そのイヤホンを外させたい

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そのイヤホンを外させたい

文芸を糧に生きるアラサー男子のブログ。

美しき女剣士が妖魔と壮絶な戦いを繰り広げる漫画『CLAYMORE』(クレイモア)を読んでダーク・ファンタジーの魅力を再発見した。

学生時代に7巻くらいまで読んでそのままにしていた漫画『CLAYMORE』(クレイモア)がいつの間にか完結していた。

この一週間で残りを一気に読み終えました。

ダーク・ファンタジーの教科書みたいな作品ですね。こういうクールな世界観好きです。

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本作は、小説にしろ漫画にしろ面白いダーク・ファンタジーを作る参考になると思うので、いくつか書き出してみます。

目次

クレイモアってどんな話?

半妖を題材としたダーク・ファンタジー。
人間を捕食する人外の魔物「妖魔」と、妖魔を倒すために生み出された半人半妖の女戦士「クレイモア」の存在する中世ヨーロッパ的な世界を舞台に、道程を共にする少年との絆や宿敵の打倒のために生きる主人公クレアを中心に、半人半妖の身であるが故の過酷な宿命を背負いながらも己の信念や目的のために戦い続ける女戦士達の姿を描いている。
なお、「クレイモア」とはスコットランドで用いられた大剣の名称で、半人半妖の女戦士達は一様に大剣=クレイモアを武器として用いるため、作中の世界でクレイモアと呼ばれている。

WikipediaCLAYMORE」より引用

ストーリーの緊張感

ダーク・ファンタジーは普通のファンタジーと比べて重いテーマを扱います。
しかし、だからといって読者の肩の力を抜くためのコミカルな要素は不要です。
へたにそういった場面を入れると作品の緊張感を欠き、世界観をぶち壊す結果につながるからです。

ギャグの要素を盛り込んだとして、すぐに軌道修正できれば何ら問題ありません。
ですが、ギャグとシリアスのバランスを取るのはプロ作家でも難易度が高いので素人は避けた方が無難です。

作品に漂う緊張感をいかに最後まで維持することができるかで作品の良し悪しが決まるといっていいかもしれません。

また、作品の長さも重要です。
しかるべきポイントで話を終わらせず、不必要に話を引き延ばしても、これまた緊張感がないものになってしまいます。

DEATH NOTE』や『鋼の錬金術師』など他のダーク・ファンタジー漫画を見ても、人気作にも関わらずわりと少ない巻数で完結させています。
(『DEATH NOTE』全12巻、『鋼の錬金術師』全27巻)

CLAYMORE』(クレイモア)は、連載14年で全27巻。
長期連載の弊害か、15巻を越えたあたりから弱冠の中だるみが感じられますが、最終的には物語としてきちん伏線も回収されており、読者の期待を裏切らない出来になっています。

主人公に必要なものは“代償”

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ダーク・ファンタジーの主人公に不可欠な要素。
それは大いなる力の獲得とその代償としての喪失です。
その力は時に主人公の肉体や精神を蝕む諸刃の剣ですが、それがないと目的の達成は不可能です。

度重なる力の使用によってダークサイドに引き寄せられながらも、仲間たちの援助によっておのれの行くべき道を切り開いて行く主人公に読者は共感するのです。

凄惨かつ華麗な戦闘シーン

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これもダーク・ファンタジーの魅力の一つです。

CLAYMORE』(クレイモア)のそれは、白眉と言っていいでしょう。

美しい女剣士と醜悪な妖魔というギャップが光と闇の対立をより際立たせ、まるでヨーロッパの宗教画を眺めるかのようです。

他作品だったらこれはちょっと厨二病が過ぎると感じる台詞も、その耽美の精神に免じて抵抗なく受け入れることができます。

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ファンタジーだからって安易に魔法を出さない

とは言え気をつけたいのは、美しさを追求するあまりバトルの臨場感が希薄になることです。

たとえば、ファンタジーだからといって反則技的な魔法を主人公たちに安易に使わせるのは禁物です。

過酷な世界を舞台にするダーク・ファンタジーにおいて、魔法のように簡単に敵を殲滅できる“チート"の導入には慎重になり、なるべく地に足の着いた泥臭い戦いを描く努力をするべきです。

CLAYMORE』(クレイモア)とよく比較される『ベルセルク』に関しても、魔法は最近になるまで出てきませんでした。
そして、満をじして登場した際には、読者の想像をはるかに上回る壮絶な破壊力を発揮しました。

鋼の錬金術師』にしても、錬金術には「等価交換」という絶対的かつシリアスなルールが設定されていますよね。

CLAYMORE』(クレイモア)では、一度妖力全開で覚醒してしまうと二度と人に戻れないことになっています。
ここでも、大いなる力にはそれに見合った代償が支払われるのです。

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最悪の敵の存在

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「最強」ではなく「最悪」。
この微妙なニュアンスの違いが大事です。

ダーク・ファンタジーにおける宿敵は、主人公たちが生きる残酷な世界を一身で体現するような邪悪さと危険性に満ちた存在として描くべきです。

最悪の敵との戦いは、主人公にとっては世界そのものとの対峙であり、決別であり、同時に受容でもあるのです。

過酷な世界は高潔な人格を作る

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世の中の退廃が進み道徳、倫理の価値観が揺らげば揺らぐほど、その流れに同調する大多数の人間とは別に、ごく少数の高潔な人間の輝きが増します。

ダーク・ファンタジーの世界で言えば、そのごく少数の高潔な人間こそ、主人公やその仲間たちです。
そして、現実世界で言えばそれは作品を読んでいる読者です。

進撃の巨人』という分かりやすい例を出すまでもなく、ダーク・ファンタジーの過酷な世界とわれわれの生きる閉塞社会は常に陸続きです。そのことを作者は頭の片隅にとどめておいて損はないでしょう。

主人公がニヒリズムを乗り越える過程を描く

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ダーク・ファンタジーの主人公は総じて孤独で「世界は自分を理解しない、自分も世界を理解しない」というニヒリズムに陥りがちです。

端的に言ってしまえば、ダーク・ファンタジーは主人公がそのニヒリズムを乗り越えていく過程を描いたものです。

仲間たちとの交流や強敵との戦いを経てニヒリズムを克服した主人公は、最初の頃と比べて戦闘の際の冷徹な判断力、行動力を欠きます。

しかし、守るべきものがある「弱さ」ゆえの逆説的な「強さ」を発揮して、最終的に宿敵を打ち倒すのです。

なんだか、いかにも少年漫画的な暑苦しいノリになってしまいました。

が、ダーク・ファンタジー作品の肝にはそういう健全さが隠れてるとやはり思う次第です。

美麗なバトル漫画『CLAYMORE』(クレイモア)。
あらためて良作だと思うので、ここにオススメしておきます。

ではでは。

甘美なる歌声は邪魔しない。/鹿島茂『「悪知恵」のすすめ』

こんにちは山中です。

トランプ大統領による外国人入国制限のニュースがメディアを騒がせていますね。
悪い意味で期待を裏切らないというか、今回の出来事をきっかけにこの先ますます世界情勢は泥沼化していくでしょう。

今回の話題含め、外交問題に関する記事を読んでいると、各国の首脳を童話の登場人物に見立てて皮肉ったものをたまに見かけます。

どうやら人種や宗教の問題が絡んでくればくるほど、こうした風刺的な報道が多くなるみたいです。

イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』掲載、グレート・ゲームの風刺画。

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熊(ロシア)とライオン(イギリス)に狙われたアフガニスタン。(Wikipediaより引用)


スウィフトの『ガリヴァー旅行記』なんかを読んでも分かるように、寓話というのは数ある物語のジャンルの中でも、最も生の現実に接近したタフな表現形式と言えます。


てなわけで、今日は寓話の魅力について書かれた本を紹介します。

鹿島茂『悪知恵のすすめ』。
サブタイトルは、「ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓」です。

ラ・フォンテーヌの寓話について

ラ・フォンテーヌの寓話を知っていますか?
自分は名前は聞いたことはあったものの、本書を手にするまでその内容を知りませんでした。

ラ・フォンテーヌは17世紀フランスの詩人で、『イソップ寓話』をもとにした寓話詩を書きました。

著者の鹿島茂さんは本書の冒頭で、フランス文学を研究している人間でもラ・フォンテーヌの寓話を読む人はあまりいないと言っています。

僕自身も本好きの友人が何人かいますが、話題にあがったことは一度もないですね。フランス文学でなおかつ寓話詩っていうとなんとなく甘ったるいイメージを抱きがちで、それほど興味をそそられませんでした。

しかし、実際の作品は自分が勝手に抱いていたイメージとは180度異なります。鹿島さんの言葉を借りれば、「その冷徹ぶりたるや、マキャベリの『君主論』にだって負けない」というのです。なんだかゾクゾクしませんか? 自分はこういうの大好きです。

フランス的とはなにか

本書で紹介されている寓話には、変化の激しい時代を生き抜くためのしたたかな知恵が数多く詰まっていますが、著者いわく、その全てに一貫して流れているのは世界のどこにも類例のないフランス的なメンタリティーです。

一言で要約するなら、それは負け惜しみの美学のようなもの。

本書の冒頭に載っている例をもとに説明します。

イソップ童話』に「キツネとブドウ」というそこそこ有名な話があります。

腹を空かせたキツネが支柱から垂れ下がるブドウを見て取ってやろうと思ったがどうやっても手が届かない。あきらめたキツネは去り際に一言。「あのブドウはまだ熟れていない」。


能力のない人間はできない理由を自分以外に求める。

自己啓発書なんかでよく引き合いに出されるポピュラーな教訓です。

ラ・フォンテーヌの寓話にも同じ話があるそうです。しかし、そこから得られる教訓はイソップのそれと全く異なる。

ラ・フォンテーヌの寓話のキツネは、手の届かないブドウに対して「あれはまだ青すぎる。下郎の食うものだ」と捨て台詞を残します。反応としてはイソップのキツネとほぼ同じです。

が、ラ・フォンテーヌはキツネの負け惜しみを「愚痴をこぼすよりまし」として高く評価しているのです。

欲しいものが手に入らずにもんもんとするくらいなら、「そんなものいるか」と言って小馬鹿にした方が健康的だという考え方。これがフランス流。

見方によってはただ虚勢を張っているようにしか映りませんが、こういう合理的なズルさこそ、リーダーシップや勤勉さ以上に土壇場で自分を救う力になると思います。嫌味じゃない感じでさらっと言えると強いですよね。

白鳥の歌声とガチョウのスープ

最後に、自分好みの寓話を一つ紹介します。


「白鳥と料理人」の話

大邸宅の一角にある飼育園で白鳥とガチョウが暮らしていた。
白鳥は池を優雅に泳いで主人や招待客の目を楽しませた。
ガチョウは、その滋味豊かな肉を主人や招待客に提供していた。
ある日、酔っ払った邸宅の料理人が、てっきりガチョウだと思い込んで白鳥のくびを掴んだ。くびをしめて今夜のスープに入れるつもりである。
白鳥が、美しい声を発して嘆きを訴えたところ、料理人は間違いを悟って手を離した。

この話の最後にラ・フォンテーヌがつけた教訓。

たとえ、重大な危険が迫っているときであろうとも、甘美なる歌声は決して邪魔にはならないのだ。

国の緊急時には芸術は腹の足しにならない最たるものとして見向きもされなくなるのが常だけれど、しかしそんな時でも、いや、そんな時だからこそ、普段すぐに役に立たないものが役に立つこともあるのだ、という戒めです。

文学部を卒業した身にとって、この白鳥の歌の話はなかなか刺さるものがあります。

作り手と受け手どちらにせよ、芸術に関わる人間は自分がやっていることのあまりの実益のなさを嘆いた経験が多かれ少なかれあるのではないでしょうか。

自分もつい最近までしょっちゅう嘆いていました。
「おれはどうして文学部なんて出ちゃったんだろ。会社で役立たない知識ばかり中途半端に詰め込んで一体この先どうなるんだ?」なんて。芸術全般を恨んだ時期もあった。

今もその不安は変わらずあります。でもここにきてようやく、なんの役にも立たないと思っていたものこそ実は水面下で自分を支え続けてくれていたことに気づかされました。

過去の自分は話の中の料理人のように、白鳥をガチョウと勘違いしてくびをしめていただけだったんです。

そんな意味で、この「白鳥と料理人」の寓話の教訓は、ここ最近の自分の心持ちに近いものがあるなぁとうれしく感じたのでした。


それでは。

寓話〈上〉 (岩波文庫)

寓話〈上〉 (岩波文庫)

曼荼羅のように艶めかしく美しい仏教漫画『阿吽』の感想

今日はおかざき真里『阿吽』の感想。


「阿吽(あうん)の呼吸」の“阿吽”がもともと仏教用語だということをはじめて知った。


“阿吽”には、宇宙のはじまりと終わりという意味がある。


圧倒的画力

『阿吽』は、日本仏教史上の二人の大天才、最澄空海を主人公にした仏教漫画だ。

作者にとっては新境地開拓ということらしい。

自分は作者の過去作品を読んだことはないのだけど、恋愛漫画をメインに書かれていた方みたいですね。ガラリと題材変えてきたなぁ。

でも、その方向転換正解だったと思う。

美しい。

少女漫画風な絵のタッチと仏教的な世界観が意外なくらいにマッチしていて、平安時代の妖しげな雰囲気がよく出ている。

密教曼荼羅を思わせる艶かしい画風です。

似た者同士の最澄空海

日本人の教科書を注意して読めば、最澄(767年〜822年)と空海(774年〜835年)の生きた時代が重なっていること、二人が同じ遣唐使船に乗って海を渡ったという歴史的事実を容易に知ることができる。

作者はその教科書的な知識から想像力の翼を広げて、血の通った人間としての最澄空海を活写している。

一見、二人の天才は対照的で共通点はないように感じられる。だが、自身の追い求める真理が既存の日本仏教の中ではなく、海を渡った先にしか存在しないと直感を働かせていた点で二人は似た者同士、まさに阿吽の呼吸をしていた。

自分は仏教にそれほど詳しくないですが、仏教家の良し悪しは、つまるところブッダの言葉をどれだけ広く深いところで解釈できるかで決まるんじゃないかと思ったりします。

最澄空海は共に万巻の書を読んで誰よりも頭に知識を詰め込んだ知識人です。ですが、彼らが宗教家として優れていたのは、知識をそのまま鵜呑みにせずに、そこに自分なりの解釈と経験から得た気づきを付け加えることで、より高次の知恵を生み出す才能があったからではないでしょうか。

本作はあくまでも漫画なので歴史的事実と異なる点も多いですが、実人生を通じて自身の仏教観、宇宙観を練り上げていく宗教家の苦闘を物語を楽しみながら知ることができるので、仏教入門書としておすすめです。

ちなみに、自分は実家がたまたま真言宗豊山派ということで空海に前々から興味があります。

師の代表作『秘蔵宝鑰』も前に読んだ。
角川ソフィア文庫版はとても分かりやすい訳で空海の言葉が頭にスッと入ってきます。

その時書いた記事はこちら。


空海について書いたもので他に分かりやすかったのは、苫米地英人さんの『超訳 空海』ですかね。

超訳 空海 (PHP文庫)

超訳 空海 (PHP文庫)


空海の思想の基本をおさえると同時に、著者らしい新解釈を展開しているのが楽しい1冊です。

自分がこの本で気に入ってるのは、空海の代表的な言葉が50個ほど収録されていることです。

その中から個人的に好きなのを1個引用して今日は終わります。下が訳です。

哀しい哉、哀しい哉、哀が中の哀なり。悲しい哉、悲しい哉、悲が中の悲なり。覚の朝には夢虎無く、悟な日には幻象無しと云うと雖も、然れども猶夢夜の別、不覚の涙に忍びず。

哀しくて、哀しくって。言葉で言い表せないほど、哀しくて、哀しい。
悲しくて、悲しくって。心で表し尽くせないほど、悲しくて、悲しい。
悟りを開けば、何ものにも惑わされないというけれど、現実に愛する人との別れには、涙を流さずにはいられなかったのです。

超訳 空海』p183より引用
原典は『遍照発揮性霊集 巻第八』


それでは、また。

絵本とお金


キングコング 西野 公式ブログ - お金の奴隷解放宣言。 - Powered by LINE


キングコング西野さんの話題について。

多くの方が指摘するように、今回西野さんが取った『えんとつまちのプペル』WEB無料公開は、いわゆるフリーミアムと呼ばれるビジネスモデルです。

WEBで無料で読めるようにすると、みんなそれで満足してしまったってリアルの本を手に取らなくなりそうですが、実際には反対でWEB版だけでは満足できない読者が本買うのですね。

雑誌に関しても、WEB無料公開について最初は反対の声も強かったけれど、フタを開けてみれば売れ行きが良くなった例が多く、今はその有効性が認められています。

西野さんが言うように、お金のない子供がWEBで絵本を読めるようになったり、絵本の流通のしくみに一石を投じることで、保守的な絵本業界で新人作家が生き残る確率が高まるようなことになれば、それは素敵なことです。

でも、上の記事では西野さんと同じように絵本を書いて収入を得ているクリエイターへの配慮が感じられない。メッセージの伝え方があまりにも無神経で子供じみている。

言葉と想像力を使う仕事にたずさわる人間ならもう少しなんとかなるんじゃないの?って自分は思いました。

斬新な発想で次々と新しいことに挑戦していく西野さんは純粋にすごいと感じるけれど、お笑いとか、今回の絵本とか、土俵を同じくする人々の気持ちを軽んじるような発言が多いのはちょっと好きになれないです。


***


それはさておき、自分が上の記事を読んでまず頭に浮かんだのは、ピーターラビットの生みの親ビアトリクス・ポターのことでした。

国も時代も違うけれど、両者には“絵本”と“お金"という共通項があるように思う。

ポターの生涯については、本もいっぱい出てるし、映画にもなっているのでご存知の方は多いと思います。

ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)


出世作ピーターラビットのおはなし』によって絵本作家としての地位を築いたポターは、婚約者の突然の死など人生の苦悩を乗り越えた末に、絵本の舞台にもなっているイギリス北部の湖水地方に移り住みます。

この土地の自然を愛した彼女は、その保護のために絵本の印税収入で土地や建物を次々と購入していきました。それらの不動産は彼女の死後、ナショナル・トラストに寄付されることになります。

絵本作家らしからぬ力業ですよね。
悪意のある言い方をすれば、ポターは自分の愛する土地を守るためにお金に物を言わせたのです。

しかし、だからと言ってポターはお金の奴隷だったのでしょうか。違いますよね。それは結果論でしかない。

ピーターラビットの絵本が大ベストセラーになり作者に富をもたらしたのは、本の内容が多くの読者の心をつかんだからです。ただそれだけです。

真に魅力的な物語と読者の関係においては、たとえそこに金銭のやり取りがあったとしても、「お金の許可」なんてはなから取る必要はないんです。


ビアトリクス・ポターの生涯を知るのにおすすめの作品。観るとちょっと優しくなれる。

ミス・ポター [DVD]

ミス・ポター [DVD]

年収280万の独身アラサー男子が「タラレバ娘」から読み取るべきこと。

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ついに放送がスタートしたTVドラマ『東京タラレバ娘』。

ドラマ化を機に世間的認知度も高まり、職場やプライベートで本作の話題が上がることが多いです。

自分も原作と比較検討しながら楽しく観させて頂きました。

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)


「物足りない」という意見もチラホラあるようですが、個人的には悪くなかったかなと。原作のイメージをぶち壊さないための配慮が行き届いた演出だったと思います。

倫子が早坂にフラれるシーンで彼女の胸に矢が突き刺さる演出は、最初『アリーmyラブ』のパクリやんけ! と思ったのですが、原作確認するとコマ小さいながらちゃんと描いてあります。

意図的なものかは知りませんが、ある程度の社会的地位はあるものの男運には一向に恵まれないアラサー女子の困難な恋愛を描く点では、「タラレバ娘」には「アリー」のDNAが流れていると言えるかもしれません。


作品の中に自分を見出せない問題

ドラマを観てつくづく感じたのは、「タラレバ娘」の世界って自分のような低スペックのサラリーマンにはあんま関係ないよなってことです。俺、年収280万くらいだし。

物語のどこを見ても自分を見出せない。圧倒的お呼びじゃない感に不覚にも傷ついてしまった男性はわりと多いのではないかと思う。『闇金ウシジマくん』を読むのとは別の意味でソワソワする。

だから、「自業自得」「ざまぁみろ」など、本作に対して辛辣な男性読者の意見が多く寄せられるのもうなずけます。

倫子たちタラレバ3人娘の恋の相手として話題にのぼる男性は、商社やテレビのプロデューサー、ミュージシャンなど社会的地位の高い男性ばかりです。

「年も年だし贅沢はしないから結婚相手が欲しい」と口では言いつつも、実際には男性に多くを望み過ぎているタラレバ娘たちの二枚舌に、女性の地位向上を声高に叫びながら、そのくせ都合の悪い部分では旧時代的な価値観や風習に迎合して「いいとこ取り」をしようとする女性の身勝手さを感じます。

「タラレバ娘」がこれほどまでに人気を博したのは、婚活に悪戦苦闘する主人公たちの姿が独身アラサー女子の共感を呼んだことに加えて、彼女らの物質主義的な「ものさし」を心良く思っていなかった男性たちのミソジニー(女性嫌悪)の感情を掻き立てることに成功したからではないでしょうか。

相手にとって「糟糠の妻/夫」であること

でもまぁ、だからと言って男と女どっちが悪いという話ではないです。本作に登場する男性陣は、それが全体の中のごく一部とは言え、なかなかのクズっぷりを発揮していますから。

タラレバ3人娘にしたって、女性全体で考えれば少数派じゃないかと。

あくまでも僕個人の経験ですが、30過ぎてこれほどまで自分本位な恋愛観、結婚観を持ってる女性は稀だと思います。恋愛市場価値の高い20代の内ならまだしも、30過ぎると自分がそれまで「若さ」だけでチヤホヤされていた現実をいやというほど味わうらしい。

一周まわって悟ったような人が多い印象があります。結婚観を訊いても、「一人が倒れたらもう一人がカバーする。そんな夫婦関係でいい」なんて糟糠の妻みたいなことを言ったりしてね。もちろん、現代では糟糠の夫も必要とされるのは言うまでもありませんが。

単純な労働力の増加と生活の負担の分散を目的とした結婚。さっぱりしてはいるけれど、どちらか一方に寄りかかって自分が楽しようとするよりはよっぽど健全な気がします。

幻想としての東京オリンピック

なんだか、書けば書くほどアンチタラレバの色合いが濃くなってきました。

でも、作中に等身大の自分が描かれていないにも関わらず、僕はタラレバ3人娘の迷走に共感する部分もなくはないのです。

よりラブコメチックに傾いてきた最新7巻のKEYくんの台詞にこんなのがあります。

僕はあてのない未来に身を委ねてるヤツらに腹が立つんですよ

タラレバ3人娘には、「自分は次の東京オリンピックまでに結婚して幸せになりたい」という強い願望が共通してあります。

さらに、倫子が仕事場として借りているヴィラ・オリンピアという名前のマンションは、前回の東京オリンピックの際に建てられた築50年以上の老朽化したマンションです。

僕は「オリンピックまでには〜していたい」という目標設定のあり方に、本作の批評性があるように思います。

そもそも、オリンピックを一人身ではなく結婚した誰かのそばで迎えることができれば自分は幸せだと考える根拠はどこにあるのでしょうか?

当たり前の話ですが、次のオリンピックはかつてのオリンピックとは全くの別物です。この日本にしたって、かつての高度経済成長の時期とは違って現在は多くの点で問題を抱えています。まるで老朽化したマンションのように。

それでも、オリンピックという仮のゴールを設定してハリボテの幸福を求めずにはいられない。そんなタラレバ3人娘の姿に、男女論や恋愛ゲームの先にある今の日本人そのものに対する問題提起があるように僕は思います。

それでは、また。

〈関連記事〉

平日休みに行った深大寺が、静かで緑が多くて心が癒された。


月に1〜2回の頻度で平日の休みがある。


平日の休みってどこに行くにしても人が少ないのでお得ですよ。


先日は、ふらっと調布市深大寺に行ってきました。たまにテレビで紹介されてたりしてるのを見て、ずっと気になってたんですよね。


交通アクセスとしては、電車で行く場合、京王線のつつじヶ丘もしくは調布駅からバスで15分〜20分です。自分はつつじヶ丘駅を利用しました。駅前のロータリーから「深大寺行き」のバスが出てるのですぐ分かると思います。


15分ほどバスに揺られた後、やって来ました深大寺


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平日だから人少なめです。
「え、ここ東京?」って感じるくらい和情緒に溢れた古風な街並み。高校の修学旅行で行った京都を彷彿とさせる。

商店街入ってすぐ左にあるのは「鬼太郎茶屋」。ドラマ『ゲゲゲの女房』など話題になりましたよね。

ゲゲゲの女房 完全版 DVD-BOX1

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しかし、前まで行ってみると「月曜定休」とのこと。何てこった。人が少ないのはいいけれど、これが平日休みのつらいところ。


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気をとり直して、先にお参りを済ませることに。


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正門をくぐって本堂へ。
「ブログ楽しく続けられますように」とお祈りしときました。笑


寺院の来歴を少し。
深大寺は、平安時代から関東随一の密教寺院として有名だったそうですが、もともとは水の神様である深沙大王をまつる寺として建てられたそうです。だから、同じ土地に神様と仏様両方いるんですね。特に深沙大王は縁結びの神様としても名高いので、カップルなんかは恋愛成就のために訪れてもいいかもしれません。


さて、お参りの後は周辺をぶらつこうと思い、近くの看板で位置情報を確認。


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いや、絵心あり過ぎ。


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よりポップな感じにするとこう。


深大寺と言えばそばが有名ですが、なんと図にある家みたいなマークは全部おそば屋さんです。激戦区ですね。普段富士そばとかしか食べないのでよりどりみどりはうれしい。


今回は、事前にネットで調べて行きたいと思っていた「八起」さんにお邪魔しました。


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店の外観。雰囲気あってテンション上がります。平日なのに店内盛況でした。


悩んだ末、スタンダードに天ぷらうどんを注文。


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こんなに濃いつゆのそばは初めて。江戸風っていうんでしょうか? そばってわりとあっさりとした味しかバリエーションがないと勝手に思ってたので、これは美味しかったです。また食べたい。


美味しいおそばを頂いて食欲が増進され、店の前で売ってた甘酒とみそ田楽を買って食べちゃいました。


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恥ずかしながら、田楽なる食べ物がこの世に存在するのを初めて知ったよ。


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早い話がコンニャクの串刺しにみそ塗ってあります。これが甘酒と合うんです。寒い日にはもってこいの組み合わせですね。


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近くの店先。
風鈴が売ってて音色が綺麗でした。
小さな女の子がおばあちゃんとお土産選びながらめっちゃはしゃいでました。気持ちわかる。眺めてるだけでテンション上がるよね。


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毎年3月に「だるま市」が開催されて多くの人が訪れるとのこと。今年ももうすぐですね。叶えたい夢がある方など、買いに来てはどうでしょう。


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さらに目的なく周辺をぶらぶら。
東京らしからぬ緑の多さと水のせせらぎの音に心身ともにリラックス。ろくでもないサラリーマン生活をしばし忘れる。


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意味もなく元祖っぽい感じ出てます。


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猫発見。
当てのない散歩と猫ってどうしてこんなに相性が良いのだろうか。


土地自体はそれほど広くはないので、小一時間あればぐるっと見て回れると思います。
鬼太郎茶屋」同様月曜は定休ですが、隣接する神代植物公園に寄るのもありですね。


せっかくの休日、都会の喧騒から離れて一息つきたいけど、旅行するほどの気力もお金もない方にはおすすめの癒しスポットです。


晩年深大寺を好んで訪れたという北原白秋の詩集も今度読んでみたい。

北原白秋詩集 (新潮文庫)

北原白秋詩集 (新潮文庫)

「逃げる」という勇者の戦略

北方謙三による『三国志』、通称「北方三国志」は、サラリーマンの男性を中心によく読まれている印象がある。

僕も昨日第6巻『陣車の星』を読み終えたところなのですが、ここまで来るのにおそろしく時間が掛かっています。

三国志 (6の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志 (6の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)


第1巻『天狼の星』を友達にすすめられて読んだのが22歳の時ですから、第1巻〜第6巻を読み終えるのに7年!も掛かっています。
いくらなんでもペース遅すぎですよね。1冊読み終えると次の巻はまだいいやと思ってしまい、スパンが空いてしまうのです。

でも、第6巻ではついに諸葛亮孔明馬超が登場し、三国志の山場と言える赤壁の戦いに向かって物語が加速するので、ここから先はわりと期間を空けずに一気に読めそうです。

三顧の礼」はもはや普通


この第6巻の見所としてまず挙がるのは、やはり諸葛亮孔明の初登場と「三顧の礼」でしょう。

孔明という俊才を仲間に引き入れるために、年上である劉備が三度に渡って彼のもとに出向いたというエピソードです。

読者レビューを見ても、この箇所に言及されてる方が多い。


一度目に「志」を語り、
二度目に「生い立ち」を語り、
三度目に「情熱」を語る。


なるほど。まぁ、年寄りの好きそうな話ではあります。目下の人間にそこまでする劉備の徳の深さから現代のサラリーマンが学ぶことも多いでしょう。

しかし、今の時代、これってそれほど珍しいことじゃないですよね。

会社の中で自分より年上の部下なんて当たり前のようにいるし、営業マンだって顧客の信用を得るために相手先の会社に何度も足を運びます。「志」語って「生い立ち」語って「熱情」語ってもスキルなければ面接には落ちますし。

そういった意味で、現代人が「三顧の礼」から学ぶことはあまりないのではないかと。
年上、年下に対する敬意や譲歩はそれなりに大切だけど、わざわざ言葉にする時点でもうちょっとイケてない感じがします。

真の見どころは長坂の戦い


僕は、本書の中では「三顧の礼」よりも「橋上」と題された長坂の戦いを描いた章が断然いいと感じました。

劉備軍の軍師として迎えられた孔明
彼による「天下三分の計」は、持てる者に対する持たざる者の生存戦略です。

曹操軍と比べて圧倒的に軍事力の劣る劉備軍を乱世の中で飛翔させるには、先を見据えた戦略をとる必要がある。そのためには一時の敗北も辞さない。孔明のこの考えをもとに展開されたのが長坂の戦いです。

まず、孔明曹操の配下の楽進に戦闘を仕掛けることによって、曹操の目を揚州から自分たちのいる荊州に向くようにします。曹操が同盟国(予定)である呉に先に攻め込むことを未然に防ぐためです。

そして、計算通り荊州に攻め込んできた曹操の二十万の大軍に対して劉備軍がわざとギリギリの逃走劇を演じてみせることによって、江陵という荊州随一の軍事拠点を得た曹操が間をおかずに揚州(呉)に対して攻め込むように誘導します。荊州を平定させた後で時間を掛けてじわじわと揚州を攻められると、いかに呉と同盟を組もうとも勝機がないことが孔明には分かっていたからです。

曹操は、水軍を得た。荊州の兵も得た。兵糧や武器も得た。孔明は、反芻するように思い返した。戦をする条件は、すべて整っている。二十万の南西軍を出しながら、荊州では戦らしい戦はない。あの男が、そんな状態で満足するはずがなかった。
必ず、揚州を攻める。 p275


順を追って説明するとややこしいですが、要するに、猛犬にわざと小石をぶつけて挑発し、自分たちを追ってくるように仕向け、離れた場所にある落とし穴にまで誘導するというのが孔明の戦略です。落とし穴というのは、むろん赤壁です。

自分は現代を生きる個人として、このかなり危なっかしい孔明の戦略をとても魅力的に感じます。

「逃げながら戦う」は現代的

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話は『三国志』から今ここにシフトします。
自分らの暮らすこの社会というのも、『三国志』の世とは違って血は流れないにせよ、既存の価値観が大きく揺れ動く乱世という点では似ているんじゃないかと思います。

ちょっと中二っぽい比較ですが、ホントそう思うので続けます。

移りゆく価値観の中でもネットに接続していて強く感じるのは、以前にも増して「個」の力が強くなったということです。

ユーチューバーとかブロガーとかTwitterインフルエンサーとか、組織よりも影響力のある個人が市場を動かすみたいなことが既に当たり前のように起こっている。

たぶん、この流れは今後世界的にどんどん加速していくでしょう。国の方針はどうあれ、個人としては選択肢の多い社会になっていく。そのぶん個人間の競争は激化するでしょうが。

しかし、それはやっぱりもう少し先の話で、今はその過渡期に当たります。まだ大多数の人は未来に不安こそあれ旧来通りのシステムに依存していているのが現状です。

そんな中、古いシステムに寄りかからず「個」として稼いでいこうって考えの人が中にはいます。

それは誰かというと、大半が現行のシステムからはじかれた「弱者」なんですよね。彼らに先見の明があることは否定しません。ですがそれ以上に、組織になじめないなど、もっと単純で現実的な理由で彼らは新しい生き方を選んでいるように見えます。

この「弱者」VS 旧時代のシステムという戦いがしばらくは続く限り、前者にとってそれは逃げながらの戦いになるであろうことは容易に予想できます。
システムの圧力に屈してただ逃げるのではなく、最終的に勝つことを見越して戦略的に逃げる。そして相手の追跡が弱まったと感じたら、長坂の戦いで張飛がやったように自軍と敵軍の間の橋を落としてしまう。これが、これから先の個人の生存戦略ではないでしょうか。

なんてことを考えつつ、いよいよ次巻は赤壁の戦い。心して一気に読ませていただきます。


逃げながら戦うといえば、これもそのうち読み終えたい1冊↓

アナバシス―敵中横断6000キロ (岩波文庫)

アナバシス―敵中横断6000キロ (岩波文庫)