そのイヤホンを外させたい

虚妄としてのアメリカ/柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』

時間を見つけて英、米の小説を読んでいきたいなぁと考えています。新しい作品に挑戦してみたり、お気に入りの作品を再読してみたり。


今回はその前哨戦として、柴田元幸さんによる『アメリカ文学のレッスン』を読んだ感想です。

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)


著者は、10個のキーワードに沿ってアメリカ文学の大筋を述べています。


キーワードを並べるとこんな感じ。


・名前
・食べる
・幽霊の正体
・破滅
・建てる
・組織
・愛の伝達
・勤労
・親子
・ラジオ


キーワードだけ見ると「何のこっちゃ?」ですが、実際に通して読んでみると痒い所に手が届く内容になっています。


僕は本書を読んである一つの認識を得ました。


それはアメリカという国は徹頭徹尾虚妄なのであり、その結果アメリカ文学的な想像力は虚妄の「脱却」、もしくはその盲目的な「追求」に力点が置かれていることが多いということです。


例をあげると、マーク・トウェインの『ハックル・ベリーフィンの冒険』。これはアメリカ文学の出発点とも呼ばれる記念碑的な作品です。


「名前」というキーワードに紐付けられて紹介される本作の特徴として柴田さんが指摘するのは、主人公なのに全く出しゃばることのないハックという浮浪児の身の処し方です。


ハックは物語の中で様々な騒動や珍事件に巻き込まれますが、その大半は向こうからやってきたものでありハック自身は出会った人間に対して自分の名前を明かしさえもしません。これはトム・ソーヤーとは対極の性格上の特性です。


ハックと黒人逃亡奴隷のジムはミシシッピー川上の筏生活を謳歌しますが、その快適さは彼らと彼らの乗る筏の外の世界の隔絶が生み出したものです。


振り切ったと思いながらもいつの間にか筏の上に侵入してくるその外の世界。それこそがアメリカであり、そこに暮らす人々が作り上げた虚妄の社会というわけです。

ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)

ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)


ハックのように虚妄に背を向けて無垢な視線で真実を捉えようとする主人公がいる一方で、それに果敢に挑戦しアメリカン・ドリームを達成する主人公もアメリカ文学ではよく描かれます。


『白鯨』のエイハブ船長、『グレート・ギャツビー』のジェイ・ギャツビー、『アブサロム! アブサロム!』のトマス・サトペンのような強烈な存在感を読者に残す主人公たちは、不屈の精神力で自身の野望の達成を目指します。


もちろん、彼らがしているのは鯨を追いかけたり豪邸で連日パーティーを開いたり南部の田舎町に荘園を作ったりなんていう超個人的な事柄ですが、小説全体を眺めればそのいささか滑稽にも見える繁栄と没落の人生模様はアメリカという虚妄の追求になり得ています。


いくらか最近の作品で言えば、レイモンド・カーヴァートマス・ピンチョンのそれも、意識的ではないにせよ虚妄としてのアメリカを見据えたものになっているように僕には思えます。


彼らの場合、上のような脱却と追求は当てはまらないかもしれません。カーヴァーの場合は「静観」、ピンチョンの場合は「疑惑」といった感じでしょうか。

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

アメリカ文学をアメリカという大きな枠組みとの関係性のみをもってからしか見ないのは、一面的な解釈であり危険と言われても仕方がないと思います。しかし、まだ全然作品数を読めてない自分にはこの認識の発見だけでも十分な財産となりそうです。