そのイヤホンを外させたい

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物語を糧に生きるアラサー男子の方法序説。文芸や出版メディアの趨勢について気になったことを書いていきます。

恋愛工学と現代のビルドゥングスロマン

お盆休み、ナンパスキルの復習として藤沢数希の『ぼくは愛を証明しようと思う。』を読み返していました。


ぼくは愛を証明しようと思う。

ぼくは愛を証明しようと思う。



初読の際は自分が現役のナンパ師だったこともあり、ナンパ師vs恋愛工学生みたいな視点でしかこの小説が読めなかったのだけど、今となっては結局どちらもやってることは同じというか、なんであそこまでムキになっちゃってたんだろう? と不思議でならない。


著者に対する好き嫌いはひとまず脇に置いておいて、先入観なしに本作を読んでみると、作品としてはよくまとまっているなと素直に感じました。ビジネス書執筆などの経験も幸いしてか、初めての小説とは思えないくらい文章も上手です。同ジャンルでひどいの結構ありますもんね。


ただ気になったのは、場面が転換する度にやたら叙情っぽい風景描写が挿入されること。そこらへんは小説書き慣れてない感が出てる。

秋の日差しが並木の上で踊るように輝いていた。

風の感触は穏やかになり、太陽の光が柔らかくなってきた。春の気配は日一日と濃くなっている。

みたいなやつ。
特に太陽の光は大好きみたいで、女とセクした次の日の朝は窓から差し込んでくる太陽光線で目覚めるのがルーティン化している。


思うに、恋愛工学が一部の女性に非難されるのって、ヒットレシオやタイムコンストレインメソッドのような独自の用語の多用に加えて、藤沢数希や恋愛工学生がブログやSNSなどで時たま垣間見せる幼稚なロマンティシズムに起因するのではなかろうか。計算されたアルゴリズム非モテ男性のピュアネスが入り混じった独特なキモさがある。


恋愛工学が全体的にキモいことはまず間違いない。だが、一部の女性に有効なメソッドであることもまた確かだ。本作に関しても現代日本人男性のオスとしての成長物語(ビルドゥングスロマン)として面白く読める。こういった味わいは昔は純文学の専売特許だったのだろうけれど、今は恋愛論の方に持っていかれてしまってますよね。読者ともども。


かつての純文がそうであったように、今の恋愛論がそういった潜在的な欲求の受け皿になり得るのだったら別にそれでいいかなとも思う。しかし、正直怪しいですよね。どうしても器としての安定性に欠ける部分がある。

簡単なルーティンで引っかかり、僕の腕に抱かれる女たちを見るたびに、僕はずいぶんと悩んだ。葛藤した。愛ってなんだろう、と。そして、愛ゆえに、僕はずっと苦しまなければいけなかった。悲しまなければいけなかった。愛深きゆえに、僕は女たちから非モテのレッテルを貼られ、軽んじられ続けたのだ。

詩織さんがダメでも、僕には真由美も、由佳も、斎藤美和もいた。これだけのバックアップがあれば、ひとり失敗するぐらい大したことではない。同時に複数の女に次々とアプローチしていくスタティスティカル・アービトラージ戦略は、おそらくは確率的な優位さ以上のものがあるのだろう。こうして次の女がいると思えば、目の前の女に嫌われることを恐れ、萎縮してしまうことを多少なりとも避けることができる。


前者が恋愛工学の建前であるとするならば、後者は本音だろう。


賢明な読者は、いつだってこうしたまやかしには著者や批評家以上に敏感なものである。



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ぼくは愛を証明しようと思う。(1) (アフタヌーンKC)

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