そのイヤホンを外させたい

現代小説家はそれぞれがゲリラ戦を展開している

少し前の話になるが、『文藝2017年秋号』上にて「現代文学地図2000→2020」という特集が組まれていた。


これは、90年代後半から今に至るまでの文芸シーンの変遷をたどると共に、これからの来るべき作家について各人が好き勝手に私見を述べるという内容になっていて、バブル崩壊以後の日本文学史をおさらいするのにもってこいの読み物だと思う。

細分化する現代日本文学


本特集は90年代以後ということで、当然、大江健三郎中上健次も対象外である。作家で見た場合、村上龍村上春樹のダブル村上以降の作家ということになる。


僕はここに取り上げられたこれからの作家たちの作品をあまり読んでいないのだが、批評家、ライターの方々の説明を読む限り、以前にも増して文学作品の細分化が進んだのだなぁとつくづく感じた。


細分化とはどういうことかというと、僕個人の理解で言うと、ある作家について何の予備知識もない状態で作品を読んだ場合、それがいったい何について、何に向かって書かれたものなのか容易に理解できないことが増えることを指す。


そういった意味で、ここ数年の芥川賞受賞作があまり売れないのもある意味では仕方ないことだと思う。小説を多く読んできた人でも読む作品によっては「なんじゃこりゃ?」と戸惑ってしまうんだから。


最近だと、村田沙耶香コンビニ人間』はそこそこ話題になったが、あれは30過ぎてコンビニでアルバイトする独身女性の生活という題材がまず分かりやすかったのと、文章自体も純文学にしては珍しく平明だったことに起因すると思う。表面上は一般にもウケるリーダビリティの高さを維持しながらも、一方では社会通念を鼻で笑って通り過ぎるような巧みな人物造形がある点でとても魅力的な作品だったと思う。


しかし、現在の大体の純文学は普通の読者からすると理解に苦しむ。それが良いとか悪いということではなく、ただそういう状況にあるのだと思う。

「ニッポンの小説」は酔っ払っている


高橋源一郎柴田元幸の対談本に『小説の読み方、書き方、訳し方』というのがあり、その中に非常に感銘を受けた箇所があった。


高橋源一郎は、80年代以降、作家で言えば中上健次分水嶺として、「日本の小説」は「ニッポンの小説」とでも呼べそうなものに変化したと言っている。

高橋: 「ニッポンの小説」とたとえば戦後文学とどこが違うかっていうと一概には言えないんですけど、やっぱり言葉が壊れてるとしか言いようがない。酔っ払っているというか(笑)。内容はわりと単純な話で、恋愛小説だったり普通の物語、……まあ物語がないものももちろんあるんですけれども、基本的に文章の問題なんです。つまり内容ではないんですよね。 (p159より引用)


曲がりなりにも小説を好んで読む自分にとって、この発言はそれまで言い表せなかった感覚を的確に言い当ててくれるものだった。酔っぱらっている。まさにそんな感じ。ウルフやジョイスなんかのモダニズム文学の理知的な壊れ方とはまた違うんだよねぇ。

高橋: 大文字のテーマというものは何でも「これに対して抵抗するぞ」というふうに否定形で語られるテーマなんです。で、それがなくなってきた時作家の側は、結局個別に対処するしかなくなったんだと思います。それまでは戦闘が集団戦だったんですね。だから○○派だとか○○軍団みたいになっていたけど、いまやもう全部ゲリラですよね。だから各人が各人の裁量・才覚でそれぞれの場所で好きなように戦いなさいって(笑)。とすると武器は文章しかない。 (p160~161)


現代作家は既に個別の闘争に移行している。


現代文学地図」は、確かにここ20年ほどの日本文学史のおさらいの意味では大変重宝する。だが、全体的に地下鉄サリン事件や3.11の東日本大震災などの社会的事象に対して文学がどのような返答をしてきたのかという大文字の視点で話が進むので、これまで以上に個別化、多様化したであろう新しい作家群について語る上ではこぼれ落ちる要素も多く、力技の総括になってしまっている気がした。


それはさておき、作家の側が集団戦から個人戦になったということは、おのずと読者もそれに呼応した形に変わっていくのだろうか。もちろん、小説を読むのは一人の作業だから表面上はそれまでと何ら変わらないだろうけれど、たとえばネットでお気に入りのブログを読むような感じで文学が読まれるようになったらそれはそれで楽しいかなと思う。


さしあたり、あまりにも新しい作家の作品読んでないので今後はゆるゆると読んでいこうかなと思っている。

ALL REVIEWS(オール・レビューズ)は出版流通に変化をもたらすか


フランス文学者の鹿島茂さんが、先月ALL REVIEWS(オール・レビューズ)という書評無料閲覧サイトを立ち上げた。



今月からさらに書評家の数を増やすということで、これは個人的にめちゃくちゃ良い試みだと思っている。

ほとんどの書店の棚には文脈がない


個人でやっている一部の店を除けば、ほとんどの書店は取次からの配本に依存している。棚の担当者の創意工夫によって陳列の仕方に弱冠の違いはあるものの、基本的には毎日送られてくる新刊本を最も目立つ場所に配置し、売れ残った古い商品は順次返品するというのが一般的だ。


自然、どこの書店の棚も同じような品揃えになり、在庫数の多い大型書店はともかく郊外に点在する中型書店は長らく続く出版不況の影響をもろに受けて次々と閉店していっている。


何ら個性のない中型書店の経営が瀕死の状態であることは、一消費者である自分でもなんとなく分かる。


まず店内の棚を眺めていても全くワクワクしないのだ。平置きされているのはどこかで見たようなタイトルの自己啓発本や健康本ばかりで、その類の商品が店の在庫の半数以上を占めているため自分がほしいと思っている既刊本の大半は取り寄せになってしまう。それならAmazonで買った方が楽だし早い。


商品のラインナップもどこか空疎だ。昨今よく見かける「まんがで分かる○○」という商品が置いてあっても、元ネタの本である○○は店にはない。これは非常に奇妙な事態であると僕は思う。また、時代に逆行して岩波文庫を置いている店も決して少なくないが、全く売れず棚にささったまま背表紙が変色しているものもある。


もし、本を置く棚にも文脈のようなものがあるとすれば、今のほとんどの書店の棚にはそれが欠けていると言ってもいいと思う。

ほしいのはベストセラーよりもロングセラー


数年前、零細出版社の営業部員として働いていた時、社長と顔を合わせるたびに口を酸っぱくして言われたのが、「新刊本は売れて当たり前。営業部の課題は会社の倉庫に眠っている在庫をいかに減らすか」ということだった。


雑誌に顕著だが、新刊本の賞味期限は短い。一時的に売り上げがあっても波が去ってしまえば出版社はまた似たような商品を出して延命するしかない。出版社が自転車操業の悪循環から抜け出すには、長期にわたって会社に利益をもたらしてくれるロングセラー商品を一つでも多く持つことにある。それさえできれば、矢継ぎ早に新刊本を出す無理をすることなく文化的水準を保つことができる。まぁ、業界の人はみんな分かってることで、これがすごく難しいんだよね。

過去にスポットライトを向けること


書店と出版社どちらにも言えることは、「過去にスポットライトを向ける」ことが今まで以上に重要になってきたのではないかということだ。


新刊本を棚に並べれば本が売れる時代は終わり、本の作り手、売り手共に自分たちの扱う商品の価値を読み手に分かりやすく提示することが必要不可欠になってきた。


そういった意味で、ALL REVIEWS(オール・レビューズ)のような試みは今後ますます関心を集めるのではないだろうか。

【感想】第157回芥川賞受賞『影裏』

芥川賞を取った沼田真佑『影裏』を読んだので感想。

影裏 第157回芥川賞受賞

影裏 第157回芥川賞受賞


受賞会見での「ジーンズを1本しか持ってないのにベストジーニスト賞をもらった気持ち」という謙虚なコメントが話題になっていたが、「デビュー作にはその作家の全てが詰まっている」という考え方も一方ではあると思うので、個人的には作家のデビュー作がもっと候補になっていいし、審査員はもったいぶらずに推すべきだと思う。


『影裏』を芥川賞受賞作というレッテルを外して、あくまでも作家のデビュー作として眺めた時、今後の作品につながる萌芽としてどのような特徴がうかがえるか。


・311の震災
LGBT


強いて挙げるなら、この2つが本作の主題ということになる。


しかし、中途半端だよね。僕はこれらをわりとどうでもいい感じで読んだ。この作者が上の2つの主題を今後の作品でより掘り下げていくようには到底思えない。


おそらく、当初作者には書くことが何もなかったのではないか。だから、自分の周辺の使えそうな要素を混ぜ合わせて一つの作品として完成させた。


この作品の魅力は、古風な文体と、川釣りのシーンに見られるような風景描写のうまさ、そして、その一見なんでもない物や風景から全く別の情景や記憶を派生させる作者の感受性のあり方にあると言えると思う。


淡白で芸のない感想になってしまったが、今の自分に言えるのはこんなところ。「文藝春秋」に載る各審査員の選評が楽しみだ。

剣という病に憑かれた二人の男を描く爽快作/藤沢周『武曲』

武曲 (文春文庫)

武曲 (文春文庫)


「諸手突きで自らの中心を貫いてみろッ。殺せッ」 p7


アルコール依存症で失職の末、警備員の仕事をしながら地元の高校の剣道部コーチを務める矢田部研吾。彼の夢にたびたび出現する老い父親の一喝は、物語の中で彼ともう一人の主人公である高校生、羽田融が追い求める剣の境地を鋭く言い当てている。


相手の中に自分の中心を定め、それを断ち斬ること。


矢田部研吾はかつて殺人剣の使い手として恐れられた父将造と木剣での果し合いの末に彼を植物状態に追いやる。このエピソードが端的に物語るように、本作において描かれる剣はたとえそれが竹刀や木剣であっても例外なく真剣を意味する。

生きるためには何の必要もない代物で、せいぜいが護身術的な武道や格闘技のうち、最も実践から遠いものだと思われているのが一般的だろう。素人には理解が難しいというよりも、すでに剣道は病いなのだ。魔物なのだ。その病いに罹らなければ、腸を引き裂かれるような苦痛も、葉のほんの一揺れに世界の成り立ちを覚える甘美さも、伝わらない。剣を持ったがゆえに、世界に対してコンプレックスを抱え続けてしまうのだ。 p284


剣を握った上での一挙手一投足と内面の揺れ動きが、すぐさま自分と相手の命のやり取りに直結する。そのような現代に全くそぐわない感覚の渦中に自身の本来性を見出してしまった二人の男の転倒と覚醒の様子が本作の味わいだ。青春小説としての枠組みを取りながらも、単なるスポ根小説で終わらないところが藤沢周らしい。


思わぬきっかけから剣道にのめり込んでいく羽田融はヒップホップが好きなミュージシャン志望の青年で、キャンパスノートにお気に入りの言葉群を書き留めている。そんな彼のストックに「滴水滴凍」、「守破離」、「気剣体」、「殺人剣活人剣」、「懸待一致」、「一打絶命」などという異界の言葉が侵入してくる時、彼は剣道部の他の誰よりも真摯に言葉の意味とそれが形作る観念の世界に向き合うことになる。


一級への昇級試験を受けることになった際、融は筆記試験の模範解答にある剣道修練の心構えの中の「国家社会を愛して、広く人類の平和繁栄に寄与せんとするものである」という一節に違和感を持つ。彼はクラスメイトで剣道部部長である白川にその旨を問うが、試験なんだからそのまま覚えて答えればいいと相手にされない。


理は融の側にある。しかし、現代社会の中で既に規格化された剣道の中で彼の考える道は「否」と拒絶されてしまう。


これは僕自身、実社会で似たような経験をしたことがたびたびある。なんだよその物分かりの良さ? 国家とか平和とか人類愛とか吹けば飛ぶようなハリボテの物語にたやすく回収されてんじゃねぇよ…って。だが、違和感を口にすると周囲から面倒な奴、イタい奴と見なされるため大体においては自分の中にとどめて済ませてしまうが…それでも気色悪いもんはやっぱり気色悪い。


融の疑問に無関係を装う白川とは反対に、剣道なんて全く知らない音楽仲間の石崎は、その模範解答にはっきりとした嫌悪感を表明する。

「……俺、羽田がこのまま書くとしたら……、羽田と絶交だわ」
予想もしなかった石崎の言葉に、融も花沢も思わず視線を上げた。石崎はいつもの能天気な表情を落として、冷めた眼差しを筆記問題の紙に投げていた。
「この……国家社会ってやつ? 寄与ってやつ? 俺は国とか社会とかに役に立つ人材? みたいな貧しさは、嫌だ」 p385


それまでノーマークだった石崎という脇役が唐突に上のようなことを言うのだからびっくりする。リアリティを感じた。国家とか平和ってベタに語ろうとすると言ってる側が途端にチープになるから。


藤沢周の小説はこれまで芥川賞を受賞した『ブエノスアイレス午前零時』と『雨月』を読んだが、自分的にはハズレがない。文学的な触感を堅守した上で一般にも受け入れやすい物語を紡いでいるところが好きだ。


物語自体はラブホテルの話とか葬儀屋の話とかわりと俗っぽいパルプフィクションみたいな話が多いのだけれど、文学作品と同様の読後感がある。


話の内容よりもそれをどう文章で表現するか。物語の類型が出揃った現代においては大事な考え方であるように思う。

英語独学で手堅くTOEIC650点取る勉強法とおすすめの参考書

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僕は大学時代に英文学を専攻していたのだけど、手に取るのはいつも翻訳ばかりでほとんど英語の勉強をせずに卒業した。


当時は何とも思わなかったが、社会に出てからも引き続き英米の作品を読んだりそれについてブログに書いたりする中で「やっぱり、ある程度は英語ができないと格好がつかないよな」と思い始め、書籍を軸にした独学で定期的にTOEICを受験するようになった。高い金を払って留学や英会話スクールに行くという選択肢は薄給のサラリーマンにはそもそもない。


途中モチベーションが続かず勉強から離れた時期があったものの、先日の試験で無事685点を取ることができた。まだまだ発展途上ではあるが、これまでやってきた勉強法と使って効果の得られた教材をここにまとめておきたい。


学習時間については人それぞれだと思うので敢えてここでは書かない。ネットでは3ヶ月で一気に800点、900点なんていう記事をよく見掛けるけど、実際取り組んでみると、まぁ、そううまくいくものではない。てか、3ヶ月勉強して自分の思うような成果が出なかったら勉強を放棄しちゃう。そんな短絡思考こそ英語独学における最大の敵なんじゃないかな。


自分で発音できない音は聴き取れない


英語学習において非常に重要なステップであるにも関わらず、多くの人がスルーしてしまうのが発音だ。


確かに、発音の勉強は実戦的な英会話などと異なり単調でつまらないので、なしで済まそうとする人の気持ちはよく分かる。


しかし、最初にこれをやるかどうかで後のリスニング能力に天と地ほどの差が生まれることを多くの先行学習者たちが指摘している。僕も全く同じ意見だ。


自分の場合、発音の教材として王道の『英語耳』のCDを毎日聴いて練習をしていたら、一ヶ月を過ぎた頃、海外の映画やドラマで登場人物の台詞がそれまでよりもクリアーに聞こえるようになって驚いたことを覚えている。

英語耳[改訂・新CD版] 発音ができるとリスニングができる

英語耳[改訂・新CD版] 発音ができるとリスニングができる


『英語耳』のCDは25分ほどで全ての発音項目の練習ができるので、毎日取り組むのに適している。だが、本書には著者によるコラムや歌ったり原書を読んで英語力を高める、なんていう初学者には時期尚早な内容も多く含まれているので注意が必要。ひとまず、基本の発音項目と音の連結の章までをマスターすれば足りる。


僕は『英語耳』に書かれた各発音項目の口の開け方や舌の動かし方の説明が最初いまいちピンとこなかったので、事前に以下の教材でネイティブによる発音を映像で確認してから、あらためて『英語耳』を用いての練習に移行した。

DVD&CDでマスター 英語の発音が正しくなる本

DVD&CDでマスター 英語の発音が正しくなる本

知り合いにネイティブがいればチェックしてもらえるけれど、そのような恵まれた環境にある英語独学者はあまりいないだろうから、『英語耳』の説明が?だった人はぜひ試してみてほしい。

高校受験用の文法書と瞬間英作文で中学英文法をマスターする


発音と同時に中学英文法の総ざらいをする。分かったつもりでいても意外に抜けがあることも多いため、発音同様、土台作りの意味でしっかりと固めておきたい。

中学の文法は、学生時代によっぽどサボってない限り『くもんの中学英文法』を一度通読すれば十分。

くもんの中学英文法―中学1?3年 基礎から受験まで (スーパーステップ)

くもんの中学英文法―中学1?3年 基礎から受験まで (スーパーステップ)

その後、『どんどん話すための瞬間英作文トレーニング』を使って文法書で学習した知識を身体に叩き込んでいく。

どんどん話すための瞬間英作文トレーニング (CD BOOK)

どんどん話すための瞬間英作文トレーニング (CD BOOK)

知らない人のために一応説明しておく。瞬間英作文とは、短い日本語の文章を見て即座に英文を言えるようにするアウトプット重視の学習法だ。


本書には中学で習う構文のほとんどが例文として掲載されているため、それらを用いての瞬間英作文が出来るようになれば中学英文法を自由に使いこなすための運用能力が身についたことになる。


実際にやって分かったのだが、瞬間英作文をやるとスピーキング力が高まるだけでなく、英文そのものの処理速度とリスニング力も同時に高めることができるので、とてもおすすめの勉強法である。

音読でリーディング力、リスニング力の底上げをする


英語学習において最も効果的な学習法と言える音読。リピーティング、オーバーラッピング、シャドーイングなどのやり方があるが、まずは『みるみる英語力がアップする音読パッケージトレーニング』で、リピーティング、シャドーイングの習慣を身につける。

みるみる英語力がアップする音読パッケージトレーニング(CD BOOK)

みるみる英語力がアップする音読パッケージトレーニング(CD BOOK)

本書に限らず、下で紹介するDUOのような例文型単語集やTOEICの公式問題集などに載っている英文を同じように音読することによって、英語力は徐々に高まっていくので、ここでしっかり基礎力をつけておきたい。

『一億人の英文法』で生きた文法を学ぶ


大学受験レベルの英文法の習得に関しては、いきなり分厚い問題集に取り組むとつまらなくて挫折する可能性が高い。


おすすめは『一億人の英文法』だ。

一億人の英文法 ――すべての日本人に贈る「話すため」の英文法(東進ブックス)

一億人の英文法 ――すべての日本人に贈る「話すため」の英文法(東進ブックス)


本書を通読することで実際の英会話にも役立つ生きた英文法が身につく。本書で概要を掴んだ上で、足りない部分は他の詳しい文法書で逐一調べるのが効率が良いと思う。

『DUO3.0』は英語独学者の強い味方


語彙力向上には、まず『DUO3.0』に取り組むことをおすすめする。

DUO 3.0

DUO 3.0


『DUO3.0』に載っている単語はTOEICで出題されないものも含まれているので、避けて通る学習者もいるけれど、僕はそれでも本書を活用することを推奨する。


別売りの復習用のCD(基礎用のCDは不用)を使って何度もシャドーイングすることで、語彙力とリスニング力を大幅に高めることができるのに加え、本書をマスターしたという事実は、英語学習者として大きな自信につながる。


最後までやり通せば、なぜ世の中にこれほど本書の愛好家が多いのか理解できると思う。

TOEIC向けの教材で知識の補強をする


ここまででTOEIC600点前後は取れるだろう。


最後に、TOEIC向けの教材や公式問題集などで試験対策をする。

公式TOEIC Listening & Reading 問題集2

公式TOEIC Listening & Reading 問題集2

公式問題集の他に僕が実際に取り組んだのは、part5対策として『文法特急』、TOEICに特化した単語の補強として『金のフレーズ』の特急シリーズを使用した。両方ともコンパクトながら中身が濃く、何度も繰り返し復習することでTOEICにおいて頼もしい味方になる。

1駅1題  新TOEIC TEST文法特急

1駅1題 新TOEIC TEST文法特急


まとめ


以上のステップを踏めば、TOEIC650点は突破できると思う。


僕自身もそうだが、600点を超えてしまえば勉強することが苦ではなくなるので、高いモチベーションを保った上で勉強に取り組める。


ここから先は、よりTOEICに目的を絞った勉強にしてもいいし、英会話に特化した勉強に切り替えてもいい。もちろん、二つを同時に進めることも可能だ。


進展があったらまたここで共有します。

『源氏物語』を読む1〈桐壺〉〜〈明石〉


紫式部源氏物語』の感想を書いていきたい。


気忙しい日常の中で生まれるぼんやりとした諦念や寂しさにそっと並走してくれるような長い小説を読みたいと考えたら、自然と本作が頭に浮かんできた。通読するなら今だ。


高校時代の古典の授業などで部分的には知ってはいても、この長大な作品が持つ物語としての奥行きと広がり、実際に読んでいく際の触感を知る人の数は案外少ないのではないか。


通して読んでいく中で、他からの借り物でない自分なりの理解が得られればいいなと思う。


今回は「桐壺」〜「明石」まで。

※角川文庫の与謝野晶子による全訳で読んでいます。古本屋で上中下巻合わせてたったの300円でした。

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予備知識なしのまっさらな読者として『源氏物語』に当たった時、主人公の光源氏始め彼を取り巻く人物群の業の深さのようなものに読み手としての自分がジワジワと引き込まれていくような錯覚を覚える。


本作においては、この業の深さに対する無意識の従属と畏怖が、雨や雷などの自然現象に対するそれとあいまって作品の通奏低音になっている気がする。


表面上だけ見れば、光源氏は最初の正妻である葵の上を放ったらかして次々と他の女性に懸想するプレイボーイとして描かれている。そんな彼の恋愛遍歴を順次たどっていくのも本作を読む醍醐味の一つではある。


しかし、光源氏が重ねる恋愛劇の背後には、実母である桐壺の更衣と帝の悲劇に起因する盲目的な母性の追求が常にトリガーとして存在するため、亡き実母の面影を宿す藤壺や若紫に異常なまでの執着を示す。たとえ、その情熱が自身や相手の破滅につながるものだとしても自身の出世以前から両親によって作られた業、カルマに呼応せざるをえない。そんな宿命の揺るぎなさ、やりきれなさ、美しさを描いている点で、本作は『伊勢物語』など類似の恋愛物語を凌ぐ重厚さを獲得しているのではないかと感じた。ただ、他作品をきちんと読んだことがないので、この点については断言できない。


現段階での本作の印象をまとめてしまえば上記のようなことになると思う。だが、読者である自分は、作品内に描かれた細やかな情景の一つ一つに接し、その様を思い浮かべ、積み重ねることによってしか全体の印象を自分の中に構築することはできなかった。まぁ、当たり前の話だけど。


そういった情景はたとえばどんなものだったか。


死んで運ばれていく夕顔の黒い髪の毛が彼女の身体を包む茣蓙(ござ)からはみ出ているのを目撃した源氏の動揺を描いた箇所であったりとか、自分でも無意識のままに生き霊として葵の上に取り憑き彼女を苦しめるほどの怨恨を胸に秘めた六条の御息所が、いつのまにか自身の着物に染み付いた香と焚き付けの匂いをいぶかしむ場面などが自分の場合それに該当する。


「明石」は、政敵の圧力によって一度都落ちした光源氏が京に戻り最愛の紫の上と再会するところで終わる。この時点で、源氏は藤壺を始めとした幾人かの女性と痛切な出会いと別れを繰り返している。その経験は源氏の顔をいくぶんかやつれさせ、悲哀を加えることはあっても、逆にそれによってますます彼の美貌を高めてもいる。そんな描写を作者はしている。


今日はここまで。
またゆるゆると更新します。


※宿命の逃れ難さを描くという点でソフォクレスの『オイディプス王』が頭に浮かんだ。国や時代は異なれど、基調となる作品は構造的に似ている部分が多い。

オイディプス王 (岩波文庫)

オイディプス王 (岩波文庫)

ベッドはただ寝るだけの場所なんかじゃない。/シルヴィア・プラス『おやすみ、おやすみ』

子供の頃、ベッドは小さな秘密基地のようなものだった。


今日は珍しく、好きな絵本など紹介してみる。


本のタイトルは、『おやすみ、おやすみ』。

おやすみ、おやすみ (詩人が贈る絵本)

おやすみ、おやすみ (詩人が贈る絵本)


本のカバーには、「詩人が贈る絵本」という記載がある。


作者はアメリカの詩人シルヴィア・プラス
英米の小説を好んで読む人間なら、知っている人も多いかと思う。


しかし、多くの人の詩人シルヴィア・プラスに対するイメージは、類まれなる才能を持ちながらも、精神疾患によって自殺を余儀なくされた自己破滅型の詩人というものではなかろうか。


そのへんの事情は彼女の詩集や自伝的小説『ベル・ジャー』に詳しく書かれているので未読の人はぜひ読んでもらいたいと思うのだが、僕がそれ以上に本書『おやすみ、おやすみ』をおすすめしたいのは、上記のような負のイメージとは異なる、純粋で、遊び心に溢れた想像力の持ち主としてのシルヴィア・プラスを再発見することができるからだ。


僕は本屋で偶然この本を立ち読みしてびっくりした。「え、シルヴィア・プラスってこんな温かい作品を残してたの?」と意外に感じたことをよく覚えている。


ベッドはただ寝るだけの場所なんかじゃない。


と、プラスは言う。
もっと色んなベッドがこの世界にあっていいはずだと。

もう1つのベッドは
みんなの のぞみどおりのベッド。
なんていうか まるで
どこも シミばっかりのベッド。

黒いシミ 青いシミ ピンクのシミ
まったくもう シミばっかりの 毛布。
だれも だから 気にしない。
インキを そこらじゅうに こぼしても。

犬と ねこと インコが
どろだらけの足で
ベッド・カヴァーのうえで
いっしょになって ダンスしたって

ぜーんぜん もんだいなし!
こっちにも あっちにも ジャムのシミ
こっちにも あっちにも ペンキのシミ
どこも シミばっかりのベッドなら。

シルヴィア・プラス『おやすみ、おやすみ』(みすず書房)より引用。


この他にも、本書には奇想天外なベッドがいくつも登場する。


とても勝手な物言いになるけれど、彼女の短い生涯の中で、一時期でも本書のようなのびのびとした創作に打ち込めた期間があったことを大変うれしく思う。


ちなみに、本書の挿絵を担当しているは、『チョコレート工場の秘密』で日本でも有名なクウェンティン・ブレイク。とても可愛らしい。


子供と大人、両方の想像力を刺激してくれる1冊。眠れない夜の楽しい言い訳としてもお使いください。


プラスの生涯を描いた映画作品。詩人としての彼女の功績を詳しく知りたい人におすすめ。主演のグウィネス・パルトローが結構はまってます。

シルヴィア [DVD]

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