そのイヤホンを外させたい

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物語を糧に生きるアラサー男子の方法序説。文芸や出版メディアの趨勢について気になったことを書いていきます。

絶対他力と自己啓発

歎異抄』を読んでみた。講談社学術文庫に入ってる梅原猛全訳注のやつです。


歎異抄 (講談社学術文庫)

歎異抄 (講談社学術文庫)


本書には原文に加え読みやすい現代語訳と訳者による丁寧な解説が付いており、古文を読み慣れていない自分のような人間でもすんなり読むことができる。


さらに、本書に取り掛かる前段階として吉本隆明『今に生きる親鸞』も読んでいたので準備はバッチリだった。


今に生きる親鸞 (講談社+α新書)

今に生きる親鸞 (講談社+α新書)



この本もそうだけど、一般人向けの新書や文庫での吉本さんの平易な語り口がめっちゃ好きです。
氏の難しい方の著作をろくに読みこなせてない身ではあるけれど、物書きとしてのたたずまいのようなものに憧れを感じる。



さて、『歎異抄』。



結論から言うと、俺のような煩悩まみれの人間にとって、懐が広い親鸞の思想は大変ありがたみがある。



親鸞と言えば、悪人正機という言葉が有名かと思う。


善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。


ってやつね。



善人ですら極楽浄土へ行けるのだから、悪人が極楽浄土に行けて当然だろうって考え方です。



普通逆ですよね。



悪人ですら極楽浄土に行けるのだから、善人が極楽浄土に行けて当然というのが、ごく普通の人が抱く道徳観でしょう。



なぜこのようなトンデモ理論が出てくるのかというと、親鸞の善悪に対する認識は普通人よりも抽象度が高いのです。



人の善行と悪行なんてものは、阿弥陀如来の及ぼす力に比べると大した問題ではないと親鸞は言い切ります。



善いことをしようが悪いことをしようが、念仏さえちゃんと唱えれば阿弥陀様は救ってくれるよ。
逆にポイントアップを狙って善いことをしても、それは結局は自分のためでしかないのでそのことによって救われるとかはないよ。
そう言っているのです。



ここで親鸞は、人の善行の中に隠された偽善を良しとせず、ちゃんと批判の目を向けています。
浄土真宗は一般的には戒律のゆるい宗教と考えられがちですが、善行に対するごまかしを許さない点では、他の宗教より厳格だと言えそうです。


吉本隆明氏が本の中で述べているように、親鸞の思想は、われわれがコンビニでアフリカなど海外の貧しい子供たちのために募金をした際に感じる、あの説明し難いモヤモヤした感情の正体について、とことんまで突き詰めて考えているのです。


悪人正機」の例でも分かるように、親鸞は人間の判断や行動の結果なんて、念仏を唱えた時に得ることのできる阿弥陀如来の御加護に比べれば大した問題ではない、という極端な思想を持っていました。彼自身の言葉で言う絶対他力、身も蓋もない言い方をすれば、万事他人任せ運任せ。「他力本願」という言葉もここから生まれたそうです。



「善行も努力も気が向いた時にしたかったらすればいい。でも、だからって何もないよ」



してもしなくても同じだけどしたいんだったらすればいいさ、というゆるいスタンス。



戒律の厳しい時代にこんなこと言うのは死ぬほどハードル高かっただろうし、逆風もあったと思います。破戒僧めが、と。
現代人から見ても、親鸞の考え方は努力不要論に見えなくもないし、即座に受け入れ難いのではないかと思う。「自分は楽してあとは全部天任せかよ」っていうね。



善人でも悪人でも、念仏を一度でも真面目に唱えるだけで誰でも浄土に行ける。


このような信仰の簡略化には、当時の社会状況が大きく関係しています。


親鸞の生きた時代は、貴族と農民の貧富の差が激しく戦も絶えなかったこともあって、人の「命の値段」が恐ろしく安くなっていました。早い話、生きることそれ自体が無理ゲー化している過酷な時代だったわけです。


本来ならば、宗教ってそのような人達を救済する受け皿として機能しなければならないのですが、当時主流だった天台宗の教えでは、長年に渡る厳しい修行を経て始めて悟りを開くことができるとされていました。


天台宗には「千日回峰行」という荒業があることで有名だ。

大峯千日回峰行 達成者の僧侶が過酷な修行を振り返る - ログミー



何でわざわざこんなことをするのかというと、要するに自身の肉体を徹底的に痛めつけることで幻覚やエクスタシーを生み出し、即身成仏(生きながら仏と同じ状況になること)したと勘違いするためです。それが悟りを開く唯一の道だとされていた。


これが本当だったら、ごく限られた人間しか救いがないことになってしまいます。そうだとしたら、毎日の生活で手一杯の庶民は何を頼りに生きていけばいいのか分からなくなってしまう。


彼らのニーズを満たすために生まれたのが法然の浄土宗であり、その思想をさらに徹底させた親鸞浄土真宗なわけです。

「厳しい修行なんかしなくたって、念仏さえ唱えれば浄土に行けるよ」


もちろん、彼らの思想にも色々と問題があり、それが理想の仏教の形とは言えません。


しかし、「絶対他力」の思想が当時の社会を生きた生身の人間の苦悩と向き合い、それを反映したものであったことは確かです。



翻って、現代はどうだろう。


今の日本では、親鸞がいた時代のように飢え死にしたり、ある日突然始まった戦で命を落としたりということはないけれど、精神の方面だけ見れば、それほど変わらない気がします。昔だったらなかったようなストレスも増えた。


書店の棚には自己啓発書がズラーっと並んで、「努力をして他人との競争に勝たない限り生き残るませんよ」とわれわれに語りかけてくる。


先日、新しい大統領が決まったアメリカ合衆国では、日本よりもさらに多くの自己啓発書が書店の棚を占領しているとのことです。


今回の大統領選でドナルド・トランプに票を投じたのは、自己啓発書の中にあるような見せかけの希望を嫌というほど口の中に突っ込まれてきたにも関わらず、結局何一つ自分たちの置かれた辛い現実が変わることがないことに絶望した、そんな人々だったのではないか。


そのような世界情勢から、あらためて親鸞の他力の思想について考えを巡らしてみると、『歎異抄』の内容がより今ここに接近するなぁと感じたのでした。