そのイヤホンを外させたい

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アニメを通じて戦後日本の思想的陥穽を浮き彫りにする/宇野常寛『母性のディストピア』

 

母性のディストピア

母性のディストピア

 

 

2017年は、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』や國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』など、有名どころの批評家、哲学者の著書が立て続けに刊行され、人文書としてはまれに見る豊作の年だったらしい。

 

宇野常寛『母性のディストピア』もその内の1冊。

 

そもそも、一度冷静になって考えてほしい。
この国のあまりに貧しい現実に凡庸な常識論で対抗することと、宮崎駿富野由悠季押井守といった固有名について考えることと、どちらが長期的に、本当の意味で、人類にとって生産的であろうか。想像力の必要な仕事だろうか。
安倍晋三とかSEALDsとかいった諸々について語ることと、ナウシカについて、シャアについて語ることのどちらが有意義か。答えは明白ではないだろうか。
何もかもが茶番と化し、世界の、時代の全てに置いていかれているこの国で、現実について語る価値がどこにあるというのだろうか。いま、この国にアニメ以上に語る価値のあるものがどこにあるのだろうか。(p9より引用)

 

一見現実逃避的な主張から始まる本書だが、実際には戦後アニメという特異な表現形式について徹底的に思考を深めることによって、戦後日本社会が陥った袋小路の構造を暴き、それについての処方箋となるような想像力のヒントを模索するという意図のもと書かれている。過去の著者の本の中では最も社会的、政治的な問題意識を含んでいる。

 

「母性のディストピア」とはなにか。それは、戦後この国が一貫して陥ってきた思想的陥穽を指す。自分を無条件に承認してくれる「母」の膝の上で甘えながら「父」になることを夢見続ける未成熟な少年の似姿としての社会、矮小な父性と肥大した母性の結託によって近代社会としての成熟を永遠にキャンセルし続ける絶望的な状況を著者はそう呼び表す。

 

本書の大部分は、その「母性のディストピア」にそれぞれの戦略で対峙した宮崎駿富野由悠季押井守の3人のアニメ作家の代表作を論じている。

 

僕は熱心なアニメファンではないので、各作品の分析の妥当性についてははっきりしたことは分からないのだけれど、少なくとも著者の論旨は終始明快であり、門外漢である自分でも興味をそそられる内容だった。

 

本書の記述には政治と文学、公と私、現実と虚構、生活と芸術、映像の世紀とネットワークの世紀、冷戦の時代とテロの時代、市場とゲーム、「アトムの命題」と「ゴジラの命題」などなど、二項対立の図式が多く用いられ、著者の提示する世界認識を説得力のあるものにしている。

 

こうした割り切りの良さ、バッサリ感は、『リトルピープルの時代』や『ゼロ年代の想像力』にも少なからずあった特徴で、評論家としての欠点、弱点を同業者から指摘されつつも、東浩紀以後の数少ない集客力のある論客として著者が一定の読者を獲得している理由でもある気がする。一昔前の文芸批評にあったような時代と並走する感じが著者の批評文にはある。

 

ただ難点をあげるなら、ネットワークの世紀、拡張現実の時代に突入した後の世界における虚構の可能性として「ゴジラの命題」の有効性を指摘し、『シン・ゴジラ』における世界を情報の束として解釈する80年代から90年代前半のオタク的知性の復権を叫んでいるのには少し違和感を持った。

 

これは、僕自身が『シン・ゴジラ』に全然乗れなかったというのがまずあるのだけど、錯綜するネットワークの世紀、テロの時代を超克する想像力のヒントがあの映画にあるようには思えない。逆に自分は『シン・ゴジラ』に関して庵野秀明のアニメ監督としての思想的退行を見た思いがした。

 

また、最後に著者が提唱する「中間なもの」についてもう少しページを費やして説明が欲しかった。たぶん、この思想は東浩紀の「観光客」や國分功一郎の「中動態」と共鳴する時代的な要請だと思うので、ぜひ次作でその可能性について詰めてもらいたいと思った。

 

やたらと実効性ばかりを問われる昨今において徹底的にアニメについて考え続け、より良きものを探る、という著者のブレない姿勢に励まされました。