そのイヤホンを外させたい

匿名ブロガーの本懐

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まだ記事数も十分ではないが、ブログの運営方針について現在思っていることをここらで書き留めておきたい。


わたしはブロガーがブログそのものについて言及することに全く抵抗を感じないし、むしろ必要なことだと考えています。小説家や詩人が「小説とは何か?」、「詩とは何か?」という自問自答を繰り返しながら創作者としての階段を一段ずつ上っていくように、ブロガーも「ブログとは何か?」ひいては「文章とは何か?」「言葉とは何か?」という素朴な疑問に答える努力をすることで成長するのではないでしょうか。まぁ、スケールの違いは否めないし、そもそもブログを書くことに意味を見出そうとすること自体間違ったことなのかもしれないけれど。


先日、Twitterアルファブロガーが書いた記事がリツイートで回ってきた。記事の内容としては、「ブログ飯が盛り上がってるけどブログは儲からない。お前らいい加減目を覚ませ!」みたいな耳慣れたもので、流行をまぜっ返すような毒のある言い回しもあってか多くの人に読まれていた。内容に関してはおおむね異論はないのだけど、書き手のフラストレーションの蓄積が文章の節々から感じられ、正直読んでいて気分が悪かった。だから、この記事にもリンクは貼らない。癪だから。興味ある方はググればすぐ見つかると思うので読んでみて下さい。


後味は悪かったものの、上の記事を受けてブログというメディアの持つ価値についてあらためて考えさせられました。ブログで稼ぐことがこれほどまでに重要視され飽きもせずに繰り返し議論される理由は、お金が人類不変の関心事であるということが一つと、否定できない事実として、ブログがある程度の金額までなら努力次第で稼げてしまう、ということがあると思う。例えば、好んで詩を書いたり絵を描いたりしている人が自分はそれで食っていく、と宣言したとしてもほとんどの人は見向きもしないだろう。なぜなら、十中八九その夢が果たされないことを皆が知っているから。ところが、ブログに関しては現実にそれで生活費を稼ぎ出してしまう人間が少なからずいるものだから安定志向の人々の気持ちは掻き乱されることになる。そもそも他人事だから妬む方が悪いんですけどね。


いっそのこと、ブログから得られる収入なんて全部なしにしちゃえば、風通しが良くなっていいのではないか。いや、そもそも初期のブログってそういうものだったようです。今よりずっと牧歌的なものだったのにいつの間にかあり方が変わってしまった。だから、古参ブロガーと自称メディアクリエイター(新世代の若手ブロガー)の論争があれほどまでに白熱するわけで。


わたしはこのブログに、レビューを書いた本や映画のアフィリエイト広告を貼っているし、今後無理しない範囲でSEO対策も意識していこうかなと思ってる身なので、「フリーランスになってブログで稼ぐ!」のような風潮はむしろ歓迎です。でも、だからと言って、収益を生み出さない個人の日記ブログに存在価値はないかというと全然そんなことはないとも思っています。あぁ、どっちつかず。ブロガーのはしくれとしてもうちょっと尖った発言をしたいところですが、こういう白か黒かの二者択一って不毛ですよね。どちらもはっきりと選ばないまま個人のさじ加減でバランスを取った方が一番良い結果につながる気がする。小説で言えば、純文学とエンターテイメントの違いのようなもので、近年ではどちらも書ける越境的な作家さんもチラホラ出てきており線引きも曖昧になってきているので、ブログに関してもそこまで神経質になる必要はないような気がする。書く時の気分によって検索需要を意識するか否かを逐一判断すればそれでいいと思う。究極何書いたっていいんだからさ、ブログは。


しかしそうは言っても、わたしは自分の行為に何らかの意味を見出さないと落ち着かないめんどいタイプの人間なので、「なぜブログを書くのか?」という問いに対しては、ざっくりとした形でもいいのでひとまずの解答を持っておきたい。ではあらためて、「なぜわたしはブログを書くのか?」。金のため? 大いにあり得る。だが、それだけでは問いの半分も答えたことにならない。もしかしたら、自分は「ブログを書く」、または「文章を書く」ことによって生存競争とか社会的成功とは異なる地平での成長を望んでいるのかもしれません。カッコつけですが。


タレントのビートたけしの母親は早いうちから子供たちに熱心な教育を施したことで有名だ。だが、彼女の最大の功績は机上の学問を授けたことではなく、貧乏でも胸を張って生きていくことができるのだという事実を身をもって示したことでした。スーパーの値下げ商品のワゴンに殺到する人々を離れた場所から指差して彼女は幼いたけしに言った。「あのような人間になってはいけない」。わたしには彼女の人生哲学はあまりにストイックで弱冠息切れがしますが、それでもその潔い態度に憧れを抱きます。(ビートたけしの母親のエピソードは今手元に本がないため大体の記憶です)


生きる上で真に必要なのは、金でも名声でもなく美学、ロマンだ。なぜなら、金も名声も簡単に自分を裏切るから。自分を裏切らないのは自分でこしらえた信条だけである。ブログを書いていく中で、ずっと曖昧だった自分の人生に対する感覚が、わずかながらでも磨かれていく。そんな充実感を得ることができたら幸いです。


案の定抽象的な内容になってしまったけれど、ブログについて考えていることはひとまずこんなところです。また何か気づきがあったら付け足していこうと思う。

純文学ワナビーは必読。『響 〜小説家になる方法〜』の感想

厳しいーなぁ…

っとに、なんだったら売れんだよ。

芥川賞作家の肩書き持っててもこれだもんなぁ。

つーか最近は、受賞作ですら厳しいっスからね。

これ以上悪くなんねーだろって状況なのに、毎年きっちり更新してくれるなぁ。

っとに、

出版不況で漫画が売れねーとか言ってっけど、正直、こっちのほうが百倍厳しい…

どーなんのかなあ文芸は……


『響〜小説家になる方法〜』第1巻第1話「登校の日」より引用



現在スペリオール誌上で連載中。

3巻までしか出てないけど、これ、面白いです。



バクマン』の純文学版って感じかな。バリバリのエンターテイメントである少年漫画の世界と違って、純文の世界は感性重視というか万人に通じる必勝法がないところが面白い。天才は論理では説明できないものだってことがよく分かる。


                                                                              

こんな話


文芸の衰退を嘆く出版社の新人賞に、ある日募集要項をガンムシした手書き原稿が送られてくる。

開封もされずにゴミ箱行きとなった原稿を興味本位で読んだ女性編集者の花井は、『お伽の庭』と題されたそのアマチュアの小説に強い感銘を受ける。

作者の名前は鮎喰響。住所も年齢も職業も性別も電話番号も封筒には書かれてない。やる気あんのか? しかし、才能だけは本物なようだ。

鮎喰響の小説は出版界を、いや世界を変える。そう直感した花井は、何んとかして鮎喰と連絡を取り、掲載にこぎ着けようとするのだが……。


文芸にスターのいない時代

                                                                

「同じ人間が30年間トップにいる業界なんて異常です」



花井が先輩の編集者に言う印象的な台詞だ。



同じ人間とはもちろん村上春樹(作中では祖父江秋人という春樹としか思えない小説家が登場する)を指している。確かに、ここ数年に渡る春樹ブームは見てて複雑な気持ちになる。春樹の小説はわたしも大好きだし、彼の小説がこんなにも評価されるのは喜ばしいことだ。でも、他にも面白い作家いっぱいいるよ! とも同時に思うんですよね。メディア露出が少ないだけで単行本がすぐ絶版になっちゃう純文学作家がなんと多いことか。もったいない。まぁ、春樹はメディア露出は極端に少ない作家なので「それが実力」と言われればどうしようもないけれど。




太宰治のようなスターが再び登場すれば純文学も息を吹き返すはず……!


この時代に文芸誌買って読んでる物好きでも、そう考える人は少ないのではないか。小説で世界を変えるなんて所詮は夢物語。しかし、ほぼほぼ絶望だと分かっていても心の隅では大番狂わせを願っている。規格外の新人の登場を待ち望まずにはおれない。天才は遅れた頃にやってくると言いますしね。本作は、そんなあきらめの悪い純文学フォロワーの期待を裏切らない内容です。


自由を体現する小説家


主人公の響は確かに稀に見る天才です。ですが、フィクションの世界にはこれまで数え切れないほどの数の天才の姿が描かれてきたので、わたしは彼女の奔放な振る舞いを単なる天才の類型としか見れませんでした。よくいる天才、というのは言い方が矛盾している気がしますが、まぁ響はそんなよくいる天才の一人です。



わたしが魅力的に感じるのは、響のような型破りな存在に触れることで自身の才能について悩んだり、一度失った創作への情熱を取り戻したりする彼女の周囲の小説家たち(あるいは小説家の卵)の姿です。



彼らももちろん純文学というマイナーなジャンルを志す人間ですから、現実社会とは相容れない部分を例外なく持っています。普通に生活してるように見えても何となくギクシャクしてしまう。しかしそれでも、響のようにフリ切れるまでには至らない。その針がフリ切れないという不十分な点に彼らの人間としての魅力もあるし、同時に才能に関する課題もあるのだと思います。響という少女を通じて彼らの小説観、延いては人生観を知るのは、小説が好きな自分自身のことも客観的に見るかのようでした。「何で小説なんか読むんだろ?」そんな素朴な疑問が頭の中に浮かび、あらためて考えさせられた。が、結論は出ず。



上で軽くディスってしまった感のある村上春樹が、少し前に『職業としての小説家』という本を出しました。その中で、個人的に印象に残ってる一節があります。

小説というのは誰がなんと言おうと、疑いの余地なく、とても間口の広い表現形態なのです。そして考えようによっては、その間口の広さこそが、小説というものの持つ素朴で偉大なエネルギーの源泉の、重要な一部ともなっているのです。だから「誰にでも書ける」というのは、僕の見地からすれば、小説にとって誹謗ではなく、むしろ褒め言葉になるわけです。

村上春樹『職業としての小説家』p15より引用


小説を書くというのは、新規参入のハードルがないに等しい行為です。それは例えるなら風通しの良い大きな広場であり、入りたい人は誰でもウェルカムな状態を常に保っています。



しかし、万人に分け隔てなく解放されているからこそ、その場所を去っていく者もまた多い。何を書いても自由であり、実績を残すための定まった方法論もないというのは、表目上はのん気に見えても、裏では言い訳の許されない実力の世界です。時に自分を上回る圧倒的な才能を見せつけられ、一文字も書けなくなってしまうこともあるかもしれません。それでも、春樹の言葉を借りれば、社会の中の「自由人」としてのスタンスを崩さない小説家という人種は、潔くて素敵な存在だなぁと思います。



祖父江凛夏ちゃんを応援してます


わたしがこの作品で一番好きな人物は、人気作家祖父江秋人の一人娘祖父江凛夏ちゃんですね。彼女は影の主人公だと思う。



日本を代表する小説家を父に持ち、何でも卒なくこなし校内の人望も厚い彼女ですが、響の特別な才能を目の当たりにしてアイデンティティクライシスに陥ります。この先文壇にデビューしてどんな小説を書いていくのか。果たして親友の響とは異なる形で小説家としての自身の確固たる地位を築くことができるのかが大変気になるところ。こういう器用だけど二番手に甘んじざるをえない人の葛藤ってシンパシーを感じます。応援したい。響と二人でデビュー作で芥川賞同時受賞なんていう展開になったら楽しいなぁ。



コミックスの第4巻は6月末発売。待ち遠しいわー。


職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

異世界転生小説は新時代のピカレスク小説なのか?


「異世界転生小説」をご存知だろうか?


宮部みゆき東野圭吾といった一般文芸をメインに読んでいる人には聞きなれない言葉かもしれませんが、ライトノベルやウェブ小説の世界では王道の物語形式です。


簡単に説明すると、現代日本で暮らすパッとしない主人公がひょんなきっかけで中世ヨーロッパ風ファンタジー世界に召喚され(あるいはその場所で新たな生を受け)、元いた世界とは打って変わって大活躍する。そんな夢物語を描いた作品群の総称です。


トールキンの『指輪物語』や栗本薫の『グイン・サーガ』のように、主人公が異世界の住人(異世界ネイティブ)である従来のハイ・ファンタジー作品とは違い、資本主義以後の価値基準を持った現代人を主人公とした点がこのジャンル一番の特徴です。


試しに小説投稿サイト「小説家になろう」にアクセスしてみれば、読者の人気を獲得し、ランキング上位に掲載されている作品のほとんどがこのジャンルであることが分かるはず。異世界転生小説は一貫して絶大な人気を誇っているのです。


わたしはつい先日までオリジナルの小説を書こうと目論んでいたこともあり、このジャンルの作品を書いて同サイトに投稿してみようかと一瞬考えたりもしました。結局、ライバル多過ぎと思ってすぐやめましたが。笑


作り手の側からすると、現代の人間を主人公とする異世界転生小説には、


1.読者の共感を得やすい
2.異世界の設定を主人公目線で説明しやすい
3.単純に作者が書きやすい


という3つのメリットがあるようです。門戸は広いもののそのぶん作者の力量が問われるジャンルと言っていいでしょう。



さて、ここからが本題。
人気作のいくつかに目を通してみて、自分が昔読んでたファンタジーとはずいぶん変わったよなぁという感慨に打たれました。


主人公が異世界に飛ばされるという設定自体は90年代頃からもう既にあった(小野不由美さんの『十二国記』とかTVアニメの『モンスターファーム』とか)。だから、その点に関してはそれほど変化を感じない。でも、召喚、転位、転生する主人公の人となりが昔と比べて大分即物的になっていると感じました。はっきり言ってしまえば、どいつもこいつもゲスばっかなんです。笑 なんでこうなっちゃったんでしょう? おそらく、理由は二つある。


目次


〈理由その1〉読者層の高年齢化


まずファンタジーというジャンルの定義を明確にしておきます。


ポルノ小説家兼ライトノベル作家鏡裕之によれば、ある作品がファンタジーと呼べるか否かを判断する基準には、


1.資本主義成立以前の世界が、メインの背景
2.少年や少女が楽しめるように配慮されている

参考:『鏡裕之のゲームシナリオバイブル』


の2つがあるそうです。


この基準と異世界転生小説を照らし合わせてみた場合、1は合致しているが2については必ずしも当てはまるとは言えない。


確かに、現在ウェブで人気を博している異世界転生小説は、表面上は従来のジュブナイルファンタジーの型を忠実になぞったものである。しかしある程度読んでいけば分かることなのですが、そこに主人公(少年少女)の成長物語が描かれることは稀です。


異世界転生小説の主人公は、「俺TUEEEE」や「チート」と呼ばれる反則的な属性をはじめから持っており、異世界の社会秩序を自分の都合の良いように容易に改変することが可能です。これは、「無垢」が主人公の特性としてあった従来のジュブナイルファンタジーとは180度異なる設定ですよね。


従来のジュブナイルファンタジーにあった「ビルドゥングスロマン(教養小説)」としての顔が、異世界転生小説には決定的に欠けている。


このような変化の理由には、ライトノベル市場における読者層の高齢化があると考えられます。


80年代後半〜90年代の十代にかけてライトノベルを嬉々として読んでいた世代が、現在20代後半〜30代でそのまま継続してライトノベルを読んでいます。読者の年齢層は変わったものの、読者その人は元のままなんですね。


サラリーマンの給料日である毎月25日か末日の夜に大型書店に足を運び、ライトノベルもしくはウェブ小説の棚を観察してみて下さい。棚の前で、少なくない数のスーツを着た男性が商品を物色する光景を目にすることができるでしょう。


彼らが現今の異世界転生小説の主要な読者層です。作家も思春期の少年少女ではなく、目の肥えた大人の男性(その大部分は独身)向けに作品を書くようになる。結果、自ずと作品の主人公の心性も彼らの共感を呼ぶようなものに変化していきます。昔に比べてゲス度が高い主人公像には、現代日本社会で暮らす独身成人男性の厄介なルサンチマンが影響しているのです。


〈理由その2〉高度経済成長の終わりと企業の年功序列制度の廃止



高度経済成長と会社内の年功序列制度が終わりを迎えたことによって、ビジネスパーソンとしての成人男性の日常は今やかつてないほどストレスフルなものになっています。


飯田一史『ウェブ小説の衝撃: ネット発ヒットコンテンツのしくみ (単行本)』は、右肩下りを続ける出版業界におけるウェブ小説の可能性に注目した本です。本書によれば、異世界転生小説は、世界でも稀に見る労働時間の長さを誇るサラリーマン男性が過酷な日常を忘れて一時の安らぎを享受するのに最適なコンテンツだと説明しています。


彼らが求めているのは、成長や教訓ではなく、自身の低い収入や社会的な地位に対する慢性的な不全感を解消してくれるような読んでスカッとする物語です。そのための一番手っ取り早い要素として「俺TUEEEE」、「チート」、「ハーレム」などのテンプレが生み出され、類似した作品が量産されています。


飯田一史はこのような状況を、イギリス小説史においてチャールズ・ディケンズが果たした役割を引き合いに出すことで好意的に解釈していますが、わたし自身は正直疑問です。そんなのファンタジーって呼んでいいのか? なんて思ってしまう。架空の物語とは言え、自分たちの都合のいいようにしか世界を見ることのできない小説って違和感があるなぁと。一読者のわがままかもしれませんが。

異世界転生小説の新たなトレンド


以上のように、現状の異世界転生小説は独身成人男性の欲望を充足するためのツールとしてはとても優秀ですが、機能を重視するあまり小説としてのコクが足りないように感じられる。


じゃあ、どうすれば小説として進化させることができるのでしょう?


この質問に対する現状のわたしと答えは、「ジャンルの再定義」です。


どういうことか。
異世界転生小説のベースはファンタジーです。これは言うまでもありません。ですが、上に書いたように今やかつてのジュブナイルファンタジーとは全く別物になってしまっている。混じり気のないファンタジーではなく、多くの不純物が含まれている。


そこで「ファンタジーである」という事実を一度脇に置いておいて、その不純物に注目してみた結果あることに気づきました。



最近の異世界転生小説ってピカレスク小説っぽいんですよね。


ピカレスク小説家は悪漢小説、悪者小説とも呼び、16世紀〜17世紀にスペインを中心に流行した小説の形式。(Wikipediaより引用)

その特徴について見てみると、

1.一人称の自伝体
2.エピソードの並列・羅列
3.下層出身者で社会寄生的存在の主人公
4.社会批判的、風刺的性格
5.1〜4を持った上で写実主義的傾向を持った小説を指す。
(Wikipediaより引用)

とある。
1〜3を見ただけでも異世界転生小説とピカレスク小説の相性がかなり良いことが分かっていただけるだろうか。


「小説家になろう」に投稿される異世界転生小説の9割は一人称独白形式だし、ストーリーも忙しい現代人がスキマ時間に読み流せるよう一話ごとに山場を作って無理のない分量でまとまっている。さらに主人公も、ニート社畜、おっさん、オタクといった現代日本社会の中の底辺の人種ばかりである。4は作者のセンスと勉強次第でどうとでもなる事柄だ。5は「写実主義的傾向」というのが具体的に何を意味しているのか謎なため、この際無視していいと思う。


「小説家になろう」や最近オープンした「カクヨム」で異世界転生小説を書いていきたいという人は、ファンタジーという枠に必要以上に目を奪われるのはやめて、ピカレスク小説としての面白さを追求してみてはどうでしょうか。もしかしたら、これまでとは切り口の異なるユニークな作品が書けるかもしれませんよ。


実は、既にそれっぽい作品がいくつか世に出てたりします。転生した主人公が闇の陣営に属する作品も以前より多くなってきました。まだ下火ではあるけれど、新しいトレンドは絶えず生まれ続けているようです。サイト内の流行を一夜の内に変えてしまうような記念碑的な快作の出現を待ってます。


魔王の始め方 1 (ビギニングノベルズ)

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ウェブ小説の衝撃: ネット発ヒットコンテンツのしくみ (単行本)

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『進撃の巨人』を読んで個人の自由について考えた

進撃の巨人(19) (講談社コミックス)

進撃の巨人(19) (講談社コミックス)



進撃の巨人』が面白い。
何を今更?
世間でこんなにも人気を集めているというのに。


いや、それでもコミックとアニメの劇場版にあらためて目を通してみて、そのバトル漫画としての面白さと高いテーマ性に圧倒されました。作品が時代と握手してる感じがする。これは面白くならないはずがない。


目次


家畜は自分の不自由に気づかない


壁の内に追いやられてから100年、人類は一時的な平和の期間を通していつの間にか巨人の脅威を忘れ去っていました。たまにエレンのような変わった奴が彼らの危機意識の欠如を指摘してもガキの戯言としてしか受け取らない。「今まで大丈夫だったから」という何の根拠もない理由にすがって自分の頭で考えることを放棄している。そんな折、突如出現した超大型巨人によって壁はあっけなく穴を空けられてしまう。

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「一生壁の中から出られなくてもメシ食って寝てりゃ生きていけるよ……でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか……」
諫山創進撃の巨人』第1巻より引用


エレンのように自分に置かれた環境の理不尽さに気づける奴ってレアなんですよね。大抵の人間は疑念を持っていてもその感情を押し殺してぬるま湯の現状で妥協する。たとえそれがかりそめのユートピアだったとしてもです。だって敢えて口に出して人と違うこと言うのって面倒だし絶対叩かれますからね。


「それじゃまるで家畜じゃないか」
エレンの言葉は思考停止に陥った人々に対する辛辣な批評です。家畜は持ち主の手によって生かされてはいるけど死んで肉にされるまで自分の不自由に気づくことができないんです。


無知は不自由に直結する。
漫画の世界だけでなく我々が暮らす競争社会では、物を知らないというだけで多くのチャンスを失います。


例えば労働問題なんかにしても、日本人は当たり前のように休日返上でサービス残業してあり得ないほど超時間働いている人が多いですが、アメリカに目を向けると、仕事に関する考え方が良い意味でドライなことが分かる。彼らは会社が自分に何のリターンももたらさないと知るとすぐに出ていきます。ハードな仕事に従事するとしてもそれは一時のことであり、後からそこで得た対価をちゃんと自分や家族の生活に還元します。間違っても日本人のように会社への無駄な滅私奉公はしません。会社と従業員の立場は対等です。実際に目にしたわけではなく本で読んだだけでもこのようなことが分かります。これって知ると知らないでは雲泥の差がありますよね。知は力なり。


自由には困難が伴う


実際のところ、自由を求めるのはごく一部の命知らずな変人に限られます。調査兵団のメンバーみたいなね。彼らは現状に甘んじることをせず、壁の外の未知なる世界への探究心を失わない改革者の集まりです。


とはいえ、自由を手にするにはそれなりの責任が生じます。大多数の人間の空気に抗って自分だけ違うことをするとあらゆる方面から反発を受ける。麻酔なしで手術を受けるようなもので非常に痛いわけです。調査兵団に入団した新兵の五割は第一回目の壁外遠征で巨人に喰われます。その難関を乗り越えたものだけが、生存率の高い優秀な兵士へと成長していく。


何か新しいことを始めるのってなかなかつらいですよね。資格の勉強するにしても小説書くにしても副業するにしても、自分の望む結果が出るのかも判然としないまま忍耐強く続けなきゃいけない。やる理由よりもやらない理由の方が多く感じられる。めんどくさい。楽して勝ちたい。


でも、最後までやり遂げる人はちゃんといます。大多数の人が途中で諦めるのにも関わらず。


なぜか? 


成功した時の形ある見返りのためというのももちろんあるでしょうが、たぶんそれ以上に、周囲の空気に同調して楽をするより自分の意志に基づいて行動する方がずっと楽しいからだと思います。自分で頭で考えて決めたことなら結果うまくいかなくても胸を張って次に進めますから。


それでも自由を望んだ個人が結果手にするもの


自由のために困難に立ち向かった個人への最大の報酬、それは裁量権だとわたしは考えます。自分の意志で判断し行動する権利があれば人は幸福を感じることができる。


しかし、まだ右も左も分からないうちから闇雲に意思決定をする人に真の裁量権があるとは言い難い。せっかく自分の意志で決めてもその全部が的外れでその人に不利益しかもたらさないのであれば元も子もないです。


正しい選択をするには知識と経験の両方が必要です。多くを知っていること、選択するための能力があること、その二つが揃って初めて個人の裁量権は確立する。前者については、「無知の知」なんていう哲学の言葉があるように、自分が知っていないということを知ることが一番難しい。後者については、やはりそれなりの苦難に遭遇して逆境の中で自問自答を繰り返すことが大事かなと思います。人って残念ながら追い詰められないと自分の頭でものを考えないようにできています。


もちろん自由を求めないのも自由


ここまで不自由からの脱却、裁量権の獲得の重要性を書いてきましたが最後にちゃぶ台をひっくり返すようなことを。


そんなに気を張りつめて自由を望む必要ないです。嫌なら。


だって不自由に甘んじる自由だってあっていいはずでしょ。自由を求める人間が偉くてそうじゃない人間が偉くない、みたいな考え方は一方的で息苦しいしそれ自体が不自由な発想だとわたしなんかは思います。そもそも自由って個人の主観でしかないですから第三者が見て判断できるものじゃない。刑務所の中にいる人だって自分を自由だと思う人は百パー自由です。

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周りにかけ替えなのない家族、友人、恋人がいれば、いや別にそれすらいなくても、自分自身の尊厳を大事にして生きることさえできればハッピーです。そのためにはやっぱり裁量権が及ぶ範囲は広い方がいいよね、という話です。みんな同じ、でもみんなと同じじゃダメ。そんなアンビバレントな心意気を自分の中で両立させる余裕を常に持っていたいものです。

オレ達は皆
生まれた時から自由だ
それを拒むものがどれだけ強くても
関係無い
炎の水でも 氷の大地でも
何でもいい
それを見た者は
この世界で一番の自由を手に入れたものだ
戦え‼︎
そのためなら命なんか惜しくない
どれだけ世界が恐ろしくても
関係無い
どれだけ世界が残酷でも
関係無い
戦え‼︎
戦え‼︎
戦え‼︎
諫山 創進撃の巨人』第4巻より引用
自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)




ブログ名変更のお知らせ

ブログの名前を変えた。失恋してロングヘアーをばっさり短く切る女子のような心境で。


題名に私自身の願望が如実にあらわれているなぁ。


理由は、約3ヶ月の間頑張ってみたもののまともに小説が書けなかったことによる。そんなバカな……。


掌編めいたものはポツポツと書き始めても納得のいかないものばかりですぐに筆を止めてしまう。そもそも書いていて全く手応えが感じられない。おかしいな? 向いてないのかな? 結局自分が楽しいと思えないことを無理してやっていてもいずれ限界が来るだろうと思いやむなく中断した。


ショック。満を持して取り掛かったのでこんなはずではなかったという思いが強い。


しかし、まぁいっか。書けなかったことは事実。今回はその実感に素直に従うことにした。一旦諦める。


できなかったことを悔やんでいてもしょうがない。間を空けずに別のことをしよう。別のことって? 二、三日考えた末、地道に既存のブログを更新していくという面白みのない結論に落ち着いた。フツー笑。いや、もうなんか僕は普通のことがしたい。曲がりなりにも生きてきて世の中に必勝法なんてないことは十分理解できたつもりだ。それに今更ながら気づいたが、ブログ書くの結構性に合ってる気がする。


これまでの人生至るところで寄り道を繰り返してきた自信があるが、こうなったら気が済むまで寄り道してやろうか。


まだ現段階ではわりと錯綜しているが、一つはっきりと分かっていることがある。


私には言ってやりたいことが山程あるのだ。


上手に言えるか、言えないか、それが問題だ。


途中で飽きてやめるかもしれない。続くかもしれない。それはまだ分からない。とゆーか今考える必要はない。まぁ、ベストは尽くしますよ。イヤホン外させたいですから。生きてるからには。



小説家、大石圭誕生秘話



大石圭、小説家。
1993年『履き忘れたもう片方の靴』が文藝賞佳作となりデビュー。その後、官能、ホラー小説の分野で頭角を現し、角川ホラー文庫光文社文庫を中心に数多くの作品を発表。2003年には、映画『呪怨』のノベライズも担当した実力派作家。


デビュー前、会社員生活を送っていた30歳の大石は、ある晩突然の激しい腹痛と吐き気に襲われた。慌ててベッドから飛び起きトイレに駆け込んで嘔吐すると、吐瀉物は血まみれだった。


翌日、病院に行きレントゲンを撮ったところ、そこには白っぽい不吉な影が写り込んでいた。


「もしかしたら、胃癌かもしれないって」

帰宅した大石が彼の妻にそう告げると、彼女は激しくショックを受けた様子だった。


大石自身、突然の出来事に動揺していたが、不思議と取り乱すことはなかった。来るべき死に備えて、彼は身辺整理をし、遺書も書いた。人はいつか必ず死ぬ。自分の場合、それが思っていたよりも早かっただけ。彼はそう思い込もうとした。


だが、そんな大石の覚悟は良い意味で裏切られることになる。最初の検査から1週間後に受けた胃カメラによる検査結果は「異常なし」。嘔吐の原因は単なる胃炎であった。


この出来事をきっかけに、大石の中で何かが変わった。彼は自分の周りにあるものすべてを、それまでよりもよりしっかりと見、しっかりと聞き、しっかりと実感するようになった。自分の生の時間は限られている、という認識が、彼の生き方を根本的に変えた。


大石が小説家としてデビューするのは、その出来事から2年後のことである。


・もし、あの時、死んでいたら、僕はただひとつの小説も書くことはなかった。そう思うと、今も少しだけ不思議な気がする。もちろん、僕の小説なんて、あってもなくても、世の中には何ひとつ影響はないのだけれど……。
ー『甘い鞭』(角川ホラー文庫)「あとがき」より引用ー


甘い鞭 (角川ホラー文庫)

甘い鞭 (角川ホラー文庫)


小説を読むことは究極のライフハックである



小説家の保坂和志は、過酷な現代社会を個人が生きるために必要なことを訊かれて、「それはたとえばカフカを読むことだ」と述べている。


ごく一般には、人生に役立つ知識やノウハウの意識的な蓄積こそ最も効率的な生存戦略だと信じられている。だがそれではダメだと保坂和志は言う。なぜなら、そのような情報を自分の中に入れれば入れるほど実は対象に飲み込まれていく結果を招くのであるから。その容赦のない力に抵抗するための「カフカを読め」なのである。


・やっぱり、知れば知るほどわからないっていうほうがずっと面白いと思うんだよね。だから「わかった」って言う人に対しては、「浅薄」だって思わなきゃいけない。p25 『考える練習』


小説好きの人間としておれは保坂和志の主張はとてもよく分かるし、より多くの人に同じ価値観が浸透すればいいと思っている。


だが、もし第三者から貴重な時間を費やして小説を読むことの具体的なメリットを訊かれた際には、一体何と答えるのが正解だろうか? 答えに窮して黙り込んでしまうのも困りものなので、ある程度説得力のある回答を示しておきたい。


「そういう質問をしたりされたりすること自体がダメ」なんて保坂和志なら言いそうだが、おれのようなカスは、相手の立場を考慮に入れてある程度向こうのニーズに沿った形で回答を示す努力をしないと、話さえまともに聞いてもらえないことが多々ある。ただ、「大きな力に抗うためです」とキリリと宣言したところで、キモがられるだけだろうし、たぶんバカ認定される。おれはそれがフツーに嫌だ。たとえ対象が語りえない事柄であったとしても、他人と話をする以上こちらの考えを理解し納得してもらいたい。語りえないことに対しては間違っていてもいいから敢えて発言する図太さだって時には必要なのだ。


では、普段小説なんて全く読まない人間に、すぐには利益に結びつかないそれらを手に取ってもらうには、何と言ってアピールするのが適当か?


やり方は人それぞれあるだろうけど、おれ自身これがベストだなって思うのは、流行りの「情報断捨離」の切り口から話を始めることである。


まず、相手の共感を得る。「ネットに常時接続してたり、自己啓発本やビジネス本ばかり読んでたら、だんだん精神的に消耗して感覚死んできますよね?」みたいな感じで。


次に、その精神的消耗の理由をソース込みできちんと説明し分からせてあげる。




チェコ好きの日記」の過去記事ですが、非常に分かりやすくて面白いですね。


すぐ役に立ちそうな目先の知識ばかり追いかけていると、徐々に自分自身の欲望を見極めることが困難になってくる。これは誰もが内心で思ってることですから、説明にはそれほど苦労しないはずです。


自分の意志とは無関係になだれ込んでくる情報の嵐と距離を取ることが第一ステップ。その後、「情報断捨離」のおかげで空いたスペースを利用して自分の本当の欲望を探していくのが第二ステップです。


もし小説を読んで最も何らかの利益を得られるタイミングがあるとするなら、きっとこの第二ステップにおいてでしょう。小説は瀕死の感覚を蘇らせ、個人に真の欲望を自覚させます。断捨離後、ヨーグルトを食べて空っぽになった腸を綺麗に掃除し善玉菌を増やすように、情報断捨離をするわれわれも空っぽになった脳の中に文学という栄養を送り込むことで、より豊かな心を手に入れることができるはずです。どうですか? 一面的ではあるけれど、これならまぁ、相手もある程度は納得してくれるのではないでしょうか。少なくとも小説を読むことは暇つぶしのためだけではない、ということは理解してくれるはず。


まとめ


たとえそれが二日でも三日でもいい、情報を遮断し、ひとつの作品と長い時間をかけてじっくりと向き合う。そんな時間を持つことができれば最高だ。なぜなら、あなたという存在に「違いの分かる感じ」が出てくるから。「違いの分かる感じ」は万能だとは決して言えません。しかし、分かる人には分かってもらえる。そして、分かってくれる人のことをきっとあなたもよく分かる。小説を読むことは、詰まるところ本当の自分を探しにいく旅だと思います。これを本物のライフハックと呼ばずに他に何と呼ぶのか?