そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

文芸好き。ラノベやWEB発の作品まで視野に入れつつ、文学または物語の趨勢について考えたことを書いていきます。

名門と自意識

ラ・ロシュフコー箴言の中に次のようなものがある。

名門の名は、そのよき担い手たり得ない者を、引き立てるかわりに卑小にする。


ぼくはごく平凡な中流家庭で育ったので、由緒ある家柄に生まれた人間のアイデンティティの成り立ちを正確に理解することはできない。けれども、これまで生きてきた中で、そのような宿命を背負う人たちと交流する機会が少なからずあった。そして幾人かの例外を除いて、ぼくは彼らほとんどに対して引用した箴言と同じ実感をもった。残念ながら。彼らは人一倍劣等感が強く、総じて自足できていないように感じた。


客観的に見れば、名門出の人間のスペックは非の打ち所がない。学歴、収入、高尚な趣味など、ごく普通の人間からすればうらやましいと感じるものを彼らは当たり前のようにもっている。にも関わらず、その現実に少しも満足しないという点で彼らの自意識は普通の人間と異なる。他人よりも多くのものをもっているのに、より社会的に権威のある地位や称号を欲して常に飽き足りない。


なぜこのようなことが起こるのか。おそらく、それは、育ってきた環境に対する彼ら自身の慢性的な不全感によるものだと思われる。


彼らは、もの心つく前から物質的には何不自由ない生活を送ることができた。早い人は小学校に上がる前から英才教育をほどこされ、本人の意志とは関係なく親と同じ私立の学校をお受験させられる。生まれつき頭も悪くないし努力もできる人間だから、そのような恵まれた環境の中で居心地の良いポジションに納まることはたやすいはずだ。目立った悪ささえしなければ、高校、大学と成人の日を迎えるまで同じ対応でクリアできる。やれやれ、もうハタチか。でもぼく/わたしだって人並みの苦労はしたんだよ。……。周囲の人間たちは、彼らのスペックを手放しで称賛するだろう。それは9割方本心からのものであるので、褒められる側も決して悪い気はしない。「自分は他人よりも優れた人間だ」という自負が彼らの実存を支えている。


しかし、彼らの脳裏に一抹の不安がよぎる。


ぼく/わたしの成功は、第三者の手によってあらかじめ整備された道を言われるがままに歩いてきた結果でしかないのではないか? ……


この問いは、彼らという存在の本質に迫るものであり、一度疑いをもってしまったらもう後戻りはできない。人生の中で、どこまでが他人の手によって与えられたものであり、どこまでが自分自身の意志や判断で勝ち得たものなのか。


当然のことながら、両者を明確に線引きすることは不可能である。自然に受けとめれば調和する二つのものを、無理やり切り離して判断を下そうとする点で、彼らの精神は凡人とは異質なのだ。煩悶の結果、彼らは不毛な問いへの答えを自分の内部ではなく、外界に求めるようになる。それは強烈な承認欲求という形で他人とのコミュニケーションの中に現れる。彼らのもの言いが時に横暴で粗野なのは、そのような理由による。けれども、それでは、永遠に人は集まってこない。


もちろん、冒頭にも書いた通り、自身のねじれた自意識ときちんと向き合って和解に成功している人も少なからず存在する。彼らこそ、真に卓越した精神の持ち主だと言えそうだ。人類の歴史の中で、非凡な才能を発揮して偉業を成した王、女王、官僚などのほとんどはこの部類に属する。


格差社会も大部進んではきたと思うのだけれど、今の日本はアメリカなんかに比べてまだまだその事実を実感しにくい。だが、仕事や趣味の活動などを通していわゆる「外部的に恵まれた人々」に出会うこともあるだろうと思う。その際には、目の前の人物の社会的なスペックだけを見て判断するのではなく、その人が自身の宿命といかに向き合い乗り越えようとしているのか、果たしてそのための器量を備えているか否かを冷静に分析してみることをおすすめします。少しいじわるに感じられるかもしれないが、来る格差社会を生き抜くためには、それくらいの浅知恵を駆使してもバチは当たらないのではないかと思う。平凡人には平凡人なりの身の処し方というのがあるんだから。