そのイヤホンを外させたい

小説家、大石圭誕生秘話



大石圭、小説家。
1993年『履き忘れたもう片方の靴』が文藝賞佳作となりデビュー。その後、官能、ホラー小説の分野で頭角を現し、角川ホラー文庫光文社文庫を中心に数多くの作品を発表。2003年には、映画『呪怨』のノベライズも担当した実力派作家。


デビュー前、会社員生活を送っていた30歳の大石は、ある晩突然の激しい腹痛と吐き気に襲われた。慌ててベッドから飛び起きトイレに駆け込んで嘔吐すると、吐瀉物は血まみれだった。


翌日、病院に行きレントゲンを撮ったところ、そこには白っぽい不吉な影が写り込んでいた。


「もしかしたら、胃癌かもしれないって」

帰宅した大石が彼の妻にそう告げると、彼女は激しくショックを受けた様子だった。


大石自身、突然の出来事に動揺していたが、不思議と取り乱すことはなかった。来るべき死に備えて、彼は身辺整理をし、遺書も書いた。人はいつか必ず死ぬ。自分の場合、それが思っていたよりも早かっただけ。彼はそう思い込もうとした。


だが、そんな大石の覚悟は良い意味で裏切られることになる。最初の検査から1週間後に受けた胃カメラによる検査結果は「異常なし」。嘔吐の原因は単なる胃炎であった。


この出来事をきっかけに、大石の中で何かが変わった。彼は自分の周りにあるものすべてを、それまでよりもよりしっかりと見、しっかりと聞き、しっかりと実感するようになった。自分の生の時間は限られている、という認識が、彼の生き方を根本的に変えた。


大石が小説家としてデビューするのは、その出来事から2年後のことである。


・もし、あの時、死んでいたら、僕はただひとつの小説も書くことはなかった。そう思うと、今も少しだけ不思議な気がする。もちろん、僕の小説なんて、あってもなくても、世の中には何ひとつ影響はないのだけれど……。
ー『甘い鞭』(角川ホラー文庫)「あとがき」より引用ー


甘い鞭 (角川ホラー文庫)

甘い鞭 (角川ホラー文庫)