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蛇の出す刺身は食べる気にならない/川上弘美『蛇を踏む』

蛇を踏む (文春文庫)

蛇を踏む (文春文庫)


第115回芥川賞を受賞した作品です。


僕は作者の川上弘美さんに個人的に恩がある。


高校生の時、現文の授業で川上さんのデビュー作である『神様』を読んで純文学に開眼した。


それまで、漱石の『こころ』のKの自殺場面の抜粋や志賀直哉の『城の崎にて』など教科書に掲載されている名作を読んではいたものの、これがつまらなくてつまらなくて……。何が良いのかさっぱりわからなかった。


でも『神様』は違った。熊と一緒に川原に行く、という「熊」という一点のみが非日常であとは徹頭徹尾日常を貫くこの短い作品には、教科書的な文学にはない魅力があった。


教室の窓から外を見ると、晴天の下で白いユニフォームを着た野球部連中が午前中にも関わらず砂ぼこり吹き荒れるグラウンドをせっせとランニングしていた。ウチの高校は強豪だったから部員数も多いしよく朝から練習していた。ただグラウンドの砂ぼこりだけは凄くずっと改善しなかった。そんな風景が今でも記憶に残っている。


『蛇を踏む』は、語り手であるサナダさんが職場に行く途中に偶然蛇を踏んでしまうところから始まる。

踏まれたらおしまいですね


蛇自身がそう言っていることから、何か決定的なことが起こったであろうことは間違いないけれど、サナダさん当人としてみれば、それは日常の中で生じる些細な事柄の一つに過ぎない。


川上作品においては、日常性と非日常性、あるいは人為的なものと超自然的なものの間が常にフラットにつながっているので、登場人物は日常から非日常へと軽々と越境していく。

蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった。


という一節が暗示するように、本作における「蛇」が何のメタファーであるかを無理やり解釈しようとするのは、いささか野暮な読み方だと思う。


「蛇」は母であり、他人であり、ここではないどこか、魅惑的な世界へ語り手を誘う使者であるらしい。しかし、結局のところそれが良いものなのか悪いものなのかどうかは判然としない。


ただ、サナダさんが蛇との生活に一時的な安穏を得ている反面、一抹の畏怖の念も抱いていることが細部から伝わってくる。


たとえば、刺身。

「ああおいしい」女も言って自分のコップにつぎ足し、それを見た私もまた飲み干してつぎ足し、じきに瓶は空っぽになった。
「もう二本冷やしてあるのよ」女はつくねを皿に取りながら言う。
気味が悪かったが、つくねがおいしそうなので私も皿に取った。女はどんどん食べる。少しだけ箸でつついて汁が出たので、つい食べた。自分でつくったような味だった。つくねを食べてはビールを飲み、いんげんを食べてはまたビールを飲んだ。しかし刺身にはどうしても箸をつけられなかった。蛇が並べた刺身かと思うと、どうにも気味が悪かった。女は醤油と山葵をたっぷりとつけて刺身もどんどん食べる。
(p16より引用)


つくねもいんげんもビールも問題ないけど、刺身だけはどうも気が乗らなくて箸をつけることができない。


些細なことだけれど、これはサナダさんと蛇の関係性を考えるにあたって注目すべき点だと僕は思うのです。


蛇は蛇らしからぬ面倒見の良さで語り手を魅了し誘惑するけれど、つまるところはやっぱり冷たい体表を持つあの蛇なのであって、決して全幅の信頼を寄せていい相手ではない。


その原始的な畏怖のようなものが、『今昔物語』などの大昔の説話にも通じるような普遍性もあって……。


作者の持ち味であるほのぼのとした文体に蛇的なひんやりとした触感が浸入してくる感じが絶妙な作品でした。