そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

物語を糧に生きるアラサー男子の方法序説。文芸や出版メディアの趨勢について気になったことを書いていきます。

短編 スプーンと夫婦の小話

スティーブンソンの『壜の小鬼』を数年前初めて読んだ際、「この話の現代日本バージョン書きたいな」と思って、無理やり書いた作品です。原稿用紙40枚くらい。究極にヒマな方、ぜひ読んで感想下さい。



「スプーンと夫婦の小話」


(この会社もダメだったなぁ)
 ビルの出入り口から外に出て、南周二は深いため息を吐いた。
 就職氷河期
 周二は、その言葉を肌で感じていた。たった今面接を受けた会社から不採用通知が来れば、もうこれで十連敗ということになる。
 自分自身に何か決定的な欠陥があるのではないか? ここまで就職活動がうまくはかどらないとそうも思いたくなる。周二は自分の将来の展望が、会社の面接を受ける度にだんだんと狭まっていくのを感じ、暗澹とした気分になった。
 四月の暖かい風が、高層ビル群の谷間を吹き抜けて都会のオフィス街を行く人々の表情を、幾分か和らいだものにさせている。
 もう昼時で、並木道は財布片手のサラリーマンとOLの群れで賑わっていた。彼らは、歩道にぼんやりと突っ立っている周二の目の前を和気あいあいと通り過ぎて、悠々と千円ランチの店に入っていく。
(この差は一体何だろうか)
 周二は思った。
 彼の財布には、現在千円札が一枚入っているだけだった。就職活動は意外と費用が掛かる上に、会社説明会でアルバイトも休みがちになるため、節約を心掛けないとあっという間に軍資金が底をついてしまう。活動が長引けば長引く程財布は苦しくなる。
 周二は、近くのカフェに入り、アメリカンコーヒーとワッフルを注文した。これが今日の昼飯だった。お金がないせいもあるが、先刻まで面接官の前で気を張っていたためにまだ緊張状態が持続していた。食欲があまり湧いてこない。
 店は混雑していた。トレイを持った周二は階段で二階に上がり、ガラス張りの喫煙席に着席した。禁煙席に比べて喫煙席は比較的空いていた。喫煙者に対して風当たりの強い世の中だが、こういった時だけは便利だ。
そんなことをぼんやり考えながら、周二はコーヒーを飲みワッフルを食べた。食欲がないと言っても男の胃袋である。あっという間に食べ終わるとセブンスターに点火し、就職活動用の鞄から小説を取り出して黙々と読み始めた。周二は大の文学好きで、外を出歩く時は常に鞄の中に一、二冊の小説を忍ばせていた。小説を読んでいる時だけが心の平穏を実感できた。
 かれこれ三十分位経っただろうか。本のページを繰るついでに何気なく顔を上げた周二は、一人の男が、隣の席からじっとこちらに視線を注いでいるのに気づいた。
四十代前半、恰幅が良く顔の輪郭も丸々とした小太りの男で、濃紺のゆったりとした大きさのダブルのスーツを上品に着こなしている。現代社会に紛れ込んだサンタクロースといった風貌だったが、唯一その目だけは不眠症患者のようにギラギラと落ち着きのない光を発していて、周二の心を不穏に波立たせた。彼と目が合うと、男はにっこりと笑いかけた。
「面白いですか?」
 周二の手の中の小説を指差して訊く。
「――ええ、それなりに」
 男の唐突な質問に戸惑いながらも周二は答えた。
「『城』ですか。カフカは私も若い頃熱心に読んだ記憶があります。主人公のKは中々目指す城に辿り着けない。ただでさえ理不尽な話なのにその上未完ときてる。文学はまったく厄介な代物です」
「あの、何か?」
 周二は『城』をテーブルの上に置いた。何だってこの男は自分に話し掛けてきたりしたのだろうか? 何かの勧誘だろうか……?
「お見受けするに、就活生の方ですか?」
「ええ、そうですが……いや、あのすみません、これから行く所があるので失礼させていただきます。何かの勧誘なら別の方に」
 周二は嘘を吐いた。店の中まで入ってくるとは何てずうずうしい奴だ。荷物を鞄の中に押し込みそそくさと席を立つ。
 男が周二の腕を掴んで言った。
「勘違いしないでくれ。あなたを勧誘なんてしない。私自身も、就職活動で苦労したたちだから君に親近感を覚えただけなんだ。まぁ、座ってくれ」
 男の真剣な表情に気圧された形で周二は再び席に着いた。
 男が依然として怪しいことに変わりはないが、嘘は言っていないように思えた。
「なら、用件をちゃんと言って下さいよ」
「君の手助けをさせて欲しい」
「僕のことを知りもしないくせに、何ができるって言うんです?」
「そうだな」
 再び親しげな笑顔を作って男は答えた。
「第一に、美味い物を食べさせてやれるよ。酒は飲めるね? ここからそう遠くない場所に昼間からビールが飲める店があるんだ。まずはそこに行ってから話そう。もちろん私の奢りだ。さぁ、遠慮なく」
半ば強引に周二をその店に連れて行くと、男は彼にビールと鶏料理を振る舞った。近頃は就職活動に忙しくてめっきり酒を飲んでいなかった周二は、ほんの二、三杯ですっかり酔っ払ってしまった。自然と就職に関する愚痴が口をついて出る。
 周二の話を忍耐強く相槌を打ちながら一通り聴き終えた男は、人差し指で自身のこめかみをトントンと叩いて言った。
「私もあなたも決してここが悪いわけじゃない。才気だってある。ただ、機会に恵まれなかっただけなんだ。そうだろ? ……君にぜひ譲りたい物があるんだ」
 そう言って、男はスーツの上着の内ポケットから一本のスプーンを取り出した。
「私はこのスプーンを使って自分の欲しい物はほとんど全て手に入れてきた。これを君に売ってあげよう! 値段は百二十円でいい。缶ジュース一本分の値段だ。安いもんだろ?」
 周二は吹き出しそうになった。
「良い大人が何を馬鹿げたことを言ってるんです? そうは見えなかったけど、あなたはずいぶんと出来上がっているみたいだ。どうせ僕がトイレに立った時にでも厨房からちょろまかしてきたんでしょう?」
「私は世田谷の一等地に家を構えていて、年に八千万の不労所得が入ってくる。全てこいつのおかげだ。かつては、私も君のような唯の青年でしかなかった」
 周囲をぐるりと見回して、誰も自分たちの話に聞き耳を立てていないことを確かめると、男は周二に刺すような視線を向けて話を続けた。
「いいか、これは魔法のスプーンだ。中には地獄の魔物がいる。地獄の火炎で鍛えられたスプーンなんだ。この世にない物質で出来ている。スプーンの持ち主は、こいつに願いごとをするだけでどんな願いでも叶えることができる。欲しい物の全てが手に入るんだ。金でも、愛でもね」
「それが本当だったらすご過ぎる」周二は言った。
「でも、その話はおかしい。どうしてあなたは、百二十円なんてはした金でスプーンを売ろうとするんです? ずっと持っていればいいでしょう」
「このスプーンには一つ決定的なルールがある。持ち主がスプーンを誰にも譲らないまま死ぬと、そいつは死後、あの世で愛する人々と会うことは許されない。地獄の黒炎で永遠に肉体を焼かれ続けるのさ」
「良い話には必ず裏がある。何も悪いことをしていないのに地獄行きなんて僕はごめんですよ。そんなふざけたスプーンはいりません。どうぞ、しまって下さい」
「いやいや、自分の願いを叶え終わったらすぐ譲ってしまえば何ら害はないのさ。その程度のリスクを背負うだけで済むことに逆に感謝するべきだよ」
 男はおどけた調子で言った。
「それともう一つ。スプーンを人に売る時には、自分が買った値段よりも必ず安く売らなければならないんだ。そうしないと、スプーンはたちまち自分の元に戻ってきてしまう。私は二百円で買った。スプーンがこの世に現れた当初は信じられない位の高値で取り引きされていたというのだから、私にとっても君にとってもスプーンを安値で他人に譲ることができるというのは、買い手に困らなくてラッキーなことだよ。さぁ、早く百二十円を渡して何か願いごとを言ってみてくれ」
「急には思い浮かばないなぁ」男にお金を渡して周二は言った。
「君は、今日会社の入社試験を受けてきたんだろ? その会社に入りたいのか?」
「いや、第一志望ではないです」
「なら手始めに、その会社が倒産するように頼んでみな。面接で絞られたんだろ? フフフ、時期に面白いものが見れるから」
 男は不気味に笑った。
「さぁ、早く」半ば脅迫めいた口調で催促する。
 周二は男に促されるままにスプーンを両手に持って願った。しかし、何も起きない。
「ふぅ、これでスプーンは君の物だ。私はそろそろ帰らせてもらうよ」
 男は、安心しきった様子で席を立った。店員を呼んで手早く会計を済ませる。
「ちょっと待って! 何も起こらない。やっぱりこのスプーンは返す!」
「すぐには結果は出ないよ。それに、もう私は君にスプーンを売ったし君はそれを買って使った。今更返すと言われても困るよ。それじゃあ、元気で」
 弾むような足取りで男は店から出て行った。


 翌日、朝食の席で新聞を読んでいた周二は驚愕した。
 新聞の記事は、先日の会社の代表取締役が、詐欺横領罪で警察に逮捕され、一夜にして会社が倒産したことを告げていた。
(きっと何かの偶然に違いない)
 周二がそう思いこもうとした矢先、彼の携帯電話が鳴った。以前不採用通知を受けた出版社の姉妹会社からで、求人枠が急遽一名空いたため、面接試験を受けてみないかという誘いだった。
 あっと周二は叫んだ。
 彼には驚くに足る理由があった。昨晩、自宅に帰り着いて寝床に潜りこんだ際、件のスプーンに「自分は、どうしても出版社に就職したい」と強く願ってから眠りについたのだった。周二は出版社の申し出をすぐさま快諾した。
 結果、一次面接の後、あれよあれよという間に二次面接、役員面接と進み、電話を受けた一週間後には内定通知が自宅に届いていた。
 当初、周二はその知らせに歓喜した。しかし、時間が経過するにつれて次第に気味の悪さの方が増してきた。就職先が決まったのは素直にうれしい。しかし、それはこの小さなスプーンのおかげであって己の力で勝ち得たものではないのかもしれない。何だか急に自分が偽善者になったような気がした。
 悩んだ末、周二は親友の荒木に相談を持ち掛けた。荒木は周二の通う大学の演劇サークルの同期で、脚本家志望の男だった。
「なぁに、簡単さ」
 部室の汚いソファの上で周二の話を聴き終えた荒木はこともなげに言い放った。
「もう一度何か違った願いをスプーンに叶えてもらえばいい。偶然ではないとこちらにはっきり分かる形でね。俺に良い考えがある」
 鞄の中をごそごそやって手帳を引っ張り出しパラパラとページを繰る。
「ふむ、授業をサボってばかりの俺はお前と違って単位がずいぶん残っている。今日もこれから五つの退屈な講義が控えている」
 手帳をしげしげと眺めて言う。
「その魔法のスプーンに頼んで、今日の授業全部を綺麗さっぱりなくしてくれるとありがたい」
 周二は苦笑しながらも、荒木の言う通りスプーンに頼んでやった。
 さて、二人が結果を確かめるために学内の掲示板の前まで行くと、折りよく大学の職員がその場にやってきて講義の休講を告げるプリントを次々と画鋲で貼りつけていった。結果、荒木が受講している講義だけが芝刈り機で刈ったように綺麗に空白になった。周二と荒木は顔を見合わせ、頷き合った。
「驚いたな」
 荒木が呟いた。
「最初はバカにしていたが、お前の言う通りだった。だが――」
 彼は再び掲示板に目をやって言う。
「こいつが幸福を呼ぶスプーンなんかじゃ決してないことは確かだ。貼り紙をよく見てみろ。授業の担当者全員が急な病気、もしくは事故に遭ったとある。このスプーンは、所有者の願いを叶えるためならば少しの躊躇いもない。使い道を間違えると大変なことになる……」
「僕はもうこんなスプーンはいらない!」
 周二はスプーンの力に恐れおののいて叫んだ。
「よし、わかった。このスプーンは買ってやる。俺は今書いている戯曲を舞台にかける資金がぜひ欲しい。俺もお前も、スプーンの力に深入りする前に手放しちまえば問題なかろう」
 周二は救われたとばかりにスプーンを荒木に百円で売った。
「あと一つだけ」
 スプーンを受け取った荒木が言った。
「俺はスプーンの中にいる魔物をどうしてもこの目で見てみたい。買ってやったんだ。一緒に見てくれよ」
 荒木はスプーンを目の前に掲げて、スプーンの魔物よ、その姿を見せろ! と願った。次の瞬間、スプーンの先端から魔物が姿を現した。魔物はその醜悪な顔を周二と荒木に向け一睨みすると、またすぐに姿を消した。
 二人は、冬場に頭から氷水をぶっかけられたかのようにその場に凍りついた。
「お前らそこで何してるんだ?」
 通り掛かった友人の声でようやく二人は金縛りから脱した。もう夕方になっていた。
「約束は約束だからな」
 青白い顔をして荒木が言った。
「スプーンはもらってやる。だけど、俺もこいつで願いを叶えたらすぐに手放す。こんな代物とは早くおさらばしたいんでね」
「荒木、悪いけどもう行ってくれないか。自分が勝手なことを言ってるのは承知してる。だが、もう手放した以上、僕は一秒たりともそのスプーンの傍にいたくない」
 周二は強い調子で言った。
 その日以来、彼は荒木と連絡を取らなくなった。


 無事に大学を卒業し、念願の出版社に入った周二は、水を得た魚のように生き生きと働いて出版営業としての実力をつけていった。
 周二は自分の足で書店を回り、棚の売り上げを伸ばすために様々な企画を書店員に提案した。最初の内は営業トークも覚束なかったが、二、三年もすると適切な宣伝文句や相手の立場に立った的を射た意見が自然と口から出るようになった。彼は決してやり手の営業マンという訳ではなかった。しかし、素直で屈託のない性格が幸いして懇意にしてくれる書店も多かった。
そんな中、周二は一人の女書店員と親しい間柄になりプライベートでも頻繁に会うようになった。周二と同い年の彼女の名前は須崎友梨恵という名前だった。友梨恵は書店員であるにも関わらず全くと言っていい程本を読まず、その代わり、体を使って楽しむスポーツや旅行が趣味だった。動物園の帰りに立ち寄った喫茶店で友梨恵は周二に言った。
「私はプライベートが活発過ぎるでしょ? だから、仕事の時くらいはおとなしくしていようと決めたの」
 周二は、自分の持っていないものを多く持っている友梨恵に強く心惹かれた。友梨恵も彼に対して似たような感情を抱いてくれているという確信が彼にはあった。付き合いを始めて一年と半年が経った初秋、お互いに有給休暇を取得して出掛けた沖縄で、周二は友梨恵にプロポーズした。彼女の答えはイエスだった。普段活発な友梨恵がいつになく無口になったので、周二は思わず笑ってしまった。年明けには式を挙げると誓い合って二人は仲良く本土に帰った。
 式の準備は滞りなく進んだ。
 周二と友梨恵は傍から見てもお似合いのカップルだったので、二人の報告を耳にすると、彼らの周囲の人間は皆祝福した。周二はなけなしのお金をはたいて杉並にマンションの一室を購入し、結婚に先立って友梨恵と同棲を始めた。友梨恵は実家から雄のゴールデンレトリバーを一匹連れてきたので、休日は二人と一匹で近所の自然公園を散歩した。周二には目に映る全てのものがきらきらと光輝いて見えた。彼は、自宅に会社の同僚や友梨恵の友達を頻繁に招待しておいしい料理と酒を振る舞った。
 結婚式まで残すところ二週間となったある日、周二の会社に友梨恵の母親である早苗から突然電話が入った。
 友梨恵の体のことで医師から話があるので、今日は仕事を早く切り上げて都内の大学病院にきてくれとだけ言って早苗は電話を切ってしまった。
 その日、終業の時間まで周二はそわそわと落ち着かなかった。友梨恵は一ヶ月程前にその病院で健康診断を受けたはずだった。
(友梨恵の体に何か異常が見つかったのだろうか……)
 嫌な予感がした。
 病院への道すがら、自身の不安を一掃する思いで周二は友梨恵の好きなドーナツを一箱買った。しかし、どうにも気分が晴れてこず、彼は早足で病院までの道のりを進んだ。
 病院に到着すると、中年の看護婦が周二をナースセンターのすぐ脇にある一室に案内した。室内のパイプ椅子に早苗が既に座っていて、部屋に入ってきた周二を無言で見つめ返した。普段表情豊かでよく笑う義母だったが、その顔からはどんな感情も読み取ることができなかった。周二は、嫌な予感は的中したのだと内心感じながら早苗の隣に着席した。
 数分後、白衣を着た男性の医師が部屋に入ってきて、周二たちの真向かいに腰を下ろした。医師は、数枚のCT撮影写真と血液検査のグラフをテーブルの上に並べて淡々と説明した。
友梨恵の病名は悪性骨腫瘍。一万人に一人の発症率の骨の癌だった。
「珍しい病気なだけに効果的な治療法がまだ確立されていません」
 周二と早苗は、今病院側ができ得る最良の治療を友梨恵が受けられるようにその担当医に懇願した。医師は最善を尽くすと二人に約束して部屋を後にした。
 周二は一刻も早く友梨恵の顔が見たかった。院内の喫茶店でしばらく頭を冷やしてくると言う早苗と別れて、彼は友梨恵のいる病室に向かった。
 友梨恵は四人部屋の一番窓際のベッドにいた。彼女の真向かいのベッドには、小学校四年生くらいの女の子が寝ていて、二人は短い間にすっかり仲が良くなったらしかった。女の子は長く患っていた病気がようやく完治し、来週にも退院できるとのことだった。
 友梨恵は、自分がなぜ急に入院しなければならなくなったのか周二に一切訊いてこなかった。周二は友梨恵の目を真っ直ぐ見返すことができなかった。
 周二が買ってきたドーナツを三人で食べた。
 病室を出て長い廊下を歩きだした周二の心は既に決まっていた。
(何としても友梨恵を救わなければならない)
 彼の思考はその一点だけに集中した。
 病院の外に出ると、周二は携帯電話の電源をオンにして例の一件以来連絡を絶っていた荒木に電話を掛けた。荒木が、青山にある劇場を借りて、自身で脚本・演出を手掛けた戯曲を上演し大成功を収めたという噂を周二は人づてに聞き及んでいた。
(きっとあのスプーンの力を利用したに違いない)
 魔法のスプーンを自分が再び買い取って友梨恵の病気を治してくれと一言願いさえすれば、また幸福な結婚生活に戻ることができるのだ。はやる気持ちを抑えながら彼は呼び出し音を聞いて待った。十回目のコールでやっと荒木が電話に出た。
「お、南か? 久しぶりだなぁ」
「荒木、堅苦しい挨拶はなしだ。例のスプーンだが、まだ持っているか?」
「何? ……いや、もう持っていない。俺が買った時よりも安値で他人に売ってしまった」
「誰だ? 一体誰に売ったんだ!」
「おい、落ちつけよ。売ったのは俺の友達だ。連絡先も知っている。しかし、どうしたって言うんだ?」
 周二はことの経緯を荒木に説明した。事情を理解した荒木は、スプーンを譲った友人の連絡先と住所を周二に教えると、スプーンを再び手にしたら絶対にすぐ手放してしまうよう彼に念を押した。
「南、俺はあのスプーンを使って願いを叶えたが、その代わりに何か重大なものを奪われた気がしなくもないんだよ」
 そう言って荒木は電話を切った。
 スプーンの持ち主の家を直接訪ねた周二はその人物も既にそれを他人に売ってしまった後だと知って愕然とした。
しかし、彼は諦めようとは一瞬たりとも思わなかった。友梨恵の命が懸かっていた。自分はこの使命を果たすために生まれてきたのだと彼は無理矢理自分に言い聞かせた。周二は忍耐強くスプーンの後を追跡した。
 血眼になって探し回った末、遂に彼はスプーンの現在の持ち主の家を発見した。
 アパートの玄関扉を開けた二十代の女性の憔悴し切った顔を見て、周二は彼女がまだスプーンを所有していると確信した。女は周二に虚ろな目を向けた。
「スプーンを持っていますね?」
 周二は単刀直入に訊いた。
 彼の質問にびくっと身を震わせると、次の瞬間、女はその場にくずおれてわっと泣き出した。涙が、隈に縁取られた両目から溢れ出て頬を伝う。
 自分は、友達に奪われた元婚約者が自分の所に帰ってくるようにスプーンに願った。その結果、彼を奪った友達は交通事故で死に、傷ついた彼は自分の元へ帰ってきた。自分の一時の感情のせいで親友は死に、彼は毎夜愛する人を失った悲しみでうなされている。自分が他人に対してこんなにも残酷な仕打ちのできる呪われた人間だとは知らなかったと彼女は嘆いた。
 周二は彼女の手を握って言った。
「君は決して呪われた人間なんかじゃない。地獄に行く人間でももちろんない。このスプーンは災害と一緒だ。スプーンを僕に売って下さい。今度はそれで人を救って見せますから」
 周二が女にスプーンの値段を訊ねると、五円という驚きの答えが返ってきた。
「五円だって! ずいぶんと安くなったもんだ」
「誰か他の人にスプーンを売ろうと思ってもみんな怪しんで買ってくれないので途方に暮れていたんです」
 女の話を聞いて周二の脳裏を一抹の不安がよぎった。もしスプーンを買った場合、彼も女と同じ状況に立たされることになるだろう。
 だが、周二の採るべき行動は決まっていた。彼は、病室のベッドに横たわる友梨恵の姿を頭に思い浮かべた。今、友梨恵を助け出せるのは自分しかいないのた。
 周二はスプーンを五円で購入した。


 友梨恵は全快した。
 二人は無事に結婚し、正式な夫婦となった。
 友梨恵との結婚生活は、周二が望んでいた以上の幸福を彼にもたらした。二人は互いに一生懸命働いて半年に一回夫婦水入らずで旅行に出掛けた。
 そうした誰もが羨む理想の暮らしの中にあって、仕方なくとは言え、再びその所有者になってしまったスプーンに対しての不安が、周二の心の一角に根を張って彼を内側から苦しめ悩ませた。最初の内はぼんやりとした不安だけがあった。だが、友梨恵と過ごす時間が幸福であればある程不安は増大し、やがてそれは恐怖の念に変わった。周二は夜頻繁にうなされようになった。
(俺は死んだら地獄に落ちるのだ)
 どうしても眠れない夜、真っ暗な台所に座ってスプーンを何時間も眺めていると、自身の肉体を焼く地獄の炎が目の前に見えたような気がして彼はガタガタと身を震わせた。周二の顔から次第に表情が消えた。
 彼の変化に、友梨恵が気づかないわけがなかった。
「何か悩んでいることがあるの?」
 彼女は周二に訊ねた。
 周二は友梨恵の質問に「いや」とだけ答えて後は何も言えなかった。もし、ことの真相を友梨恵に洗いざらい話してしまったら彼女はきっと自分を責めるに違いない。周二は友梨恵の視線から逃れるように隣の部屋に向かった。
 そういった問答が何度か繰り返された。
 ある夜、周二が職場から帰宅すると、意外にも家の中はこれまでとは打って変わった静けさに包まれていた。
(珍しいこともあるな。出掛けているのかな?)
 周二は耳を澄ませた。
 寝室の方からすすり泣くような友梨恵の声が聞こえてきた。
 周二はそっと室内を窺った。真っ暗な部屋の中にダブルベッドがあり、布団の中に友梨恵が寝ていた。
「どうして隠しごとするの?」
 周二に気づくと、のどをつまらせるようにして友梨恵が言った。
「悩みごとがあるのに、無理して陽気に振る舞っているあなたを、私はそのまま放っておくことはできない。どうしても私に教えたくないのなら、私はあなたの妻失格だからこの家から出て行って二度と戻らない」
 友梨恵のひたむきな言葉を聞いて、周二は目頭が熱くなった。だが、女の前で泣くのは体裁が良くないと考え直して必死に堪えた。これ以上友梨恵に嘘を吐き通すことはできない。周二は彼女にスプーンに関する話一切を吐き出した。友梨恵はパジャマ姿でベッドに腰掛けて真剣に周二の話に耳を傾けていた。全て聴き終えると、彼女は彼を抱きしめて耳元で囁いた。
「スプーンを五円で買ったのなら、まだ安く人に売れるチャンスは残ってるわ。一緒に次の持ち主を探しに行きましょう」
 次の日から、夫婦はスプーンを安く買ってくれる人間を探してあちこち歩き回った。しかし、誰も彼らの言うことを信用しなかった。スプーンの前の持ち主の女が周二に嘆いたように、何の変哲もないスプーンをはした金で売ろうとする夫婦を人々は白い目で眺め気味悪がった。噂はあっという間にそこら中に広まり、遂に人々は夫婦を通りで見掛けると露骨に避けるようになった。
「もういい。俺はこのくそったれのスプーンを携えて地獄に行くしかないようだ」
 それまで嗜む程度の量しか酒を飲まなかった周二が、度々酔い潰れて深夜に帰宅するようになり、仕事も休みがちになった。彼は、夜一人でスプーンを売りに出掛ける友梨恵を酔いに任せて怒鳴りつけもした。友梨恵はいつも夜遅くまで家に帰ってこなかった。周二はそれも気にくわなくて、始めの内はぶつぶつ文句を言っていたが、友梨恵が彼の言葉に何の反応も示さず、次第に無視するようになったので何だか虚しくなってやめてしまった。
 ある夜、周二がすっかり馴染みになった居酒屋で酒を飲んでいると、折から店に入ってきた女性客が彼の隣の席に腰を下ろした。見ない客だな、と周二が思っていると、女は唐突に周二の方を向いて、彼の持っているスプーンを自分にぜひ、売って欲しいと言った。
 周二は、自分の耳を疑った。今日は、まだ二杯しか飲んでないってのに、これは一体どうしたことだ?
「スプーンを売って欲しいって? それは大歓迎だが……どうして?」
「理由は訊かないで。色々と込み入った事情があるのよ。あなたもスプーンを使ったことがあるなら分かるでしょ?」
 女は、周二に四円を支払ってスプーンを手にすると颯爽と店から出ていった。
 周二は狐につままれたような気分でしばらく手の中の小銭を眺めていた。いくら望んでも手放すことのできなかったスプーンとようやくおさらばすることができた。こんなにうれしいことは他にない! 彼はすっかり晴れやかな気分になり、鼻唄を口ずさみながら家に帰った。
 自宅では、友梨恵がリビングにあるソファに座っていた。彼女は部屋に入ってきた周二にどこか遠くを見るような眼差しを向けて微笑すると、「おかえりなさい」とだけ言った。
「友梨恵、スプーンが売れたんだ!」
 周二は喜々として言った。
「それは良かったわ。本当に」
 友梨恵は穏やかな口調で言うとソファを立って寝室へと向かった。
「なぁ、うれしくないのか? やっとろくでもないスプーンから解放されたんだぞ?」
「ごめんなさい、今日はちょっと気分が良くないの……せっかく厄介払いができたんだから、外でもう二、三杯飲んできたらいいじゃない。私も一緒に行きたいけれど、今日は先に休ませてもらうわ」
「そんなこと言ったって、もう金がないよ」
「台所の引き出しに少し入ってるから、適当に使って」
 それだけ言って友梨恵は寝室に入り扉を閉めてしまった。
 周二はリビングの真ん中に一人ぽつんと残された。
(せっかく夫の魂が救われたって言うのに、お祝いごともしないでさっさと寝てしまうとは何て薄情な女だ)
 周二は、友梨恵に教えられた引き出しの中から数枚の一万円札を乱暴に掴み取ると、寝室内に聞こえるようにわざと大きな足音を立てて玄関から外に出た。
 店に戻って再び飲み始めた周二は、店の主人相手にさんざん妻の悪口を言った。しかし、一向に気分が晴れない。さっきはすっかり舞い上がっていたので気づかなかったが、今日の友梨恵はいつもと比べてかなり変だった。そもそも、今日に限ってどうしてスプーンを売りに行かずに家でじっとしていたのだろうか……?
(もしかして―)
 一つの、闇雲でいて偏執的な考えが周二の頭に浮かんだ。
(友梨恵は、俺に隠れて浮気をしているのではないか)
 彼は、腰掛けていた椅子が後ろに倒れるくらい勢いよく立ち上がると、勘定を済ませて店の外に飛び出した。
(俺を家から追い出して、誰か別の男を呼んでいるのかもしれない)
 周二の頭の中で、自分以外の男と隠れて会っている妻の確固たるイメージが浮かび上がった。
(スプーンさえなかったら)
 彼は思った。
(あのスプーンさえなければ、俺はこんな惨めな羽目に陥らずに済んだのに。くそ!)
 あっという間に自宅に帰り着いた。
(密会の現場を直接押さえてやるぞ)
 中にいる友梨恵に気づかれないように、周二はゆっくりと慎重にドアノブを回して家の中に入った。耳を澄ましてみたが、奥から話し声は聞こえてこない。周二は、自分の足音に一層注意を払いつつ廊下を進んでキッチンに続く扉の前まできた。扉の隙間から明かりが漏れている。そっと扉を開いて中を覗き見る。
 友梨恵が、冷蔵庫の前に設置された四人掛けのテーブルに一人腰掛けていた。彼女はテーブルに両肘をつく形で腕を組み、微動だにせず、じっとテーブルの上を見つめている。
(男の姿が見当たらないぞ?)
 不思議に感じながら、開いた扉の隙間から首を乗り出した周二は、友梨恵の視線の先にある物を見てハッと息を呑んだ。
 テーブルの上に、あの魔法のスプーンがあった。
 友梨恵は険しい表情でじっとそれを見つめている。距離が離れているため定かではないが、周二には友梨恵の体が小刻みに震えているように感じられた。彼は自分の目にしている光景が信じられなかった。
(どうして友梨恵があのスプーンを持っているんだ……?)
 彼の頭は目まぐるしく回転し、一つの結論に到達した。
 居酒屋の女と妻はグルだったのだ。友梨恵は女に依頼して俺からスプーンを買わせ、さらに自分がそれを女から買った。全ては自分を救うための妻が仕掛けた罠だった。
 周二は、自身の内奥から噴出する魂の悲鳴のようなものを必死に押し殺しながら、友梨恵に気づかれないよう何とか外に出た。
 友梨恵は地獄に落ちる――最愛の妻が、自分のせいで地獄の業火でその身を焼かれる。
 周二はふらふらと覚束ない足取りで夜の通りにさまよい出た。
 彼は自分が恥ずかしかった。
 自分が繁華街で毎晩飲んだくれて困難から目を逸らしている間、友梨恵は現実としっかり向き合って彼のための勇気ある自己犠牲を計画していたのだ。妻の秘かな決意に全く気がつかず、彼女に浮気相手がいるなどと滑稽極まる誇大妄想・被害妄想を勝手に膨らましていた自分を周二は呪った。
 彼は人気のない夜の公園に吸い寄せられるように入って行った。そこは、以前周二と友梨恵が、飼い犬を連れて頻繁に散歩に訪れた思い出の場所だった。
 園内のベンチの一つに腰を下ろすと、周二は一人物思いに耽った。
(俺が、妻にしてやれることはたった一つしかない。答えはシンプルだ。しかし、もしそれを実行したならば、俺は再び地獄への片道切符を手にしたことになる。そして、今度こそその運命を変えることは不可能になるだろう)
 周二は居酒屋の女にスプーンを四円で売った。友梨恵が女からスプーンを購入したとするなら、三円を支払ったはずだった。周二が誰か他人に頼んで妻からスプーンを買ってもらい、さらに自分自身で買い戻すとなると、彼の支払う金額は一円となる。一円よりも安い値段は存在しない。地獄行きは決定的なものとなる。
 激烈な恐怖が周二を襲った。
 禍々しい地獄の黒炎が彼の皮膚を焼く――その熱気、その臭気――! 
 何物かを振り払うかのように、彼は咄嗟にベンチから立ち上がった。
 ぎゅっと強く目を瞑り、愛する妻のことを考えた。周二は、自分の内から発する温かな感情が、彼の運命を支配する地獄の火炎をゆっくりと、だが着実に隅に押し遣っていくのをその場でじっと待ち続けた。
 数分後、周二は公園の土を強く踏みしめ歩いていた。
 噴水前の広場に、数人の若者がたむろしているのを周二は見つけた。
集団のリーダーと思われる赤いプーマのジャージを着た少年に彼は近づいて行って声を掛けた。理由は訊かないで欲しいと前置きして、彼はその少年にスプーンの購入を依頼した。
「はぁ、意味わかんねー何だこいつ?」
 周二の頼みを聞いた少年は、そう言って仲間と一緒にゲラゲラ笑ったが、もし、言う通りにしてくれるのなら後から存分に謝礼は支払うと、周二が自身の財布から一万円札を四、五枚抜き出したのを見て、少年は急に態度を一変させた。
「君からスプーンを一円で買い戻した後、謝礼は必ず支払う。約束だ」
 ジャージの少年は駆け足で噴水広場から出て行った。
 少年の帰りを待つ間、周二は気分が落ち着かなかった。
突然訪ねてきた見知らぬ少年に妻がスプーンを売るだろうか、という不安もあるにはあった。それ以上に、彼の顔をしきりに窺っては、何やらヒソヒソと囁き合っている周囲の少年たちの様子が、彼には不快だった。ジャージの少年の帰りを待つ時間が、周二にはとてつもなく長く感じられた。
 少年がようやく広場に戻ってきた。
 彼の右手には、あの魔法のスプーンが握られていた。
(よかった! 友梨恵は少年にスプーンを売ったのだ)
 周二は心の底から安堵した。
「さぁ、約束通り今度は僕がスプーンを一円で買おう!」
 ズボンのポケットから用意しておいた一円玉を出して少年に言う。
 ジャージの少年は一円玉と自分の手にしたスプーンを代わる代わる見比べて周二の背後にいる仲間たちにさっと視線を走らせた。軽く頷くとニヤリと笑って周二に言う。
「ダメだね。このスプーンは売れない」
 少年の予想外の返答に、周二は面食らった。
「何だって? 売れないとはどうしてだ……?」
「そのままの意味さ。あんたにスプーンは売れない。売らない」
「スプーンを売らなければ、君は地獄に落ちるんだぞ?」
「だまれ! 気違いが! デタラメを言って俺たちが騙されると思ったのか? バカにしやがって……俺たちはバカじゃないんだ! このスプーンは貴重な物なんだろ? ないと困るんだろ? 渡すもんかよ」
 少年の幼い顔が醜く歪んだ。それを見た周二は、以前一度だけその姿を見たスプーンの魔物を思い出した。彼は必死で叫んだ。
「違う! 僕は気が狂ってなんかいない! 悪いことは言わない! スプーンを寄越すんだ!」
 思わず少年に掴み掛かった周二を、それまで黙って話を聞いていた残りの少年たちが後ろから羽交い絞めにして彼の動きを封じた。
「待て! スプーンは売った方がいいんだ! どうしてわからない? 後悔するぞ!」
ジャージの少年は、身動きのできない周二のズボンのポケットから財布を引っ張り出して、中に入っていた札を全て抜き取った。
「おい、水に落としちまえ!」
 少年たちは、抵抗を試みる周二の両腕両足を持って一息に彼を噴水に投げ込んだ。
 盛大な水しぶきが上がり、周二は水中に没した。水の中で、少年たちのせせら笑いが聞こえた。
「二度とその面見せるな!」
 捨て台詞を残して、ジャージの少年と彼の仲間は広場から姿を消した。スプーンもその姿を消した。
 噴水からようやく這い上がった周二は、濡れた大理石の上に腰掛け、彼の他に人っ子一人いなくなった夜の公園で、長い間じっと耳を澄ましていた。
木々のざわめき以外に夜の公園の静寂を破るものは何もなかった。ブルルと身震いした周二は、遂に立ち上がってその場を後にした。ゆっくりとした力強い歩調で妻の待つ自宅を周二は目指した。
 魔法のスプーンがその後どうなったのか、彼は知らない。 おわり