そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

文芸好き。ラノベやWEB発の作品まで視野に入れつつ、文学または物語の趨勢について考えたことを書いていきます。

表層社会の中で生霊にならないために


黒子のバスケ脅迫事件」の犯人渡邊博史による冒頭意見陳述と最終意見陳述を読んでいた。



ぼくは、この犯人は司法によって適切に裁かれるべきだと思っている。悪事を働いたのだからそれは当然のことだ。しかし、彼の罪の重さ云々はここでは大した問題ではない。



吉本隆明は、世の中のある事象に対して評価を下す際には、それが倫理的に良いことなのか、それとも悪いことなのかという判断を一度脇においておいて、事の本質を見極める努力をしていかなければならない、ということを著書の中で言っている。ぼくもこの事件に対しては吉本を見習いたいと思う。



一連の陳述を読んで驚いたのは、その文章量もさることながら、犯行の動機や事件に至るまでの自身の人生に対する犯人の冷静な分析である。これほどまで饒舌に自分の犯した罪を振り返る犯罪者は中々いないだろう。しかも、その内容は論理的かつ明快である。



彼は幼児期に母親から受けた虐待と、小中学校でのいじめの経験が自分の人生を普通の人々のそれと異なったものにした、という事実に留置所に入ってから気づかされたらしい。



「生ける屍」、「無敵の人」、「浮遊霊」、「生霊」、「埒外の民」、「努力教信者」、「キズナマン」などといった独自のキーワードで説明される犯行動機は、一般人が考える以上に複雑で、彼一人のパーソナリティの欠陥というよりは彼という人間を生み出した社会システムそのものの欠陥を示しているように思える。ただ単に非リアのオタクがキレて暴れたということではないのだ。格差犯罪でもない。問題はもっと根深い。



一般人と自分との境遇の違いをRPGに例える渡邊の説明はとても分かりやすい。↓



勇者は酒場で仲間を見つけてパーティを作り、街の外に出て仲間と力を合わせてモンスターと戦ってレベルを上げます。傷つけば母親の待つ実家に泊まって体力を回復します。レベルを上げている内に体力の最大値は増え、回復魔法も覚えて、実家に泊まる必要がなくなります。そして魔王を倒します。これが普通の人の人生です。
酒場で仲間になることを誰からも拒まれたり、モンスターとの戦闘で味方であるはずの仲間から攻撃されるのがいじめです。傷ついて実家に泊まって体力を回復しようとしたら、母親に宿泊を拒否されたり、母親から攻撃されて回復ができないという状況が虐待です。このような状態で自分が勇者であると信じられなくなった勇者が「生ける屍」です。体力が「安心」です。回復魔法が内在化した両親です。実家に泊まる必要がなくなった状態が自立です。勇者は「生ける屍」の呪いのため体力の最大値が増えませんし、回復魔法は覚えられませんし、街から遠くに行けません。仲間に対して不信感を持っている状態が対人恐怖で、レベル上げのために街の外に出る気が起きない状況が対社会恐怖です。レベル上げが努力です。魔王を倒すことが勝利であり努力の報いです。
そしてゲームのあまりの設定の無理さにやる気を失くしたプレイヤーが「埒外の民」です。「埒外の民」はゲームをクリアできなかったのですから負け組になってしまいます。「埒外の民」は自分のゲームの設定が狂っていることに気がついていませんから、やる気を失くした自分を責めます。しかし同時に負け組となったことに納得ができず説明ができない不満を抱えます。周囲も自分がやったゲームの設定を常識として物事を判断しますから「埒外の民」を怠け者としか理解できません。



要するに基本設定が違うということだ。彼の送ってきた人生には、「安心」をもたらしてくれる隣人の存在は最初からなく、より良く生きるために努力するという選択肢も剥奪された状態だった。




ぼくは幸いにも、この犯人のように幼児期に親から虐待を受けたわけではないし、学校で深刻ないじめにあったこともない。しかしそれでいながら、彼の言う「浮遊霊」という言葉は理解できる気がした。



正確には、「浮遊霊」としての自分がなんらかのきっかけで「生霊」と化してしまうかもしれない恐怖が少し分かるのだ。



ぼくは、現在「生霊」になることなく毎日を過ごしているけれども、ルサンチマンの塊のような自分がなんとか「浮遊霊」でとどまっているのは、やはり何らかの所属意識であったり、「これをしている時は自分が自分でいられる」と思える好きなことがあるからである。



ぼくの場合、残念ながらそれは会社でも仕事でもなく、文学やサブカルチャーであるわけだけれど、これらのものがある日突然なくなったら、おそらくぼくは重度のアイデンティティクライシスに陥るだろう。




自分と社会をつなぐ唯一の糸を断たれた時に、人は「生霊」になると犯人は言う。その糸は人によって様々であり、他人から見たらかなりバカバカしいものであったりする。掲示板の常連とか新大久保の住人とかね。どんなにいかがわしくてでもいいから、我々はヤバくなったら逃げ込める駆け込み寺のような場所をリアルでもネット上でもいいからたくさん作っておくべきである。それが、このクソ社会を軽傷で生き抜くコツかもしれない。



この事件は、秋葉原の通り魔事件と同じくらい他人事ではない感じがした。犯人の渡邊博史は、非常に論理的な物の考え方をするから頭良いと思うし感心もしたけれども、やはり『罪と罰』のラスコーリ二コフや『精神の氷点』の水村に比べて、詰めが甘いというかスケールが小さい感じがする。彼らはギリギリのところまで社会と自分自身との関係性を突き詰めていって、自分の中で不動の論理を構築してから犯行に及ぶけれども、渡邊や秋葉原事件の加藤の場合は、自分の居場所をとられたという私的なきっかけで衝動的に犯行に及び、捕まった後から自分の行為を社会や時代と結びつけて論理立てようとしている。


そういった意味で、彼らは『罪と罰』と『精神の氷点』に敗北している。ぼくは自分の「仮想敵」にこの二人の犯罪者を加えることはしない。かなり偉そうだけど、未熟な犯罪者を称えることはしない。



それでは今日はこのへんで。