そのイヤホンを外させたい

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そのイヤホンを外させたい

文芸を糧に生きるアラサー男子のブログです。

短編小説『対岸の出来事』

「立ち上がって歩くこともできないらしい」

飲み物のメニューに目を走らせながらNは言った。

「試合中に小指の骨が折れても顔色一つ変えなかったあいつが、だ」

ぼくは手を上げて、離れた場所にいる店員を呼んだ。彼女はレジの横に立って隈なく店内を見渡しているように見えたが、不思議なくらいこちらの合図に気がつかなった。カウンターの中で串を焼いていた店長の男性が先にこちらに気づき、江戸っ子のような小気味良い返事をする。Nはハイボールを、ぼくはウーロン茶を注文した。もともと酒に弱いのに、Nのペースに釣られて立て続けに三杯飲んでしまった。ソフトドリンクで中休みする必要がある。それに、Nの話は、後になってから「よく覚えていない」で済まされる類の話ではないらしかった。

「短くない月日を共に過ごしてきた二人だ。そりゃ、ショックはでかいよ」

「喪失」

口に出した瞬間ぼくは間違えたと思ったが、もう遅かった。

「その言葉だけじゃ十分じゃない。全然足りていかない」

Nの論評にぼくは黙って頷いた。天井の扇風機が驚くほど単調に左右に首を振っているのが見える。
女性の店員が飲み物を運んでくると、Nはジョッキに入ったハイボールの半分をひと息に飲んだ。目の前のウーロン茶には手をつけず、今度は慎重に言葉を選ぶ。

「その、二人の間に事の兆候のようなものはなかったのかな?」

「ない」

Nはあっさりと否定した。

「事件が起こる当日の朝まで、彼女は普段と何ら変わらぬ朗らかな態度でOの奴に接していた。いつも通り二人で簡単な朝食を食べて、いつも通り二人でマンションの部屋を出た。ただいつもと違ったのは、彼女の方は会社に行かなかったということだ」

「向かった先は……」

「もちろん、その男の住むアパートだよ」

Nはワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、口に咥えて火を点けた。不機嫌な猪のように鼻と口から煙を吐き出す。

「いずれにしろ、眉唾な話だ」



Oは、Nが勤める会社で最も親しい同僚だった。新卒入社のNと転職組のOは社内での立場上は先輩と後輩の関係だったが、同い年ということもあり、プライベートでもバスケットボールの社会人サークルに一緒に所属するなど気心の知れた間柄だった。


Oには、大学時代から付き合っている一歳年上の女性がいた。二人は笹塚にあるマンションで同棲をしていた。Oと彼女の出会いは、大学のバスケットボールサークルだった。学内にいくつかあるサークルの中でも男女入り混じって和気あいあいと試合をする呑気なグループで、お互い中学、高校と熱心にバスケ部の練習に打ち込んできた二人にとってはぬるま湯に浸かるような環境だった。しかし、Oと彼女は目標やそれに向かっての切磋琢磨とは無縁の環境にあっても、周りのペースに合わせその場に適合することに一切の抵抗を感じなかった。彼らにとっては、思春期に情熱を傾けた部活動さえも与えられた環境に対する自身の最適化の結果でしかなかった。似た者同士は互いに自然と惹かれ合い、二人の距離は縮まり、気がつけばサークル公認のカップルになっていた。


Oと彼女の関係は、テレビの科学番組で時たま特集が組まれる永久機関のたゆまぬ運動に似ていた。口喧嘩したこともなかったし、人前で必要以上に馴れ馴れしく振る舞うこともなかった。二十歳前とは思えない落ち着きと充足の雰囲気が彼らを包み込んでいた。サークル内で他のカップルが成立することは多くあったが、卒業まで続いた関係は皆無だった。


大学を卒業して実社会で働き始めても、二人の関係は一向に揺るがなかった。理系のOはビル管理の会社に、文系の彼女は賃貸物件の仲介会社にそれぞれ就職した。仕事の内容は二人の適性に合致したものであったから、途中経済的な理由でOが同業他社(Nの会社だ)に転職するという微調整はあったものの、彼らの生活はこの不透明な時代においても、むらのない、平穏なものだった。Oが新しい職場に慣れた頃、二人は結婚を前提に同棲を始めた。出会いから将来の約束を交わすに至るまでの期間、Oと彼女の歩みは常に一定のペースを保ち得ていた。



Oは、その男と一度だけ会って言葉を交わしたことがあった。
年の暮れも押し迫ったある平日の夜、珍しく仕事が早く終わったOは、笹塚駅前で彼女と待ち合わせて、外で夕飯を食べて帰ることになった。彼女の勤める会社は駅から徒歩五分の場所に位置していたので、二十時頃には彼女も到着し、肩を並べて近くのレストランに入った。そこは一人暮らしの時分から彼女が時たま足を運んでいた洋風居酒屋で、良心的な価格設定と女性の店主の気さくな人柄によって人気を集めていた。正月休みまであとわずか、という高揚感も手伝って、普段平日にはアルコールを口にしない二人が高めの葡萄酒を注文してしたたかに酔った。店を後にして商店街を歩きながら、互いの手の熱を心地よく感じていた。


「あ、お久しぶりです!」

ふいに声を上げた彼女の視線の先をOが見やると、前方にスーツ姿の男性が立っていた。年の頃二十七、八、Oと同年代くらいで、背が高く細身だった。夕飯の食材を買ってきたのだろう、片手にスーパーのビニール袋を提げている。
男は、唐突に呼び掛けられたことに驚いているように見えたが、やがて合点がいったらしく、彼女に視線を向け控え目に微笑んだ。

「その節は、色々とお世話になりました」

低音だが、よく通る声だった。このタイミングで男は初めてOと目を合わせた。

「その後、お部屋は問題ありませんか?」

彼女が尋ねると彼は首肯して、はいお陰様で、と言った。二人の会話でOにも大体の事情が飲み込めてきた。

「こちら、少し前にうちの店に来てくれたお客さん」と彼女はOに説明した。

男の方に向き直ると、Oの肩に右手をポンと乗せて少し照れ臭そうな表情をして言う。

「これ、彼氏です」

はじめまして、と笑みを浮かべてOは男に手を差し出した。素性の知れない同性に対するいくらかの敵意が自分の所作に滲み出てしまうのをOは止められなかった。男は、はじめまして、どうもすみません、と言って握手に応じた。手を離すと、彼はOから視線を逸らさず、ゆっくりと言った。

「部屋を、見つけていただいたんです」

彼の口調には二人に対する祝福の雰囲気があり、Oの警戒心を緩和させた。三人は少しの間、無言でその場に佇んでいた。

「じゃあ、ぼくはこれで失礼します」
ようやく男が口を開いた。

「おやすみなさい」彼女が言った。

Oはうまい言葉が浮かばず、男に向かって軽く頭を下げた。
二人に向かって無言で頷き返すと、男は先程までと変わらぬ坦々とした足取りで商店街の雑踏の中に消えていった。



「その短いやり取りの間に」

Nの煙草の先端から立ち上る紫煙をぼんやりと目で追いながら、ぼくは言った。

「何か決定的な共通認識が、彼と彼女の間に生まれたとしかぼくには思えない」

「共通認識? それは早い話が、破滅に対してのか?」
Nは口の端をつり上げた。

「そこまで極端な話じゃない……ある特定の方向に向かって進む意志のようなものが、二人の間で思いがけず形成されてしまったということだよ」

「その時の二人の表情や仕草には、何ら違和感を持たなかったと後になってOはおれに言ったよ。あいつは昔から鋭い方だった。だから間違いない。何でもない立ち話だったんだよ、それは」

一拍置いてNは言葉を続けた。

「いくらかの安堵の念をOに抱かせるほどにな」

ぼくは、黙ってウーロン茶を飲んだ。

「皮肉な話だよな。自分のフィアンセを道連れにこの世から消えちまうんだから」

Nはハイボールを飲もうとしたが、グラスは空だった。普段誰に対しても人当たりのいい彼にしては珍しく、ぶっきらぼうな調子で遠くの店員を呼ぶ。二人ともさっきと同じ飲み物を注文した。


彼女が彼のために見つけた部屋について、ぼくはなぜだか考えを巡らせていた。それは、築二十年越え、建物のあらゆる箇所に問題を抱えているものの、日当たりだけは竣工時点と変わらず良好な狭いアパートの一室だ。彼女の勤めていた会社では、社用車は基本的に男性社員が利用する。彼と彼女は、それぞれ使い古された籠付き自転車に跨って、住宅街の狭い抜け道や、蛇行する小さな川に掛かる橋の上を、とりとめのない話をしながら通り過ぎる。太陽の光が燦々と降り注ぐ南向きの畳の部屋で、やがて自分たちにとっての決定的な出来事が起こるその場所で、二人の間には一体どれ程の距離があったのだろう。


「お前、まだ小説とか読んでるのか?」
思い出したかのようにNが訊いた。

「ああ、学生の頃よりは少なくなったけど。どうして?」

「彼の部屋の本棚には、いわゆる純文学ってやつが少なくない数あったらしい」

「……その事実は、その人にとっての何らかの真実を証明するものなのかな?」

ぼくは訊いた。しかし、Nはぼくの質問に直接には答えなかった。

「あの子は、彼女はさ、本なんかもあまり読まなかったし、そういった行き過ぎたナルシズムには引っ張られない人間だと思ってたんだ。そこのところが、おれにはどうしてもよく理解できないんだ」

「彼女と実際に会って話をしたことはないけれど、気持ちは分かる。分かる気がする」

ぼくは勇気を出してそう言った。墓穴を掘ることになるとしてもここで引いてはいけない。そう強く感じた。

「こちら岸には理解できない対岸のルールってわけか」

Nはいかにも、という感じの芝居がかったため息を吐いてそう呟いた。

「じゃあ教えてくれ。どうして彼女は彼の家に足を運んだんだ? 婚約者の信用を裏切ってまで何度も。二度しか会ったことのない相手なのに」

Nに返す答えがぼくにはなかった。

「あまりにもリスキーだし、浅はかだし、そして侮辱であるように思う」

Nは言った。彼の顔が興奮でさらに紅潮するのがぼくには分かった。

「侮辱?」

「そう、侮辱だ。常に最善の選択をしようと懸命に努力する全ての人に対しての」

Nの眉間に皺が寄り、片方の目のまぶたが小刻みに震える。

「その最善の選択をする努力を惜しまない人たちには、対岸の出来事を推し量る、という行為は選択肢の内に入ってないの?」

ぼくは言った。自分でも信じられないくらい言葉が淀みなく口をついて出た。

Nはぼくから目を逸らさずしばらくの間沈黙していたが、やがて大きく息を吐き出すと、わからない、と静かに言った。

「少なくとも、こんなに酔っ払ってたんじゃおれには賢い選択ができそうにないな」

Nが冗談を言って場の空気を和ませようしているのが分かったので、ぼくもそれ以上の追求を避けウーロン茶を飲んだ。
店を出るまで、Nはその話題をもう口にしなかった。しかし、駅の構内で別れる際、Nは既に改札の方向に歩き始めたぼくをわざわざ呼び止めて、自分は近々会社の同僚の女性と結婚するのだと話した。ぼくがおめでとう、と言うと、彼は少しの間俯いて何事かを思案していたが、ついに顔を上げてぼくに告げた。

「恥ずかしい話だけど、おれすごく怖いんだよ。彼らのことについても何か他人事じゃないっていうかさ……。おれ自身いつか足をすくわれるんじゃないかって……そんな気がして自信が持てない」

Nの正直な告白を聞いて、ぼくは昔の彼を見たような親しみを感じると同時に、彼に励ましの言葉を掛けてやる必要性を強く意識した。ところが、自分自身の意志とは裏腹に、ある不確かな衝動に突き動かされてぼくはNに向かってこう言っていた。

「取って食うようことはしないさ」

目の前のNの顔が蒼白になるのが分かって、ぼくはすぐに踵を返した。改札を抜け、ホームに降りる。そのまま車両に乗り込んで結局一度も後ろを振り返らなかった。Nはぼくの昔からの友人であるのに……。やがて電車は発車し、あらかじめ決められた速度で狂いもなく次の駅へとぼくを運んでいった。 了