そのイヤホンを外させたい

ゆとり世代にとっての“国民文学”はなにか

 

今読んでいる本の中に、団塊ジュニア世代にとっての“国民文学”は『機動戦士ガンダム』という記述があった。

 “文学”という言葉を広義に解釈すれば、この認識は妥当だと思う。文芸誌に代表されるような伝統的な“文学”の枠組みの中で考える限り、“国民文学”という概念はもはや現代には成立し得ない。

機動戦士ガンダム』が団塊ジュニア世代にとっての“国民文学”だとすれば、自分の年代にとってのそれはなにがふさわしいかとちょっと考えてみた。

 僕は1987年生まれ、いわゆる「ゆとり第一世代」である。

真っ先に思い浮かぶのが『新世紀エヴァンゲリオン』だが、正直まだ小学生の自分にあれは難し過ぎた。全体的に陰鬱なオーラが漂っている感じがしてなんだかしんどいな、と。

 あくまでも個人の思い出に基づいた意見なので「私には刺さったよ!」という人もいるかもしれない。しかし、少なくとも僕にとっての『エヴァ』は、自分よりいくつか年上の中高生向けの作品だった気がする。友達の姉ちゃん(高校生)が、エヴァ3号機暴走とその結果としての鈴原トウジの負傷のくだりに興奮してるのを見て横で引いていた。それがトラウマになったかは知らないけど、全話まとめて観たのは大学に入ってからだった。

 結局、「俺はムーブメントに乗れなかった」という話でしかないのかもしれないけど、ゆとり世代にはそういう人多い気もするのでここでは除外します。

他にもドラクエとか遊戯王カードとか思い浮かんだのだが、前者はもっと上の世代がドンピシャだし、後者はプレイヤーが男子に偏っていたのに加えて、さすがにカードゲームは文学じゃないな、ということで候補から外した。

こんな感じでふるいに掛けていった末に唯一自分らにとって普遍性のある作品を見つけた。

 

それは、ポケットモンスター略してポケモンである。


 1996年発売のこのゲームボーイソフトは、「ゆとり世代」の想像力に多大な影響を与えた“国民文学”と言っていい。

タイトルが示す通り、本作の特徴、醍醐味はモンスターボールによってポケットに入る大きさにできるモンスターを集め、持ち運び、育て、時には他人と交換/バトルするという新しさによる。

当時においては新鮮だったモンスターの「携行」と「交換」の機能は、「ゆとり世代」がその後体験する生活空間の情報化の流れを少なからず予見していた。

本作の流行と時を同じくして、携帯電話が一般家庭にも普及し、それまで家の中にしか存在しなかった電話という機能を個人が気軽に持ち運びできるようになる。

さらには、端末から直接インターネットに接続が可能となることで、地域コミュニティを越えた見ず知らずの他人との交流が一般化する。その発展型としてmixiTwitterなどのSNSが登場し、既存のマスメディアと対立(次第に共生)するようになる。

ゆとり世代」はこの一連の流れを多感な青年期を通じて経験する。その端緒として『ポケットモンスター』のブームがあった。

思えば、90年代後半PCが一般のものとなり、各家庭や学校が不器用なりにも設備を揃えて来る時代に備えたわけだけど、少なくとも自分の周囲ではあまり期待されていなかった。学校のPC室も校舎の片隅に新設されたが、教師も生徒も寄り付かないし、「あの部屋クーラー効いてて涼しい」くらいの認識しかなかった。

その一方で『ポケモン』はみんなやっていて、自分ら的にはそっちの方が新時代だった。通信ケーブル使って好きな女の子からユンゲラーもらう的革命。

「インターネット元年」は1995年らしいのだが、僕個人ひいては「ゆとり世代」の内面におけるネット的なもの、またはその先にある「ソーシャル」の萌芽は、通信ケーブルを使っての今から見ればかなり原始人的な物々交換にあったような気がする。

 

田尻 智 ポケモンを創った男 (MF文庫ダ・ヴィンチ)

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