そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

物語を糧に生きるアラサー男子の方法序説。文芸や出版メディアの趨勢について気になったことを書いていきます。

掌編小説『蟻』

本当に心地よさそうに眠る女だった。
いつの頃からか、通勤電車の中で女の座席の前に立つのが、ぼくの朝の日課になっていた。


女は、毎日同じ時刻、同じ車両のいずれかの席に座っていた。阿佐ヶ谷駅に停車した総武線の車内はすでに満員状態で、ひといきれでムワッとした。このすし詰め状態は、新宿駅に電車が到着するまで続く。ぼくは、その時がくるまで他人の背中の熱を感じながら、息を殺してじっとしているのが常だった。


新宿駅で多くの乗客をホーム上に吐き出すと、車内は一気に見通しがよくなる。その時点ではじめて、ぼくは女の居場所を確認するために視線をめぐらせる。すぐに見つかる。いつも通りの穏やかな寝顔がそこにある。御茶ノ水駅でぼくが電車を降りる時も、女が起きる気配は全くない。


たった一度だけ、その女が目を覚ますのをぼくは見たことがある。というよりも、それが、ぼくが彼女を見た最後なのだが……。


一匹の蟻が、ぼくの着ているワイシャツの袖を這っていた。ぼくがそれに気づいたのは、電車が市ヶ谷駅を出発したばかりの地点で、その朝も、例の女はつり革を握って立つぼくの眼下ですやすやと眠りこけていた。


どこから湧いて出た蟻なのか皆目見当がつかなかったが、ぼくは反射的につり革を掴んでいた右手を放して左腕にいる蟻を上から下にはたいて落とした。ぼくは、蟻はそのまま床に落下したものと安心していた。しかし、電車が隣の飯田橋駅を出た頃にふと下を見ると、居眠り女の赤色のスカートの上を先ほどの蟻がせっせと歩いていた。


あの時、どうして腕を伸ばしてその蟻をはたき落としてやらなかったのかと、今でも思う。たぶん、ぼくは、人の気も知らずのん気に寝ている女に対して、蟻がなにかちょっかいを出してくれることを望んでいたのだと思う。毎朝すぐそばまで接近するにも関わらず、ただのひと言も女に話し掛けられないでいる自分には到底できそうもない悪事を、その小さな生物が楽々と無神経に働いてくれる。そんな気がしたのだ。好きな女の子に対していじわるをせずにはおれない男子小学生のような屈折した感情が、あの時のぼくにはあった。


スカートの上に置かれた女の白く繊細な指に蟻が到達し触れた瞬間、それまで変化のなかった女の柔らかな寝顔が眉と眉の間でかすかに震えた。指の先に棘がチクっと刺さったかのような微弱な不快の表情を女が示す。ぼくは女の指先と彼女の表情を代わる代わる見つめては、サディスティックと呼んでもいい快感が自分の胸の内に湧き上がってくるのを感じた。誰か第三者にのぞかれてはしないかと、ぼくはあわてて周囲を見回した。ぼくの隣に立っている女子高生はスマートフォンをいじっているし、女の両隣にいる男二人は、若い方は膝の上でマックを開いていて、中年の方はスポーツ新聞を読んでいる。誰も女と蟻とぼくのことに気づいてはいない。


女の左手人差し指から中指に渡った蟻はそこで進む方向を変えて、白い肌に浮き出た骨に沿って真っ直ぐに彼女の手の甲を横断していく。あと数センチで、女の着ている純白のブラウスの袖の中にその姿は消えて見えなくなるだろう。いけ、そのままいってしまえ。ぼくは食い入るようにブラウスの袖口を見つめていた。


唐突に、女の右手が動いて蟻のいる左手の甲をなぞった。あ、と思って視線を下ろすと、蟻はストッキングに包まれた女の右の膝頭の上まで吹き飛ばされていた。だが、その歩行は全く衰えを見せず、何事もなかったかのように自分の行くべき道を懸命に辿っている。正直ほっとした。蟻の粘り強さ、不屈の精神にほとほと感心しながら視線を上に戻したぼくは、そこで思わず息を呑んだ。


いつの間にか、女が目を覚ましていた。眠りから覚めた女が自身の膝小僧の上にいる蟻をじっと見下ろしていた。ぼくにとって、目を開いている状態の彼女を見るのは、その時が正真正銘はじめてだった。透き通るような無表情で膝上の物体の動静を眺めていた女は、ややもすると再び自分の右手をその上にかざした。


ぼくは、女が今度こそ膝を手で払って蟻を床にはたき落とすのだろうと覚悟してその様子を注視していた。しかし、予想とは裏腹に、女は右手の人差し指を指の腹を上向きにして、膝上の蟻の進行方向数センチ手前に静かに運んだ。その動きは、普段電車の中でのん気に寝ている彼女の姿とかなり雰囲気が違っていて、おまけに嫌味なくらいに芝居がかっている気がした。シェイクスピアの劇に出てくる逢引の場面みたいに。蟻は全くスピードを緩めずに当然のごとく、抜け抜けと、女の指の腹に登っていく。


女は、ジャンケンのパーの形にした右の手のひらを胸のちょうど真正面の空中に停止させ、指と指の間を絡みつき戯れるように這い回る蟻の様子を熱心に観察していた。女の顔にほほえみが浮かんでいるのがわかった。その微笑はぼくの緊張をいくぶんか柔らげた。思いきって話し掛けてみようか。もしかしたら親しくなれるかもしれない。そんな期待感がぼくの中で否応なく高まる。


ふいに、女がすっとその視線を上げて目の前に立っているぼくの顔を真っ直ぐに見上げた。その瞳は、こちらの背筋をぞくっとさせるほどに何も語っていなかった。「都会の中で赤の他人の男女が、今この瞬間はじめて目を合わせた」という事実を当事者に再認識させるような無感動な視線を彼女はぼくに向けていた。ぼくの期待は、あっけなく打ち砕かれた。「すみません」という言葉が喉の奥から咄嗟に出そうになったが、女に対して謝罪するようなことを表面上は自分はなにもしていないと思い直して、なんとか呑みこんだ。再び手元に視線を戻した女は、右の手から左の手に蟻を誘導した。蟻もさっき痛い目にあったからなのか知らないが、今度は女のブラウスの袖口まで歩いていこうとはせずに淡々と居場所を移した。


「次は、水道橋、水道橋」
電車は次第に速度を緩めて、やがて水道橋駅に停車した。ドアが開いて何人かの乗客が車外に出て行く。先ほどの女の冷ややかな視線を受けていたたまれない気持ちになっていたぼくは、女から離れることに決めた。振り返って車内を見回す。ここまで来ると大分乗客も減り、空席も目立つようになる。少し離れた場所に席を見つけてそこに腰を下ろした。一呼吸おいてから、あらためて女の席に目をやると、女は網棚の上のハンドバッグを手にして早足で電車を降りようとしているところだった。ぼくは当惑した。日頃、女はぼくが電車を降りる御茶ノ水駅でも昏々と眠り続けており、一向に目を覚まさない。彼女が下車するのは、自分より先の駅のはずなのに……。


ホームに降り立った女は、10メートルほど離れた場所に設置されたベンチの方へ歩いていった。自分も電車を降りようか、とぼくは考えた。だが、なんのために? 「降りる駅が違いますよ」とでも言うのか。馬鹿げている。それじゃあ完全にストーカーだ。混乱するぼくの頭をよそに、発車メロディージャイアンツ「闘魂こめて」がホームに鳴り響いた。


ベンチの前まで来た女がその場で地面にしゃがみこむのが、電車の中からも見えた。女は、ベンチの下に転がっていたビールの空き缶を手に取って、それにあの蟻がいるはずの右手を近づけていた。そこではじめて、女が蟻を逃がそうとしていることにぼくは気づいた。そこまでしてやる必要はないのに!……。ぼくは、なんだか異様に腹が立った。ドアが閉まって、電車がゆっくりと走り出す。地面にしゃがむ女の姿が次第に遠のいていく。電車を降りたのは彼らなのに、逆に置き去りにされた気分だった。今後、この車両に乗るのはもう止めよう。そう決心したものの、ぼくは自分の不甲斐なさがどうにも恥ずかしくて、次の駅で降りるにも関わらず、目を瞑って寝た振りをはじめたのだった。 了