そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

物語を糧に生きるアラサー男子の方法序説。文芸や出版メディアの趨勢について気になったことを書いていきます。

星と記憶の堆積


少し前にポリタスに掲載された高橋源一郎の文章を読んで色々と思うところがあった。


死者と生きる未来(高橋源一郎)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ



アヴァンポップの旗手として注目され政治的な事柄とは一線を画する場所で作品を発表してきた氏(作家デビューまでの経歴は政治的と呼んでいいと思うが)の最近の積極的な社会参加を見ていると、嬉しいような悲しいような複雑な気分になる。高橋源一郎が政治を語る世になるなんて世の中ギスギスしてきたもんだ。


リンク先の文章は主に「記憶」について書かれたものだ。生活の金に困ってやむなく女衒をしていた時に出会った女の子とのエピソードや作家自身の父親との触れ合いの記憶が、切断された過去としての形ではなく、今を生きる自分の一部として脈動している不思議。気づきと感動。


このような時空感覚はゆとり世代だったらわりと簡単に共有できるんじゃないかと思う。ぼくは中学、高校の時夢中になってプレイしていたファイナルファンタジーの影響でジェームズ・ラブロック(坂口博信でも可)のガイア理論に触れており、それが今でも生きる上でのふんわりとした世界観になっている。人は死んだら天国にも地獄にも行かずみんな星に帰っていくのだというゆるい信仰。そういった意味で、高橋源一郎の言う歴史認識はとても受け入れやすかった。


「歴史は繰り返す」などと言って人は自分たちの愚行を嘆く。過去に学ばない人間は何て愚かな生物なのだろうかと。しかし、確かに歴史は繰り返すけれども、その繰り返された歴史はゲームのようにリセットされることは絶対にない。歴史の当事者たちの記憶は、この星が存在する限り途切れることなく世界に降り積もっていく。この星の良いところは、それが徹頭徹尾ストック型の乗り物だということだ。


周知のように、人はある特定の環境に置かれるととんでもなく愚かな行為に及ぶ。これまでもずっとそうだったしこれからもずっとそうだろう。しかし、何百年、何千年というスパンで物事を考えた時、いつか自分たちの愚かさ、弱い部分と決別する時が人類に訪れるかもしれない。そして、今この時代を生きるわれわれは、その「いつか」と決して無関係ではない。未来のある点から見た過去としての今この瞬間こそが、「いつか」の一部であり本質となり得るのだから。ちょっと考えただけでも気が遠くなるような話だが、効率重視の世の中にあってそのような粘り強い思考もブレない軸を自分の中に作るためには必要になる。


とはいえ、悠長なことも言ってられないことも事実である。温暖化なんかもあったりでこの星自体も確実に経年劣化しているのだから。


星の命が尽きるのが先か、人類が欠点を克服するのが先か。でも、まあ、別に気負う必要はない。人は宇宙の主人公なんかではないのである。しくじって滅びたとしても代わりはいくらでもいるさ。

私たちは、この世界について私たちがもっともよく理解しているとは主張しませんでした。私たちは、行動の基準をいかなる意味においても正当性におこうとはしませんでした。私たちは、私たちの視野もまた視野である限り、さけがたい限界をもつものと考えましたが、同時にそのことが私たちの手を縛ることのないように心がけました。
高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』より引用