そのイヤホンを外させたい

社会に対してベタになると死ぬ/トークイベント:宮台真司×二村ヒトシ『希望の恋愛学』を語る

 

先日、社会学者の宮台真司さんとAV監督の二村ヒトシさんによるトークイベント『希望の恋愛学』を語るに参加してきた。


場所は下北沢にある世田区立男女共同参画センターらぷらす研修室。変な名前。

 

 

僕は知らなかったのだけれど、二人によるトークイベントはこれで通算4度目になるらしい。


それもあってか、とても自由な雰囲気でナンパやAVをはじめ色々なことに話は飛んでいたのだけど、二人が言わんとしてることはアプローチの方向は違えど共通しているように感じました。


自分的に気になった部分をちょっとまとめてみる。


目次

 

 社会は単なる“なりすまし”

 

まず、二人の話の大前提となっている考え方が二つ。

 

・個人にとってこの社会で生きることはそもそも“なりすまし”に過ぎない。


・真の性愛や猥褻は常にその“なりすまし”社会の外側に位置するものである。

 

大昔に人類は狩猟・採集の生活から農耕・牧畜の定住社会に移行した。


そのような社会においては、共同体を崩壊に導くような個人プレーは制度によって厳格に管理される。安定した生活を維持するには集団を乱すような逸脱は極力排除しなければならない。


しかし、人間には理性もあれば本能もあるので、常に統制のとれた社会の中で生きることに抵抗を感じる人種も当然のように出てくる。


そういった人々の鬱屈を晴らすために昔の共同体が用意したのが、定期的に行われる祝祭だった。自由セックスありのお祭りですね。


制度化された集団の外にガス抜きもしくは生物としての本来性への回帰の場を設けることによって、社会の秩序を保ってきたという長い長い歴史が人類にはある。

 

社会の外側に本当の自分に帰れる場所があるからこそ、人は動物とは異なり理性的な集団生活を営むことができたんですね。


現代でも、スケールの差はあれどそのような浄化の営みは機能していたのです。


ところが、宮台さんが言うには90年代後半のあたりからそのへんの事情が変わってきたという。


社会に100%調和するクソ人間の増加


社会というのはもともと人間の作ったものなのでよく見ればほころびも多いし、テキトーに対処してお茶を濁してしまえばいい事柄も実は多かったりする。
 

だが、近頃は欠陥だらけの世の中に必要以上に同調し、その結果他人への攻撃に走ったり、ストレスから精神を病んでしまう人が増えた。


「性で幸せになれない人間は制度に走る」

「権利の獲得と性で幸せになることを混同する人間が増えた」

 

2つとも宮台さんの言葉なのだが、どちらも同じことを言っている。


社会で最適化できれば自分は性愛においても満たされるという勘違いが多くの人に共通認識になっているということです。


こういう人はどちらかというと男性に多いのではなかろうか。


社会的なポジションをチラつかせることでしか女性を口説く術を知らないおっさんや、相手を物格化することで女性から性愛における表面上の快感だけを得ようとする恋愛工学性も上の最適化人間に該当するだろう。


だが、仮に社会というとんちんかんな枠組みの中で他人を思うがままにコントロールすることができたとして、そんなことに最大幸福を感じてる人間は色んな意味で不自由でありクソですよね。


二人が口を揃えて言ってたことであり、僕自身もあらためてそう思った次第だ。

 

社会に対してベタにならない


二人の話の中で一番に良いなと思った言葉です。


われわれは望むと望まざるに関わらず、今ある社会の中で生存していかなければいけない。毎日働いてちゃんと飯を食っていかなければならない。


でも、だからと言って社会に対して全面的信頼を置く必要はない。なぜなら、いつの時代だって人間性全てを包みこむ完璧な社会なんてなかったかし、たぶんこれからもありっこないからである。


本物の自分は社会の外側にしかいない。
その事実をちゃんと理解している人間だけが時々そこへ出かけて行って自分にとって大事な何かを獲得し、もといた場所に帰ってくることができる。


行きて帰りし物語」のリアルバージョンというわけです。僕はテクニックとかマウンティングなどよりこちらの方が好きですね。

 

*何度も話題に上がったカンパニー松尾さんの作品が非常に見てみたくなりました。今度借りてみます。

*(懇親会も楽しく飲み食いさせていただいた。ありがとうございました。)

 

社会という荒野を生きる。

社会という荒野を生きる。