そのイヤホンを外させたい

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そのイヤホンを外させたい

文芸を糧に生きるアラサー男子のブログです。

短編小説『行きは一人で帰りは二人』

ぼくにも、世の中に向かって語りたい話がある。残念ながら、それは大どんでん返しが用意されたミステリーでもなく、戦争の悲惨さを教えてくれる涙ぐましい家族の物語でもありません。


ぼくは、川崎さんのことについて話してみたい。
川崎さんが誰かって? 川崎さんは、高校の時違うクラスにいた女の子です。ぼくが二組で彼女は確か七組だったかな? 廊下や校庭なんかですれ違う機会はちょくちょくあるものの、普通に考えたら卒業まで全く面識のないままだったと思います。


川崎さんはどちらかと言うと、学年の中では目立つ存在でした。顔も可愛かったし、都会的ですらっとした体型をしていたし、セミロングの髪の毛は生徒指導の教師に対して、「これは地毛です」とごまかせる範囲内で茶色がかっていました。中学、高校の頃って学生服の着こなしによってその人の階級が決まるみたいなところあったじゃないですか。その点でも川崎さんはそつがなく、制服のスカートは細いウエストの上部で何度も折り返して膝上まで丈を短くしていたし、胸ポケットにはこれでもかって量のカラフルなヘアピンが常に挟んでありました。素行の悪い連中とも親しげに話をしているのをよく見掛けましたが、周囲の女子と比べて大人っぽい落ち着いた印象があったので、男女問わず密かな人気がありました。
川崎さんは、総じてとても器用な女の子でした。


当時、ぼくは同じクラスに付き合って半年くらいになる彼女がいて、週末になるとその子の家に遊びに行っていました。
同じ学校に通っているにも関わらず、ぼくの家から彼女の家まではかなりの距離がありました。ぼくは千葉県の田舎町に住んでいたのですが、彼女の家は県内でもより太平洋側の海沿いに面していて、彼女は毎朝六時頃に駅前に迎えに来る学校所有のバスに乗って通学していました。彼女の家に行くための移動手段としては、電車とバスの二通りがありました。電車は遠回りになるのでぼくはいつもバスで彼女の家の最寄りのバス停まで行っていました。高速道路も走っているような大型のバスです。


その日も、ぼくは昼頃に彼女の家に向かいました。ぼくは表面上は普段となんら変わらずを装っていましたが、その実、内側ではとても緊張していました。彼女の方もぼくほどではないにしろ、似たように感じていたと思います。それはなんでかっていうと、付き合って半年でぼくらはまだセックスを経験していませんでした。キスは早い段階で二人きりになった時に済ませていましたが、セックスとなるとやはりどうしても場所の問題が浮上してきて、家には家族がいるし、かといってラブホテルは彼女がイヤがったので、なかなか実行に移せませんでした。でも、その土曜日に限っては、彼女の両親が東京の知り合いに会いに行くとかで夜まで留守にしていました。大チャンスだ、という暗黙の了解が、ぼくにも彼女にもありました。そういった意味で特別な日だったんです。なにせ童貞と処女のカップルでしたから、ぼくらは。十二月のことだったので、防寒のために厚着をしていましたが、彼女の前ですぐ脱げるようにボタン付きのシャツやカーディガンは避けました。コンドームも事前に薬局で買って準備しました。家で一人で着ける練習とかしたりしてね。地味に。


午後二時頃には彼女の家に着いて、その三十分後にはもう二階にある彼女の部屋のベッドに潜りこんでいました。二人とも、そういった性的な事柄については興味津々でした。ところが、一体どうしたことか、いざという時になってぼくの性器が反応しなかったんです。ホント駄目。勃起しなかったんです。初めてで緊張している場合、そのようなことが往々にしてあるだろうことは今になってみればよく分かります。しかし、その時は愕然としました。彼女の方は特に気にもしていない様子で「また今度がんばろ」と優しい言葉を掛けてくれましたが、動揺していたぼくは聞く耳持たずでむりやり何度も挑戦しようとしました。一度損なわれた男のプライドを回復させようと必死だったのだと思います。


結局、彼女も「慌てて強引にされるのはイヤ。今日はもうあきらめて」と怒ってしまいました。彼女にとってセックスが上手くいかないなんて大した問題ではなかったのだろうと今では思います。でも当時のぼくからしたら大惨事、そんな余裕はありません。最終的に口論になって、ぼくは半裸の彼女をベッドに残したまま服を着て家を出ました。救いようのない奴です。


停留所で帰りのバスを待ちながら、ぼくは彼女が追いかけて来てくれる奇跡を内心期待していました。でも、もちろん来るはずもありません。あっけなくバスが来て渋々乗車しました。夕方の車内はガラガラで、乗客も二人だけでした。一人は運転手の真後ろの席で居眠りをしているおばあさん、そして残りの一人が、バスの前方にいるぼくから見て後方の左側、ちょうどバスの後輪の真上あたりのシートに座っている川崎さんでした。


お互いに話をしたことは一度もありませんが、一応は同学年ですから、乗りこんできたぼくを見て彼女も「あれ?」という表情をして驚いているようでした。不可抗力でバッチリ目が合ってしまったので、気づかない振りをするわけにもいきません。普段のぼくだったら、川崎さんを前にしてまごついてしまい、人並みの挨拶も満足にできなかっただろうと思います。でもその時は、うまくいかなかった初体験のこと、置き去りにしてきた彼女のこと、バス停に歩いてくるまでの間に田んぼの用水路に投げ捨ててきた予備のコンドームのことなど、とにかく様々なことが頭の中でグチャグチャになっていて、自分の発言や行動をうまく舵取りできない状態でした。


「となり座っていい?」
川崎さんの席の前まで一直線に歩いていってそう訊きました。
「中島くんだよね? ……」
ぼくの唐突な行動にちょっと戸惑った顔で川崎さんが訊き返しました。ぼくは構わず質問を続けました。
「川崎さん、どうしてこのバスに乗ってるの? 家こっち?」
「うん、彼氏の家がこっちだから……」
あ、同じだ。すごい。てか川崎さん彼氏いるんだ……なんて少しがっかりしました。自分にも彼女がいて、ついさっきまで一つのベッドの中にいたくせにです。
「おれもだよぉ、彼女ん家がここらへん」
やたら大きな声を上げてぼくは川崎さんの隣りに割りこみました。もうやぶれかぶれって感じです。

「帰るの早くない? まだ四時半だよー」
川崎さんが笑って言いました。彼女の服装は「大人びている」という点において学校での制服姿と共通の雰囲気を持っていました。黒のタートルにチェックのスカート、ストッキングも黒、膝の上には暖かそうなグレーのコートを几帳面に折り畳んで乗せていました。
「今日はたまたまだよ」
とごまかしつつ、あらためて川崎さんの方へ顔を向けたぼくは、その時点になって初めて彼女の両目が心なしか潤んでいることに気づきました。あれ? 川崎さん泣いてた? 見てはいけないものを見た、と咄嗟に感じました。


その後ぼくたちは、学校生活のこと、進路のこと、テレビの音楽番組のことなんかを二人でずっと喋りました。もう一人のおばあさんはいつの間にかいなくなっていました。会話に夢中になっていて全く気がつきませんでした。川崎さんは高校を卒業したら、県内にある福祉専門学校に入って理学療法士の国家資格を取るつもりだ、とぼくに言いました。ぼくは自分の将来についてなんのプランも持っていなかったので、彼女の具体的な夢を聞いて「とりあえず大学に行って…」などというぼんやりとした人生設計図しか描けていない自分自身を心底恥ずかしく感じました。


バスの乗車時間は大体一時間弱くらいでした。冬のことなので五時前でも日は傾いていて、車窓の外に広がる海はセメントみたいに淀んでいました。海岸にも人っ子一人いません。川崎さんのコートの色と物寂しい風景が重なって見えたことをよく覚えています。ぼくはなにか切迫した感情が胸の内で渦巻き、次第にその勢いが増してくるのが自分でも分かりました。バスの後ろから得体の知れない何者かが道を追いかけてくるようなヒリヒリとした危機感で一向に落ち着かなかったです。


だから、と言ったら語弊があるかもしれませんが、ふと気づいたらぼくは先刻の彼女との一件を隣りの川崎さんに洗いざらい告白していました。とても自然に。思春期の自意識ということを考えてみても今だに信じられないことです。実際家に帰ってから、とんでもないことをした、と顔から火が出るような思いに駆られ、月曜日に学校に行くのが憂鬱で仕方がなかったほどです。


川崎さんはぼくの話に一切口を挟まず、じっと耳を傾けていました。全てを聴き終えた後も、彼女は話の内容を頭の中で丁寧に咀嚼しているかのように、しばらくの間なにも言いません。このままずっと黙ったままなのではないか、とぼくが不安に思い始めた頃にようやく彼女は口を開きました。セックスがうまくいかなかったのは、ぼくが彼女のことを大切に思っている証明であってなにも心配する必要はない。けれど、彼女の気持ちを傷つけてしまったことに変わりはないので、できるだけ早く謝って心のすれ違いを解消した方がいい、ということを川崎さんは無駄なく的確にアドバイスしてくれました。急にそんな打ち明け話をされて驚いたと思うし、彼女だってまだ高校生ですから相当無理していたんじゃないかと思います。ぼくは彼女の温かい言葉に触れてほっと胸を撫で下ろしました。もしかしたら、川崎さんはそうやって他人から悩みを持ち掛けられることが頻繁にあったのかもしれません。そういった穏やかな雰囲気を彼女は持っていました。


川崎さんは、窓の外に視線をやると、なにやら考えごとをしているようでした。彼女の左手人差し指だけが動いていて、コートの生地を爪でカリカリと引っ掻いています。その頃にはあたりはすっかり真っ暗になっていて、外の闇を眺める川崎さんと彼女を後ろから見つめるぼくの幽霊みたいな輪郭が窓ガラスに写りこんでいました。
「四ヶ月前、夏の終わりくらいにあいつの家で初めてしたの」
彼女が急に話し始めたので、足下に響くエンジンの駆動音にぼんやりと心を任せていたぼくはハッと我に返りました。
「え?」
「だからね、彼氏と初めてそういうことをして、それから家に遊びに行く度にするようになったの……今日も」
川崎さんは、窓外に目を向けたまま先ほどの滑らかな口調とは対照的に、たどたどしい調子で言葉を重ねました。
「イヤだって言ったんだけど……いつもそれだけになっちゃうから今日は我慢してってお願いしたんだけど、じゃあ指だけとか言われて、中が切れちゃって、血が出て……もう最悪」
そう言って、川崎さんは窓ガラスにゴツンと頭をぶつけました。


情けない話ですが、ぼくは彼女の告白に対して気の利いた言葉を返すこともできずに、ただバカみたいに押し黙っていました。童貞で、せっかくの初体験もしくじったぼくなどに、どんなアドバイスができるっていうのでしょうか?
川崎さんの彼氏は、彼女が親しくしている不良グループの一員でした。中学の時にはバスケ部主将を務めたりとスポーツマンとして有名でしたが、高校に入って一気にグレ始めたという典型的な田舎のヤンキーでした。ぼくは正直、なぜ川崎さんが彼のようなステレオタイプな人間と付き合っているのか理解できませんでした。少なくとも、川崎さん自身は集団に溶けこんでいるように見えても、それは生来の器用さによることであって、本質的には自分を取り巻く世界から常に一定の距離を保っているように思えたからです。ぼくが川崎さんに魅かれたのも彼女がそのような二面性を持っていたからだと思います。でも、その時の川崎さんは、そのどちらでもない、ぼくが想像したこともないような川崎さんでした。


結局、なにも言い出すことができないまま、バスは川崎さんの降りるはずの停留所に到着してしまいました。ぼくは、窓側にいる彼女が通路に出てこれるように座席を立ってスペースを空けました。通路に出た川崎さんはコートに片腕を通しながら、後ろに突っ立っているぼくの方を振り向いて、
「また一緒のバスで帰ろうね」
と明るい声で言いました。
「行きは一人で帰りは二人だから」
太陽は東からのぼって西に沈む、なんていうような当たり前の事柄を子供に説き聞かせるような口振りでした。川崎さんは「バイバイ」と手を振ってバスを降りていきました。
川崎さんがいなくなった後、自分の降りる停留所にバスが到着するまでの間、ぼくはずっと先ほど彼女から言われた言葉を頭の中で反芻していました。行きは一人で帰りは二人……。不思議なことに、あれほどショックを受けていた苦い初体験の記憶は、頭の片隅に追いやられていました。


その後、再び川崎さんと同じバスで帰る機会は遂に訪れませんでした。お互い何時何分のバスに乗ろうという約束もしませんでしたし、二、三ヶ月もしないうちにぼくは例の彼女をサーファーに寝取られてしまったので、バスに乗る大義名分すら失ってしまったのでした。それでも、川崎さんとは学校の休み時間や放課後に廊下や階段ですれ違うことが相変わらずありました。でも、お互いの反応はあの日以前となにも変わるところがありませんでした。最初から最後まで目を合わせずに、ぼくと川崎さんは赤の他人を演じ続けました。そのまま学校を卒業して、今に至るまで一度も顔を合わせていません。街で見掛けたらどうするかとたまに考えたりもしますが、たぶん話し掛けずに逃げると思います。ふとした瞬間に思い出しながら、死ぬまで生きていくんです。ぼくのとっておきの物語を聴いてくれて、どうもありがとうございました。 了