そのイヤホンを外させたい

『まおゆう』の感想/全てのWEB小説が異世界に逃げてるわけじゃない。

だいぶ今更だけど、橙乃ままれ『まおゆう』を読んだ。


わりと長めの作品なので、とりあえず1巻のみ。


期待していた以上に面白くてびっくりした。


勇者と魔王が手を結んで世界から戦争を失くすという物語の骨格は、誰もが一度は思い浮かべる厨二病設定だ。しかし、大抵の人間はアイディア止まりで、そこからどのようにストーリーを展開させればいいのか見当がつかない。


橙乃ままれは、歴史、経済、軍事に関する実用的な知識をドラクエ的なファンタジー世界の中に導入することで、大人が読んで満足できる機能的な味わいを作品に与えることに成功している。


本作が画期的だと思う理由は2つある。


本作が普通の小説とは形式の異なる「戯曲小説」であるというのがまず1点。


地の文がなく登場人物の会話のみでの構成には賛否両論あると思うが、様々な情報が溢れ、その峻別に多大な労力を費やすことを余儀なくされるインターネット時代の読者を視野に入れた場合、本書の形式は、時代や読者のいる環境に合わせた小説としての健全な変化と言ってもいいのではないかと自分は思う。


2点目は、本作がドラクエ的な異世界を舞台にしているにも関わらず、白黒で割り切れない複雑化した世界に対して理念の戦争を仕掛け、より良き着地点を模索するという姿勢において読者のいる現実と陸続きになっているということだ。


昨今の異世界を舞台にしたライトノベルは昔のそれと異なり、あまりにも読者に都合のいいように話が進行するため「現実からの逃亡」と見なされることが多い。


事実、辛い現実を忘れるための慰めとして書かれた作品がWEB小説には多い。
個人的には好きではないけれど、『WEB小説の衝撃』を読むとそういった作品の傾向が必ずしも悪いことではないと分かるので、ここでは敢えてその是非は問わない。


『まおゆう』を純粋に良いなと感じるのは、ドラクエ的、RPG的な異世界の設定を、現実からの逃避ではなく、現実を理解し乗り越えるためのわれわれネット世代の共通言語として効果的に使っていることだ。


今の若い世代(と言っても30代のおっさんまで含まれるが)には、戦中派や団塊の世代にあったような古典的教養が欠如している。そのような知的基盤の薄弱は、物事を語る上で大きなハンデとなり最大の弱点になっている。


もちろん、反知性主義に抗うことは重要だ。だが、それと並行して自分たちの世代にしかない言語を最大限に活用し、欠落を埋める努力をすることもまた大事なのではないかと思う。


そういった意味で、『まおゆう』やその他の異世界を舞台にした作品にあるようなドラクエ的な世界観は、いささか危なっかしい面もあるけれど、かつての神話やフォークロアが当時の民衆にもたらしたのと類似の役割を、今の読者に対して果たすかもしれない。


少なくとも、『まおゆう』は異世界に逃げていない。


これは課題図書かも。↓


映画『ジェーン』/カウガール姿のナタリー・ポートマンに女優としての円熟を見る。

ジェーン [DVD]

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ここ最近、映画館で見逃した作品を遅ればせながら数作続けて鑑賞した。『ジェーン』もその中の一つ。


それにしても、映画作品のDVD/ブルーレイ化までのスパンが短過ぎる。
あまり映画館に足を運ぶことのない自分としては有り難い話だけど、こうなってくると映画を映画館で公開することの意味がない気がしなくもない。


自分にとって、「ナタリー・ポートマン主演の西部劇」というだけで本作を手に取る理由は充分だった。


『レオン』から20年以上の年月が経過し、もはや誰もが認める大女優となったナタリーだけど、西部劇に出演するのはこれまで見たことがなかっただけに、カウガール姿の彼女は新鮮な味わいがある。

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自分は西部劇というジャンルにそれほど精通しているわけではないので偉そうなことは言えないのだけれど、正直、本作が長い西部劇の歴史の中で大きな足跡を残すほどの優れた作品であるとは思えなかった。


ナタリー扮する主人公ジェーン、ジェーンの昔の恋人で南北戦争の英雄であるダン(ジョエル・エドガートン)、ジェーンの幸せをおびやかす悪名高きビショップ(ユアン・マクレガー)の三つ巴の関係性がストーリーの柱なのだが、それぞれの性格や秘められた過去の描き方が最後まで紋切り型を脱することができていない。


人物の過去について回想シーンを多用するのは、確かにわかりやすくはあるけれど、それだけ観ている側にチープな印象を与えかねない。


クリント・イーストウッド監督の『許されざる者』などは、主人公の現在と過去に決定的な乖離があるのだけど、監督は主人公の封印された過去を、あくまでも「過去の刻印」として、現在の主人公の表情や立ち居振る舞いから間接的に伝える演出をしていたように思う。


本作においても、個々の役者の技量は申し分ないだけに、監督のさじ加減一つでどうにでもなったのではないか。もっと「氷山の理論」を使ってほしかった。


しかし、こういう弱い者(本作においては女性のジェーン)が武器を取り、自身の幸福をおびやかす巨悪と真っ向から対決する決意をするという単純明快な図式を、今のアメリカ国民が求めているという事実も一方ではまたあるのではないか。


本作の原題が「Jane Got a Gun」というシンプルかつ一抹の躊躇いのないものであるというのも、国際社会の中で失われた「グレート・アメリカ」を取り戻したいという願望の無意識の現れなのかもしれない。


個人的にちょっと心配なのは、ナタリー自身が中心となって本作の製作に関わっているということ。
才女として知られる彼女が先頭に立って本作のような少しフェミニズムの臭いのする映画を撮ってしまうというのは気がかり。


アンジェリーナ・ジョリーのような人としては立派だけど、女優としては面白みに欠ける方向に今後の彼女が舵を切らないことを一ファンとして見守りたいと思う。

女性が主人公の西部劇の個人ベスト。シャロン・ストーンの美しさと、風貌はだらしないけど実は超早撃ちのラッセル・クロウがカッコ良すぎる。↓

クイック&デッド Hi-Bit Edition [DVD]

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映画は“女優”で見る!―映画生活を楽しくするススメ (SCREEN新書)

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わたしたちの住む街には得体の知れない何かが潜んでいる/乙一『GOTH』

エッジの効いた短編小説が読みたいなぁと思った。

手に取ったのは、乙一の『GOTH』。

GOTH 夜の章 (角川文庫)

GOTH 夜の章 (角川文庫)

GOTH 僕の章 (角川文庫)

GOTH 僕の章 (角川文庫)


1冊に3話ずつで全6編。
何だか懐かしい感じがしたが、最初の「暗黒系」以外はこれが初読。


小説執筆の第一歩として、乙一の作品群を参考にするワナビーは多いのではないかと思う。


実際、乙一は上記「暗黒系」の執筆プロセスを小説ハウツー本の中で公開している。


その影響もあってか、自分のように「暗黒系」だけ読んで済ませてしまう人も少なからずいるのではと想像します。


もったいない。
他の作品も読んで損はないです。


「夜の章」と「僕の章」全6作品を通して読んで、「これ、青春小説だな」って思った。


本作の語り手である「僕」は、正常な感覚を持った人間ではなく、どちらかというと彼が接触する猟奇殺人犯たちに近い存在として描かれている。ヒロイン役である森野夜も「僕」ほどではないにせよ、人間の暗黒面を好む傾向がある。本来なら、彼らのようなギークに普通の読者が感情移入することは困難だ。


にも関わらず、実際に読んでみると抵抗なく「僕」と同じ視野を持てるので不思議に感じるだろう。


なぜそのようなことが起こるのかを考えるに、おそらく、『GOTH』には自分たちの住む街には得体の知れない何かが潜んでいるかもしれない、という青春期の危機感のようなものが作品の背後にあって、それは読者にとっても馴染みのある感覚だったからではないか。


自分は、本作を読んでいて荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険 第4部』を思い出した。


杜王町に潜むシリアルキラー吉良吉影と『GOTH』に登場する殺人鬼たちが重なる。現に「リフトカット事件」には、人間の手の収集を好む犯人が登場する。


作者は、後年ジョジョのノベライズでも第4部を選んでいる。このことから見ても、少なからぬ影響を受けていたことは間違いないだろうと思う。

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day (集英社文庫)

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乙一作品は叙述トリックにこだわり過ぎて小説として軽いと批判されがちだけど、今回読んでみて、ラノベっぽい類型化された人物設計とは裏腹に、“青春と自傷”とでも呼べそうなあの頃の不穏な感情が呼び起こされました。

それでは。

男らしさ、女らしさの根拠はどこにあるのか/映画『大奥〈男女逆転〉』

『大奥〈男女逆転〉』という映画を観た。
興味深い男女逆転劇。

大奥 <男女逆転>通常版DVD

大奥 <男女逆転>通常版DVD

よしながふみ原作の人気コミックを嵐の二宮和也柴咲コウ主演で映画化した異色時代劇。謎の疫病によって男の人口が減少した架空の江戸時代を舞台に、女将軍の寵愛を求めて美しい男たちが謀略を繰り広げる。
内容(「キネマ旬報社」データベースより)


謎の疫病による男性人口の減少に伴い社会的な男女の地位が逆転した江戸時代。恐るべき設定である。

「女性が上がる必要はない。男が下がればそれで済む」

なんてカッコつけて、自分はTwitterで呟いたことがある。

が、実際に「じゃあ下がってみろ」となった場合このような世界で生きていくことになるわけだ。

ごめん、とても無理だ。

遊郭で売られている美少年を女たちが和気あいあいと談笑しながら値踏みするシーンなどは背筋がゾッとした。女性はこのような現実を今も生きているわけで……分かったようなことを言って実は何も分かっていなかった。自分が思っているほど今の世の中は男女平等ではない。


この作品が面白いのは、一口に男女逆転と言っても全てにおいてバトンタッチしてしまうわけではないという点。
社会的な地位は逆転しても、結局男と女が互いの内面の価値を量り合えるのは、男女本来の「男らしさ」、「女らしさ」が噴出した時なんだよね。

水野が大奥の中で破竹の勢いで出世できたのは、結局彼が男らしかったから。吉宗が規則に逆らって水野に自分の下の名前(水野の幼馴染の名)を呼ぶことを許したのは、彼女が情に流されやすい女だったから。

だとするなら、男が男であること、女が女であることって、車を持ってるとか綺麗に着飾ってるなんていう外部的なものとは全く別の次元に根拠を置いているのではなかろうか。


現代は男と女で家事を分担するのも当たり前になってきてけれど、まだ過去の常識に囚われて一方の権利だけ声高に主張する人間も多い。彼らが恐れてるのは、男が男でなくなること、女が女でなくなること、だ。

しかし、果たして性というものは男が洗濯をしたり女がフルタイムで働いたくらいで簡単に揺らぐものなのだろうか。その点を、現代人はまだ考える余地があると思う。

最終的な水野の処分など安っぽいヒューマニズムに辟易させられたけど、ジャニーズ主演のエンタメだからしょうがない。なにはともあれ、考えるきっかけを与えてくれる内容でした。

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

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恋愛は良いとこ取りが不可能/映画『ブルーバレンタイン』

ブルーバレンタイン』という映画を観た。

ブルーバレンタイン [DVD]

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ひと組のカップルの出会いと別れを通して、愛が生まれる瞬間と終焉を痛切に描いたラブロマンス。ディーンとシンディの夫婦は結婚7年目を迎え、ひとり娘を授かるも感情の溝は深まるばかり。しかし出会った頃のふたりは若く、夢に満ちていた。
(「キネマ旬報社」データベースより)

あらかじめ聞いてはいたものの、観ててつらい。とても残酷だ。恋愛の甘さと苦さ両方をもった作品ですね。

1組の男女が出会ってから夫婦になり最終的に破局するまでの物語。過去と現在の二人の姿を対比的に見せる手法が効果的で、恋愛の喜びと脆さを同時に味わうことができる。好きだったのに何でこんな出来栄えになっちゃうの? 世の中何か間違ってる。


二村ヒトシの対談集『淑女のはらわた』に、「恋は衝動的なもので愛は理性的なもの」という名言があります。この映画は正に二つの概念の違いを明瞭に描き分けていると思う。


「恋愛」という単語の真ん中に「/」を入れて「恋」と「愛」に分けて考えるのは時に大切なんですね。それぞれのフェイズで全く取るべき手段が異なるから。


ただ、恋と愛の違いとか口で言うのは簡単だけど実際やってみるとちっともうまくいかないもんです。男と女のことはアダムとイブの時代から決して良いとこどりができないようになっているのかもしれない。


普通の恋愛映画と違って作り手のドライな視線を感じることのできる一作でした。

ではでは。

京都を舞台にしたポップな哲学散歩小説/原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』

前に本の感想を書かせてもらった哲学ナビゲーターの原田まりるさんが、小説を出したということで買って読んでみました。


物語プラスαの乳酸菌小説

まず、タイトルといい、版元といい、表紙のイラストといい、岩崎夏海さんの「もしドラ」こと『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を彷彿とさせる。

出版不況の昨今、過去の成功例にならってある程度の売り上げを確保することは大事ですよね。読んで面白ければ、タイトルとか売り出し戦略がベストセラーのそれと似ていても文句ないです。

自分は本書のように、小説を読みながら何らかの専門知識を獲得できる物語プラスαの作品を、“乳酸菌小説”と勝手に呼んでいます。

なぜ乳酸菌かというと、ちょっと前にロッテが「乳酸菌ショコラ」という商品を売り出しましたよね。チョコレートの中に乳酸菌が入ってるアレです。

チョコと言えば、甘くておいしくて食べ過ぎると虫歯になる嗜好品の王様です。それに乳酸菌が入るって、すごくエポックメイキングな発明だと僕は思うんです。甘いだけで皆が満足していたチョコに乳酸菌という有用性を付加したわけですから。余計なお世話、もとい消費の革命と言えます。

これと同じ流れが「もしドラ」以降、物語にも生じており、年々刊行点数が増えてる印象がある。

前はこの現象をかなり悲観的に眺めていたのですが、本書含めその手の作品をいくつか読んでみたら意外に楽しく読めた。なんで現在は中立です。

人類の長い歴史からすれば、小説というのはまだ生まれて間もない表現形式だから、今後も柔軟に変化していくのかもしれませんね。

難しい思想を日常にインストール

さて、本書はタイトルだけ見ると1冊まるっとニーチェな感じですが、実際には他の哲学者もわんさか出てきます。あくまでも、現代日本人に転生(憑依?)した形として。

こんな哲学者が登場します。

ニーチェ
キルケゴール
ワーグナー(哲学者ではないがニーチェの因縁の間柄として)
ショーペンハウアー
サルトル
ハイデガー
ヤスパース

哲学に興味があるなら知ってて当たり前なメンツですが、いざそれぞれの思想をサクッと誰が聞いても分かるように説明してよって言われても、それはなかなか難しい。

著者は17歳女子高生のイノセントな視線を通して、哲学者たちの難解な思想を一般人の日常レベルに落とし込むことに成功しています。

ニーチェの「ルサンチマン」を、ティーエムレボリューションの歌詞で説明した部分など、的を射た喩えであると同時に遊び心に溢れていて、他の哲学入門書にないとっつきやすさがある。

哲学は、頭が重くなるものではなくて、心が軽くなるものなのだろうか?
そんなことを考えながら、私は今日起こった出来事を、ゆっくりと思い出しながらバス停へと歩く。
p40より引用

哲学の血肉化

サルトル実存主義のくだりで、哲学は本来人生の意味を考える学問ではなく、さまざまなことに対して疑問を持つことだと念を押しています。

しかし、哲学者それぞれの思想の案内という形を取りながらも、本書の根底にあるのは、人生いかに生きるべきか? という問いに対する現時点での原田さんの応答である気がします。

前作にもあったように、自分自身の人生の困難を哲学の思想を血肉化することによって乗り越えてきた原田さんの経験が、物語の中で描かれる主人公アリサの学びと成長の過程を血の通ったものにしている。

特にハイデガーの章は、哲学者の深遠な思想を知るのにユーモアのある喩え話がとても分かりやすく、長年読むのを保留していた『存在と時間』読みたくなりました。

本書を読んでから、興味ある哲学者の著作などに挑戦すると理解が深まっていいかも。

哲学入門書としてはもちろん、親元を離れて京都で暮らす女子高生の青春がちゃんと描かれている点で、小説としても面白かったです。

ではでは。

現役作家による贅沢な世界文学講義/池澤夏樹『世界文学を読みほどく』

池澤夏樹『世界文学を読みほどく』が、めちゃくちゃ面白かったので感想を書く。

世界文学を読みほどく (新潮選書)

世界文学を読みほどく (新潮選書)


本書はなにぶん大著なため長い間読むのを躊躇していたのですが、ここ最近生活面で苦戦が続き思いっきり現実逃避がしたくなって読みました。

本書の元になったのは、池澤さんによる京都大学文学部での夏期特殊講義です。
夏休みの最後の一週間に連続して授業を行ったとのこと。贅沢過ぎる。学生うらやましい。

本講義で取り上げられた作品は以下の通り。

スタンダール『パルムの僧院』
トルストイアンナ・カレーニナ
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
メルヴィル『白鯨』
ジョイス『ユリシーズ
マン『魔の山
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』
ガルシア・マルケス百年の孤独
池澤夏樹『静かな大地』
ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』


文学の満漢全席といった感じ。
著者自身の作品はちょっとマイナーですが、それ以外は、文学愛好家でなくとも一度はタイトルを耳にしたことがあるであろう作品ばかりです。

さて、みなさんはこの中で何作読んだことがあるでしょうか?

自分の場合は不真面目ながらも文学部卒なので、7作品は読んでいました。
とは言え、長い上に難解なので一応最後まで読み切ったといこと以外、何一つ記憶に残っていない作品もあります。

たとえば、『アブサロム、アブサロム!』。アメリカ文学のゼミで3ヶ月くらい掛けて読んだはずなのに、物語のキーパーソンであるトマス・サトペンという名前しか頭に残っていない。本書の解説を読んで、「へぇ、だからタイトルが『アブサロム、アブサロム!』なんだ」と初めて理解したほどです。

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)


フォークナーは『八月の光』も『響きと怒り』も読んでるはずなのに、そっちも綺麗さっぱり忘れてます。いつか機会があったら読み返したいと思うのですが、文学ってつくづくコストパフォーマンスの悪い代物だと感じます。

池澤さんの小説論の根本にあるのは、物語、小説というのは、人間を描くと同時にその人が動く「場」としての世界を描くものである、という考え方です。当然、「場」としての世界のあり方が変われば、そこで生きる人間のあり方も変わる。つまり、物語、小説は人と世界の関係の変遷について書かれたもの、と言い表すことができる。

大ざっぱに言ってしまえば、昔の方が人と世界の関係は単純でした。

本書ではその一例として『パルムの僧院』が挙げられています。

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)


スタンダールの生きた時代には、世界に対して作者が全幅の信頼を寄せていた。

どういうことかというと、語り手である作者の目が、作品中の事件や登場人物の心情など物語の隅々まで行き届いてるんですね。

いわゆる“神の視点"をもってして作者は小説を書いていた。本書にも登場するトルストイの『アンナ・カレーニナ』や日本では三島由紀夫の作品でもこの特徴が見られます。池澤さんは、個人的にはあまりこのスタンスが好きではなないらしい。

現代の作家はたとえ三人称で作品を書いていても、読者に分かるのは、場面ごとの主要登場人物が見た光景や心情のみに限定されることが多い。

小説にとってどちらが良いとは一概には言えませんが、スタンダールに関しては、彼の墓碑銘である「生きた、書いた、愛した」が象徴してるように、作者と小説の幸福な関係性が成立していました。


が、19世紀も後半に差し掛かると、そのような作者と小説の関係性は次第に揺らいでくる。

その先駆けとして本書に挙がっているのは、メルヴィルの『白鯨』です。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)


池澤さんは本作を早過ぎたポスト・モダン小説と言っています。

『白鯨』のどこがそれまでの小説と異なるのかというと、その内容が構造的である以上に羅列的であるという点です。

『白鯨』のストーリーは単純明快です。語り手はイシュメールという男で、彼が乗り込んだ捕鯨船ピークオッド号の船長エイハブは、かつて自分の足を噛み切った大きな白鯨に対して猛烈な復讐心を燃やしており、どこまでも追っていきます。エイハブと白鯨の対決が本作のクライマックスで描かれます。

話の筋だけ見れば単純ですが、実際『白鯨』は文庫本で上下巻ある長い作品です。じゃあ、何が書かれているのかというと、鯨学や捕鯨の歴史その他博物学的なウンチクがこれでもかというほど詰め込まれているのです。

物語である以上に鯨百科事典みたいな感じなんですね。普通の小説と違って、何か一つの出来事が起こってその結果別の出来事が起こるという原因と結果の関係がなく、チャプターA、B、Cがその順序である必要がない。B、C、Aにしても場合によっては構わない。この点こそが、本作がポスト・モダン的、データベース的と呼ばれるゆえんです。

この構造的→羅列的な作品世界の変遷が、そのまま20世紀以降のリアルな世界のあり方に呼応しています。本作に登場するジョイスの『ユリシーズ』しかり、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』しかり、多層化し、複雑化した世界の姿を物語を通じて捉え直そうとする一つの試みの結実です。

20世紀以降、文学をはじめ美術や建築の分野でモダニズム運動が盛んになり、芸術家の生み出す作品はそれまでに比べより抽象度が増し、一般人には理解の難しいものになりました。第1次世界大戦という未曾有の戦争体験を経て「これまでの方法論では、自分たちが目の前にした世界の混沌を表現することはできない」という暗黙の理解が敏感な芸術家の中に生まれたのです。

山田詠美さんだったと思うが、日本の小説家は直木賞を受賞するような売れっ子の人の方が、誰もが思い浮かべるような文豪っぽい雰囲気を出しており、それに比べ純文学の人はどこにでもいるようなしょぼい感じがする。逆にそうじゃないと今は書けない、言っていたのを思い出しました。

たしか、この本だったと思う。↓

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)


直木賞作家というのは、スタンダールがそうであったように、自分の描く登場人物と世界に何の疑いも持たず作品を書く。だから、現代にあっても作者と小説の幸福な関係性を表面的には築くことができる。

しかし、純分作家の場合は、作者が描く世界の前提が既に崩れているので、既存のステレオタイプな小説家像の中に埋没していては優れた作品を書くことはできないのだろうと思います。

そういったことを踏まえて本書を読んみると、小説、特に文学とカテゴライズされる作品を読んだり書いたりすることは、一般人が考えている以上に、自分ら個人の生き方と世界のあり方に密接に関わる大変アクチュアルな営みであるなーとあらためて実感しました。

小説もしくは小説家とリアル世界の関係性という点で、本書の中で感銘を受けた言葉を引用して今日は終わりたいと思います。

本来だったら小説家というのは最後に来るものです。どういうことかというと、何か歴史的な事件が起こる。そうするとまずジャーナリストが駆けつける。それからしばらくして、この問題をどう扱うかと論じる。評論家が出てくる。社会学者が分析する。それからさらにしばらくして、社会全体に一定の了解ができたときに、はじめて作家は出ていって、その話全体をフィクションに仕立てる。その出来事が持っている本当の意味、当事者の側と周囲の側、被害者と加害者、両方を含めた大きな輪を描いて、意味を中に閉じ込める。これが作家の本来の仕事なんです。
p357より引用


余談ですが、小説家志望の人はブロガーとして大成しないことが多いように感じます。なぜでしょう?

作品を書くのに忙しくてブログを書く時間を捻出できないという理由がある一方で、ある物事に対して即座に判断を下さないという気質が、ブログという媒体が書き手に与える「書け!書け!」という要求を無意識に回避するのでは、と自分は推察しています。

ブログでうまく盛り込める何かなら、わざわざ物語というまわりくどい形式で表現しないですからね。

やはり、牛になることはどうしても必要なようです。

ではでは。