そのイヤホンを外させたい

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

そのイヤホンを外させたい

文芸を糧に生きるアラサー男子のブログです。

軽さについて

以前どこかでつかこうへいと中上健次が対談をしていて、つかこうへいが「中上のことはずっと意識していた。意識していたからこそ俺は軽い奴で行こうと思った」という意味のことを言っており、なぜだかその発言が強く記憶に残っていた。当時のぼくにはつかさんの言ってることは?でしかなかったわけだが。

しかし、最近になって曲がりなりにも短編小説を書いたり、クランチマガジンという投稿サイトに登録し、他の作家さんたちとやり取りをしていて、自分の中で「相対化」とでも呼べそうな現象が起こったようである。つかさんの言葉を少しだけ理解できたような気がする。まぁ、これはもう感覚の話だ。

「相対化」というのはどういうことかというと、文学作品をせっせと読んで物を考えたりしているのは自分だけではないということが分かって、結果視野が広くなったということ。あたりまえの話なんだけど、これまでぼくにはそういったことを認識する機会があまりなかった。実家の家族は誰一人本を読まないし、大学の友人には読書家がいたりはするのだが、彼らはまず「演劇」や「脚本」や「役者」が好きだったので、どうしても「小説」や「文学」の話は後回しというか、補完的なものであってそれ単体で話をすることがはばかられた。

だから、ぼくはこれまで基本的にずっと一人で小説を読んできたという感じがする。もちろん、自分が好きなものを誰かに伝えたい、広めたいという思いも少なからずあって、読んだ本をいちいちTwitterでつぶやいてみたり読書会みたいなものを企画したりもしてみたけど、あるのは「誰も注目してないな」という虚しさだけで、いつも自分がバカになったような気がして途中で放り出していた。

「誰も注目してないな」という感じは今でも変わらない。ただ、そう感じているのは俺だけじゃないのだな、という自覚が芽生えた。自分と似たような人たちが似たようことを考えている。

そして、その中の一部の人間は、類稀なる芸術的センスをもってして自分を大きく上回るレベルの深さで思索をしていることがよく分かった。なんだ、ちゃんといるじゃないかって感じ。不思議と悔しさは感じない。うれしくもないけどね。

俺がいなくても俺の好きなものを好きな人はいるし、俺が考えることをやめても他の奴が俺よりも器用に深く考える。俺が書かなくても誰かが書く。俺より上手く書く。てかもう既に書かれたものがいっぱいある。

なーんだ。俺いらないじゃん。特別でもなんでもないじゃん。やめてもいいんじゃん、やめたいなら。自由なんじゃん。肩の荷が下りたというか、自分の中で勝手に上げてたハードルが下がったというか、とにかく気持ちがスーッとしたのである。

「軽い奴でいこうと思った」

だから、この言葉が胸に響いたんである。効いたんである。

俺は俺。考え方がちょっと変わった。この世の罪悪を全て抱えこんだような顔して深刻ぶるのはもうやめた。それは、俺より優秀な芸術的センスを持った誰かさんがやればいい。

最近、ぼくは物を書く人間は幸福にならなければいけないと思うようになった。幸福なんて言葉は存在しない、簡単に言うなと言われるかもしれないが、それでも作家は幸福について考え、求める義務があるとぼくは思う。小説を書くことはライフハックだ 。

というわけのわからん理由ですが、これからは「軽い奴」でがんばります。