタイトルだけ見ると1冊まるっとニーチェな感じですが、実際には他の哲学者もわんさか出てきます。あくまでも、現代日本人に転生(憑依?)した形として。

こんな哲学者が登場します。

ニーチェ
キルケゴール
ワーグナー(哲学者ではないがニーチェの因縁の間柄として)
ショーペンハウアー
サルトル
ハイデガー
ヤスパース

哲学に興味があるなら知ってて当たり前なメンツですが、いざそれぞれの思想をサクッと誰が聞いても分かるように説明してよって言われても、それはなかなか難しい。

著者は17歳女子高生のイノセントな視線を通して、哲学者たちの難解な思想を一般人の日常レベルに落とし込むことに成功しています。

ニーチェの「ルサンチマン」を、ティーエムレボリューションの歌詞で説明した部分など、的を射た喩えであると同時に遊び心に溢れていて、他の哲学入門書にないとっつきやすさがある。

哲学は、頭が重くなるものではなくて、心が軽くなるものなのだろうか?
そんなことを考えながら、私は今日起こった出来事を、ゆっくりと思い出しながらバス停へと歩く。
p40より引用

哲学の血肉化

サルトル実存主義のくだりで、哲学は本来人生の意味を考える学問ではなく、さまざまなことに対して疑問を持つことだと念を押しています。

しかし、哲学者それぞれの思想の案内という形を取りながらも、本書の根底にあるのは、人生いかに生きるべきか? という問いに対する現時点での原田さんの応答である気がします。

前作にもあったように、自分自身の人生の困難を哲学の思想を血肉化することによって乗り越えてきた原田さんの経験が、物語の中で描かれる主人公アリサの学びと成長の過程を血の通ったものにしている。

特にハイデガーの章は、哲学者の深遠な思想を知るのにユーモアのある喩え話がとても分かりやすく、長年読むのを保留していた『存在と時間』読みたくなりました。

本書を読んでから、興味ある哲学者の著作などに挑戦すると理解が深まっていいかも。

哲学入門書としてはもちろん、親元を離れて京都で暮らす女子高生の青春がちゃんと描かれている点で、小説としても面白かったです。

ではでは。

現役作家による贅沢な世界文学講義/池澤夏樹『世界文学を読みほどく』

池澤夏樹『世界文学を読みほどく』が、めちゃくちゃ面白かったので感想を書く。

世界文学を読みほどく (新潮選書)

世界文学を読みほどく (新潮選書)


本書はなにぶん大著なため長い間読むのを躊躇していたのですが、ここ最近生活面で苦戦が続き思いっきり現実逃避がしたくなって読みました。

本書の元になったのは、池澤さんによる京都大学文学部での夏期特殊講義です。
夏休みの最後の一週間に連続して授業を行ったとのこと。贅沢過ぎる。学生うらやましい。

本講義で取り上げられた作品は以下の通り。

スタンダール『パルムの僧院』
トルストイアンナ・カレーニナ
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
メルヴィル『白鯨』
ジョイス『ユリシーズ
マン『魔の山
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』
ガルシア・マルケス百年の孤独
池澤夏樹『静かな大地』
ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』


文学の満漢全席といった感じ。
著者自身の作品はちょっとマイナーですが、それ以外は、文学愛好家でなくとも一度はタイトルを耳にしたことがあるであろう作品ばかりです。

さて、みなさんはこの中で何作読んだことがあるでしょうか?

自分の場合は不真面目ながらも文学部卒なので、7作品は読んでいました。
とは言え、長い上に難解なので一応最後まで読み切ったといこと以外、何一つ記憶に残っていない作品もあります。

たとえば、『アブサロム、アブサロム!』。アメリカ文学のゼミで3ヶ月くらい掛けて読んだはずなのに、物語のキーパーソンであるトマス・サトペンという名前しか頭に残っていない。本書の解説を読んで、「へぇ、だからタイトルが『アブサロム、アブサロム!』なんだ」と初めて理解したほどです。

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)


フォークナーは『八月の光』も『響きと怒り』も読んでるはずなのに、そっちも綺麗さっぱり忘れてます。いつか機会があったら読み返したいと思うのですが、文学ってつくづくコストパフォーマンスの悪い代物だと感じます。

池澤さんの小説論の根本にあるのは、物語、小説というのは、人間を描くと同時にその人が動く「場」としての世界を描くものである、という考え方です。当然、「場」としての世界のあり方が変われば、そこで生きる人間のあり方も変わる。つまり、物語、小説は人と世界の関係の変遷について書かれたもの、と言い表すことができる。

大ざっぱに言ってしまえば、昔の方が人と世界の関係は単純でした。

本書ではその一例として『パルムの僧院』が挙げられています。

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)


スタンダールの生きた時代には、世界に対して作者が全幅の信頼を寄せていた。

どういうことかというと、語り手である作者の目が、作品中の事件や登場人物の心情など物語の隅々まで行き届いてるんですね。

いわゆる“神の視点"をもってして作者は小説を書いていた。本書にも登場するトルストイの『アンナ・カレーニナ』や日本では三島由紀夫の作品でもこの特徴が見られます。池澤さんは、個人的にはあまりこのスタンスが好きではなないらしい。

現代の作家はたとえ三人称で作品を書いていても、読者に分かるのは、場面ごとの主要登場人物が見た光景や心情のみに限定されることが多い。

小説にとってどちらが良いとは一概には言えませんが、スタンダールに関しては、彼の墓碑銘である「生きた、書いた、愛した」が象徴してるように、作者と小説の幸福な関係性が成立していました。


が、19世紀も後半に差し掛かると、そのような作者と小説の関係性は次第に揺らいでくる。

その先駆けとして本書に挙がっているのは、メルヴィルの『白鯨』です。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)


池澤さんは本作を早過ぎたポスト・モダン小説と言っています。

『白鯨』のどこがそれまでの小説と異なるのかというと、その内容が構造的である以上に羅列的であるという点です。

『白鯨』のストーリーは単純明快です。語り手はイシュメールという男で、彼が乗り込んだ捕鯨船ピークオッド号の船長エイハブは、かつて自分の足を噛み切った大きな白鯨に対して猛烈な復讐心を燃やしており、どこまでも追っていきます。エイハブと白鯨の対決が本作のクライマックスで描かれます。

話の筋だけ見れば単純ですが、実際『白鯨』は文庫本で上下巻ある長い作品です。じゃあ、何が書かれているのかというと、鯨学や捕鯨の歴史その他博物学的なウンチクがこれでもかというほど詰め込まれているのです。

物語である以上に鯨百科事典みたいな感じなんですね。普通の小説と違って、何か一つの出来事が起こってその結果別の出来事が起こるという原因と結果の関係がなく、チャプターA、B、Cがその順序である必要がない。B、C、Aにしても場合によっては構わない。この点こそが、本作がポスト・モダン的、データベース的と呼ばれるゆえんです。

この構造的→羅列的な作品世界の変遷が、そのまま20世紀以降のリアルな世界のあり方に呼応しています。本作に登場するジョイスの『ユリシーズ』しかり、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』しかり、多層化し、複雑化した世界の姿を物語を通じて捉え直そうとする一つの試みの結実です。

20世紀以降、文学をはじめ美術や建築の分野でモダニズム運動が盛んになり、芸術家の生み出す作品はそれまでに比べより抽象度が増し、一般人には理解の難しいものになりました。第1次世界大戦という未曾有の戦争体験を経て「これまでの方法論では、自分たちが目の前にした世界の混沌を表現することはできない」という暗黙の理解が敏感な芸術家の中に生まれたのです。

山田詠美さんだったと思うが、日本の小説家は直木賞を受賞するような売れっ子の人の方が、誰もが思い浮かべるような文豪っぽい雰囲気を出しており、それに比べ純文学の人はどこにでもいるようなしょぼい感じがする。逆にそうじゃないと今は書けない、言っていたのを思い出しました。

たしか、この本だったと思う。↓

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)


直木賞作家というのは、スタンダールがそうであったように、自分の描く登場人物と世界に何の疑いも持たず作品を書く。だから、現代にあっても作者と小説の幸福な関係性を表面的には築くことができる。

しかし、純分作家の場合は、作者が描く世界の前提が既に崩れているので、既存のステレオタイプな小説家像の中に埋没していては優れた作品を書くことはできないのだろうと思います。

そういったことを踏まえて本書を読んみると、小説、特に文学とカテゴライズされる作品を読んだり書いたりすることは、一般人が考えている以上に、自分ら個人の生き方と世界のあり方に密接に関わる大変アクチュアルな営みであるなーとあらためて実感しました。

小説もしくは小説家とリアル世界の関係性という点で、本書の中で感銘を受けた言葉を引用して今日は終わりたいと思います。

本来だったら小説家というのは最後に来るものです。どういうことかというと、何か歴史的な事件が起こる。そうするとまずジャーナリストが駆けつける。それからしばらくして、この問題をどう扱うかと論じる。評論家が出てくる。社会学者が分析する。それからさらにしばらくして、社会全体に一定の了解ができたときに、はじめて作家は出ていって、その話全体をフィクションに仕立てる。その出来事が持っている本当の意味、当事者の側と周囲の側、被害者と加害者、両方を含めた大きな輪を描いて、意味を中に閉じ込める。これが作家の本来の仕事なんです。
p357より引用


余談ですが、小説家志望の人はブロガーとして大成しないことが多いように感じます。なぜでしょう?

作品を書くのに忙しくてブログを書く時間を捻出できないという理由がある一方で、ある物事に対して即座に判断を下さないという気質が、ブログという媒体が書き手に与える「書け!書け!」という要求を無意識に回避するのでは、と自分は推察しています。

ブログでうまく盛り込める何かなら、わざわざ物語というまわりくどい形式で表現しないですからね。

やはり、牛になることはどうしても必要なようです。

ではでは。


【第156回芥川賞受賞】ピンぼけした記憶の先にある等身大の青春/山下澄人『しんせかい』

しんせかい

しんせかい


第156回芥川賞受賞作、山下澄人『しんせかい』を読んだ。

前回受賞の村田沙耶香『コンビ二人間』は純文とは思えないくらいリーダビリティの高い作品でしたが、『しんせかい』は正統派というか、いつもの芥川賞に戻った感じでした。


本作は、作者の富良野塾時代の体験をベースにした私小説です。しかし、【谷】や【先生】といった場所や人物についての抽象的な表記からもうかがえるように、その叙述には私小説私小説たらしめる生の実感が希薄であり、語り手すみとの自意識は終始掴みどころがない。作品全体を独特な浮遊感が包んでいます。


対象から敢えて距離を取ることで生まれるピンボケした記憶、そのとりとめの無い心象風景の中にしか存在し得ない青春を描いている点で好感が持てました。


とはいえ、本作についていくらか物足りなさを感じたことも事実です。
「好感が持てました」なんて感想が書けちゃうのは読者としてまだ余裕がある証拠です。


自分は作者の過去作を読んだことがないので断定は控えるけれども、他の方のレビューを見るに、本作はこれまでと比べて実験的要素が少なく分かりやすい内容のようです。


たぶん、自分は過去作の方が面白く読めるんじゃないかなぁ。


本作は、富良野塾参加という作者の人格形成に大いに影響を及ぼしたであろう出来事を題材としたことで、作者の意図とは裏腹に、その通俗的なイメージが作品としての可能性を制限してしまったようにも思えます。

自分だけの感想では心もとなかったので、芥川賞審査員の選評にも目を通してみました。


本作を「つまらない」の一言で一刀両断した村上龍が指摘するように、今回の受賞は審査員の間で熱烈な支持も、強烈な拒否もないまま決まったようです。


正直、龍の選評を読んで少しホッとした面もなくはないのですが、上に書いた感想を踏まえてそれぞれの選評を読むと、高樹のぶ子のそれが一番自分と近いかなと思うので引用しておきます。

「しんせかい」はこれまでの作者の候補作と比べて格段に読みやすい。けれどモデルとなった塾や脚本家の先行イメージを外すと、青春小説としては物足りないし薄味。難解だったこれまでの候補作にも頭を抱えたが、このあっさり感にも困った。
文藝春秋2017年3月号p370より引用


それでは。

甘美なる歌声は邪魔しない。/鹿島茂『「悪知恵」のすすめ』

こんにちは山中です。

トランプ大統領による外国人入国制限のニュースがメディアを騒がせていますね。
悪い意味で期待を裏切らないというか、今回の出来事をきっかけにこの先ますます世界情勢は泥沼化していくでしょう。

今回の話題含め、外交問題に関する記事を読んでいると、各国の首脳を童話の登場人物に見立てて皮肉ったものをたまに見かけます。

どうやら人種や宗教の問題が絡んでくればくるほど、こうした風刺的な報道が多くなるみたいです。

イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』掲載、グレート・ゲームの風刺画。

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熊(ロシア)とライオン(イギリス)に狙われたアフガニスタン。(Wikipediaより引用)


スウィフトの『ガリヴァー旅行記』なんかを読んでも分かるように、寓話というのは数ある物語のジャンルの中でも、最も生の現実に接近したタフな表現形式と言えます。


てなわけで、今日は寓話の魅力について書かれた本を紹介します。

鹿島茂『悪知恵のすすめ』。
サブタイトルは、「ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓」です。

ラ・フォンテーヌの寓話について

ラ・フォンテーヌの寓話を知っていますか?
自分は名前は聞いたことはあったものの、本書を手にするまでその内容を知りませんでした。

ラ・フォンテーヌは17世紀フランスの詩人で、『イソップ寓話』をもとにした寓話詩を書きました。

著者の鹿島茂さんは本書の冒頭で、フランス文学を研究している人間でもラ・フォンテーヌの寓話を読む人はあまりいないと言っています。

僕自身も本好きの友人が何人かいますが、話題にあがったことは一度もないですね。フランス文学でなおかつ寓話詩っていうとなんとなく甘ったるいイメージを抱きがちで、それほど興味をそそられませんでした。

しかし、実際の作品は自分が勝手に抱いていたイメージとは180度異なります。鹿島さんの言葉を借りれば、「その冷徹ぶりたるや、マキャベリの『君主論』にだって負けない」というのです。なんだかゾクゾクしませんか? 自分はこういうの大好きです。

フランス的とはなにか

本書で紹介されている寓話には、変化の激しい時代を生き抜くためのしたたかな知恵が数多く詰まっていますが、著者いわく、その全てに一貫して流れているのは世界のどこにも類例のないフランス的なメンタリティーです。

一言で要約するなら、それは負け惜しみの美学のようなもの。

本書の冒頭に載っている例をもとに説明します。

イソップ童話』に「キツネとブドウ」というそこそこ有名な話があります。

腹を空かせたキツネが支柱から垂れ下がるブドウを見て取ってやろうと思ったがどうやっても手が届かない。あきらめたキツネは去り際に一言。「あのブドウはまだ熟れていない」。


能力のない人間はできない理由を自分以外に求める。

自己啓発書なんかでよく引き合いに出されるポピュラーな教訓です。

ラ・フォンテーヌの寓話にも同じ話があるそうです。しかし、そこから得られる教訓はイソップのそれと全く異なる。

ラ・フォンテーヌの寓話のキツネは、手の届かないブドウに対して「あれはまだ青すぎる。下郎の食うものだ」と捨て台詞を残します。反応としてはイソップのキツネとほぼ同じです。

が、ラ・フォンテーヌはキツネの負け惜しみを「愚痴をこぼすよりまし」として高く評価しているのです。

欲しいものが手に入らずにもんもんとするくらいなら、「そんなものいるか」と言って小馬鹿にした方が健康的だという考え方。これがフランス流。

見方によってはただ虚勢を張っているようにしか映りませんが、こういう合理的なズルさこそ、リーダーシップや勤勉さ以上に土壇場で自分を救う力になると思います。嫌味じゃない感じでさらっと言えると強いですよね。

白鳥の歌声とガチョウのスープ

最後に、自分好みの寓話を一つ紹介します。


「白鳥と料理人」の話

大邸宅の一角にある飼育園で白鳥とガチョウが暮らしていた。
白鳥は池を優雅に泳いで主人や招待客の目を楽しませた。
ガチョウは、その滋味豊かな肉を主人や招待客に提供していた。
ある日、酔っ払った邸宅の料理人が、てっきりガチョウだと思い込んで白鳥のくびを掴んだ。くびをしめて今夜のスープに入れるつもりである。
白鳥が、美しい声を発して嘆きを訴えたところ、料理人は間違いを悟って手を離した。

この話の最後にラ・フォンテーヌがつけた教訓。

たとえ、重大な危険が迫っているときであろうとも、甘美なる歌声は決して邪魔にはならないのだ。

国の緊急時には芸術は腹の足しにならない最たるものとして見向きもされなくなるのが常だけれど、しかしそんな時でも、いや、そんな時だからこそ、普段すぐに役に立たないものが役に立つこともあるのだ、という戒めです。

文学部を卒業した身にとって、この白鳥の歌の話はなかなか刺さるものがあります。

作り手と受け手どちらにせよ、芸術に関わる人間は自分がやっていることのあまりの実益のなさを嘆いた経験が多かれ少なかれあるのではないでしょうか。

自分もつい最近までしょっちゅう嘆いていました。
「おれはどうして文学部なんて出ちゃったんだろ。会社で役立たない知識ばかり中途半端に詰め込んで一体この先どうなるんだ?」なんて。芸術全般を恨んだ時期もあった。

今もその不安は変わらずあります。でもここにきてようやく、なんの役にも立たないと思っていたものこそ実は水面下で自分を支え続けてくれていたことに気づかされました。

過去の自分は話の中の料理人のように、白鳥をガチョウと勘違いしてくびをしめていただけだったんです。

そんな意味で、この「白鳥と料理人」の寓話の教訓は、ここ最近の自分の心持ちに近いものがあるなぁとうれしく感じたのでした。


それでは。

寓話〈上〉 (岩波文庫)

寓話〈上〉 (岩波文庫)