そのイヤホンを外させたい

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そのイヤホンを外させたい

文芸を糧に生きるアラサー男子のブログです。

文化系男子の生存戦略


唐突だが、わたしは文系である。
今から約6年ほど前に都内の四年制私立大学の文学部を卒業しました。


敢えて主張することもない平凡な経歴だけれど、個人的に思うところがあるのでもう少し突っ込んで書いてみたい。


目次



これまでの出来栄え


わたしが文学部を受験したのは、高校生の頃から小説を読むのが好きで自分の興味がある分野についてより深く勉強したいと考えたからです。今思えば恥ずかしいけれど、当時は村上春樹にハマっており海外の小説ばかり翻訳で読んでいました。だから専攻は英米文学を選択することに。


こうして書くととても真面目な学生のように感じられるが実際はそうではない。大嫌いな数学が受験科目にないのと英米文学専攻というと何となくスタイリッシュなイメージがあった。それに可愛い女の子も多そうだという不純な動機から受験を決めたのでした。昔から今日に至るまでわたしは自分の将来に対して大分楽観的である。


大学での4年間は楽しく平穏に過ぎました。文学部というのは他の学部に輪をかけて暇な学部です。好きな本を読んだりバイトしたり家でゲームしたりサークル活動に勤しんだり恋人とデートしたりと、それなりにリア充ライフを満喫しましたね。悩みもあったけどそれ含めて良い思い出です。


現在のわたしはと言えば、世間的にはアラサーと呼ばれる領域に突入したことに自分でも少なからず驚いてます。とりあえず現在の職場にとけ込んで働いてはいるものの、何か専門性のあるスキルを習得できるわけでもなく、組織の体制上出世や昇給もそれほど見込めなそうなので、「若い間は良いけどこのまま続けてたらいつか限界がくるだろうな」という冷めた現実認識と共に暮らしてます。どうしたもんかな〜。悶々。


さて、面白みのない自分の過去をわざわざ振り返ってみたのは別にノスタルジーに浸りたいわけではありません。現在自分の置かれた境遇をできるだけ客観的に見つめてみると、ふと気づきました。これって俺だけに限った話じゃないよね?


文化系男子は資本主義社会では生き難い


わたしと全く同じとは言わないまでも、小説とか、映画とか、その他の芸術表現が好きで文系の学部を卒業したものの、そこで培った知識を実社会での仕事に何ら反映させることができず(反映できるわけないが)突き抜ける機会を逸した残念な男性ってわりと多い気がする。


世の中には文化系男子と文化系女子という属性がある。わたし自身もたぶん前者の枠の中に収まるのだろうけど、前者の方が後者と比べて圧倒的に分が悪いように思う。


一口に文化系男子と言っても、蓋を開けてみればノースキルのコモディティ化した会社員でしかない。ある程度若い間は良いけど、年を重ねるごとにそう呼ばれることがだんだんキツくなっていく気がする。基本的に男性が文化系で許されるのはオスとして未熟な間だけだ。文化系のおっさんなんてただのしがないおっさんでしかない。映画『苦役列車』のキャッチコピーに「おれには何もないがある」というのがあったが、文化系男子の魅力があるとすれば、そういった若さに任せた説明のつかなさ、勢いの良さだと言える。だが、両方とも中年の男性が持っていたらヤバイと感じる代物であることは間違いない。


文化系男子と比べて文化系女子の方が周囲の目は優しい。なぜなら女性というのは元々ほとんどが文系脳なわけで、程度の差こそあれみんな遺伝子レベルで文化系な雰囲気を持っている。さらに男性と違って家族を養う責務から解放されているので実益に結びつかない無駄なことをする余裕があるし、そうであることを周りから許されている。女性の場合、どちらかというと圧倒的マイノリティーであるリケジョの方が世間からの評価は厳しいだろう。


はっきり言って、作家にでもならない限り文化系男子が資本主義社会で成功することは難しい。しかし、作家になれるのはごく僅かな限られた人間のみだ。


じゃあ、その他の文化系男子はどうするのかって? たぶん、みんなどこかで現実との折り合いをつけて自分を殺し、所属する組織に適合しているはずだ。専門的なスキルもさしていらない営業職なんかで繊細さの欠片も持ち合わせてない上司に毎日嫌味を言われながら自宅で歯食いしばってドストエフスキーを読んだりする。これは極端な例かもしれないけれど、このようなエピソードに親近感を抱く文系学部卒の男性は多いのではないかと思う。


夏目漱石の書いた文章に、「自分はただ寝転がっているわけではなく偉いことを考えながら寝転がっているのだ。だから怠けているとは言えない。」のようなものがあったが、文化系男子の悲劇は彼の高尚な考えに誰も興味がないということだ。

文化系男子は自分の使い方がよく分かっていない

正直、わたしは自分のことを文化系男子と呼ぶことに一抹の恥じらいを感じてはいます。そのようなレッテルを貼り付けて個人のことを分かった気になるのは野暮だと思うから。人というのは不確定要素の集合体であるからこそ面白い。なのでそう易々と個人の特徴や趣味嗜好を切り取って名称をつけてもらっても困る。なんとなくプライドに障る。


だが、多くの文化系男子が彼自身の厄介な自尊心を飼い慣らすことができないせいで社会で自分を活かし切れないこともまた事実だ。自分自身の使い方が分かってないばっかりに俗世間に対するフラストレーションだけを募らせていく。


直接利益には結びつかずとも、他人の共感を得ることのできる無駄な知識を文化系男子は例外なく持っているものです。そんな自分の使い道を知ることができれば、流行り廃りの激しい世の中でも自分の居場所くらいは何とか作れるんじゃないかなぁと夢想しているんですが、どうでしょうね。


とまぁ現時点で思ってることを色々書きました。わたし自身の人生設計とも大いに関係するトピックなので、今後も文化系男子の生き方論については逐一触れていきたいと思います。