そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

文芸や出版メディアの趨勢について書いていきます。

京都を舞台にしたポップな哲学散歩小説/原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』

前に本の感想を書かせてもらった哲学ナビゲーターの原田まりるさんが、小説を出したということで買って読んでみました。


物語プラスαの乳酸菌小説

まず、タイトルといい、版元といい、表紙のイラストといい、岩崎夏海さんの「もしドラ」こと『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を彷彿とさせる。

出版不況の昨今、過去の成功例にならってある程度の売り上げを確保することは大事ですよね。読んで面白ければ、タイトルとか売り出し戦略がベストセラーのそれと似ていても文句ないです。

自分は本書のように、小説を読みながら何らかの専門知識を獲得できる物語プラスαの作品を、“乳酸菌小説”と勝手に呼んでいます。

なぜ乳酸菌かというと、ちょっと前にロッテが「乳酸菌ショコラ」という商品を売り出しましたよね。チョコレートの中に乳酸菌が入ってるアレです。

チョコと言えば、甘くておいしくて食べ過ぎると虫歯になる嗜好品の王様です。それに乳酸菌が入るって、すごくエポックメイキングな発明だと僕は思うんです。甘いだけで皆が満足していたチョコに乳酸菌という有用性を付加したわけですから。余計なお世話、もとい消費の革命と言えます。

これと同じ流れが「もしドラ」以降、物語にも生じており、年々刊行点数が増えてる印象がある。

前はこの現象をかなり悲観的に眺めていたのですが、本書含めその手の作品をいくつか読んでみたら意外に楽しく読めた。なんで現在は中立です。

人類の長い歴史からすれば、小説というのはまだ生まれて間もない表現形式だから、今後も柔軟に変化していくのかもしれませんね。

難しい思想を日常にインストール

さて、本書はタイトルだけ見ると1冊まるっとニーチェな感じですが、実際には他の哲学者もわんさか出てきます。あくまでも、現代日本人に転生(憑依?)した形として。

こんな哲学者が登場します。

ニーチェ
キルケゴール
ワーグナー(哲学者ではないがニーチェの因縁の間柄として)
ショーペンハウアー
サルトル
ハイデガー
ヤスパース

哲学に興味があるなら知ってて当たり前なメンツですが、いざそれぞれの思想をサクッと誰が聞いても分かるように説明してよって言われても、それはなかなか難しい。

著者は17歳女子高生のイノセントな視線を通して、哲学者たちの難解な思想を一般人の日常レベルに落とし込むことに成功しています。

ニーチェの「ルサンチマン」を、ティーエムレボリューションの歌詞で説明した部分など、的を射た喩えであると同時に遊び心に溢れていて、他の哲学入門書にないとっつきやすさがある。

哲学は、頭が重くなるものではなくて、心が軽くなるものなのだろうか?
そんなことを考えながら、私は今日起こった出来事を、ゆっくりと思い出しながらバス停へと歩く。
p40より引用

哲学の血肉化

サルトル実存主義のくだりで、哲学は本来人生の意味を考える学問ではなく、さまざまなことに対して疑問を持つことだと念を押しています。

しかし、哲学者それぞれの思想の案内という形を取りながらも、本書の根底にあるのは、人生いかに生きるべきか? という問いに対する現時点での原田さんの応答である気がします。

前作にもあったように、自分自身の人生の困難を哲学の思想を血肉化することによって乗り越えてきた原田さんの経験が、物語の中で描かれる主人公アリサの学びと成長の過程を血の通ったものにしている。

特にハイデガーの章は、哲学者の深遠な思想を知るのにユーモアのある喩え話がとても分かりやすく、長年読むのを保留していた『存在と時間』読みたくなりました。

本書を読んでから、興味ある哲学者の著作などに挑戦すると理解が深まっていいかも。

哲学入門書としてはもちろん、親元を離れて京都で暮らす女子高生の青春がちゃんと描かれている点で、小説としても面白かったです。

ではでは。

現役作家による贅沢な世界文学講義/池澤夏樹『世界文学を読みほどく』

池澤夏樹『世界文学を読みほどく』が、めちゃくちゃ面白かったので感想を書く。

世界文学を読みほどく (新潮選書)

世界文学を読みほどく (新潮選書)


本書はなにぶん大著なため長い間読むのを躊躇していたのですが、ここ最近生活面で苦戦が続き思いっきり現実逃避がしたくなって読みました。

本書の元になったのは、池澤さんによる京都大学文学部での夏期特殊講義です。
夏休みの最後の一週間に連続して授業を行ったとのこと。贅沢過ぎる。学生うらやましい。

本講義で取り上げられた作品は以下の通り。

スタンダール『パルムの僧院』
トルストイアンナ・カレーニナ
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
メルヴィル『白鯨』
ジョイス『ユリシーズ
マン『魔の山
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』
ガルシア・マルケス百年の孤独
池澤夏樹『静かな大地』
ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』


文学の満漢全席といった感じ。
著者自身の作品はちょっとマイナーですが、それ以外は、文学愛好家でなくとも一度はタイトルを耳にしたことがあるであろう作品ばかりです。

さて、みなさんはこの中で何作読んだことがあるでしょうか?

自分の場合は不真面目ながらも文学部卒なので、7作品は読んでいました。
とは言え、長い上に難解なので一応最後まで読み切ったといこと以外、何一つ記憶に残っていない作品もあります。

たとえば、『アブサロム、アブサロム!』。アメリカ文学のゼミで3ヶ月くらい掛けて読んだはずなのに、物語のキーパーソンであるトマス・サトペンという名前しか頭に残っていない。本書の解説を読んで、「へぇ、だからタイトルが『アブサロム、アブサロム!』なんだ」と初めて理解したほどです。

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)


フォークナーは『八月の光』も『響きと怒り』も読んでるはずなのに、そっちも綺麗さっぱり忘れてます。いつか機会があったら読み返したいと思うのですが、文学ってつくづくコストパフォーマンスの悪い代物だと感じます。

池澤さんの小説論の根本にあるのは、物語、小説というのは、人間を描くと同時にその人が動く「場」としての世界を描くものである、という考え方です。当然、「場」としての世界のあり方が変われば、そこで生きる人間のあり方も変わる。つまり、物語、小説は人と世界の関係の変遷について書かれたもの、と言い表すことができる。

大ざっぱに言ってしまえば、昔の方が人と世界の関係は単純でした。

本書ではその一例として『パルムの僧院』が挙げられています。

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)


スタンダールの生きた時代には、世界に対して作者が全幅の信頼を寄せていた。

どういうことかというと、語り手である作者の目が、作品中の事件や登場人物の心情など物語の隅々まで行き届いてるんですね。

いわゆる“神の視点"をもってして作者は小説を書いていた。本書にも登場するトルストイの『アンナ・カレーニナ』や日本では三島由紀夫の作品でもこの特徴が見られます。池澤さんは、個人的にはあまりこのスタンスが好きではなないらしい。

現代の作家はたとえ三人称で作品を書いていても、読者に分かるのは、場面ごとの主要登場人物が見た光景や心情のみに限定されることが多い。

小説にとってどちらが良いとは一概には言えませんが、スタンダールに関しては、彼の墓碑銘である「生きた、書いた、愛した」が象徴してるように、作者と小説の幸福な関係性が成立していました。


が、19世紀も後半に差し掛かると、そのような作者と小説の関係性は次第に揺らいでくる。

その先駆けとして本書に挙がっているのは、メルヴィルの『白鯨』です。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)


池澤さんは本作を早過ぎたポスト・モダン小説と言っています。

『白鯨』のどこがそれまでの小説と異なるのかというと、その内容が構造的である以上に羅列的であるという点です。

『白鯨』のストーリーは単純明快です。語り手はイシュメールという男で、彼が乗り込んだ捕鯨船ピークオッド号の船長エイハブは、かつて自分の足を噛み切った大きな白鯨に対して猛烈な復讐心を燃やしており、どこまでも追っていきます。エイハブと白鯨の対決が本作のクライマックスで描かれます。

話の筋だけ見れば単純ですが、実際『白鯨』は文庫本で上下巻ある長い作品です。じゃあ、何が書かれているのかというと、鯨学や捕鯨の歴史その他博物学的なウンチクがこれでもかというほど詰め込まれているのです。

物語である以上に鯨百科事典みたいな感じなんですね。普通の小説と違って、何か一つの出来事が起こってその結果別の出来事が起こるという原因と結果の関係がなく、チャプターA、B、Cがその順序である必要がない。B、C、Aにしても場合によっては構わない。この点こそが、本作がポスト・モダン的、データベース的と呼ばれるゆえんです。

この構造的→羅列的な作品世界の変遷が、そのまま20世紀以降のリアルな世界のあり方に呼応しています。本作に登場するジョイスの『ユリシーズ』しかり、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』しかり、多層化し、複雑化した世界の姿を物語を通じて捉え直そうとする一つの試みの結実です。

20世紀以降、文学をはじめ美術や建築の分野でモダニズム運動が盛んになり、芸術家の生み出す作品はそれまでに比べより抽象度が増し、一般人には理解の難しいものになりました。第1次世界大戦という未曾有の戦争体験を経て「これまでの方法論では、自分たちが目の前にした世界の混沌を表現することはできない」という暗黙の理解が敏感な芸術家の中に生まれたのです。

山田詠美さんだったと思うが、日本の小説家は直木賞を受賞するような売れっ子の人の方が、誰もが思い浮かべるような文豪っぽい雰囲気を出しており、それに比べ純文学の人はどこにでもいるようなしょぼい感じがする。逆にそうじゃないと今は書けない、言っていたのを思い出しました。

たしか、この本だったと思う。↓

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)


直木賞作家というのは、スタンダールがそうであったように、自分の描く登場人物と世界に何の疑いも持たず作品を書く。だから、現代にあっても作者と小説の幸福な関係性を表面的には築くことができる。

しかし、純分作家の場合は、作者が描く世界の前提が既に崩れているので、既存のステレオタイプな小説家像の中に埋没していては優れた作品を書くことはできないのだろうと思います。

そういったことを踏まえて本書を読んみると、小説、特に文学とカテゴライズされる作品を読んだり書いたりすることは、一般人が考えている以上に、自分ら個人の生き方と世界のあり方に密接に関わる大変アクチュアルな営みであるなーとあらためて実感しました。

小説もしくは小説家とリアル世界の関係性という点で、本書の中で感銘を受けた言葉を引用して今日は終わりたいと思います。

本来だったら小説家というのは最後に来るものです。どういうことかというと、何か歴史的な事件が起こる。そうするとまずジャーナリストが駆けつける。それからしばらくして、この問題をどう扱うかと論じる。評論家が出てくる。社会学者が分析する。それからさらにしばらくして、社会全体に一定の了解ができたときに、はじめて作家は出ていって、その話全体をフィクションに仕立てる。その出来事が持っている本当の意味、当事者の側と周囲の側、被害者と加害者、両方を含めた大きな輪を描いて、意味を中に閉じ込める。これが作家の本来の仕事なんです。
p357より引用


余談ですが、小説家志望の人はブロガーとして大成しないことが多いように感じます。なぜでしょう?

作品を書くのに忙しくてブログを書く時間を捻出できないという理由がある一方で、ある物事に対して即座に判断を下さないという気質が、ブログという媒体が書き手に与える「書け!書け!」という要求を無意識に回避するのでは、と自分は推察しています。

ブログでうまく盛り込める何かなら、わざわざ物語というまわりくどい形式で表現しないですからね。

やはり、牛になることはどうしても必要なようです。

ではでは。


【第156回芥川賞受賞】ピンぼけした記憶の先にある等身大の青春/山下澄人『しんせかい』

しんせかい

しんせかい


第156回芥川賞受賞作、山下澄人『しんせかい』を読んだ。

前回受賞の村田沙耶香『コンビ二人間』は純文とは思えないくらいリーダビリティの高い作品でしたが、『しんせかい』は正統派というか、いつもの芥川賞に戻った感じでした。


本作は、作者の富良野塾時代の体験をベースにした私小説です。しかし、【谷】や【先生】といった場所や人物についての抽象的な表記からもうかがえるように、その叙述には私小説私小説たらしめる生の実感が希薄であり、語り手すみとの自意識は終始掴みどころがない。作品全体を独特な浮遊感が包んでいます。


対象から敢えて距離を取ることで生まれるピンボケした記憶、そのとりとめの無い心象風景の中にしか存在し得ない青春を描いている点で好感が持てました。


とはいえ、本作についていくらか物足りなさを感じたことも事実です。
「好感が持てました」なんて感想が書けちゃうのは読者としてまだ余裕がある証拠です。


自分は作者の過去作を読んだことがないので断定は控えるけれども、他の方のレビューを見るに、本作はこれまでと比べて実験的要素が少なく分かりやすい内容のようです。


たぶん、自分は過去作の方が面白く読めるんじゃないかなぁ。


本作は、富良野塾参加という作者の人格形成に大いに影響を及ぼしたであろう出来事を題材としたことで、作者の意図とは裏腹に、その通俗的なイメージが作品としての可能性を制限してしまったようにも思えます。

自分だけの感想では心もとなかったので、芥川賞審査員の選評にも目を通してみました。


本作を「つまらない」の一言で一刀両断した村上龍が指摘するように、今回の受賞は審査員の間で熱烈な支持も、強烈な拒否もないまま決まったようです。


正直、龍の選評を読んで少しホッとした面もなくはないのですが、上に書いた感想を踏まえてそれぞれの選評を読むと、高樹のぶ子のそれが一番自分と近いかなと思うので引用しておきます。

「しんせかい」はこれまでの作者の候補作と比べて格段に読みやすい。けれどモデルとなった塾や脚本家の先行イメージを外すと、青春小説としては物足りないし薄味。難解だったこれまでの候補作にも頭を抱えたが、このあっさり感にも困った。
文藝春秋2017年3月号p370より引用


それでは。

秋葉原有隣堂STORY CAFEでコーヒー飲みながら本読んできたので紹介する。

こんにちは山中です。

今日は秋葉原で用事を済ませた後、買いたい本があったので近くの本屋さんに立ち寄りました。

ヨドバシakibaの7階に入っている有隣堂ヨドバシAKIBA店さん。

f:id:taiwahen:20170206155550j:plain

ここは日本で一番アイドル雑誌が売れる店として名高く、零細出版社の営業やってた時はだいぶお世話になりました。懐かしや。

と思ったら、1年ほど前にフロアの大改装があったらしく、書店自体はだいぶ狭くなっていました。前はフロアの8割以上のスペースがあったのに、今は5割以下になってます。

こんな風に、昔は大きかった本屋さんがいつの間にか縮小するっていうのここ数年多いですよね。正攻法では本が売れない時代だから仕方ないけれど、やっぱりちょっと寂しいです。

しかしながら、このような書店のあり方の変化は、本と読者の関係が従来とは変わったという視点で捉え直すと、それほど悪いことばかりではないなぁと思います。

現に、有隣堂ヨドバシAKIBA店にはSTORY CAFEという小さなブックカフェが隣接しており、コーヒーなどを飲みながら購入前の本が読めるようになっていました。

f:id:taiwahen:20170206155615j:plain
f:id:taiwahen:20170206155635j:plain

こうした新たな試みは、現在出版社、取次、書店それぞれの主導のもと色んな場所で見受けられます。
本そのものは売れなくなったけど、以前よりも本が人々の生活に密着するようになったのだと思います。

僕が座った席の前には、米澤穂信さんの小説が置かれていました。

f:id:taiwahen:20170206155654j:plain

そのほか、鉄拳さんの『いつか伝えられるなら』刊行に合わせたパネル展も開催されていました。

f:id:taiwahen:20170206155711j:plain

USBポートやコンセント、Wi-Fi環境も整っているので小休止にピッタリです。
近くに来られた方はぜひ足を運んでみてください。

ではでは。

有隣堂ヨドバシAKIBA店 STORY CAFE
営業時間 9:30~22:00
※ラストオーダー 21:30
席数 約50席(一部テーブル席あり)

美しき女剣士が妖魔と壮絶な戦いを繰り広げる漫画『CLAYMORE』(クレイモア)を読んでダーク・ファンタジーの魅力を再発見した。

学生時代に7巻くらいまで読んでそのままにしていた漫画『CLAYMORE』(クレイモア)がいつの間にか完結していた。

この一週間で残りを一気に読み終えました。

ダーク・ファンタジーの教科書みたいな作品ですね。こういうクールな世界観好きです。

f:id:taiwahen:20170205191933j:plain


本作は、小説にしろ漫画にしろ面白いダーク・ファンタジーを作る参考になると思うので、いくつか書き出してみます。

目次

クレイモアってどんな話?

半妖を題材としたダーク・ファンタジー。
人間を捕食する人外の魔物「妖魔」と、妖魔を倒すために生み出された半人半妖の女戦士「クレイモア」の存在する中世ヨーロッパ的な世界を舞台に、道程を共にする少年との絆や宿敵の打倒のために生きる主人公クレアを中心に、半人半妖の身であるが故の過酷な宿命を背負いながらも己の信念や目的のために戦い続ける女戦士達の姿を描いている。
なお、「クレイモア」とはスコットランドで用いられた大剣の名称で、半人半妖の女戦士達は一様に大剣=クレイモアを武器として用いるため、作中の世界でクレイモアと呼ばれている。

WikipediaCLAYMORE」より引用

ストーリーの緊張感

ダーク・ファンタジーは普通のファンタジーと比べて重いテーマを扱います。
しかし、だからといって読者の肩の力を抜くためのコミカルな要素は不要です。
へたにそういった場面を入れると作品の緊張感を欠き、世界観をぶち壊す結果につながるからです。

ギャグの要素を盛り込んだとして、すぐに軌道修正できれば何ら問題ありません。
ですが、ギャグとシリアスのバランスを取るのはプロ作家でも難易度が高いので素人は避けた方が無難です。

作品に漂う緊張感をいかに最後まで維持することができるかで作品の良し悪しが決まるといっていいかもしれません。

また、作品の長さも重要です。
しかるべきポイントで話を終わらせず、不必要に話を引き延ばしても、これまた緊張感がないものになってしまいます。

DEATH NOTE』や『鋼の錬金術師』など他のダーク・ファンタジー漫画を見ても、人気作にも関わらずわりと少ない巻数で完結させています。
(『DEATH NOTE』全12巻、『鋼の錬金術師』全27巻)

CLAYMORE』(クレイモア)は、連載14年で全27巻。
長期連載の弊害か、15巻を越えたあたりから弱冠の中だるみが感じられますが、最終的には物語としてきちん伏線も回収されており、読者の期待を裏切らない出来になっています。

主人公に必要なものは“代償”

f:id:taiwahen:20170205191213j:plain

ダーク・ファンタジーの主人公に不可欠な要素。
それは大いなる力の獲得とその代償としての喪失です。
その力は時に主人公の肉体や精神を蝕む諸刃の剣ですが、それがないと目的の達成は不可能です。

度重なる力の使用によってダークサイドに引き寄せられながらも、仲間たちの援助によっておのれの行くべき道を切り開いて行く主人公に読者は共感するのです。

凄惨かつ華麗な戦闘シーン

f:id:taiwahen:20170205202424j:plain

これもダーク・ファンタジーの魅力の一つです。

CLAYMORE』(クレイモア)のそれは、白眉と言っていいでしょう。

美しい女剣士と醜悪な妖魔というギャップが光と闇の対立をより際立たせ、まるでヨーロッパの宗教画を眺めるかのようです。

他作品だったらこれはちょっと厨二病が過ぎると感じる台詞も、その耽美の精神に免じて抵抗なく受け入れることができます。

f:id:taiwahen:20170205191339j:plain


ファンタジーだからって安易に魔法を出さない

とは言え気をつけたいのは、美しさを追求するあまりバトルの臨場感が希薄になることです。

たとえば、ファンタジーだからといって反則技的な魔法を主人公たちに安易に使わせるのは禁物です。

過酷な世界を舞台にするダーク・ファンタジーにおいて、魔法のように簡単に敵を殲滅できる“チート"の導入には慎重になり、なるべく地に足の着いた泥臭い戦いを描く努力をするべきです。

CLAYMORE』(クレイモア)とよく比較される『ベルセルク』に関しても、魔法は最近になるまで出てきませんでした。
そして、満をじして登場した際には、読者の想像をはるかに上回る壮絶な破壊力を発揮しました。

鋼の錬金術師』にしても、錬金術には「等価交換」という絶対的かつシリアスなルールが設定されていますよね。

CLAYMORE』(クレイモア)では、一度妖力全開で覚醒してしまうと二度と人に戻れないことになっています。
ここでも、大いなる力にはそれに見合った代償が支払われるのです。

f:id:taiwahen:20170205191645j:plain


最悪の敵の存在

f:id:taiwahen:20170205191729j:plain

「最強」ではなく「最悪」。
この微妙なニュアンスの違いが大事です。

ダーク・ファンタジーにおける宿敵は、主人公たちが生きる残酷な世界を一身で体現するような邪悪さと危険性に満ちた存在として描くべきです。

最悪の敵との戦いは、主人公にとっては世界そのものとの対峙であり、決別であり、同時に受容でもあるのです。

過酷な世界は高潔な人格を作る

f:id:taiwahen:20170205191759j:plain

世の中の退廃が進み道徳、倫理の価値観が揺らげば揺らぐほど、その流れに同調する大多数の人間とは別に、ごく少数の高潔な人間の輝きが増します。

ダーク・ファンタジーの世界で言えば、そのごく少数の高潔な人間こそ、主人公やその仲間たちです。
そして、現実世界で言えばそれは作品を読んでいる読者です。

進撃の巨人』という分かりやすい例を出すまでもなく、ダーク・ファンタジーの過酷な世界とわれわれの生きる閉塞社会は常に陸続きです。そのことを作者は頭の片隅にとどめておいて損はないでしょう。

主人公がニヒリズムを乗り越える過程を描く

f:id:taiwahen:20170205202446j:plain

ダーク・ファンタジーの主人公は総じて孤独で「世界は自分を理解しない、自分も世界を理解しない」というニヒリズムに陥りがちです。

端的に言ってしまえば、ダーク・ファンタジーは主人公がそのニヒリズムを乗り越えていく過程を描いたものです。

仲間たちとの交流や強敵との戦いを経てニヒリズムを克服した主人公は、最初の頃と比べて戦闘の際の冷徹な判断力、行動力を欠きます。

しかし、守るべきものがある「弱さ」ゆえの逆説的な「強さ」を発揮して、最終的に宿敵を打ち倒すのです。

なんだか、いかにも少年漫画的な暑苦しいノリになってしまいました。

が、ダーク・ファンタジー作品の肝にはそういう健全さが隠れてるとやはり思う次第です。

美麗なバトル漫画『CLAYMORE』(クレイモア)。
あらためて良作だと思うので、ここにオススメしておきます。

ではでは。

甘美なる歌声は邪魔しない。/鹿島茂『「悪知恵」のすすめ』

こんにちは山中です。

トランプ大統領による外国人入国制限のニュースがメディアを騒がせていますね。
悪い意味で期待を裏切らないというか、今回の出来事をきっかけにこの先ますます世界情勢は泥沼化していくでしょう。

今回の話題含め、外交問題に関する記事を読んでいると、各国の首脳を童話の登場人物に見立てて皮肉ったものをたまに見かけます。

どうやら人種や宗教の問題が絡んでくればくるほど、こうした風刺的な報道が多くなるみたいです。

イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』掲載、グレート・ゲームの風刺画。

f:id:taiwahen:20170203011458j:plain

熊(ロシア)とライオン(イギリス)に狙われたアフガニスタン。(Wikipediaより引用)


スウィフトの『ガリヴァー旅行記』なんかを読んでも分かるように、寓話というのは数ある物語のジャンルの中でも、最も生の現実に接近したタフな表現形式と言えます。


てなわけで、今日は寓話の魅力について書かれた本を紹介します。

鹿島茂『悪知恵のすすめ』。
サブタイトルは、「ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓」です。

ラ・フォンテーヌの寓話について

ラ・フォンテーヌの寓話を知っていますか?
自分は名前は聞いたことはあったものの、本書を手にするまでその内容を知りませんでした。

ラ・フォンテーヌは17世紀フランスの詩人で、『イソップ寓話』をもとにした寓話詩を書きました。

著者の鹿島茂さんは本書の冒頭で、フランス文学を研究している人間でもラ・フォンテーヌの寓話を読む人はあまりいないと言っています。

僕自身も本好きの友人が何人かいますが、話題にあがったことは一度もないですね。フランス文学でなおかつ寓話詩っていうとなんとなく甘ったるいイメージを抱きがちで、それほど興味をそそられませんでした。

しかし、実際の作品は自分が勝手に抱いていたイメージとは180度異なります。鹿島さんの言葉を借りれば、「その冷徹ぶりたるや、マキャベリの『君主論』にだって負けない」というのです。なんだかゾクゾクしませんか? 自分はこういうの大好きです。

フランス的とはなにか

本書で紹介されている寓話には、変化の激しい時代を生き抜くためのしたたかな知恵が数多く詰まっていますが、著者いわく、その全てに一貫して流れているのは世界のどこにも類例のないフランス的なメンタリティーです。

一言で要約するなら、それは負け惜しみの美学のようなもの。

本書の冒頭に載っている例をもとに説明します。

イソップ童話』に「キツネとブドウ」というそこそこ有名な話があります。

腹を空かせたキツネが支柱から垂れ下がるブドウを見て取ってやろうと思ったがどうやっても手が届かない。あきらめたキツネは去り際に一言。「あのブドウはまだ熟れていない」。


能力のない人間はできない理由を自分以外に求める。

自己啓発書なんかでよく引き合いに出されるポピュラーな教訓です。

ラ・フォンテーヌの寓話にも同じ話があるそうです。しかし、そこから得られる教訓はイソップのそれと全く異なる。

ラ・フォンテーヌの寓話のキツネは、手の届かないブドウに対して「あれはまだ青すぎる。下郎の食うものだ」と捨て台詞を残します。反応としてはイソップのキツネとほぼ同じです。

が、ラ・フォンテーヌはキツネの負け惜しみを「愚痴をこぼすよりまし」として高く評価しているのです。

欲しいものが手に入らずにもんもんとするくらいなら、「そんなものいるか」と言って小馬鹿にした方が健康的だという考え方。これがフランス流。

見方によってはただ虚勢を張っているようにしか映りませんが、こういう合理的なズルさこそ、リーダーシップや勤勉さ以上に土壇場で自分を救う力になると思います。嫌味じゃない感じでさらっと言えると強いですよね。

白鳥の歌声とガチョウのスープ

最後に、自分好みの寓話を一つ紹介します。


「白鳥と料理人」の話

大邸宅の一角にある飼育園で白鳥とガチョウが暮らしていた。
白鳥は池を優雅に泳いで主人や招待客の目を楽しませた。
ガチョウは、その滋味豊かな肉を主人や招待客に提供していた。
ある日、酔っ払った邸宅の料理人が、てっきりガチョウだと思い込んで白鳥のくびを掴んだ。くびをしめて今夜のスープに入れるつもりである。
白鳥が、美しい声を発して嘆きを訴えたところ、料理人は間違いを悟って手を離した。

この話の最後にラ・フォンテーヌがつけた教訓。

たとえ、重大な危険が迫っているときであろうとも、甘美なる歌声は決して邪魔にはならないのだ。

国の緊急時には芸術は腹の足しにならない最たるものとして見向きもされなくなるのが常だけれど、しかしそんな時でも、いや、そんな時だからこそ、普段すぐに役に立たないものが役に立つこともあるのだ、という戒めです。

文学部を卒業した身にとって、この白鳥の歌の話はなかなか刺さるものがあります。

作り手と受け手どちらにせよ、芸術に関わる人間は自分がやっていることのあまりの実益のなさを嘆いた経験が多かれ少なかれあるのではないでしょうか。

自分もつい最近までしょっちゅう嘆いていました。
「おれはどうして文学部なんて出ちゃったんだろ。会社で役立たない知識ばかり中途半端に詰め込んで一体この先どうなるんだ?」なんて。芸術全般を恨んだ時期もあった。

今もその不安は変わらずあります。でもここにきてようやく、なんの役にも立たないと思っていたものこそ実は水面下で自分を支え続けてくれていたことに気づかされました。

過去の自分は話の中の料理人のように、白鳥をガチョウと勘違いしてくびをしめていただけだったんです。

そんな意味で、この「白鳥と料理人」の寓話の教訓は、ここ最近の自分の心持ちに近いものがあるなぁとうれしく感じたのでした。


それでは。

寓話〈上〉 (岩波文庫)

寓話〈上〉 (岩波文庫)

曼荼羅のように艶めかしく美しい仏教漫画『阿吽』の感想

今日はおかざき真里『阿吽』の感想。


「阿吽(あうん)の呼吸」の“阿吽”がもともと仏教用語だということをはじめて知った。


“阿吽”には、宇宙のはじまりと終わりという意味がある。


圧倒的画力

『阿吽』は、日本仏教史上の二人の大天才、最澄空海を主人公にした仏教漫画だ。

作者にとっては新境地開拓ということらしい。

自分は作者の過去作品を読んだことはないのだけど、恋愛漫画をメインに書かれていた方みたいですね。ガラリと題材変えてきたなぁ。

でも、その方向転換正解だったと思う。

美しい。

少女漫画風な絵のタッチと仏教的な世界観が意外なくらいにマッチしていて、平安時代の妖しげな雰囲気がよく出ている。

密教曼荼羅を思わせる艶かしい画風です。

似た者同士の最澄空海

日本人の教科書を注意して読めば、最澄(767年〜822年)と空海(774年〜835年)の生きた時代が重なっていること、二人が同じ遣唐使船に乗って海を渡ったという歴史的事実を容易に知ることができる。

作者はその教科書的な知識から想像力の翼を広げて、血の通った人間としての最澄空海を活写している。

一見、二人の天才は対照的で共通点はないように感じられる。だが、自身の追い求める真理が既存の日本仏教の中ではなく、海を渡った先にしか存在しないと直感を働かせていた点で二人は似た者同士、まさに阿吽の呼吸をしていた。

自分は仏教にそれほど詳しくないですが、仏教家の良し悪しは、つまるところブッダの言葉をどれだけ広く深いところで解釈できるかで決まるんじゃないかと思ったりします。

最澄空海は共に万巻の書を読んで誰よりも頭に知識を詰め込んだ知識人です。ですが、彼らが宗教家として優れていたのは、知識をそのまま鵜呑みにせずに、そこに自分なりの解釈と経験から得た気づきを付け加えることで、より高次の知恵を生み出す才能があったからではないでしょうか。

本作はあくまでも漫画なので歴史的事実と異なる点も多いですが、実人生を通じて自身の仏教観、宇宙観を練り上げていく宗教家の苦闘を物語を楽しみながら知ることができるので、仏教入門書としておすすめです。

ちなみに、自分は実家がたまたま真言宗豊山派ということで空海に前々から興味があります。

師の代表作『秘蔵宝鑰』も前に読んだ。
角川ソフィア文庫版はとても分かりやすい訳で空海の言葉が頭にスッと入ってきます。

その時書いた記事はこちら。


空海について書いたもので他に分かりやすかったのは、苫米地英人さんの『超訳 空海』ですかね。

超訳 空海 (PHP文庫)

超訳 空海 (PHP文庫)


空海の思想の基本をおさえると同時に、著者らしい新解釈を展開しているのが楽しい1冊です。

自分がこの本で気に入ってるのは、空海の代表的な言葉が50個ほど収録されていることです。

その中から個人的に好きなのを1個引用して今日は終わります。下が訳です。

哀しい哉、哀しい哉、哀が中の哀なり。悲しい哉、悲しい哉、悲が中の悲なり。覚の朝には夢虎無く、悟な日には幻象無しと云うと雖も、然れども猶夢夜の別、不覚の涙に忍びず。

哀しくて、哀しくって。言葉で言い表せないほど、哀しくて、哀しい。
悲しくて、悲しくって。心で表し尽くせないほど、悲しくて、悲しい。
悟りを開けば、何ものにも惑わされないというけれど、現実に愛する人との別れには、涙を流さずにはいられなかったのです。

超訳 空海』p183より引用
原典は『遍照発揮性霊集 巻第八』


それでは、また。