そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

ブログはタブラ・ラサ

世界に見出されることの危険性


何者かになるということは、独力でできることではなくて、自分という存在に意味を与えてくれる周囲の世界があって初めて実現する。


だから、もし何者かになりたいのであれば、周囲から興味をもたれる人間になることが必要だ。


ぼくは最近、そういうことは運なども大きく作用するからわりとどうでもいいと思っているのだが、自分が好きでやっている事柄を多くの人間に認めてもらえたら、まぁ悪い気はしないだろうと思う。


中身が伴わないのに「炎上芸」や「釣り」のような一過性の売名行為をするのは人として寒いので除外するとしても、真にやりたいことや人生の使命がはっきりしているのであれば、それを世間の興味関心と結びつけることで得られるものは多いのではないかと思う。現にそのようか幸運な巡り合わせが、これまでの世界を発展させてきたのだから。


しかし、世間の興味関心が個人の信念とぴったりと合致すると考えていたら、ちょっと危ないかもしれない。


先日、リュック・ベッソン監督の『ジャンヌ・ダルク』を観た。この映画を観るのは二度目で、初めて観たのは高校生の時でしたが、当時と比べて受ける印象が全く違っていることに驚きました。


リュック・ベッソンの解釈はとてもシンプルで、ジャンヌは「神のお告げ」を聞いたのではなく、ただ自分の見たい事柄を見たいように見ただけだ、というものです。要するに、ジャンヌ・ダルクは田舎の勘違い娘に過ぎず、彼女が達成した偉業も外部的なさまざまな要因が運良く合わさって、彼女の思い込みを現実のものにする手助けをしたのである。高校生のぼくは、その解釈に何の異論もなかった。と言うよりも、現代的な感覚からしたらそれしかあり得ないだろうと思った。現代の常識によって思い込まされた。


しかし、今のぼくは、おそろくジャンヌは本当に「神のお告げ」を聞いたんじゃないかと思っている。信じられない話だが。これは、ティーンエイジャーの頃に比べてぼくの内面が宗教的なものに引っ張られたのではなく、自分なりに人生経験を積んだことによって、世界認識と人間理解が深まった結果だと思っている。たぶん。


当時は考えもしなかったが、まず常識的に考えて、「神のお告げ」を聞いたのでもない限り、たった一人の少女がフランス軍を率いてオルレアンを解放するなんてことは無理である。映画を見ると分かるように、オルレアン解放までのジャンヌはミラ・ジョボビッチの鬼気迫る演技も手伝って、狂気の塊のような存在である。現代の研究者は、彼女の狂気の出所を何らかの精神の病と取る。ぼくは、そのような解釈は人間性への信頼が決定的に足りないと感じる。フランス軍だってバカじゃない。自分たちの国が他国の植民地になるかの瀬戸際、個人の生き死にがかかっているのだ。少女が嘘を言ってるかどうかくらい分かるはずである。彼らが騙されたという判断を下してしまうのは、現代人が無意識の内に大昔の人間は今を生きる自分たちよりも無知だったと考えているからである。人間を舐めてはいけない。


さて、ジャンヌだ。彼女は狂気の塊であったが、決して頭がおかしかったわけではない。狂気というのは忘れ去られた常識の復活のようなものだとぼくは思う。狂人ジャンヌの主張は、一貫して常識的であり透明なものである。「フランスの領土に立ち入ったイギリスは奪ったものを返して即刻国に帰るべき」、「私は血を好まない。しかしこちらの要求に向こうが応じないのであれば、戦わなければならない」。


想像だが、ジャンヌに従った兵士たちを動かしたのは、神の崇高さなどではなく、彼女の常識だったのではないだろうか。加えて、ぼくがこの映画を見ていて印象深かったのが、ジャンヌが敵の弓矢によって深手を負う場面だ。これが正に九死に一生という感じで、周りの兵士とハラハラするのである。さらに、オルレアン再襲撃の際にも、ジャンヌは敵の弓矢で背後から狙われる。幸いその事態に気づいた腹心の部下が自ら盾になって彼女を守るのだが、彼女はその事実にも気づかず、「何してるの? もち場に戻りなさい」みたいな無神経な命令を下すのである。キリストもそうだったのだと思うが、結局はいくら聖人と言えども、周囲の人間が守らなければ殺されてしまう。ぼくは無宗教だけれど、もし宗教に良い悪いがあるとするなら、良い宗教とはただお空の上から救済を待ち望むのではなく、自分たちの大事な価値を自分たちで死守していくものではないかと思った。しかし、そうなると殉教こそ至高みたいな話になっていっちゃうので、断言するのは難しいかな。


推測はともあれ、ジャンヌ・ダルクによるオルレアン解放は歴史的事実であるので、その達成の背後に何か大きな力が働いていたのは確かだろうと思う。「神のお告げ」が胡散臭く感じるならば、超自然的な情熱の力と言い換えてもいいかもしれない。ジャンヌ・ダルクは自然が人類にもたらした一つの強烈なパワーだった。


しかし、世界によって見出された少女は同じ世界によって異端とされ、焼き殺された。ジャンヌが聖人の列に加えられたのは、その死から500年後のことだったらしい。


なぜこのような悲劇が起こったのか。それは、ジャンヌの力強い常識(狂気)は元のままだったが、一時は彼女を支持した世界が突如態度を変えたからだ。ランスで無事に戴冠を済ませたシャルル7世は、フランスの領土からイギリス軍を追い出して過酷な生活を余儀なくされている国民を解放する、というジャンヌの信念を国のコスパを考えてあっさり切った。そして彼女を売った。火刑に処される寸前まで、ジャンヌは自分の主張を曲げなかった。彼女は世の中の変化に対して少し鈍感だったのかもしれない。しかし、だからと言って、彼女の非を責める権利は世界の側にはない。


何者かになるということは、世界に見出され世界と握手することだと言える。それは、ちっぽけな存在である個人にとって何ものにも代え難い喜びである。しかし、人は自分を見出してくれた世界に全面的に寄りかかってはいけないのだと思う。なぜなら、いつ世界の柔和な表情が崩れ、鬼の形相が出現するか分からないから。われわれは世界に見出されるよりも、自分自身の目で世界を見出すことにまずは力を注ぐべきなのかもしれない。