そのイヤホンを外させたい

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そのイヤホンを外させたい

文芸を糧に生きるアラサー男子のブログです。

ありのままの愛の認識とは


スタンリー・キューブリック監督の遺作『アイズ ワイド シャット』を観た。こういう考えるヒントを鑑賞者にたくさん残してくれる映画がぼくは好きです。


愛というのは、人類が生み出した概念の中でもすこぶる輪郭の捉え難いものであると思う。だが、優れた恋愛小説や恋愛映画に触れて得ることのできる感動の根っこもその不透明な領域にあったりするのだからまた不思議だ。愛は人間が手に入れた究極のモヤモヤである。


ふとしたきっかけから、お互いの性の欲望を知ることになり円満な夫婦生活の軌道から足を踏み外した男女。二人は、それまでの模範的な夫婦の関係性を維持していくことに不安を覚え、クリスマスの客でいっぱいのおもちゃ屋の店内で自分たちの今後について静かに話し合う。これがこの映画の最終場面だ。

ウィリアム(トム・クルーズ): 「アリス、ぼくたち、どうする?」


アリス(ニコール・キッドマン): 「どうする? わからない… きっと、わたしたち感謝すべきなのよ。何とか無事にやり過ごすことができた。危険な冒険を。それが事実であれ、たとえ夢であれよ」


ウィリアム: 「本当にそう思うかい?」


アリス: 「本当にそう思うか? どうかしら…。わたしに分かるのは、一夜のことなんて、まして生涯のどんなことだって、真実かどうか…」


ウィリアム: 「夢もまたすべて、ただの夢ではない」


アリス: 「でも大切なのは、今わたしたちは起きてる。そしてこらからも、目覚めていたい」


ウィリアム: 「永遠に」


アリス: 「永遠に?」


ウィリアム: 「そう、永遠に」


アリス: 「その言葉は嫌いよ。怖くなるの。でも、あなたを愛してる」

村上春樹みたいだ。そして女ばかり喋っている。
ブスブサイクのカップルには決して許されないだろうソフィスティケートなやり取りの末、アリスはウィリアムに言う。

アリス: 「わたしたち、大事なことをすぐにしなきゃダメ」


ウィリアム:「何を?」


アリス: 「ファック」

その一言を最後に画面が切り替わり、流れるエンドロール。この映画のテーマ曲とも言えるショスタコーヴィチのジャズ組曲と共に。チャーラーララーチャララララララーラ。


慎重な内省の果てに到達した答えが「ファック」という身も蓋もない単語に収束する矛盾。作品タイトルからも読み取れる「愛の逆説」がシャープに表現されているようでカッコいい。

*「Eyes wide shut」は「Eye wide open」(大きく見開いた目)のもじり。「目を大きく見開いてなおかつ見るな」という無茶苦茶を言っています。


観た人はご存知だと思うが、この作品にはたくさんの「ファック」がびっしり詰め込まれている。「性をめぐる混沌を乗り越えてきたのにまだ懲りずにセックスするのかお前らは」とツッコミを入れたくなる。しかし、よくよく考えてみれば、上に引用した最終場面の「ファック」だけは、その他の金太郎飴的な「ファック」とは異なる意味合いをもっているのではないかと次第に思えてきた。映画評論家の町山智浩なんかが、既にこの映画に対してキューブリックの真意に近い解釈を提供しているみたいだけど、ぼくはアマチュアという立場を最大限に利用して、自身のための深読みをしてみたいと思う。

↓町山さんの解釈はこちらが分かりやすいです。

http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-2970.html


批評家の花田清輝は、「林檎に関する一考察」という短いエッセイの中で、文学や絵画に描かれる林檎には「観念的な林檎」と「林檎そのものとしての林檎」の二通りがあると書いていたかと思う。


「観念的な林檎」というのは、「アダムとイブ」のイブが齧ってしまった「禁断の果実」としての林檎であったり、ダリやセザンヌによって描かれた作り手の主観によって形を歪められた林檎のことである。もう一方で「林檎そのものとしての林檎」というのは、ニュートン万有引力の法則を発見するきっかけとなったあの林檎であったり、ウィリアム・テルが弓矢で射抜いた子供の頭上に乗せられた実物としての林檎のことである。転換期を生きる人間が手にするべきは、後者の生き生きとしたありのままの林檎であると花田は書いていた。


以上のことを踏まえた上で『アイズ ワイド シャット』に話を戻そう。


この作品にテーマがあるとしたら、それは「愛は夢か現(うつつ)か」であるとぼくは思う。そう考えると、作品の大部分が夢もしくは甘い幻想のような愛を描くことに費やされていることが分かる。アリスの想像上の不貞もそうだし、ウィリアムが潜入する秘密の乱交パーティーもそうだ。その他、観ているわれわれ含め登場人物が現実だと認識していた出来事も実は全て夢であったかのような演出も散見される。


だからこそ、冒頭で引用した最終場面のアリスの「ファック」という言葉には、夢と甘美な幻想をくぐり抜けてきた人間の心の成長とまやかしの愛に対するドライな反抗があるように思う。彼女が夫に向けて言う「I love you.」は、その成長の分だけためらいがある。しかし、自信満々に発せられる愛の言葉に一体どれほどの価値があるというのか。愛はそんなに簡単に全貌を見渡せるものではないし、分かりやすくパッケージ化できるものでもない。本当の「I love you.」というのは、確約のない精神領域から発せられる他者肯定の言葉であるべきだ。アリスの言う「すぐにしなければならない大事なこと」としての「ファック」は、想像上の林檎を手放して実物としての林檎を手にすることのできた人間のみ獲得することのできる「ファック」であって「ファック」でない、はたまた「ファック」でなくて限りなく「ファック」であるようなありのままの愛の認識なのだと思う。それは、目を大きく見開きながら何も視界に入れないことや、夢を見ていながらも同時に目覚めていることなどにも似た愛の無茶ぶりの一つの形態なのである。ファックファック言い過ぎて疲れた。それでは。


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