そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

ブログはタブラ・ラサ

定量的なるものとの戦い

先日、ブログに関する本を読んでいたら、「分かりやすい文章の書き方」の項目に次のような例があがっていた。

くまのプーさんの住んでいる森は、「100エーカーの森」と呼ばれ、文字通り100エーカーの規模があるそうです。でも皆さんは、100エーカーの森と言われてすぐにイメージが湧きますか? ピンと来る人は少ないですよね。〈中略〉でも、これを、東京ドーム8.7個分だと言い換えるとどうでしょう。正確な大きさは分からないまでも、「広いなぁ!」というイメージは持ちやすいのではないでしょうか。


この書き手が言うことはもっともだ。大勢に読まれる文章を書きたいなら、難解な言い回しはなるべく避けて子供が読んでも理解できる言葉で語ることが大事だ。これ、簡単なようでいて実際にはすごく難しい。わたしも気を抜くとついつい入り組んだ文章を書いてしまいがちなので、普段から意識するように心掛けています。


ただ、敢えて上の文章にツッコミを入れさせてもらえば、「100エーカーの森」を例として持ってくるのはいかがなものだろうかと思う。

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そもそも、くまのプーさんの住む「100エーカーの森」の正確な広さを知りたい人なんているのだろうか。確かに東京ドーム8.7個分と説明されれば大体の広さは頭に浮かぶが、それで良かったと感じるかは全く別の話で、わたしなんかはどちらかというと、夢を壊すようなことを言わないでほしい、と感じた。


なぜそのように不満に感じるかというと、おそらく、「100エーカーの森」が、ビジネス文書などで使われる限界まで贅肉をそぎ落とした淡泊な言葉としてあるのではなく、小説や詩などで使われる意味としての余白、遊びを含んだ読み手の想像力を喚起する言葉として機能するからではないか。


言葉ってもともとかなりムラのあるもので、同じ単語に対する認識も個人の間でズレがある。だからこそ、ビジネスではできるだけスマートな言葉を用いて誤解なきよう努めなければならない。論理的に考える・話す技術なんて本が売れるのは、現実にはそのように考えたり話したりする人間がほとんどいないことの裏返しだ。その意味であれも一種の自己啓発本である。


人間はそもそも感情的な生き物です。コンピュータのように無駄なく能率的に考えたり動いたりすることができない。当たり前のことなんだけど、この前提を理解できていない意識高めの人が無駄にやる気を出しちゃって合理的に世の中をさばこうとした結果、ますます大多数の生き難さが増しているように思えてならない。


さばき切れないものをさばこうとする人々

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結論から言うと、何でもかんでも数値で測ってそれでよしとする世の中の風潮が気に食わない。
例えば、性とか。


やれコスパだの何だの色々言ってるけど、男女の恋愛まで定量的に語って誰が幸せになるのか。
性に関する諸々は人間にとっては欠かせない営みの一つだから、分析力のある書き手がある程度の展開図を示してやるのは試みとして面白い。でも、それを紛うことなき真理として大多数に当て嵌まるかのように語られると胸糞悪いよね。自分と大切な人との思い出の中に土足でズカズカ踏み込んでくる赤の他人の厚かましさっていうか。まぁ、そういう勘違いしてるのはTwitterにいるキラキラアカウントとかだから過敏に反応する方がバカだし負けなんだけど、発言とか見てると社会の中でそれなりに高い地位に就いてる人が多そうだから何となく腹立つ。なんだかなー。いっそ、全員ばびろんまつこみたいな食わせ者だったら面白いのにさ。笑


「分かりやすさ」って他人と円滑なコミュニケーションを取る上で最も大事な要素だと思います。コミュニケーションの究極の目的は自分と他人との世界に対する認識のズレを修正することだからだ。しかし、「分かりやすさ」の妄信は時に人間性に対する無神経で暴力的な簡略化、パッケージ化を生み、暮らしの中にある目に見えぬ価値の輝きを鈍らせる。わたしは思うのだけど、人は自分たちの力でさばき切れないものを無理やりさばこうとすると遠からずしっぺ返しを食らう。近頃、中身の伴わない過激な政治的発言によって票を獲得しようとする政治家もしくはその候補が目立つようになりました。彼らの恐ろしく単純で歯切れのいい言葉の数々は、昔と比べてますます複雑化する現代社会に生きる大衆の慢性的な不安感を、一時的に麻痺させてくれる点で需要がある。「分かりやすさ」が必要以上に求められた結果沸点を超え、今度は逆にわれわれ自身を傷つけるようになっているのだと思う。

曖昧なままでいいものもある

16世紀に生まれた近代科学は開始から300~400年の間は目覚ましい発展を遂げ、それまで宗教的な枠組みでしか捉えることのできなかった自然現象の原因を次々と明らかにし、それに伴う新技術の発明を可能にした。この先時代を経れば経るほど自分たちの暮らしは際限なく豊かで世界は平和になっていくと多くの人は考えていました。しかし、20世紀初頭の第一次世界大戦の勃発によってその楽観的な科学万能主義の考え方は一変する。科学技術は確かに便利ではあるが、だからと言って必ずしも人を幸せにしない。そのような問題意識のもと、小説家のヴァージニア・ウルフジェイムズ・ジョイス、画家のパブロ・ピカソなど一部の芸術家は、それまでの常識を破壊するような革新的な作品を世に問うていった。それまでの想像力では今自分たちが目の前にしている現実は到底描き切れないと感じたがゆえのわけのわからなさを彼らの作品は共通して持っています。


ウルフたちの生きた時代からさらに100年余りが経過した現代にあっては、インターネットの出現も影響してより世界は複雑怪奇な様相を呈しています。にもかかわらず、国の外交や政策レベルにおいては西洋とイスラムの文化の衝突とか、戦争の言い訳にしかならない単純な正義と悪の二元論が横行し、「分かりやすさ」が以前にも増して猛威を振るっている。


身近な例に目を移せば、会社員は自身の業務について定量的に考え報告することを組織から逐一要求されます。企業が最大の成果を上げるためには、皆が組織の理念と目標を共有することが不可欠です。だから、雇われて働いている限りは個人はその宿命から逃れることはできません。しかし、それはあくまでも労働力を売っている間のことだけの話。会社から一歩外に出てしまえば、もっと自由度の高いものさしで世の中を計っていいはずなのですが、実際には会社にいる時と変わらない窮屈で余裕のない尺度しか持つことが許されなくなっている。自分たちにとって不可解に映るものは何でもかでもバラバラに分解して中身を確かめなかれば安心できない。そんな強迫観念にも似たギスギスした感情が世の中に蔓延し、結果ストレスになっていると思わざるを得ません。

一応まとめ

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「100エーカーの森」の使い方にかこつけて思ってることを好きに書いてみました。言わんとするところは、今の世の中には寄り道の楽しさを無視してさっさと先に進もうとするせわしない空気があって、そんな遊びのない心の持ちようでは森のホントの広さなんて永遠に分かんないよってことですかね。それでは。


クマのプーさん (岩波少年文庫 (008))

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ホモ・ルーデンス (中公文庫)

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