そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

文芸好き。ラノベやWEB発の作品まで視野に入れつつ、文学または物語の趨勢について考えたことを書いていきます。

幸福のメルクマール

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個人的な印象ですが、近頃はSNSや本の中で幸福論のようなものを語る人がとても多くなりましたよね。


ピンからキリまである中でその大半が、


幸せを感じられないのはあなたがそれを自覚してないだけでそれは意外なところに転がっているものですよ。だから気づけ。



のようなメーテルリンク的お説教(時に人格攻撃)です。



んなこと言われんでも分かってるよ!


そう感じることもしばしば。



わたしなんかは性格が悪いので、こいつ自分が不幸せだからあたかも幸せを噛み締めているかのような装いで赤の他人にあることないこと言って優越感に浸ってるだけじゃねぇの? などと勘ぐってしまいます。素直には聴けない。小池一夫のじいさんのつぶやきだけでお腹いっぱいなんですよね、実際。


ですが、わたし自身もせっかくこの世に生まれてきたんだから幸せを感じる時間の方が長い人生にしたいなぁと人並みには思ってます。だからわりと意識高めな感じで世に出ている「幸福論」本をいくつか読んでみました。アラン、ショーペンハウエル、ラッセルの『幸福論』とかお釈迦様の言行録とか中村天風の一万円くらいするクソ高い本とか宮台真司の一連の著作とかね。


結果その内のどれが真理を語っているかは分からなかったですね。最後まで読んでとりあえずふむふむと納得、1週間くらいでほとんど忘れるみたいなことが多かったかな。


結局、幸福の定義については自分でトライアンドエラーを繰り返しながら研ぎ澄ませていくしかないんですよね。他人の意見は参考程度に耳を傾けておけばいい。


そんなわけで、上にあげたような書き手たちの意見を参考にわたしなりの幸福の基準を4つほど出してみました。


目次



1.多くを知る

わたしは「知らぬが仏」という言葉を耳にする度に違和感を抱きます。確かに、余計な情報を頭に入れずに生きていければ悩みも減るでしょう。人は自分自身がいつか死ぬという究極の事実を知っているがゆえに苦悩するんです。動物は自分に最後の瞬間が訪れるまで死に気づかない。ライオンに襲われたバッファローの群れは仲間が食われている少し離れた場所で悠然と草を食んでます。蝉の寿命は一週間程度しかありませんがその事実を知らないのでノーストレスでミンミン鳴いて時たま小便を人にひっかけます。彼らの命のはかなさを知ってしんみりするのは人間側の単なるエゴです。


死は回避できない。
その事実は人間にとって究極に不都合な情報です。何も知らないで好き勝手に食っちゃ寝してある日突然ぽっくり逝く方がどんなに気が楽かしれません。


しかし、死という最終到達地点があるからこそ人生は充実します。終わりを知っているからこそ限られた生の中で自分を活かす努力ができるというもの。死を意識することで人は動物にはない尊厳を手にすることができる。


ここでは最も分かりやすい死という例をあげましたが、その他の事柄についても基本は同じです。無知は大きな機会の損失であり充実した人生を送るための弊害になり得る。苦痛は少ないけれど何のために生きているのかも分からない無気力な毎日を突破するには常に外の世界に目を向け知識の幅を広げる努力が必要です。まず多くを知らなければ正しい判断をすることはできません。

2.より良い選択ができる

1が達成されればこちらは自ずと可能になります。ただ知識を蓄えただけでは意味がありません。正しい選択をするために多くを知る必要がある。


よく「選択肢は多過ぎてもいけない」という意見を目にします。確かに自分の頭で考えることがめんどくさい人にとってはあらかじめ用意された一本道を何の疑いもなく歩いていく方が幸せなのかもしれません。高度経済成長期のサラリーマンはきっとそんな感じの人が多かったでしょう。


でも、それって極端な言い方をしちゃえば家畜と同じですよね。家畜は自分の不自由に気づけないんです。ある水準までの生きる保証は与えられてはいても人生に対する裁量権は持ち合わせていない。


これは個人の価値観の問題になってしまうけれど、わたしはたとえ人並みの暮らしを保証されていたとしても自分に裁量権の少ない人生はまっぴらごめんですね。他人からあてがわれた無難な道を歩んでも何の充実感も得られません。自分の進むべき道は自分の目で見極めたい。自分で選んだなら、もしそれが険しい道であったとしても、失敗したとしても胸を張っていられます。

3.全力のアウトプットをする

せっかく幅広く物を知ったとしても、吸収しっぱなしで放置してしまえばそれは宝の持ち腐れです。知った情報は活かさなければ意味がない。今は匿名の個人がインターネットを通じて自分の考えを容易に表明できる時代です。こんなチャンスは滅多にありません。自分を位置づけるような心積もりで積極的に外部に働きかけていくべきです。


全力でコンテンツを生み出そうとする試行錯誤はその人の毎日を充実させてくれるし、努力の過程で自分自身について新たな発見があるかもしれません。人はある程度追い込まれないと自分の真の欲望に気づけないものです


情報化社会を生きるわたしたち個人の存在としてのリアリティーは日に日に薄らいでいっているような印象を受けます。気を抜いてるとどうでもいい情報に踊らされてあっという間に人生が終了してしまう。なのでその意味でも渾身のアウトプットでぼやけた自分の欲望の輪郭をはっきりさせた方がいい。自分は一体何者なのか? 何をしていれば幸せを感じるのか? そんな中二病的な問いの答えを常に生み出しながら探し続けるんです。


今の中高年層は人生のある段階でそういった哲学的な自問自答、試行錯誤を放棄することで大人になった人が非常に多いのだと思います。だから今、時代の空気が変わり自分の頭で生きる意味を考えなければならなくなった途端、心のより所をなくして鬱になったり根拠のない外国人批判をしたりする。でも、それじゃあ何のために生きてきたの?って感じじゃないですかホント。だから、われわれは今のうちからそれまで当たり前とされていたこと(たとえば仕事とか結婚とか家族のあり方とか)を自分の頭で一個一個粘り強く再定義していった方がいいと思うんです。面倒でも。先行世代のフレームで生きちゃダメ。

4.他人に貢献する

最後はわたし自身まだ満足に出来ておらず憶測でしかないのでおまけです。


たぶん、1〜3まで達成できればまぁまぁ後悔のない人生が送れるんじゃないでしょうか。


しかしながら、
そこで言う幸福の度合いって結局は単なる自己実現、もっと乱暴な言い方をするなら自己満足の範囲でしかないですよね。



それだけでいいんですかね?



根拠はないけれど、もう一段上のステージがあるような気がしますね。合理的な物の考え方では計れない領域の話ですけど。


やっぱり自分のことを救済できる能力があるなら、他人の手助けも無理のない範囲でした方がいいのではないかと。別にキリストやマザー・テレサガンジーみたいに博愛の精神で赤の他人をバンバン救いまくれと言ってるわけでなく、身近なところに自分の一部を無償で割いてやることのできるような仲間とか家族とか恋人がいれば生きてて良かったと思えますよね。単純に。幸福を計るための指標が自分ではなく他人の中に移るというのは、チープな形容しかできないですが、何か物凄いことだぜ、と思うわけです。


さて4つの基準をまとめると、


知る→選ぶ→生み出す→役立てる


の流れになります。
なんかフツーですね。まぁ、いっか。笑


ちなみに、わたしがこうしてブログを書くのもこの4つの基準があるからですねー。幸福論的なものはホント人それぞれで誰もが一過言あると思うので、良いものがあれば恥じらいなくパクっていきたいです。


ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)

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