そのイヤホンを外させたい

映画『ブラック・スワン』に見る面白い悲劇の作り方


ダーレン・アロノフスキー監督『ブラック・スワン』は、観る人によって評価が分かれるものの、ぼくは比類のない傑作だと思っています。


自分がこの作品の何に魅力を感じるのかというと、それは、力強いプロット、ラストの鮮烈なカタルシス、そして何よりも作品全体から感じ取れる気品にある。


これらは物語を書く上で、特に悲劇を書く上で作品の成否を分ける普遍的な要素であると言えそうなので、その成り立ちについて少し突っ込んで考えてみたい。感銘を受けた作品というのは、解剖したくなるものです。

アリストテレスによる悲劇の定義


古代ギリシアの哲学者アリストテレスは『詩学』の中で、悲劇とは、一定の大きさをそなえた完結した高貴な行為のミメーシス(再現または模倣の意)であると述べています。


そして、悲劇からはどのような種類の喜びを求めてよいというわけではなく、悲劇固有の喜びを求めなければ感情のカタルシス(浄化)を達成することはできないとも説明しています。


では、アリストテレスの言う悲劇固有の喜びとはどのようなものでしょうか?


いくつかの要素が絡み合っていますが、端的に言ってしまうと、悲劇固有の喜びとは、幸福に値する人間が不幸になる、もしくは、不幸に値しないにも関わらず不幸に陥る人間に対するあわれみと怖れの感情から来る内的な覚醒のことです。


ブラック・スワン』の主人公ニナは、幼い頃からクラシックバレエの練習のみに打ち込んできた優等生です。彼女は自分自身のためにも、自分を生むためにバレリーナの道を諦めた母親のためにも、『白鳥の湖』でプリマ(主役)を演じることを心の底から願っています。彼女は目標達成のためなら努力を惜しまない優れた人格を持っており、その生き方には不幸に値するような要素はほとんど見られません。しかし、彼女はその真面目さ、優れた人格ゆえに自分に与えられた黒鳥のパートを演じる中で次第に心を病んでいくのです。


アリストテレスは、悲劇の登場人物は性格的に劣った人よりも優れた人物に設定しなければならないと断った上で、彼もしくは彼女の顛落の原因は彼ら自身の邪悪さによるのではなく、大きなあやまちによるのでなければならない、と言っています。そのような条件を満たした作品は、最も悲劇らしい悲劇という印象を観ている側に与えるのです。

何よりも大事なのはプロット


悲劇で最も重要なのは出来事の組み立て、筋です。現代の言葉で言えばプロットですね。


筋(プロット)は悲劇の原理であり、いわば魂である、とまでアリストテレスを言い切っています。
古代の哲学者がなぜここまで筋(プロット)を重要視していたかと言うと、それは彼が芸術作品の美は大きさと秩序にあると考えていたからです。


悲劇は、始め、中間、終わりの三幕で構成され、なおかつ観客の目からその全体を見渡せる長さのものでなければなりません。この考え方は、現代のハリウッド映画の創作方法にも深く浸透しており、もちろん『ブラック・スワン』も同様のメソッドで作られています。本作では、劇場の看板バレリーナであるベスの引退から、ニナが新たな『白鳥の湖』のプリマに抜擢されるまでが第一幕。理想の黒鳥のイメージを兼ね備えた奔放な女性リリーとの交流を経て、その結果精神に異常をきたしたニナが自分の中の黒鳥に目覚め舞台上で完璧な演技を披露するまでが第二幕。その代償に白鳥として現実に致命傷を負わなければならなくなるまでが第三幕といったところです。

外的な目的、内的な欲求


ハリウッド映画の観点からもう少し。


脚本家志望必携の書、ニール・D・ヒックス『ハリウッド脚本術』によれば、物語の人物には「外的な目的」と「内的な欲求」の二つがあると述べられています。


「外的な目的」とは、人物の実際の行動目標のことです。例えば、銀行強盗をするとか、野武士から村を守るとか、カジキマグロを捕まえるとか、自分の元いた時代に帰るとかいったような具体的な行動です。


一方「内的な欲求」というのは、その「外的な目的」を達成することによって解決される人物の内面の葛藤を指します。


ブラック・スワン』のニナに関してこの二つの欲求を考えるならば、以下のようになります。


外的な目的: 『白鳥の湖』の黒鳥のパートを完璧に演じ切ること。

内的な欲求: 利己的な母親に縛り付けられた自身のアイデンティティーを解放すること。


面白いのは、「外的な目的」の達成が登場人物を不幸に導く結果になるとしても、「内的な欲求」が同時に満たされているならば、ある意味においてその人物は救われるということです。


ニナは黒鳥を演じることに最終的に成功しますが、それは彼女の肉体の破滅をも同時に意味します。しかし、彼女は喝采の中、「完璧」という感想を漏らし満足の表情を浮かべます。このような逆説的な内面の救済のあり方こそ、優れた悲劇が観客におよぼす最大の効果と言えるでしょう。

筋(プロット)を彩る様々な要素


悲劇の構造の要となる部分については、上に書いた通りです。ですが、物語を作る上ではその他にも様々な演出、アリストテレスの言葉で言えば「装飾」が必要とされます。


ギリシア悲劇で言えば、音楽や衣装またはコロスの役割がこの「装飾」に当たります。その他には、英雄の身体に生まれながらにして何らかの印が刻まれているというのもそうです。それらは、メインプロットの持つ劇的効果をより一層高める働きをします。


ブラック・スワン』は、「装飾」の点で見ても非常に優れています。


まず、クラシックバレエという題材が魅力的で設定勝ちしてると思います。自然劇中に流れる音楽も秀逸なものばかりですし、ニナを演じるために一年間肉体トレーニングに励んだというナタリー・ポートマンの鍛え抜かれた筋肉のしなやかさ、その緊張のバランスに目を奪われます。


印という点においては、ニナは幼少の頃から母親から受けるプレッシャーで自身の背中を爪で引っ掻いて傷つけてしまうという悪癖を持っています。その引っ掻き傷は、次第に黒鳥的な邪悪さに支配されていく彼女の未来を暗示する象徴とも言えそうです。


加えて、本作はサイコスリラーというジャンル映画の特色も兼ね備えており、物語の筋(プロット)をよりキャッチーでポップな形で届ける工夫が見られます。映画レビューなどを読むと、本作をジャンル映画という観点からでしか捉えていないものが多々あり少し残念です。サイコスリラーというのは作品を彩る「装飾」の一つに過ぎません。


有名作なので既にご覧になった方も多いかと予想しますが、物語を書く上で参考にもなるし、単純に面白いのであらためてオススメしておきます。


アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

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