そのイヤホンを外させたい

京都を舞台にしたポップな哲学散歩小説/原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』

前に本の感想を書かせてもらった哲学ナビゲーターの原田まりるさんが、小説を出したということで買って読んでみました。


物語プラスαの乳酸菌小説

まず、タイトルといい、版元といい、表紙のイラストといい、岩崎夏海さんの「もしドラ」こと『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を彷彿とさせる。

出版不況の昨今、過去の成功例にならってある程度の売り上げを確保することは大事ですよね。読んで面白ければ、タイトルとか売り出し戦略がベストセラーのそれと似ていても文句ないです。

自分は本書のように、小説を読みながら何らかの専門知識を獲得できる物語プラスαの作品を、“乳酸菌小説”と勝手に呼んでいます。

なぜ乳酸菌かというと、ちょっと前にロッテが「乳酸菌ショコラ」という商品を売り出しましたよね。チョコレートの中に乳酸菌が入ってるアレです。

チョコと言えば、甘くておいしくて食べ過ぎると虫歯になる嗜好品の王様です。それに乳酸菌が入るって、すごくエポックメイキングな発明だと僕は思うんです。甘いだけで皆が満足していたチョコに乳酸菌という有用性を付加したわけですから。余計なお世話、もとい消費の革命と言えます。

これと同じ流れが「もしドラ」以降、物語にも生じており、年々刊行点数が増えてる印象がある。

前はこの現象をかなり悲観的に眺めていたのですが、本書含めその手の作品をいくつか読んでみたら意外に楽しく読めた。なんで現在は中立です。

人類の長い歴史からすれば、小説というのはまだ生まれて間もない表現形式だから、今後も柔軟に変化していくのかもしれませんね。

難しい思想を日常にインストール

さて、本書はタイトルだけ見ると1冊まるっとニーチェな感じですが、実際には他の哲学者もわんさか出てきます。あくまでも、現代日本人に転生(憑依?)した形として。

こんな哲学者が登場します。

ニーチェ
キルケゴール
ワーグナー(哲学者ではないがニーチェの因縁の間柄として)
ショーペンハウアー
サルトル
ハイデガー
ヤスパース

哲学に興味があるなら知ってて当たり前なメンツですが、いざそれぞれの思想をサクッと誰が聞いても分かるように説明してよって言われても、それはなかなか難しい。

著者は17歳女子高生のイノセントな視線を通して、哲学者たちの難解な思想を一般人の日常レベルに落とし込むことに成功しています。

ニーチェの「ルサンチマン」を、ティーエムレボリューションの歌詞で説明した部分など、的を射た喩えであると同時に遊び心に溢れていて、他の哲学入門書にないとっつきやすさがある。

哲学は、頭が重くなるものではなくて、心が軽くなるものなのだろうか?
そんなことを考えながら、私は今日起こった出来事を、ゆっくりと思い出しながらバス停へと歩く。
p40より引用

哲学の血肉化

サルトル実存主義のくだりで、哲学は本来人生の意味を考える学問ではなく、さまざまなことに対して疑問を持つことだと念を押しています。

しかし、哲学者それぞれの思想の案内という形を取りながらも、本書の根底にあるのは、人生いかに生きるべきか? という問いに対する現時点での原田さんの応答である気がします。

前作にもあったように、自分自身の人生の困難を哲学の思想を血肉化することによって乗り越えてきた原田さんの経験が、物語の中で描かれる主人公アリサの学びと成長の過程を血の通ったものにしている。

特にハイデガーの章は、哲学者の深遠な思想を知るのにユーモアのある喩え話がとても分かりやすく、長年読むのを保留していた『存在と時間』読みたくなりました。

本書を読んでから、興味ある哲学者の著作などに挑戦すると理解が深まっていいかも。

哲学入門書としてはもちろん、親元を離れて京都で暮らす女子高生の青春がちゃんと描かれている点で、小説としても面白かったです。

ではでは。

現役作家による贅沢な世界文学講義/池澤夏樹『世界文学を読みほどく』

池澤夏樹『世界文学を読みほどく』が、めちゃくちゃ面白かったので感想を書く。

世界文学を読みほどく (新潮選書)

世界文学を読みほどく (新潮選書)


本書はなにぶん大著なため長い間読むのを躊躇していたのですが、ここ最近生活面で苦戦が続き思いっきり現実逃避がしたくなって読みました。

本書の元になったのは、池澤さんによる京都大学文学部での夏期特殊講義です。
夏休みの最後の一週間に連続して授業を行ったとのこと。贅沢過ぎる。学生うらやましい。

本講義で取り上げられた作品は以下の通り。

スタンダール『パルムの僧院』
トルストイアンナ・カレーニナ
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
メルヴィル『白鯨』
ジョイス『ユリシーズ
マン『魔の山
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』
ガルシア・マルケス百年の孤独
池澤夏樹『静かな大地』
ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』


文学の満漢全席といった感じ。
著者自身の作品はちょっとマイナーですが、それ以外は、文学愛好家でなくとも一度はタイトルを耳にしたことがあるであろう作品ばかりです。

さて、みなさんはこの中で何作読んだことがあるでしょうか?

自分の場合は不真面目ながらも文学部卒なので、7作品は読んでいました。
とは言え、長い上に難解なので一応最後まで読み切ったといこと以外、何一つ記憶に残っていない作品もあります。

たとえば、『アブサロム、アブサロム!』。アメリカ文学のゼミで3ヶ月くらい掛けて読んだはずなのに、物語のキーパーソンであるトマス・サトペンという名前しか頭に残っていない。本書の解説を読んで、「へぇ、だからタイトルが『アブサロム、アブサロム!』なんだ」と初めて理解したほどです。

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)


フォークナーは『八月の光』も『響きと怒り』も読んでるはずなのに、そっちも綺麗さっぱり忘れてます。いつか機会があったら読み返したいと思うのですが、文学ってつくづくコストパフォーマンスの悪い代物だと感じます。

池澤さんの小説論の根本にあるのは、物語、小説というのは、人間を描くと同時にその人が動く「場」としての世界を描くものである、という考え方です。当然、「場」としての世界のあり方が変われば、そこで生きる人間のあり方も変わる。つまり、物語、小説は人と世界の関係の変遷について書かれたもの、と言い表すことができる。

大ざっぱに言ってしまえば、昔の方が人と世界の関係は単純でした。

本書ではその一例として『パルムの僧院』が挙げられています。

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)


スタンダールの生きた時代には、世界に対して作者が全幅の信頼を寄せていた。

どういうことかというと、語り手である作者の目が、作品中の事件や登場人物の心情など物語の隅々まで行き届いてるんですね。

いわゆる“神の視点"をもってして作者は小説を書いていた。本書にも登場するトルストイの『アンナ・カレーニナ』や日本では三島由紀夫の作品でもこの特徴が見られます。池澤さんは、個人的にはあまりこのスタンスが好きではなないらしい。

現代の作家はたとえ三人称で作品を書いていても、読者に分かるのは、場面ごとの主要登場人物が見た光景や心情のみに限定されることが多い。

小説にとってどちらが良いとは一概には言えませんが、スタンダールに関しては、彼の墓碑銘である「生きた、書いた、愛した」が象徴してるように、作者と小説の幸福な関係性が成立していました。


が、19世紀も後半に差し掛かると、そのような作者と小説の関係性は次第に揺らいでくる。

その先駆けとして本書に挙がっているのは、メルヴィルの『白鯨』です。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)


池澤さんは本作を早過ぎたポスト・モダン小説と言っています。

『白鯨』のどこがそれまでの小説と異なるのかというと、その内容が構造的である以上に羅列的であるという点です。

『白鯨』のストーリーは単純明快です。語り手はイシュメールという男で、彼が乗り込んだ捕鯨船ピークオッド号の船長エイハブは、かつて自分の足を噛み切った大きな白鯨に対して猛烈な復讐心を燃やしており、どこまでも追っていきます。エイハブと白鯨の対決が本作のクライマックスで描かれます。

話の筋だけ見れば単純ですが、実際『白鯨』は文庫本で上下巻ある長い作品です。じゃあ、何が書かれているのかというと、鯨学や捕鯨の歴史その他博物学的なウンチクがこれでもかというほど詰め込まれているのです。

物語である以上に鯨百科事典みたいな感じなんですね。普通の小説と違って、何か一つの出来事が起こってその結果別の出来事が起こるという原因と結果の関係がなく、チャプターA、B、Cがその順序である必要がない。B、C、Aにしても場合によっては構わない。この点こそが、本作がポスト・モダン的、データベース的と呼ばれるゆえんです。

この構造的→羅列的な作品世界の変遷が、そのまま20世紀以降のリアルな世界のあり方に呼応しています。本作に登場するジョイスの『ユリシーズ』しかり、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』しかり、多層化し、複雑化した世界の姿を物語を通じて捉え直そうとする一つの試みの結実です。

20世紀以降、文学をはじめ美術や建築の分野でモダニズム運動が盛んになり、芸術家の生み出す作品はそれまでに比べより抽象度が増し、一般人には理解の難しいものになりました。第1次世界大戦という未曾有の戦争体験を経て「これまでの方法論では、自分たちが目の前にした世界の混沌を表現することはできない」という暗黙の理解が敏感な芸術家の中に生まれたのです。

山田詠美さんだったと思うが、日本の小説家は直木賞を受賞するような売れっ子の人の方が、誰もが思い浮かべるような文豪っぽい雰囲気を出しており、それに比べ純文学の人はどこにでもいるようなしょぼい感じがする。逆にそうじゃないと今は書けない、言っていたのを思い出しました。

たしか、この本だったと思う。↓

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)


直木賞作家というのは、スタンダールがそうであったように、自分の描く登場人物と世界に何の疑いも持たず作品を書く。だから、現代にあっても作者と小説の幸福な関係性を表面的には築くことができる。

しかし、純分作家の場合は、作者が描く世界の前提が既に崩れているので、既存のステレオタイプな小説家像の中に埋没していては優れた作品を書くことはできないのだろうと思います。

そういったことを踏まえて本書を読んみると、小説、特に文学とカテゴライズされる作品を読んだり書いたりすることは、一般人が考えている以上に、自分ら個人の生き方と世界のあり方に密接に関わる大変アクチュアルな営みであるなーとあらためて実感しました。

小説もしくは小説家とリアル世界の関係性という点で、本書の中で感銘を受けた言葉を引用して今日は終わりたいと思います。

本来だったら小説家というのは最後に来るものです。どういうことかというと、何か歴史的な事件が起こる。そうするとまずジャーナリストが駆けつける。それからしばらくして、この問題をどう扱うかと論じる。評論家が出てくる。社会学者が分析する。それからさらにしばらくして、社会全体に一定の了解ができたときに、はじめて作家は出ていって、その話全体をフィクションに仕立てる。その出来事が持っている本当の意味、当事者の側と周囲の側、被害者と加害者、両方を含めた大きな輪を描いて、意味を中に閉じ込める。これが作家の本来の仕事なんです。
p357より引用


余談ですが、小説家志望の人はブロガーとして大成しないことが多いように感じます。なぜでしょう?

作品を書くのに忙しくてブログを書く時間を捻出できないという理由がある一方で、ある物事に対して即座に判断を下さないという気質が、ブログという媒体が書き手に与える「書け!書け!」という要求を無意識に回避するのでは、と自分は推察しています。

ブログでうまく盛り込める何かなら、わざわざ物語というまわりくどい形式で表現しないですからね。

やはり、牛になることはどうしても必要なようです。

ではでは。


【第156回芥川賞受賞】ピンぼけした記憶の先にある等身大の青春/山下澄人『しんせかい』

しんせかい

しんせかい


第156回芥川賞受賞作、山下澄人『しんせかい』を読んだ。

前回受賞の村田沙耶香『コンビ二人間』は純文とは思えないくらいリーダビリティの高い作品でしたが、『しんせかい』は正統派というか、いつもの芥川賞に戻った感じでした。


本作は、作者の富良野塾時代の体験をベースにした私小説です。しかし、【谷】や【先生】といった場所や人物についての抽象的な表記からもうかがえるように、その叙述には私小説私小説たらしめる生の実感が希薄であり、語り手すみとの自意識は終始掴みどころがない。作品全体を独特な浮遊感が包んでいます。


対象から敢えて距離を取ることで生まれるピンボケした記憶、そのとりとめの無い心象風景の中にしか存在し得ない青春を描いている点で好感が持てました。


とはいえ、本作についていくらか物足りなさを感じたことも事実です。
「好感が持てました」なんて感想が書けちゃうのは読者としてまだ余裕がある証拠です。


自分は作者の過去作を読んだことがないので断定は控えるけれども、他の方のレビューを見るに、本作はこれまでと比べて実験的要素が少なく分かりやすい内容のようです。


たぶん、自分は過去作の方が面白く読めるんじゃないかなぁ。


本作は、富良野塾参加という作者の人格形成に大いに影響を及ぼしたであろう出来事を題材としたことで、作者の意図とは裏腹に、その通俗的なイメージが作品としての可能性を制限してしまったようにも思えます。

自分だけの感想では心もとなかったので、芥川賞審査員の選評にも目を通してみました。


本作を「つまらない」の一言で一刀両断した村上龍が指摘するように、今回の受賞は審査員の間で熱烈な支持も、強烈な拒否もないまま決まったようです。


正直、龍の選評を読んで少しホッとした面もなくはないのですが、上に書いた感想を踏まえてそれぞれの選評を読むと、高樹のぶ子のそれが一番自分と近いかなと思うので引用しておきます。

「しんせかい」はこれまでの作者の候補作と比べて格段に読みやすい。けれどモデルとなった塾や脚本家の先行イメージを外すと、青春小説としては物足りないし薄味。難解だったこれまでの候補作にも頭を抱えたが、このあっさり感にも困った。
文藝春秋2017年3月号p370より引用


それでは。

甘美なる歌声は邪魔しない。/鹿島茂『「悪知恵」のすすめ』

こんにちは山中です。

トランプ大統領による外国人入国制限のニュースがメディアを騒がせていますね。
悪い意味で期待を裏切らないというか、今回の出来事をきっかけにこの先ますます世界情勢は泥沼化していくでしょう。

今回の話題含め、外交問題に関する記事を読んでいると、各国の首脳を童話の登場人物に見立てて皮肉ったものをたまに見かけます。

どうやら人種や宗教の問題が絡んでくればくるほど、こうした風刺的な報道が多くなるみたいです。

イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』掲載、グレート・ゲームの風刺画。

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熊(ロシア)とライオン(イギリス)に狙われたアフガニスタン。(Wikipediaより引用)


スウィフトの『ガリヴァー旅行記』なんかを読んでも分かるように、寓話というのは数ある物語のジャンルの中でも、最も生の現実に接近したタフな表現形式と言えます。


てなわけで、今日は寓話の魅力について書かれた本を紹介します。

鹿島茂『悪知恵のすすめ』。
サブタイトルは、「ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓」です。

ラ・フォンテーヌの寓話について

ラ・フォンテーヌの寓話を知っていますか?
自分は名前は聞いたことはあったものの、本書を手にするまでその内容を知りませんでした。

ラ・フォンテーヌは17世紀フランスの詩人で、『イソップ寓話』をもとにした寓話詩を書きました。

著者の鹿島茂さんは本書の冒頭で、フランス文学を研究している人間でもラ・フォンテーヌの寓話を読む人はあまりいないと言っています。

僕自身も本好きの友人が何人かいますが、話題にあがったことは一度もないですね。フランス文学でなおかつ寓話詩っていうとなんとなく甘ったるいイメージを抱きがちで、それほど興味をそそられませんでした。

しかし、実際の作品は自分が勝手に抱いていたイメージとは180度異なります。鹿島さんの言葉を借りれば、「その冷徹ぶりたるや、マキャベリの『君主論』にだって負けない」というのです。なんだかゾクゾクしませんか? 自分はこういうの大好きです。

フランス的とはなにか

本書で紹介されている寓話には、変化の激しい時代を生き抜くためのしたたかな知恵が数多く詰まっていますが、著者いわく、その全てに一貫して流れているのは世界のどこにも類例のないフランス的なメンタリティーです。

一言で要約するなら、それは負け惜しみの美学のようなもの。

本書の冒頭に載っている例をもとに説明します。

イソップ童話』に「キツネとブドウ」というそこそこ有名な話があります。

腹を空かせたキツネが支柱から垂れ下がるブドウを見て取ってやろうと思ったがどうやっても手が届かない。あきらめたキツネは去り際に一言。「あのブドウはまだ熟れていない」。


能力のない人間はできない理由を自分以外に求める。

自己啓発書なんかでよく引き合いに出されるポピュラーな教訓です。

ラ・フォンテーヌの寓話にも同じ話があるそうです。しかし、そこから得られる教訓はイソップのそれと全く異なる。

ラ・フォンテーヌの寓話のキツネは、手の届かないブドウに対して「あれはまだ青すぎる。下郎の食うものだ」と捨て台詞を残します。反応としてはイソップのキツネとほぼ同じです。

が、ラ・フォンテーヌはキツネの負け惜しみを「愚痴をこぼすよりまし」として高く評価しているのです。

欲しいものが手に入らずにもんもんとするくらいなら、「そんなものいるか」と言って小馬鹿にした方が健康的だという考え方。これがフランス流。

見方によってはただ虚勢を張っているようにしか映りませんが、こういう合理的なズルさこそ、リーダーシップや勤勉さ以上に土壇場で自分を救う力になると思います。嫌味じゃない感じでさらっと言えると強いですよね。

白鳥の歌声とガチョウのスープ

最後に、自分好みの寓話を一つ紹介します。


「白鳥と料理人」の話

大邸宅の一角にある飼育園で白鳥とガチョウが暮らしていた。
白鳥は池を優雅に泳いで主人や招待客の目を楽しませた。
ガチョウは、その滋味豊かな肉を主人や招待客に提供していた。
ある日、酔っ払った邸宅の料理人が、てっきりガチョウだと思い込んで白鳥のくびを掴んだ。くびをしめて今夜のスープに入れるつもりである。
白鳥が、美しい声を発して嘆きを訴えたところ、料理人は間違いを悟って手を離した。

この話の最後にラ・フォンテーヌがつけた教訓。

たとえ、重大な危険が迫っているときであろうとも、甘美なる歌声は決して邪魔にはならないのだ。

国の緊急時には芸術は腹の足しにならない最たるものとして見向きもされなくなるのが常だけれど、しかしそんな時でも、いや、そんな時だからこそ、普段すぐに役に立たないものが役に立つこともあるのだ、という戒めです。

文学部を卒業した身にとって、この白鳥の歌の話はなかなか刺さるものがあります。

作り手と受け手どちらにせよ、芸術に関わる人間は自分がやっていることのあまりの実益のなさを嘆いた経験が多かれ少なかれあるのではないでしょうか。

自分もつい最近までしょっちゅう嘆いていました。
「おれはどうして文学部なんて出ちゃったんだろ。会社で役立たない知識ばかり中途半端に詰め込んで一体この先どうなるんだ?」なんて。芸術全般を恨んだ時期もあった。

今もその不安は変わらずあります。でもここにきてようやく、なんの役にも立たないと思っていたものこそ実は水面下で自分を支え続けてくれていたことに気づかされました。

過去の自分は話の中の料理人のように、白鳥をガチョウと勘違いしてくびをしめていただけだったんです。

そんな意味で、この「白鳥と料理人」の寓話の教訓は、ここ最近の自分の心持ちに近いものがあるなぁとうれしく感じたのでした。


それでは。

寓話〈上〉 (岩波文庫)

寓話〈上〉 (岩波文庫)

曼荼羅のように艶めかしく美しい仏教漫画『阿吽』の感想

今日はおかざき真里『阿吽』の感想。


「阿吽(あうん)の呼吸」の“阿吽”がもともと仏教用語だということをはじめて知った。


“阿吽”には、宇宙のはじまりと終わりという意味がある。


圧倒的画力

『阿吽』は、日本仏教史上の二人の大天才、最澄空海を主人公にした仏教漫画だ。

作者にとっては新境地開拓ということらしい。

自分は作者の過去作品を読んだことはないのだけど、恋愛漫画をメインに書かれていた方みたいですね。ガラリと題材変えてきたなぁ。

でも、その方向転換正解だったと思う。

美しい。

少女漫画風な絵のタッチと仏教的な世界観が意外なくらいにマッチしていて、平安時代の妖しげな雰囲気がよく出ている。

密教曼荼羅を思わせる艶かしい画風です。

似た者同士の最澄空海

日本人の教科書を注意して読めば、最澄(767年〜822年)と空海(774年〜835年)の生きた時代が重なっていること、二人が同じ遣唐使船に乗って海を渡ったという歴史的事実を容易に知ることができる。

作者はその教科書的な知識から想像力の翼を広げて、血の通った人間としての最澄空海を活写している。

一見、二人の天才は対照的で共通点はないように感じられる。だが、自身の追い求める真理が既存の日本仏教の中ではなく、海を渡った先にしか存在しないと直感を働かせていた点で二人は似た者同士、まさに阿吽の呼吸をしていた。

自分は仏教にそれほど詳しくないですが、仏教家の良し悪しは、つまるところブッダの言葉をどれだけ広く深いところで解釈できるかで決まるんじゃないかと思ったりします。

最澄空海は共に万巻の書を読んで誰よりも頭に知識を詰め込んだ知識人です。ですが、彼らが宗教家として優れていたのは、知識をそのまま鵜呑みにせずに、そこに自分なりの解釈と経験から得た気づきを付け加えることで、より高次の知恵を生み出す才能があったからではないでしょうか。

本作はあくまでも漫画なので歴史的事実と異なる点も多いですが、実人生を通じて自身の仏教観、宇宙観を練り上げていく宗教家の苦闘を物語を楽しみながら知ることができるので、仏教入門書としておすすめです。

ちなみに、自分は実家がたまたま真言宗豊山派ということで空海に前々から興味があります。

師の代表作『秘蔵宝鑰』も前に読んだ。
角川ソフィア文庫版はとても分かりやすい訳で空海の言葉が頭にスッと入ってきます。

その時書いた記事はこちら。


空海について書いたもので他に分かりやすかったのは、苫米地英人さんの『超訳 空海』ですかね。

超訳 空海 (PHP文庫)

超訳 空海 (PHP文庫)


空海の思想の基本をおさえると同時に、著者らしい新解釈を展開しているのが楽しい1冊です。

自分がこの本で気に入ってるのは、空海の代表的な言葉が50個ほど収録されていることです。

その中から個人的に好きなのを1個引用して今日は終わります。下が訳です。

哀しい哉、哀しい哉、哀が中の哀なり。悲しい哉、悲しい哉、悲が中の悲なり。覚の朝には夢虎無く、悟な日には幻象無しと云うと雖も、然れども猶夢夜の別、不覚の涙に忍びず。

哀しくて、哀しくって。言葉で言い表せないほど、哀しくて、哀しい。
悲しくて、悲しくって。心で表し尽くせないほど、悲しくて、悲しい。
悟りを開けば、何ものにも惑わされないというけれど、現実に愛する人との別れには、涙を流さずにはいられなかったのです。

超訳 空海』p183より引用
原典は『遍照発揮性霊集 巻第八』


それでは、また。

年収280万の独身アラサー男子が「タラレバ娘」から読み取るべきこと。

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ついに放送がスタートしたTVドラマ『東京タラレバ娘』。

ドラマ化を機に世間的認知度も高まり、職場やプライベートで本作の話題が上がることが多いです。

自分も原作と比較検討しながら楽しく観させて頂きました。

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)


「物足りない」という意見もチラホラあるようですが、個人的には悪くなかったかなと。原作のイメージをぶち壊さないための配慮が行き届いた演出だったと思います。

倫子が早坂にフラれるシーンで彼女の胸に矢が突き刺さる演出は、最初『アリーmyラブ』のパクリやんけ! と思ったのですが、原作確認するとコマ小さいながらちゃんと描いてあります。

意図的なものかは知りませんが、ある程度の社会的地位はあるものの男運には一向に恵まれないアラサー女子の困難な恋愛を描く点では、「タラレバ娘」には「アリー」のDNAが流れていると言えるかもしれません。


作品の中に自分を見出せない問題

ドラマを観てつくづく感じたのは、「タラレバ娘」の世界って自分のような低スペックのサラリーマンにはあんま関係ないよなってことです。俺、年収280万くらいだし。

物語のどこを見ても自分を見出せない。圧倒的お呼びじゃない感に不覚にも傷ついてしまった男性はわりと多いのではないかと思う。『闇金ウシジマくん』を読むのとは別の意味でソワソワする。

だから、「自業自得」「ざまぁみろ」など、本作に対して辛辣な男性読者の意見が多く寄せられるのもうなずけます。

倫子たちタラレバ3人娘の恋の相手として話題にのぼる男性は、商社やテレビのプロデューサー、ミュージシャンなど社会的地位の高い男性ばかりです。

「年も年だし贅沢はしないから結婚相手が欲しい」と口では言いつつも、実際には男性に多くを望み過ぎているタラレバ娘たちの二枚舌に、女性の地位向上を声高に叫びながら、そのくせ都合の悪い部分では旧時代的な価値観や風習に迎合して「いいとこ取り」をしようとする女性の身勝手さを感じます。

「タラレバ娘」がこれほどまでに人気を博したのは、婚活に悪戦苦闘する主人公たちの姿が独身アラサー女子の共感を呼んだことに加えて、彼女らの物質主義的な「ものさし」を心良く思っていなかった男性たちのミソジニー(女性嫌悪)の感情を掻き立てることに成功したからではないでしょうか。

相手にとって「糟糠の妻/夫」であること

でもまぁ、だからと言って男と女どっちが悪いという話ではないです。本作に登場する男性陣は、それが全体の中のごく一部とは言え、なかなかのクズっぷりを発揮していますから。

タラレバ3人娘にしたって、女性全体で考えれば少数派じゃないかと。

あくまでも僕個人の経験ですが、30過ぎてこれほどまで自分本位な恋愛観、結婚観を持ってる女性は稀だと思います。恋愛市場価値の高い20代の内ならまだしも、30過ぎると自分がそれまで「若さ」だけでチヤホヤされていた現実をいやというほど味わうらしい。

一周まわって悟ったような人が多い印象があります。結婚観を訊いても、「一人が倒れたらもう一人がカバーする。そんな夫婦関係でいい」なんて糟糠の妻みたいなことを言ったりしてね。もちろん、現代では糟糠の夫も必要とされるのは言うまでもありませんが。

単純な労働力の増加と生活の負担の分散を目的とした結婚。さっぱりしてはいるけれど、どちらか一方に寄りかかって自分が楽しようとするよりはよっぽど健全な気がします。

幻想としての東京オリンピック

なんだか、書けば書くほどアンチタラレバの色合いが濃くなってきました。

でも、作中に等身大の自分が描かれていないにも関わらず、僕はタラレバ3人娘の迷走に共感する部分もなくはないのです。

よりラブコメチックに傾いてきた最新7巻のKEYくんの台詞にこんなのがあります。

僕はあてのない未来に身を委ねてるヤツらに腹が立つんですよ

タラレバ3人娘には、「自分は次の東京オリンピックまでに結婚して幸せになりたい」という強い願望が共通してあります。

さらに、倫子が仕事場として借りているヴィラ・オリンピアという名前のマンションは、前回の東京オリンピックの際に建てられた築50年以上の老朽化したマンションです。

僕は「オリンピックまでには〜していたい」という目標設定のあり方に、本作の批評性があるように思います。

そもそも、オリンピックを一人身ではなく結婚した誰かのそばで迎えることができれば自分は幸せだと考える根拠はどこにあるのでしょうか?

当たり前の話ですが、次のオリンピックはかつてのオリンピックとは全くの別物です。この日本にしたって、かつての高度経済成長の時期とは違って現在は多くの点で問題を抱えています。まるで老朽化したマンションのように。

それでも、オリンピックという仮のゴールを設定してハリボテの幸福を求めずにはいられない。そんなタラレバ3人娘の姿に、男女論や恋愛ゲームの先にある今の日本人そのものに対する問題提起があるように僕は思います。

それでは、また。

〈関連記事〉

平日休みに行った深大寺が、静かで緑が多くて心が癒された。


月に1〜2回の頻度で平日の休みがある。


平日の休みってどこに行くにしても人が少ないのでお得ですよ。


先日は、ふらっと調布市深大寺に行ってきました。たまにテレビで紹介されてたりしてるのを見て、ずっと気になってたんですよね。


交通アクセスとしては、電車で行く場合、京王線のつつじヶ丘もしくは調布駅からバスで15分〜20分です。自分はつつじヶ丘駅を利用しました。駅前のロータリーから「深大寺行き」のバスが出てるのですぐ分かると思います。


15分ほどバスに揺られた後、やって来ました深大寺


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平日だから人少なめです。
「え、ここ東京?」って感じるくらい和情緒に溢れた古風な街並み。高校の修学旅行で行った京都を彷彿とさせる。

商店街入ってすぐ左にあるのは「鬼太郎茶屋」。ドラマ『ゲゲゲの女房』など話題になりましたよね。

ゲゲゲの女房 完全版 DVD-BOX1

ゲゲゲの女房 完全版 DVD-BOX1



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しかし、前まで行ってみると「月曜定休」とのこと。何てこった。人が少ないのはいいけれど、これが平日休みのつらいところ。


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気をとり直して、先にお参りを済ませることに。


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正門をくぐって本堂へ。
「ブログ楽しく続けられますように」とお祈りしときました。笑


寺院の来歴を少し。
深大寺は、平安時代から関東随一の密教寺院として有名だったそうですが、もともとは水の神様である深沙大王をまつる寺として建てられたそうです。だから、同じ土地に神様と仏様両方いるんですね。特に深沙大王は縁結びの神様としても名高いので、カップルなんかは恋愛成就のために訪れてもいいかもしれません。


さて、お参りの後は周辺をぶらつこうと思い、近くの看板で位置情報を確認。


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いや、絵心あり過ぎ。


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よりポップな感じにするとこう。


深大寺と言えばそばが有名ですが、なんと図にある家みたいなマークは全部おそば屋さんです。激戦区ですね。普段富士そばとかしか食べないのでよりどりみどりはうれしい。


今回は、事前にネットで調べて行きたいと思っていた「八起」さんにお邪魔しました。


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店の外観。雰囲気あってテンション上がります。平日なのに店内盛況でした。


悩んだ末、スタンダードに天ぷらうどんを注文。


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こんなに濃いつゆのそばは初めて。江戸風っていうんでしょうか? そばってわりとあっさりとした味しかバリエーションがないと勝手に思ってたので、これは美味しかったです。また食べたい。


美味しいおそばを頂いて食欲が増進され、店の前で売ってた甘酒とみそ田楽を買って食べちゃいました。


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恥ずかしながら、田楽なる食べ物がこの世に存在するのを初めて知ったよ。


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早い話がコンニャクの串刺しにみそ塗ってあります。これが甘酒と合うんです。寒い日にはもってこいの組み合わせですね。


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近くの店先。
風鈴が売ってて音色が綺麗でした。
小さな女の子がおばあちゃんとお土産選びながらめっちゃはしゃいでました。気持ちわかる。眺めてるだけでテンション上がるよね。


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毎年3月に「だるま市」が開催されて多くの人が訪れるとのこと。今年ももうすぐですね。叶えたい夢がある方など、買いに来てはどうでしょう。


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さらに目的なく周辺をぶらぶら。
東京らしからぬ緑の多さと水のせせらぎの音に心身ともにリラックス。ろくでもないサラリーマン生活をしばし忘れる。


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意味もなく元祖っぽい感じ出てます。


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猫発見。
当てのない散歩と猫ってどうしてこんなに相性が良いのだろうか。


土地自体はそれほど広くはないので、小一時間あればぐるっと見て回れると思います。
鬼太郎茶屋」同様月曜は定休ですが、隣接する神代植物公園に寄るのもありですね。


せっかくの休日、都会の喧騒から離れて一息つきたいけど、旅行するほどの気力もお金もない方にはおすすめの癒しスポットです。


晩年深大寺を好んで訪れたという北原白秋の詩集も今度読んでみたい。

北原白秋詩集 (新潮文庫)

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