そのイヤホンを外させたい

現代小説家はそれぞれがゲリラ戦を展開している

少し前の話になるが、『文藝2017年秋号』上にて「現代文学地図2000→2020」という特集が組まれていた。


これは、90年代後半から今に至るまでの文芸シーンの変遷をたどると共に、これからの来るべき作家について各人が好き勝手に私見を述べるという内容になっていて、バブル崩壊以後の日本文学史をおさらいするのにもってこいの読み物だと思う。

細分化する現代日本文学


本特集は90年代以後ということで、当然、大江健三郎中上健次も対象外である。作家で見た場合、村上龍村上春樹のダブル村上以降の作家ということになる。


僕はここに取り上げられたこれからの作家たちの作品をあまり読んでいないのだが、批評家、ライターの方々の説明を読む限り、以前にも増して文学作品の細分化が進んだのだなぁとつくづく感じた。


細分化とはどういうことかというと、僕個人の理解で言うと、ある作家について何の予備知識もない状態で作品を読んだ場合、それがいったい何について、何に向かって書かれたものなのか容易に理解できないことが増えることを指す。


そういった意味で、ここ数年の芥川賞受賞作があまり売れないのもある意味では仕方ないことだと思う。小説を多く読んできた人でも読む作品によっては「なんじゃこりゃ?」と戸惑ってしまうんだから。


最近だと、村田沙耶香コンビニ人間』はそこそこ話題になったが、あれは30過ぎてコンビニでアルバイトする独身女性の生活という題材がまず分かりやすかったのと、文章自体も純文学にしては珍しく平明だったことに起因すると思う。表面上は一般にもウケるリーダビリティの高さを維持しながらも、一方では社会通念を鼻で笑って通り過ぎるような巧みな人物造形がある点でとても魅力的な作品だったと思う。


しかし、現在の大体の純文学は普通の読者からすると理解に苦しむ。それが良いとか悪いということではなく、ただそういう状況にあるのだと思う。

「ニッポンの小説」は酔っ払っている


高橋源一郎柴田元幸の対談本に『小説の読み方、書き方、訳し方』というのがあり、その中に非常に感銘を受けた箇所があった。


高橋源一郎は、80年代以降、作家で言えば中上健次分水嶺として、「日本の小説」は「ニッポンの小説」とでも呼べそうなものに変化したと言っている。

高橋: 「ニッポンの小説」とたとえば戦後文学とどこが違うかっていうと一概には言えないんですけど、やっぱり言葉が壊れてるとしか言いようがない。酔っ払っているというか(笑)。内容はわりと単純な話で、恋愛小説だったり普通の物語、……まあ物語がないものももちろんあるんですけれども、基本的に文章の問題なんです。つまり内容ではないんですよね。 (p159より引用)


曲がりなりにも小説を好んで読む自分にとって、この発言はそれまで言い表せなかった感覚を的確に言い当ててくれるものだった。酔っぱらっている。まさにそんな感じ。ウルフやジョイスなんかのモダニズム文学の理知的な壊れ方とはまた違うんだよねぇ。

高橋: 大文字のテーマというものは何でも「これに対して抵抗するぞ」というふうに否定形で語られるテーマなんです。で、それがなくなってきた時作家の側は、結局個別に対処するしかなくなったんだと思います。それまでは戦闘が集団戦だったんですね。だから○○派だとか○○軍団みたいになっていたけど、いまやもう全部ゲリラですよね。だから各人が各人の裁量・才覚でそれぞれの場所で好きなように戦いなさいって(笑)。とすると武器は文章しかない。 (p160~161)


現代作家は既に個別の闘争に移行している。


現代文学地図」は、確かにここ20年ほどの日本文学史のおさらいの意味では大変重宝する。だが、全体的に地下鉄サリン事件や3.11の東日本大震災などの社会的事象に対して文学がどのような返答をしてきたのかという大文字の視点で話が進むので、これまで以上に個別化、多様化したであろう新しい作家群について語る上ではこぼれ落ちる要素も多く、力技の総括になってしまっている気がした。


それはさておき、作家の側が集団戦から個人戦になったということは、おのずと読者もそれに呼応した形に変わっていくのだろうか。もちろん、小説を読むのは一人の作業だから表面上はそれまでと何ら変わらないだろうけれど、たとえばネットでお気に入りのブログを読むような感じで文学が読まれるようになったらそれはそれで楽しいかなと思う。


さしあたり、あまりにも新しい作家の作品読んでないので今後はゆるゆると読んでいこうかなと思っている。