そのイヤホンを外させたい

『源氏物語』を読む2〈澪標〉~〈藤のうら葉〉


小説家の角田光代さんによる新訳が刊行されたり、27時間テレビで短いドラマが放送されたりと、なにかと話題の『源氏物語』。自分はオーソドックスに与謝野晶子訳で読んでいます。


前回の記事はこちら↓
taiwahen.hatenablog.com


さて、物語も中盤を過ぎて若い頃はプレイボーイで通っていた光源氏も人の親になる。

独立した物語、「玉鬘十帖」

〈乙女〉の巻以降、源氏と亡き葵の上の息子である夕霧や悲劇の人夕顔の忘れ形見である玉鬘が登場し、物語をけん引していく。〈玉鬘〉から〈真木柱〉のいわゆる「玉鬘十帖」がここでの大部分を占めています。


「玉鬘十帖」はそこだけ取り出しても物語として成立するほど綺麗な構成になっている。そのためか、メロドラマとして出来過ぎな感じがして現代の読者としては逆に物足りなく感じた。


でも『更級日記』の作者を代表とする当時の文学少女たちは、玉鬘のシンデレラストーリーをきっと自分事のように熱心に読み進んだはずで、そう考えると、本作の中でも欠かせない部分と言えるかもしれない。

紫式部の小説観が垣間見える〈蛍〉

梅雨が例年よりも長く続いていつ晴れるとも思われないころの退屈さに六条院の人たちも絵や小説を写すのに没頭した。

〈蛍〉の巻の好きな一節です。
この章では作者紫式部の小説観が光源氏の言を通じて間接的に語られています。


光源氏は近頃どこの御殿に足を運んでも散らかっている小説類に半ば辟易した体で玉鬘に嫌味を言うが、それでいて最終的には小説の存在を肯定している。


小説には架空のことが書かれている。しかし、人間の美点と欠点が誇張されて書かれているのが小説だと考えるなら、その全てが嘘であると断言することはできない。


仏教のお経の中にも方便が用いられるように、小説の中には善と悪の両方が余すところなく描かれている。だからこそ、読む側に真実が伝わる。


このようにに考えれば、小説だって何だって結構なものだと言えるのである。


何だか漠然としていていまいちよく分からないのだけど、作者紫式部が小説に対して非常に大らかで視野の広い考えを持っていることが分かります。

六条院を夕霧と共に歩く〈野分〉

今回読んでいて、読者としての自分と最も距離が近いと感じた登場人物は光源氏の息子夕霧だった。


光源氏と亡き葵の上の息子である夕霧は父親に勝るとも劣らない美貌を持ちながらも、その恋路はなかなかうまく事が運ばない。


光源氏は若い時分の自身の過ちと同種の事態を息子が引き起こさないように、裏から夕霧の行動や進路をコントロールしようとする。


夕霧は父親の考えに逆らうこともせず着実に位を上げ、忍耐の末、一度は拒まれた幼馴染雲居の雁との結婚も果たす。


光源氏の青年時代が華やかだったの比べ、夕霧のそれは地味で味気ないものに見える。


〈野分〉は、暴風が吹き荒れる日に六条院のハーレムを訪れた夕霧が、偶然光源氏の正妻である紫の上の顔を目撃して心乱される場面から始まり、彼の目を通して花散里、玉鬘、明石の姫君など、父親が囲っている女性たちの姿を順番に描いていく。


この章は素晴らしいなぁと思いました。


登場人物それぞれの営みと関係性の輪郭が夕霧の視線を通じて粛々と描かれる一方で、外では暴風が吹き荒れている。そのコントラストが何とも言えず良い。青春を描いた短編の傑作だと思いました。この部分だけでも何度も読み返したくなる。


続きを読んだらまた感想を書きますね。
ノロノロしたペースで申し訳ないです。


余談ですが、僕は古文の知識に乏しいので与謝野訳でも主語が分からないことが多々あります。「あれ、内大臣って今誰だっけ?」みたいな感じで。


以下のサイトで各巻のあらすじを見ることができます。分かりやすくまとまっており度々お世話になりました。

蛇の出す刺身は食べる気にならない/川上弘美『蛇を踏む』

蛇を踏む (文春文庫)

蛇を踏む (文春文庫)


第115回芥川賞を受賞した作品です。


僕は作者の川上弘美さんに個人的に恩がある。


高校生の時、現文の授業で川上さんのデビュー作である『神様』を読んで純文学に開眼した。


それまで、漱石の『こころ』のKの自殺場面の抜粋や志賀直哉の『城の崎にて』など教科書に掲載されている名作を読んではいたものの、これがつまらなくてつまらなくて……。何が良いのかさっぱりわからなかった。


でも『神様』は違った。熊と一緒に川原に行く、という「熊」という一点のみが非日常であとは徹頭徹尾日常を貫くこの短い作品には、教科書的な文学にはない魅力があった。


教室の窓から外を見ると、晴天の下で白いユニフォームを着た野球部連中が午前中にも関わらず砂ぼこり吹き荒れるグラウンドをせっせとランニングしていた。ウチの高校は強豪だったから部員数も多いしよく朝から練習していた。ただグラウンドの砂ぼこりだけは凄くずっと改善しなかった。そんな風景が今でも記憶に残っている。


『蛇を踏む』は、語り手であるサナダさんが職場に行く途中に偶然蛇を踏んでしまうところから始まる。

踏まれたらおしまいですね


蛇自身がそう言っていることから、何か決定的なことが起こったであろうことは間違いないけれど、サナダさん当人としてみれば、それは日常の中で生じる些細な事柄の一つに過ぎない。


川上作品においては、日常性と非日常性、あるいは人為的なものと超自然的なものの間が常にフラットにつながっているので、登場人物は日常から非日常へと軽々と越境していく。

蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった。


という一節が暗示するように、本作における「蛇」が何のメタファーであるかを無理やり解釈しようとするのは、いささか野暮な読み方だと思う。


「蛇」は母であり、他人であり、ここではないどこか、魅惑的な世界へ語り手を誘う使者であるらしい。しかし、結局のところそれが良いものなのか悪いものなのかどうかは判然としない。


ただ、サナダさんが蛇との生活に一時的な安穏を得ている反面、一抹の畏怖の念も抱いていることが細部から伝わってくる。


たとえば、刺身。

「ああおいしい」女も言って自分のコップにつぎ足し、それを見た私もまた飲み干してつぎ足し、じきに瓶は空っぽになった。
「もう二本冷やしてあるのよ」女はつくねを皿に取りながら言う。
気味が悪かったが、つくねがおいしそうなので私も皿に取った。女はどんどん食べる。少しだけ箸でつついて汁が出たので、つい食べた。自分でつくったような味だった。つくねを食べてはビールを飲み、いんげんを食べてはまたビールを飲んだ。しかし刺身にはどうしても箸をつけられなかった。蛇が並べた刺身かと思うと、どうにも気味が悪かった。女は醤油と山葵をたっぷりとつけて刺身もどんどん食べる。
(p16より引用)


つくねもいんげんもビールも問題ないけど、刺身だけはどうも気が乗らなくて箸をつけることができない。


些細なことだけれど、これはサナダさんと蛇の関係性を考えるにあたって注目すべき点だと僕は思うのです。


蛇は蛇らしからぬ面倒見の良さで語り手を魅了し誘惑するけれど、つまるところはやっぱり冷たい体表を持つあの蛇なのであって、決して全幅の信頼を寄せていい相手ではない。


その原始的な畏怖のようなものが、『今昔物語』などの大昔の説話にも通じるような普遍性もあって……。


作者の持ち味であるほのぼのとした文体に蛇的なひんやりとした触感が浸入してくる感じが絶妙な作品でした。

「東野・岡村の旅猿」おすすめの回をTOP10で振り返る

僕はそれほどバラエティにはくわしい方ではないけれど、中には例外的に好きで観続けている番組もあります。


たとえば東野・岡村の旅猿 プライベートでごめんなさい…」がそう。


人気番組だから知っている人も多いだろう。ジャンルとしては旅番組に分類されるけど、出演者が自然体でそこまで頑張らない感じで、何も考えずに観れるし、おまけに癒し効果もある。


最近では、満島ひかりを旅のゲストに迎えたのが記憶に新しい。深夜枠にも関わらず豪華ですね。


本記事では、僕がこれまで観た中で個人的に面白かったおすすめの回をTOP10の形式で紹介します。

10位. トルコの旅


シリーズ初の女性ゲストとしてmisonoを迎えたものの、ゲストに配慮しないスタッフの粗野な演出に彼女が苛立っているのがひしひしと伝わってくる。普段は勝手な言動が目立つ東野さんがフォローに回っているのが新鮮。misonoさんの後も「旅猿」は数名の女性ゲストが登場するがなかなかしっくりいかないことが多い。トルコがそのはじまり。途中で登場する出川さんが救いの神に見える。

9位. 木下プロデュース、軽井沢・BBQの旅


「築地で海外ドラマ観まくりの旅」で初登場するも全く旅してる感じがなく不完全燃焼で終わった「旅猿」ファンのTKO木下が、リベンジの意味で軽井沢でのBBQをプロデュース。東野ら先輩芸人からの振りを無駄にすることなくボケを返していく木下はだいぶ健闘している。いつもの「旅猿」にあるゆるさはないが、笑える場面は多い。

8位. 北海道・知床 ヒグマを観ようの旅


女性ゲストとしてELTの持田香織を迎える。持田さんの参加は意外にも番組に新たな魅力を付与したと思う。過去何人かいた女性ゲストの中でも一番ちょうどいい空気感で「旅猿」と相性が良い。出演者、スタッフからも好評だったようでその後も何度かゲストに呼ばれている。

7位. 岩手・八幡平でキャンプと秘湯の旅


旅猿」の準レギュラーである出川哲朗ジミー大西の初共演の回。この回のジミー大西によるハーモニカ演奏のくだりで腹がよじれるほど笑った。BBQに秘湯までのハイキングと、四人が揃う旅の中では最も充実した内容になっている。

6位. 奥多摩で初キャンプの旅


初期の頃の東野と岡村二人だけの旅が結局一番好き、という人が旅猿ファンには多い。東野いわく「旅力」をつけるために雨降りの中、道具一式を買って奥多摩でBBQをすることに。行きの車中での会話やウイスキーを飲んで酔いつぶれてしまった岡村さんの様子など、プライベート感満載で観ててほっこりします。

5位. 出川哲朗ともう一度インドの旅


岡村休業中のピンチヒッターとして出川さんを迎え再度インドへ。この回はある意味で伝説で、タレント出川哲朗の魅力がこれでもかというほど詰まっている。予定時刻よりも早く駅に着いてしまう寝台列車、うんこを踏む東野、ガンジス川沐浴の直前に腹をこわす出川。爆笑の連続。

4位. スイスの旅


ジミー大西初登場回。久しぶりに見たジミーさんはやっぱり規格外の面白さだった。洗練されたスイスで炊飯ジャーを持ち歩き、ゆかりご飯を朝食に振る舞う。普通の芸人にはない発想である。ジミーさんの魅力に加え、ソーセージやチーズフォンデュなどの食べ物が美味しそう。そしてスイスの山並み。圧倒的画力。

3位. 中国の旅


旅猿」名物と言えば出演者とスタッフの「いざこざ」。それが最も味わえるのは中国の旅。スタッフの言葉を勘違いして冬の極寒の中国に薄着で来てしまった東野さんのイライラが止まらない。なだめる岡村さん。少林寺の稽古を眺める東野さんの死んだような目が印象的。防寒具が一つずつ増えていくごとに東野さんの機嫌が良くなっていくのが観てて微笑ましい。

2位. 地獄谷温泉で野猿の写真を撮ろう!の旅


「癒し」という点で個人的にお気に入りの回。動物写真家・福田幸広さんを先生に迎え、地獄谷温泉の猿を撮りに行く。他の回と比べて笑いの要素は少ないけれど、終始雪景色で不思議とリラックスした気持ちで観ることができます。観光案内所に訊いてたまたま宿泊することになった旅館は『千と千尋の神隠し』の湯屋のモデル。DVDでは、「是非見て欲しい奈良の旅」を併録。

1位. 南房総 岡村復帰の旅


岡村復帰後初の旅。旅館に籠って海外ドラマの『24』をひたすら観るという当時としては斬新な企画内容は、その後の「旅猿」の方向性をある程度固めたと思う。推測だが、復帰直後の岡村さんの負担を減らそうという東野さんとスタッフの心遣いが企画内容に反映されているように思う。何度も観たくなる魅力がある。DVDでは、「パラオでイルカと泳ごう!の旅」を併録。


以上、私的トップ10でした。これから観ようという方の参考になればうれしいです。


自分はレンタルおよびセルで観ましたが、旅猿のDVDは、初期は別として前編と後編に分かれたものが多いため、まとめて観るならhuluがお得だと思います。


【Hulu】今すぐ会員登録はこちら

ではでは。

虚妄としてのアメリカ/柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』

時間を見つけて英、米の小説を読んでいきたいなぁと考えています。新しい作品に挑戦してみたり、お気に入りの作品を再読してみたり。


今回はその前哨戦として、柴田元幸さんによる『アメリカ文学のレッスン』を読んだ感想です。

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)


著者は、10個のキーワードに沿ってアメリカ文学の大筋を述べています。


キーワードを並べるとこんな感じ。


・名前
・食べる
・幽霊の正体
・破滅
・建てる
・組織
・愛の伝達
・勤労
・親子
・ラジオ


キーワードだけ見ると「何のこっちゃ?」ですが、実際に通して読んでみると痒い所に手が届く内容になっています。


僕は本書を読んである一つの認識を得ました。


それはアメリカという国は徹頭徹尾虚妄なのであり、その結果アメリカ文学的な想像力は虚妄の「脱却」、もしくはその盲目的な「追求」に力点が置かれていることが多いということです。


例をあげると、マーク・トウェインの『ハックル・ベリーフィンの冒険』。これはアメリカ文学の出発点とも呼ばれる記念碑的な作品です。


「名前」というキーワードに紐付けられて紹介される本作の特徴として柴田さんが指摘するのは、主人公なのに全く出しゃばることのないハックという浮浪児の身の処し方です。


ハックは物語の中で様々な騒動や珍事件に巻き込まれますが、その大半は向こうからやってきたものでありハック自身は出会った人間に対して自分の名前を明かしさえもしません。これはトム・ソーヤーとは対極の性格上の特性です。


ハックと黒人逃亡奴隷のジムはミシシッピー川上の筏生活を謳歌しますが、その快適さは彼らと彼らの乗る筏の外の世界の隔絶が生み出したものです。


振り切ったと思いながらもいつの間にか筏の上に侵入してくるその外の世界。それこそがアメリカであり、そこに暮らす人々が作り上げた虚妄の社会というわけです。

ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)

ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)


ハックのように虚妄に背を向けて無垢な視線で真実を捉えようとする主人公がいる一方で、それに果敢に挑戦しアメリカン・ドリームを達成する主人公もアメリカ文学ではよく描かれます。


『白鯨』のエイハブ船長、『グレート・ギャツビー』のジェイ・ギャツビー、『アブサロム! アブサロム!』のトマス・サトペンのような強烈な存在感を読者に残す主人公たちは、不屈の精神力で自身の野望の達成を目指します。


もちろん、彼らがしているのは鯨を追いかけたり豪邸で連日パーティーを開いたり南部の田舎町に荘園を作ったりなんていう超個人的な事柄ですが、小説全体を眺めればそのいささか滑稽にも見える繁栄と没落の人生模様はアメリカという虚妄の追求になり得ています。


いくらか最近の作品で言えば、レイモンド・カーヴァートマス・ピンチョンのそれも、意識的ではないにせよ虚妄としてのアメリカを見据えたものになっているように僕には思えます。


彼らの場合、上のような脱却と追求は当てはまらないかもしれません。カーヴァーの場合は「静観」、ピンチョンの場合は「疑惑」といった感じでしょうか。

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

アメリカ文学をアメリカという大きな枠組みとの関係性のみをもってからしか見ないのは、一面的な解釈であり危険と言われても仕方がないと思います。しかし、まだ全然作品数を読めてない自分にはこの認識の発見だけでも十分な財産となりそうです。

現代小説家はそれぞれがゲリラ戦を展開している

少し前の話になるが、『文藝2017年秋号』上にて「現代文学地図2000→2020」という特集が組まれていた。


これは、90年代後半から今に至るまでの文芸シーンの変遷をたどると共に、これからの来るべき作家について各人が好き勝手に私見を述べるという内容になっていて、バブル崩壊以後の日本文学史をおさらいするのにもってこいの読み物だと思う。

細分化する現代日本文学


本特集は90年代以後ということで、当然、大江健三郎中上健次も対象外である。作家で見た場合、村上龍村上春樹のダブル村上以降の作家ということになる。


僕はここに取り上げられたこれからの作家たちの作品をあまり読んでいないのだが、批評家、ライターの方々の説明を読む限り、以前にも増して文学作品の細分化が進んだのだなぁとつくづく感じた。


細分化とはどういうことかというと、僕個人の理解で言うと、ある作家について何の予備知識もない状態で作品を読んだ場合、それがいったい何について、何に向かって書かれたものなのか容易に理解できないことが増えることを指す。


そういった意味で、ここ数年の芥川賞受賞作があまり売れないのもある意味では仕方ないことだと思う。小説を多く読んできた人でも読む作品によっては「なんじゃこりゃ?」と戸惑ってしまうんだから。


最近だと、村田沙耶香コンビニ人間』はそこそこ話題になったが、あれは30過ぎてコンビニでアルバイトする独身女性の生活という題材がまず分かりやすかったのと、文章自体も純文学にしては珍しく平明だったことに起因すると思う。表面上は一般にもウケるリーダビリティの高さを維持しながらも、一方では社会通念を鼻で笑って通り過ぎるような巧みな人物造形がある点でとても魅力的な作品だったと思う。


しかし、現在の大体の純文学は普通の読者からすると理解に苦しむ。それが良いとか悪いということではなく、ただそういう状況にあるのだと思う。

「ニッポンの小説」は酔っ払っている


高橋源一郎柴田元幸の対談本に『小説の読み方、書き方、訳し方』というのがあり、その中に非常に感銘を受けた箇所があった。


高橋源一郎は、80年代以降、作家で言えば中上健次分水嶺として、「日本の小説」は「ニッポンの小説」とでも呼べそうなものに変化したと言っている。

高橋: 「ニッポンの小説」とたとえば戦後文学とどこが違うかっていうと一概には言えないんですけど、やっぱり言葉が壊れてるとしか言いようがない。酔っ払っているというか(笑)。内容はわりと単純な話で、恋愛小説だったり普通の物語、……まあ物語がないものももちろんあるんですけれども、基本的に文章の問題なんです。つまり内容ではないんですよね。 (p159より引用)


曲がりなりにも小説を好んで読む自分にとって、この発言はそれまで言い表せなかった感覚を的確に言い当ててくれるものだった。酔っぱらっている。まさにそんな感じ。ウルフやジョイスなんかのモダニズム文学の理知的な壊れ方とはまた違うんだよねぇ。

高橋: 大文字のテーマというものは何でも「これに対して抵抗するぞ」というふうに否定形で語られるテーマなんです。で、それがなくなってきた時作家の側は、結局個別に対処するしかなくなったんだと思います。それまでは戦闘が集団戦だったんですね。だから○○派だとか○○軍団みたいになっていたけど、いまやもう全部ゲリラですよね。だから各人が各人の裁量・才覚でそれぞれの場所で好きなように戦いなさいって(笑)。とすると武器は文章しかない。 (p160~161)


現代作家は既に個別の闘争に移行している。


現代文学地図」は、確かにここ20年ほどの日本文学史のおさらいの意味では大変重宝する。だが、全体的に地下鉄サリン事件や3.11の東日本大震災などの社会的事象に対して文学がどのような返答をしてきたのかという大文字の視点で話が進むので、これまで以上に個別化、多様化したであろう新しい作家群について語る上ではこぼれ落ちる要素も多く、力技の総括になってしまっている気がした。


それはさておき、作家の側が集団戦から個人戦になったということは、おのずと読者もそれに呼応した形に変わっていくのだろうか。もちろん、小説を読むのは一人の作業だから表面上はそれまでと何ら変わらないだろうけれど、たとえばネットでお気に入りのブログを読むような感じで文学が読まれるようになったらそれはそれで楽しいかなと思う。


さしあたり、あまりにも新しい作家の作品読んでないので今後はゆるゆると読んでいこうかなと思っている。

ALL REVIEWS(オール・レビューズ)は出版流通に変化をもたらすか


フランス文学者の鹿島茂さんが、先月ALL REVIEWS(オール・レビューズ)という書評無料閲覧サイトを立ち上げた。



今月からさらに書評家の数を増やすということで、これは個人的にめちゃくちゃ良い試みだと思っている。

ほとんどの書店の棚には文脈がない


個人でやっている一部の店を除けば、ほとんどの書店は取次からの配本に依存している。棚の担当者の創意工夫によって陳列の仕方に弱冠の違いはあるものの、基本的には毎日送られてくる新刊本を最も目立つ場所に配置し、売れ残った古い商品は順次返品するというのが一般的だ。


自然、どこの書店の棚も同じような品揃えになり、在庫数の多い大型書店はともかく郊外に点在する中型書店は長らく続く出版不況の影響をもろに受けて次々と閉店していっている。


何ら個性のない中型書店の経営が瀕死の状態であることは、一消費者である自分でもなんとなく分かる。


まず店内の棚を眺めていても全くワクワクしないのだ。平置きされているのはどこかで見たようなタイトルの自己啓発本や健康本ばかりで、その類の商品が店の在庫の半数以上を占めているため自分がほしいと思っている既刊本の大半は取り寄せになってしまう。それならAmazonで買った方が楽だし早い。


商品のラインナップもどこか空疎だ。昨今よく見かける「まんがで分かる○○」という商品が置いてあっても、元ネタの本である○○は店にはない。これは非常に奇妙な事態であると僕は思う。また、時代に逆行して岩波文庫を置いている店も決して少なくないが、全く売れず棚にささったまま背表紙が変色しているものもある。


もし、本を置く棚にも文脈のようなものがあるとすれば、今のほとんどの書店の棚にはそれが欠けていると言ってもいいと思う。

ほしいのはベストセラーよりもロングセラー


数年前、零細出版社の営業部員として働いていた時、社長と顔を合わせるたびに口を酸っぱくして言われたのが、「新刊本は売れて当たり前。営業部の課題は会社の倉庫に眠っている在庫をいかに減らすか」ということだった。


雑誌に顕著だが、新刊本の賞味期限は短い。一時的に売り上げがあっても波が去ってしまえば出版社はまた似たような商品を出して延命するしかない。出版社が自転車操業の悪循環から抜け出すには、長期にわたって会社に利益をもたらしてくれるロングセラー商品を一つでも多く持つことにある。それさえできれば、矢継ぎ早に新刊本を出す無理をすることなく文化的水準を保つことができる。まぁ、業界の人はみんな分かってることで、これがすごく難しいんだよね。

過去にスポットライトを向けること


書店と出版社どちらにも言えることは、「過去にスポットライトを向ける」ことが今まで以上に重要になってきたのではないかということだ。


新刊本を棚に並べれば本が売れる時代は終わり、本の作り手、売り手共に自分たちの扱う商品の価値を読み手に分かりやすく提示することが必要不可欠になってきた。


そういった意味で、ALL REVIEWS(オール・レビューズ)のような試みは今後ますます関心を集めるのではないだろうか。

【感想】第157回芥川賞受賞『影裏』

芥川賞を取った沼田真佑『影裏』を読んだので感想。

影裏 第157回芥川賞受賞

影裏 第157回芥川賞受賞


受賞会見での「ジーンズを1本しか持ってないのにベストジーニスト賞をもらった気持ち」という謙虚なコメントが話題になっていたが、「デビュー作にはその作家の全てが詰まっている」という考え方も一方ではあると思うので、個人的には作家のデビュー作がもっと候補になっていいし、審査員はもったいぶらずに推すべきだと思う。


『影裏』を芥川賞受賞作というレッテルを外して、あくまでも作家のデビュー作として眺めた時、今後の作品につながる萌芽としてどのような特徴がうかがえるか。


・311の震災
LGBT


強いて挙げるなら、この2つが本作の主題ということになる。


しかし、中途半端だよね。僕はこれらをわりとどうでもいい感じで読んだ。この作者が上の2つの主題を今後の作品でより掘り下げていくようには到底思えない。


おそらく、当初作者には書くことが何もなかったのではないか。だから、自分の周辺の使えそうな要素を混ぜ合わせて一つの作品として完成させた。


この作品の魅力は、古風な文体と、川釣りのシーンに見られるような風景描写のうまさ、そして、その一見なんでもない物や風景から全く別の情景や記憶を派生させる作者の感受性のあり方にあると言えると思う。


淡白で芸のない感想になってしまったが、今の自分に言えるのはこんなところ。「文藝春秋」に載る各審査員の選評が楽しみだ。