そのイヤホンを外させたい

ジュブナイルの衣をかぶった人生哲学の書/小野不由美『十二国記 月の影 影の海』

現在中学2年生で卓球部の練習に燃えている従姉妹の娘に好きな小説をたずねたら、「十二国記!」という答えが返ってきた。

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)


小野不由美の作品はこれまで手に取ったことがなかった。

今思えば、自分はこの小説家を無意識のうちに避けていたのかもしれない。

原因はおそらく、漫画家の藤崎竜だ。
彼は『十二国記』と並ぶ彼女の代表作である『屍鬼』の漫画版を描いている。

屍鬼 1 (ジャンプコミックス)

屍鬼 1 (ジャンプコミックス)


おれは、小学4年くらいの時に藤崎さんの代表作『封神演義』を読んで「知的バトル」の何たるかを知ったが、自分と同じようにこの作品にハマっていた同級生の女子連中が大の苦手だったのだ。

簡単に言えば、ヨウゼンやテンカといった男性キャラを現実のアイドル並みに崇め立てることによって「イタい自分」を巧妙に演出し、スクールカーストの中の隠れ蓑とするのが、そやつらの常套手段だったように思う。とてもインチキ臭かった。

そのような藤崎漫画の読者に対する生理的な嫌悪感が、いつの間にか作品そのものに対する嫌悪にすり替わり(ごめんなさい)、漫画の原作者である小野不由美という小説家にまで拡大していった。おかげで、アラサーになるまで、「小野不由美=勘違い処女が好む小説家」という認識が消えなかった(ごめんなさい)。


さて、ここまで失礼なことを書いてしまったらもう後は褒めちぎるしか道はないように思うのだけど、実際読んで抜群に面白いのだから何の問題もない。

『月の影 影の海』は、十二国記シリーズの記念すべき第1作であり、昨今人気の「異世界転生もの」の走りである。

が、本作の読み応えはそれらの後発作品とはだいぶ違っている。

異世界なのにドン底


本作の印象を一言で表現するとすれば、「ビターな教養小説」になるんじゃないかと。

異世界に放り込まれた主人公陽子の直面する状況がとにかく過酷なんです。この素晴らしい世界に祝福をどころの話ではない。

舞台設定が現実とは異なる以上、ある日突然知らない世界にやってきた主人公が右往左往する場面はこの手の作品の定番だと思うのですが、本作はその「右往左往」がこれでもかってくらい徹底して描かれています。

紙幅で言うと、文庫本上下あるうちの上巻全部と下巻の冒頭あたりまで世界の輪郭が見えてこない状況で、ただただハードなサバイバル生活が続きます。

夕方近くに起きて、あてもなく歩き、夜を戦って過ごす。寝る場所は草叢で、食べるものはわずかの木の実で、それで三日を数えた。


なんて記述がさらっとされるような主人公の孤独な旅が延々と描かれる。


「小説家になろう」に投稿されるいわゆる「なろう系ファンタジー」では、読者に手っ取り早くカタルシスを与えるために、最初から主人公最強だったり反則的な特殊能力を持っているといったチート設定がされていることが多い。「俺TUEEEEEE」ってやつですね。

本作の陽子も、物語の冒頭で景麒(ケイキ)から剣とそれを振るうための能力(正確には戦闘の際陽子の肉体を操る幻獣)をもらいはするのですが、彼女の行く先を示してくれる協力者が現れないため(現れても結局裏切られたりする)、「なろう系ファンタジー」特有の無双感が全く見られない。「俺TUEEEEEE」ならぬ「私YOEEEEEE」状態です。

優しくて強い小説

ファンタジックな設定はこの物語の衣装にすぎない

これは、解説中にある北上次郎さんの言葉。
核心を突いた批評だと思う。


本作や栗本薫さんの「グイン・サーガ」などもそうですが、ひと昔前のファンタジーには、読者に自分自身の生きる目的や姿勢を深く考えさせるような問いかけ通奏低音としてあったと思うのです。優しさと強さを同時に兼ね備えた包容力のある作品が多かった。物語を読むことによって、エネルギーを自分の中にちょっとずつ溜めていく感覚を読者が持つことができた。


それに比べて、今の「なろう系ファンタジー」は、読者に「溜め」を促すというよりかはガス抜きとしての「抜け」を提供する作品が多いかなと思う。

前者に比べて後者が劣っていると言いたいわけではありません。

昔と今では世の中の空気というものも全く違うし、仮に今十二国記のような正統派の教養小説が出てきても、なんだか胡散臭く感じて、内容にスッと入っていけない読者も多いはず。

小説家の問題意識のあり方は彼らの属する時代によって異なります。今の作家たちは今の読者の心情に最も響くような形を模索した結果、あのようなスタイルに到達したのだと思います。それは、とても自然で健全な読者と作者の関係性です。

とは言いつつも、やっぱり、昔と比べて物語の役割って味気ない方向に変わってきたよねぇ。ちょっと寂しい。

それでも、物語を糧に生きていく


小説、延いては物語を読むことの効用が「溜め」→「抜け」になってしまった理由は、昔と比べて社会と、その中で生きるわれわれ一人一人の心の余裕がなくなってきたからじゃないだろうか。

効率重視の世の中で、すぐに役立つかわからない長たらしい小説をわざわざ読む暇が多くの人にはないのだ。どうせ本を読むんだったら、著者の主張が明白で速読もできる自己啓発書を読んだ方が得ですし。何かしらの見返りがないと本を読まない。みんな読書で成功したがっている。

そんな世の中の風潮に逆らってまで小説を読んだり書いたりといった鈍臭い行為を続ける人は、まぁちょっと変わってるかもしれない。

でも、本作の最後で陽子に備わったしなやかな強さと、選ばれし者としての風格は、やはり小説的な鈍臭い手続きを経ることでしか備わらないし、理解もできない代物じゃないかとおれは思います。

彼女が景麒に言う作品冒頭の「許す」と最後の「許す」では、言葉としての重みが全く違うことに読んだ人は気づきます。

小説を読んで心を耕す。
そんな時代遅れのライフハックの今日的意義をあらためて考えさせられました。

余談ですが、久しぶりに従姉妹の娘に会ってその成長に驚いたのと、「従姉妹の子供」って正式には何ていうのだっけ? という素朴な疑問が湧いたので調べたところ、「従姪(じゅうてつ)」と呼ぶらしい(従姉妹の息子の場合は「従甥(じゅうせい)」。

本作の中で陽子の肉体の中に入り込んで彼女のピンチを救う幻獣の名前は「冗佑(ジョウユウ)」です。なんか似てませんか? 一読を勧めてくれたマイじゅうてつに感謝です。ごきげんよー。