そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

文芸好き。ラノベやWEB発の作品まで視野に入れつつ、文学または物語の趨勢について考えたことを書いていきます。

短編小説『窒息』

すみれ組の担任が沙羅先生でした。
ぼくは、毎朝お母さんの運転する自転車に乗せられて幼稚園まで連れていかれました。ぼくは長い時間お母さんと離れるのがイヤで仕方がありません。だから、荷台に取り付けられた幼児座席の中で、いつも泣きべそをかきながらヤクルトをチューチュー吸っていました。それさえ飲ませておけば、ぼくが言うことを聞いて必要以上に騒がないことをお母さんは知っていたのです。


その日も、お母さんに手を引かれてぼくは園内に入りました。
小さなグラウンドには既に二台のバスが停まっていて、中から、ぼくと同じ園児服を着た子たちがひよこみたいにピョンピョンと地面に降り立つのが見えます。帽子のてっぺんに付いているリボンの色がそれぞれの所属する組を表しています。紫色のリボンを付けたすみれ組の連中も数人いるみたいです。でも、色なんて実際のところちっとも役に立ちません。みんながぼくの敵なのですから……。


沙羅先生は、真冬にも関わらず、教室のベランダの外で白い息を吐きながら、ぼくたちを待ち受けていました。
「君島先生、今日もよろしくお願い致します」
お母さんが、ぼくの両肩に手を添えて言いました。
「おはようございます。今日もだいぶ冷えますねぇ」
26歳の沙羅先生は、ほがらかな笑みを返すと、ぼくの目の前にしゃがみこみました。
「陸くん、また泣いちゃったの?」
先生の優しい瞳を向けられると、ぼくはより一層悲しい気持ちになってきます。せっかく止まりかけていた涙がまた溢れ出しました。先生は、ぼくの両手を握って何度も謝ります。
「陸くんが悲しいと先生も悲しくなっちゃうんだよ」
毎朝同じことをしているのに、先生はいつも真面目にぼくの気持ちと向き合ってくれるのです。


パート先に遅れずに出勤しなければいけないぼくのお母さんは、ぼくが沙羅先生に気を取られているうちに、そそくさとその場を後にしてしまいます。グラウンドの向こう、自転車に跨って車道に出て行こうとするお母さんをぼくは泣きながら追いかけました。小走りの沙羅先生がぼくを簡単に捕まえます。先生は、これまで何度も繰り返してきた台詞をつぶやきました。
「ほら、お母さんに手振ろ。またねぇって。ぼく、がんばるよぉって。ね?」


教室の中には、既に半数以上のクラスメイトが集まってスモッグに着替え終わっていました。駆けっこをしたり、隣りの席の子にちょっかいを出したりと、ワイワイキャーキャー騒ぎながら「朝の会」が始まるまでの自由な時間を謳歌しています。室内にいる方が暖かいとは思うけれど、ぼくはぼくの敵たちとうまくやれる気がしなかったので、寒空の下、沙羅先生の足に抱きついて残りの生徒がやって来るのを一緒に待ちました。ひまわりをあしらったエプロンの下、デニムのミニスカートから伸びる先生の太ももは、黒いタイツ越しでも温もりがあって、ぼくは家でお母さんの膝の上に乗ってテレビを観ているようなぽかぽかした気持ちになりました。甘えん坊はいつものことです。先生は、ぼくの額をでこぴんするだけで今日も許してくれました。


「朝の会」が終わると、沙羅先生の弾くエレクトーンに合わせてみんなで歌ったり、踊ったり、お絵描きをしたりして過ごしました。
ぼくは歌や踊りは周りのリズムにうまくついていけないし、お絵描きはお父さんとお母さんの似顔絵を描かなければいけないのにセーラームーンを描いてしまったりで、ぼくの敵たちに笑われてしまいました。沙羅先生は、「静かにしなさい。一生懸命だよ陸くん」とぼくを守ってくれました。先生はぼくの黒色のクレヨンを手に取って、月野うさぎの金髪を隈なく塗り潰すと、絵の下に「おかあさん」と書き加えました。


「自由時間」は大嫌いです。
ぼくは教室の隅でずっと窓の外の曇り空を眺めていました。この時間が一日で最も憂鬱です。お母さんが迎えに来てくれるまで、まだまだ時間があります。ぼくは窓ガラスにはぁっと息を吹きかけて、白くなった部分にアンパンマンの顔を描いて時間を潰しました。ふと、ベランダを見ると、水飲み場の横に沙羅先生とうめ組の担任の大野先生が向かい合ってなにやら話をしていました。大野先生は自分のクラスの生徒を厳しく叱りつけることでみんなから恐れられていました。だから、いつになっても沙羅先生のように下の名前で呼んでもらえないのでした。ぼくは、教室の反対側にあるガラス戸からこっそりとベランダに出て、先生たちに気づかれないように水飲み場のコンクリート壁の後ろに隠れました。
「でもそれって、君島先生の都合でしかないじゃない?」
大野先生の苛立たしげな声が聞こえてきます。
「あなたが体調崩しやすいっていうのも理解してるつもり。冬は特にね。みんな相当気を使ってるつもりですけど」
「すみません。でも、「北風と太陽」の「北風さん」は三人ともPTA役員のお子さんでして、早い段階で振り付けをと園長先生からも…」
「ちょっと待って君島先生。えぇっと、だから都合じゃない。あなたの。それ。」
「……はい」
「ああ言えばこう言う一回やめよっか」
「はい」
「うん、割り振られた仕事はしっかりやるべきよ。でも、だからってウチらのダンス練に出ないくていいわけじゃねーでしょ? それともサンタワンピ、あれが嫌とか?」
「明日の夜の練習はちゃんと参加します。ご迷惑お掛けしてすみません」


大野先生はしばらく沈黙していましたが、じきに「みんないっぱいっぱいじゃんよ」と静かに言って向こうに行ってしまいました。ぼくには、先生たちがクリスマス会のことについて話しているのがなんとなく分かりました。ぼくもクリスマス会ではお遊戯をします。ぶんぶくちゃがまです。


ぼくは、壁の横から顔を出して、その場に一人残された沙羅先生の様子を窺いました。
うつむき加減に目を伏せた先生は、考えごとをしているのか、なかなかその場所を動こうとしません。
いたずら心に駆られたぼくは、水飲み場をぐるりと回りこみました。背後からそろりそろりと近づいて、先生のエプロンの結び目を下から思いっきり引っ張りました。沙羅先生は、きゃっという甲高い悲鳴を上げてこちらを振り返りました。これまで見たこともないような険しい表情で睨みつけるので、ぼくは驚きで逃げることもできません。先生はぼくの脇の下を両手でがっしりと掴んで何度も揺さぶりました。強い口調で叱りつけます。「どうしてこんなことするのかな?」、「先生すごくびっくりしたよ。ねぇ」。まさかこんなに怒るなんて……先生一体どうしちゃったの? ぼくはまた泣き出しました。あの頃のぼくは本当に泣いてばかりでした。先生の腕を振りほどこうと暴れて見せませすが、向こうもムキになっているので離してくれません。
「もぉ。泣きたいの先生なんだから」
急に声を和らげると、沙羅先生はぼくをぎゅっと抱きしめました。もう、なにがなんだかわかりません。先生の白い頬っぺたが首に当たってひんやりしました。ロングの黒髪からは甘いシャンプーの匂いがしてきます。先生は朝もお風呂に入るのかなぁと思いました。ぼくは、それ以上先生に歯向かって困らせる気力が失くなりました。
「ご、ごめんなさい」
涙声でそう伝えました。嘘ではなく本心から悪いことをしたと感じていました。
沙羅先生は正面に顔を戻してしげしげとぼくを見ていました。ぼくはまた怒られるのかと緊張しました。先生は目を細めてほほ笑むとまたぼくを抱き寄せました。ぼくはされるがままでした。先生はぼくの耳のそばに口を近づけて、誰にも聞こえない小さな声でそっとささやきました。
「可愛い」
温かい息が、耳の中に入ってきました。


ようやく、「お昼寝」の時間になりました。しかし、ぼくはここでも「みんなと一緒」をしくじりました。教室前方の床には、窓側から入り口の方に向かって横二列で布団が並べられていました。一つの布団に二人が並んで寝転びます。この時間だけは、普段の騒々しさが嘘のようにぼくの敵たちはみんなあっという間に眠りに落ちて穏やかな寝息を立て始めます。ぼくは入り口側の端の布団で眠れずにいました。隣りでは理奈ちゃんが寝ていました。足が速くて工作も上手な理奈ちゃんは、クラスの中でも人気者で、男の子を器用にあしらうことのできる女の子です。沙羅先生は、エレクトーンの後ろのパイプ椅子に座ってクリアファイルの中の書類に目を通していました。


ぼくが眠れなかったのには理由があります。午前中の沙羅先生とのいざこざによる興奮が尾を引いていたということはもちろん、お昼の給食にほとんど口をつけなかったのでお腹が空いていました。ぼくは握力が弱く、緊張すると手の掌から汗が噴き出してきます。ツルツルと滑ってしまってぞうさんの絵の付いたランチボックスの蓋を開けることができません。そのせいで、みんなの「いただきます」が大幅に遅れました。
「早くしろよ、ガイジン」
ぼくの敵の一人が言いました。
身体の線が細く、腕や鎖骨の部分に青白い血管が浮き出るほど肌が白いぼくのことをみんなは陰でそう呼びます。ガイジンの他にはミミズバレ、とか。でも、面と向かって言われたのはそれが初めてでした。咄嗟に言い返そうとしましたが、自分でも間抜けに感じるくらい吃ってしまって、みんながドッと笑いました。また沙羅先生が飛んで来て蓋を開けてくれました。
「いただきます」が終わっても、ぼくは目の前の昼食に手をつけませんでした。沙羅先生は、みんなの机が寄り集まっている大きな島からぼくの席だけを隔離して教室の隅に移動させました。先生は生徒用の机と椅子に自身も腰掛けて、ぼくと向かい合わせの席で大人用の給食を食べ始めました。それでも、ぼくは意地を張って自分のに手を付けませんでした。終いに我慢できなくなって、先生からウィンナーと卵焼きを一つずつもらったのでした。


沙羅先生が、クリアファイルから顔を上げて教室内を見渡しました。
先生は、一人だけ目を開けたままでいるぼくを見つけると、他のみんなを起こさないようにジェスチャーで目を瞑って寝るように伝えてきました。重ね合わせた両手の掌を自分の左頬の下に枕みたいにあてがって眠った振りをして見せます。そんな子供だましの手に乗るぼくではありません。布団の中でブンブンと首を振りました。
ようやく観念したのか、沙羅先生はパイプ椅子から腰を上げました。他のみんなを起こさないように、忍び足でぼくの枕元にやって来ます。唇に人差し指を当てて静かにするようにという合図を送りながら、先生はぼくと理奈ちゃんの頭の間にゆっくり膝を折って座りました。岩の上で休息する人魚みたいな座り方でした。


沙羅先生は、ぼくの右手を両手で包んで揉んでくれました。
気持ちよくて、これならすぐに眠れそうだと思いました。でも、その時のぼくは、睡眠欲求よりも先生に甘えたい欲求の方が勝っていました。ぼくは、仰向けの姿勢のまま布団をずるずるとせり上がりました。後頭部を沙羅先生の太ももの上に乗せて膝枕の格好になります。先生はぼくの気まぐれに抵抗を示さずに黙って頭を撫でてくれました。希望の位置に身体が収まったものの、それでもぼくは不満でした。エプロン越しの膝枕では、普段先生の足に抱きついている時のような温もりを肌に感じることができないのです。ぼくは一度起き上がって、沙羅先生のエプロンを腰の上までまくり上げようとしました。
「こりゃ」
先生が注意しました。しかし、他のみんなを起こしてしまわないように声を落としているので、全然迫力がありません。ぼくはお構いなしに黒いタイツに覆われた先生の太ももに再び頭を乗せました。
「もぉ、ねんねんころりしなさい」
沙羅先生がぼくの額をまたでこぴんしました。なんだか、いつもより甘ったるい声だなと思いました。先生は、ピンク色の唇を尖らせてじっとぼくの顔を覗きこんでいます。同い年の女の子がするような期待を隠しきれない探るような瞳です。先生は無言でぼくの頭を撫で続けました。
先生があまりにも目を逸らさないので、ぼくはなんだか恥ずかしくなってしまいました。だから、それとはなしに膝の上で横向きの姿勢になって沙羅先生のお腹の方へ顔を向けました。


ぼくは思わず息を呑みました。
先生の二本の太ももに挟まれたさらに奥、ミニスカートの中に広がる真っ黒な闇がぼくの両目に飛びこんできたのです。なにも見えない。4歳のぼくが知るべくもない未踏破の空間。それは、強烈な魔力でぼくを惹きつけました。この奥には一体なにがあるんだろう?
……。ブラックホールに吸い寄せられるように頭が動いていました。気がつけば、ぼくの鼻はミニスカートの裾の下に隠れていました。興奮で息遣いが激しくなるのを自分でも抑えることができません。


沙羅先生がもぞもぞと太ももを動かしたので、ぼくはハッとして顔を上げました。先生は、ぼくの方を見ずに、落ち着きのない視線を教室内に走らせていました。昼下がりの教室はカーテンを閉め切っているので暗く、中の様子は外からも見えません。ぼくの敵たちは相変わらず死んだようにすやすやと眠りこけています。ぼくは、確認の意味で、沙羅先生の顔を見上げたままもう一度ミニスカートの裾に顔を近づけてみました。先生は、おどおどした目でぼくを見つめ返します。どうやら、もうでこぴんはされないみたいだ……。遠慮はいらないと判断して、ぼくは自分の好奇心のままに先生のミニスカートの中に顔を潜りこませました。ほふく前進する兵隊さんみたいな格好です。先生が少し鼻に掛かったような小さな悲鳴を上げるのが聞こえます。途中、後頭部がスカートに引っ掛かってつかえてしまいました。太ももを両手でさすってみると、先生が腰をずいと前に突き出してくれました。すぐ奥に到達しました。


沙羅先生の奥は、他と明らかに温度が違っているようでタイツ越しでも火照っているのが丸分かりでした。
ぼくは、その匂いを存分に嗅いでみました。微かではありますが、鼻孔をくすぐる甘酸っぱい匂いがします。ぼくは、なにか重大な秘密を探り当てた気がして気分が高揚しました。一思いに噛み付いてやろうかと思いましたが、先生がちょっとかわいそうに感じたので、鼻先でツンツンと突っつくだけにとどめました。それでも、先生の奥は一瞬震えました。え、なになに? 面白くなって、強弱をつけて何度も試しました。そのたびに、先生の股間はビクンビクンと小刻みに揺れ動きます。なんだか、とてもうれしそうです。ぼくはしばらくの間、その遊びに没頭しました。


ふいに、ぼくのすぐ隣りで寝ていた理奈ちゃんの身体が動く気配がありました。
沙羅先生は、物凄いスピードで腰を引っこめてぼくの顔を外に追い出しました。変わり身の早さにびっくりしてぼくは声も出ませんでした。先生は、ぼくのことをまるっきり無視して、左右に寝返りを打って意味不明な寝言を発している理奈ちゃんの様子をじっと観察していました。
しばらくすると、理奈ちゃんは静かになりました。また心地良さそうな寝息を立て始めます。


沙羅先生の口は半開きでした。
放心したような表情を浮かべて虚空を眺めています。いつもの優しい先生とは違ってちょっとだらしない感じがしました。近づき難く、話し掛けることもできそうにありません。テレビのお笑い芸人という人たちがよく言う「気まずい雰囲気」とはこれのことでしょうか? もう探検はおしまいかな。やれやれ。ぼくは内心がっかりしました。うつ伏せの状態のまま敷き布団の上に顔を落として目を瞑りました。今から寝れば、少なくともあと10分は寝られるはずです。実際にぼくはかなり疲れていました。


沙羅先生がそばに擦り寄ってくる気配がしました。次の瞬間、ぼくの身体を頭まですっぽりと温かいものが覆いました。目を開けるまでもなく、それが毛布だと分かりました。さっき、ぼくが先生に膝枕してもらうために脇に避けておいたやつです。
ぼくの顔のすぐ上の毛布の端がパッと口を開けました。沙羅先生の下半身がズブズブと中に侵入してきました。さっきとは違って、今度は完全に股を開いた状態で、デニムのミニスカートの内側が奥まで隈なく見通せます。それでも満足できないのか、沙羅先生は両手でミニスカートの裾を大胆に腰の上までたくし上げました。黒いタイツに包まれた先生の肉感的なお尻が丸出しになりました。それが、凄絶な勢いで戦車のようにぼくに迫ってきます。
「ひっ」
ぼくは思わず悲鳴を上げました。
慌てて毛布の外に脱出しようとします。しかし、にゅっと中に滑りこんできた先生の右手に後頭部を押さえられ、物凄い力で目の前の肉壁に向かって引き寄せれてしまいます。先ほどは比べものにならない勢いでぼくの顔面が沙羅先生の股間に埋まりました。毛布の外で、先生の吐息が漏れる「はっ」という音がして、上から釣り糸で引っ張られるみたいにお尻が跳ね上がります。強烈な匂いがぼくの鼻孔を襲い、頭がクラクラしてきました。先生の股間はより凶暴性を増してぼくの顔面を征服していきます。太ももでがっちりと頭を固定されているので、その傍若無人から逃れる術が、ぼくにはありません。先生は、ぼくの額や鼻や口などの顔の突起に自身の窪みを執拗になすりつけてきました。その下半身が振動する度に太ももの力が万力のように強まっていきます。
せ、せんせっ…ぐ…い、息が…はっ、ぐ、ふ…息が…で…できない……。
ぼくは口をモゴモゴと動かして、自身の窮状を必死に伝えようとしました。すると、なにを勘違いしたのか、沙羅先生はまた股間を痙攣させて、さらに太ももの圧迫が強まります。まさに悪循環というやつです。
ぼくは次第に酸素が欠乏し、意識が遠のいていくのを感じました。うっとりとした気分に陥って身体が布団からふわっと浮き上がる感じがします。
深い森の中にいました。鬱蒼と茂る木々の間から日光が射しこんでいます。地面は濃い緑で、その至るところに赤、白、黄の花が咲き誇って陽気に歌っています。チョロチョロという音が足元でしました。目をやると、何日か晴天が続いたら簡単に干上がってしまいそうな小さな川が流れていました。リスの兄弟が、中身をくり抜いたどんぐりの舟を浮かべて平和に遊んでいます。
『陸くん、もう我慢しなくていいんだよ』
いつの間にかぼくの隣りに佇んでいた沙羅先生が言いました。
『オシッコがしたいのよね』
先生は地面に膝を突いて、ぼくの半ズボンとアニメのキャラクターの絵柄の付いたブリーフを二枚一緒に一気に足首まで下ろしました。
『先生が見ててあげるから、ここでしちゃいなさい』
露わになったぼくのチンチンを、右手の人差し指と親指の腹でそっとつまんで、先生は妖艶にほほ笑みました。
できることなら、してしまいたい。ぼくもそう思いました。これ以上我慢していたって苦しいだけ。でも、なぜか知らないけれど、とても、とてもいけないことのような気がする……。
『先生、しちゃっていいの?』
『しちゃいなさい』
『ほ、本当にしちゃっていいの?』
『本当に本当よ』
『もう、出ちゃう』
『早く、早く』
ぼくのチンチンの先から、虹色のオシッコが噴き出して、それが奔流となり足元のせせらぎに流れこんでいきました。その怒濤の勢いに、沙羅先生が感嘆のため息を漏らします。先生が指で支えてくれなかったら、ぼくのチンチンは明後日の方向に逸れてしまったでしょう。
川は大氾濫です。リスの兄弟がずぶ濡れになりながら、こちらに向かって懸命に両手を振ってSOSのサインを送ってきます。彼らのどんぐりの舟は、あっという間に粉砕されてもう影も形もありません。
『ああっ! 先生、リスの兄弟がぁ』
ぼくは大声で叫びました。
しかし、その声は隣りの沙羅先生には届かないようでした。先生も笑っていましたが、ぼくには聞こえませんでした。先生のはじけるほどの笑顔が虹色の水飛沫を伴って世界を染め上げています。白くて柔らかな光がぼくを包みこんで、再び身体が地面から離れました。もう帰るのだな、とぼくは思いました。
ふっと目が覚めると、ぼくは沙羅先生の股に顔を突っこんだまま、布団の中に盛大に失禁していたのです……。


この春、ぼくは地元の小学校を卒業しました。
卒業式の日、ぼくは約六年振りに沙羅先生を見ました。三十路を越えた沙羅先生は、幼稚園の中で出世し、来賓として式に呼ばれていたのです。その事実を当日まで知らなかったぼくは、来賓席に黒いスーツに身を包んだ先生を発見して、息が止まりました。ズボンの膝が手汗でぐっしょりと湿りました。ある程度年齢を重ねた印象はあるものの、相変わらず沙羅先生は綺麗でした。ぼくは、ちょっと前に家でお母さんとお父さんが先生の噂話をしているのを盗み聴きしたことがあったので、先生が、数年前に町の資産家に嫁入りしたものの、跡取り息子である夫を交通事故で亡くし、今は未亡人であることを知っていました。田舎町ですから、そういった噂は尾ひれが付けられて人々の間を飛び交います。沙羅先生の横顔には、心なしか影があるようにぼくは感じました。


「校歌斉唱」から「卒業証書授与」に至るまでの間、ぼくは沙羅先生の方へチラチラと視線を送っていました。
しかし、先生は一向にこちらに気づく気配がありません。自分がここにいることを、ぼくは一刻も早く先生に伝えたくて、気が狂いそうでした。
あの日、ぼくのオネショに気がついた沙羅先生は、お昼寝が終わって他のみんなが目を覚ます前に手早く布団を交換し、証拠を隠滅しました。おかげで、ぼくはぼくの敵たちからまたバカにされずに済みました。でも、頭がぼんやりとしていて、「お迎え部屋」にお母さんがやって来ても、普段のように嬉々としてベランダに飛び出すことができませんでした。晩ご飯も喉を通らず、布団に入っても目が冴えてしまってなかなか眠れませんでした。
翌日、沙羅先生は幼稚園を休みました。代理の先生は、休みの理由については一言も触れませんでした。沙羅先生がいないことを別にすれば、普段と変わらない平凡な一日でした。不思議なことに、ぼくは一日を通して代理の先生を困らせたり、ぼくの敵たちにからかわれたりするようなヘマをなに一つしませんでした。それどころか、彼らがとても幼稚に見えてくるのです。
「自由時間」に、ぼくはグラウンドの砂場で自分だけの城を作り上げ、完成したと同時に運動靴で踏み潰しました。
次の日、けろっとした顔で姿を現した沙羅先生とぼくの間柄は、もう昔と違っていました。ぼくが年長さんになるとクラスの担任も変わりました。新しい担任はあの大野先生でした。みんなは残念がっていたけれど、ぼくは内心安堵していました。


証書の授与が、とうとうぼくのクラスまで回ってきました。
ぼくはパイプ椅子から立ち上がると、保護者席の前の通路を通って舞台右端にある階段を上がり切りました。そこで振り返って出席者に顔を向けます。直立不動の姿勢で体育館後方のバスケットボードにひたと視線を固定したぼくは、もうあの頃のぼくではありません。小学校入学と同時に始めた剣道は、ぼくを肉体的にも精神的にも鍛え上げてくれました。二年ほど前から週二のペースで通い始めたスイミングスクールでのトレーニングのおかげで、胸板も厚くなりました。それでいて日本人離れした肌の白さと鼻筋の通った彫りの深い顔立ち、足の長いスマートな体型は、学年の女子や保護者にも好評で、両親の勧めで子供服の広告モデルの仕事を先月から始めました。バレンタインデーにもらったチョコレートは一人で処理するには手に余るので、ほとんど他の男子にやってしまいます。
大きな声では言えませんが、キスの味だって知っています。


自分の名前がマイクで呼ばれました。
ぼくは元気よく返事をして舞台中央の演台の前に歩を進めました。台の向こう側にいる校長とサポート役の教頭に深々と一礼し、練習通りの手順で証書を受け取ります。再び礼をすると、舞台左端の階段を目指しました。さっきと同じように階段の上で立ち止まった時、すぐ下の来賓席が視界に入りました。短い時間なので、沙羅先生がぼくの方に顔を向けているかはわかりませんでした。しかし、先生がぼくの存在に気づいた可能性は高いです。高鳴る胸の鼓動を必死に抑えながら、来賓席の前を無表情で通過して席に戻りました。


それから長い間、ぼくは沙羅先生の方に顔を向けることができませんでした。なかなか決心がつかないのです。沙羅先生の方を見てみたい。もしかしたら、ぼくのことに気づいていてくれるかもしれない。でも、もし先生がぼくのことなど全く気に掛けずにあらぬ方向を眺めていたら、その残酷な事実を自分はどう受け止めればいい?
学年最後の生徒の名前が呼ばれました。ぼくは、心の中で自分を鼓舞しながら恐る恐るゆっくりと首を巡らして来賓席に目を向けました。


来賓の中で、たった一人舞台の上ではなくぼくの方を見ている人がいました。それは紛れもなく沙羅先生でした。
ぼくと目が合うと先生は驚いて、ちょっとからかったようなおどけた表情をして見せました。周囲に気づかれないようにぼくが頷くと先生も微笑を返してきました。先生は、ぼくに視線を向けたまま、舞台の方を指し示すように頭をひねりました。
『ちゃんと前を向いてなさい』
沙羅先生がそう言っているのが、容易に分かりました。
ぼくはいつになっても先生に叱られてばかりです。ぼくの座る椅子の下の床だけが盛り上がって、天井まで昇っていく。そんな錯覚に一瞬陥りました。
「卒業の歌」
マイクの声と同時に、ぼくの周囲の卒業生が一斉に凄い勢いで立ち上がりました。
ぼくはまだ地面近くにいたのです。予行演習の段階でみんなのタイミングを合わせるために何度もやり直しを食らった箇所でした。遅れて立ち上がって、司会を務めている体育教師の方を見ると、案の定、ぼくのことを睨んでいます。これは後で文句を言われるなぁと覚悟しつつ、ぼくは再び沙羅先生の方に視線を戻しました。先生は、席に座ったまま顔を伏せてぼくの方を見ようともしません。きっと一生懸命笑いを堪えているんでしょう。


滑らかなピアノの伴奏が館内に響き渡りました。曲はAKB48の『桜の栞』。弾いているのは……ああ、あの時ぼくと先生のすぐ横で寝ていた理奈ちゃんです。
沙羅先生。
ぼくは、心の中で先生に語り掛けました。
ぼくの敵たちからぼくを守ってくれた大好きな先生。見てください。ぼくはこんなに大きく逞しく成長しました。今度は、ぼくがあなたを守る番です。
沙羅先生、あなたの周りに今、邪魔者はいますか? ……。
声変わり前の最終猶予期間に突入したボーイソプラノで、桜と別れの歌詞を口ずさみながら、ぼくは股間にある自分の分身がズボンを突き破らんばかりに激しく勃起しているのを、はっきりと意識していました。 了