そのイヤホンを外させたい

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ブログはタブラ・ラサ

「笑い」が生む同調圧力ー『蠅の王』論

ウィリアム・ゴールディング作『蠅の王』(原題『Lord of the flies』)の中には、しばしば『正義』と『悪』の立場の逆転が描かれている。


例えばそれは、沖に船が見えるにも関わらず、山頂の狼煙が消えていることを知ったラーフが、ジャックを隊長とする狩猟隊の面々を糾弾する場面である。狼煙を放置し、狩りに行ってしまったジャックたちを静かに見つめ、「船が通ったぞ」とつぶやくラーフは、「正義という二文字を体現する存在として読者の目に映る。


しかし、その場の面白くない空気を感じとったジャックは、突如道化師のようにおどけて見せて周りの少年たちの笑いをとる。「ごめんな、謝るよ」と彼はラーフに謝罪するが、そこに反省の色はない。少年たちから上がるのは、彼の逸脱行為を責めるものではなく、反対にその殊勝な振る舞いに対する賞賛の声である。予想外の事態にラーフの口から出てきたのは、《That was a dirty trick.》(汚い手だあんなの)という言葉のみであった。その時点で、彼はもう集団の中で「正義」から「悪」になっていた。ぼくは、この価値観の反転をとても理不尽に感じたし、読んでいて胸糞悪かった。


この《dirty trick》(汚い手)の構造とは一体どのようなものなのか? それが、この小説に対するぼく個人の関心である。


『蠅の王』に関しては、少ないながらもいくつか研究書が出ている。軽く流し読みしてみたが、文庫本の解説以上のことは書いていなかったと思う。研究書が口を揃えて言うのは、孤島の少年たちのこころの闇、つまり「獣性」の存在である。しかし、それらはただ「獣性」と呼称することのみに徹していて、あたかもそんなものが元々人間の中に備わっているかのように説明している。少年たちの仲違いと対話の喪失の根本原因は明らかにされないままである。「絶海の孤島での生活の中で、少しづつ自身の獣性に目覚めていく少年たちの物語」とまとめてお茶を濁してしまうのは簡単だが、すごくチープというか、単純な善悪二元論に与することを意味するのではないだろうか。少なくとも今日性のある読み方ではない。大切なのは、何が「正義」で何が「悪」なのかを明確にすることではなく、対立する二つの概念の生成と集団内における浸透、循環の過程に意識を向けることである。読者がこの小説を読んで抱く、「他人事ではない感じ」の理由を探ることが肝要なのである。


「この世界は1つの舞台であり、全ての男と女は、皆役者である 」


シェイクスピア『お気に召すまま』(原題『As You Like It』の中の有名過ぎる台詞だ。ぼくは、授業で何度となくこの台詞をノートに書き写した覚えがあるが、その意味することが長らくピンとこなかった。しかし、『蠅の王』における共同体の崩壊の過程について考える中で、一見関連のなそうなこの台詞が身に迫ってくる感じがした。


『蠅の王』の少年たちは異常なくらいよく笑う。冒頭で、島に自分たち以外の大人が存在しないことが分かってから、集団が分裂するまでの間、「笑い」は少年たちにとって、集団生活を進めていく上での重要なコミュニケーションの手段になっている。それは、決してこころから起こる純粋な笑いではなく、どちらかというと愛想笑いに近いものある。この「笑い」には、理想と現実の中間に芽生えた何か良くない邪悪な感情がある。


ラーフは当初、大人不在の孤島生活に歓喜し、山の頂上から島全体を見渡して、「全てぼくらのものだ」と発言する。彼の頭には「自由」という二文字が躍っており、ほら貝の集いを招集するという建設的な提案に関しても、自分が主体となって集団の生活を律し、主導権を握っていく、という喜びがある。似たような感情は、少年たち全員が持っていて、最初のうちは山頂で狼煙を上げるという単純な作業にも驚喜して容易に一致団結する。だが、その団結が続くのはわずかの間であって、次第にそれぞれの意思に摩擦が生じてくる。食い違いに直面した時、彼らが使用するのが「笑い」である。


先のシェイクスピア劇の台詞のように、人間は皆舞台の上の役者であり、それぞれが様々な仮面を着けて日常を暮らしている。特に、「和をもって貴しとなす」という教えは、現代の日本社会において顕著な集団倫理である。資本主義社会の中では、人は真実の自分を偽って生きることを強制される。ぼく自身まだ大学生の身分だが、日常生活の中で自分の本心とは異なる言動をしたり、興味のない事柄にいやいや従事したりと、本来の自分を何重ものバリケードで固めて人生を送っている。もちろん、笑いたくない時に無理やり笑ったりする。歌いたくない時に個室の中で無理やり歌わされたりもする。全ては、ぼく自身を周囲の環境から死守するためだ。


『蠅の王』の少年たちも、主義も社会的役割も存在しない絶海の孤島で、知らず知らずのうちに偽りの自分を演じ始める。これは、原始の世界に放り込まれても人は自分の真実の姿を周囲にさらすことができない、はたまた、そのような環境の中でこそ人はより社会的動物であろうとすることを示唆している。だとするならば、「少年たちの原始への回帰」は、物事の上辺だけを見る的外れな評価だと言うほかない。


確かに、ジャック率いる狩猟隊は狩りをして豚の肉を食い、野蛮人のように振る舞う。しかし、それは原始への回帰などではなく、現代社会を生きる誰もが経験する、理不尽だが、生存戦略として妥協せざるを得ない手段的振る舞いと同一のものである。


ラーフ、ジャック、そしてサイモンは森の中で蔓草にからまれて身動きがとれなくなっている仔豚を発見する。ジャックはナイフを手に取り仔豚を殺そうとするが、その手は空中でピタリと止まってしまう。

ジャックの顔はそばかすの下で真っ白だった。彼は、自分がまだナイフを構えたままだということに気がつき、それを下ろし、鞘に戻した。それからその場にいた三人は互いに顔を見合わせて恥ずかしそうに笑い、もと来た道を再び登っていった。


少年たちは島に漂着して以来、「自由」な世界に自分がいる喜びを胸の内に感じながらも、同時に、集団の中で役割を演じ続けなければならない「不自由」をも感じることになる。「笑い」は、「自由」と「不自由」という解決不可能なものの間で揺れる自我、葛藤の発露である。


ジャックは動物をナイフで殺してその肉を食うことによって、自分が文明社会の中で培ってきた規範を逸脱する。他の少年たちは彼の逸脱を止めることができない。できることは、ただ笑うことである。彼らは良心の呵責のただ中にあるがゆえに笑っているのだが、それは表面上では思考停止として機能してしまうので、結果的に野蛮性を容認することになる。


少年たちが逸脱行為の罪悪をごまかし、見過ごしてしまうのは、われわれの暮らす社会が「笑い」によって人間関係や善悪のバランスをとるシステムを持っているからである。そのシステムの中では、「善」と思われていたものが突如「悪」になり、「悪」と思われていたものが簡単に「善」になり得る。根本的な問題は原始の世界にあるのではなく、大多数が生きて呼吸する現代社会にある。少年たちのいる孤島とわれわれが存在する今ここは、常に陸続きなのだ。



※参考資料
William Golding, Lord of the flies, A Perigee Book 1997
ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』平井正穂訳 (新潮文庫)