そのイヤホンを外させたい

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アラサー文系男子のピカレスク・ログ

現役作家による贅沢な世界文学講義/池澤夏樹『世界文学を読みほどく』

読書 文学

池澤夏樹『世界文学を読みほどく』が、めちゃくちゃ面白かったので感想を書く。

世界文学を読みほどく (新潮選書)

世界文学を読みほどく (新潮選書)


本書はなにぶん大著なため長い間読むのを躊躇していたのですが、ここ最近生活面で苦戦が続き思いっきり現実逃避がしたくなって読みました。

本書の元になったのは、池澤さんによる京都大学文学部での夏期特殊講義です。
夏休みの最後の一週間に連続して授業を行ったとのこと。贅沢過ぎる。学生うらやましい。

本講義で取り上げられた作品は以下の通り。

スタンダール『パルムの僧院』
トルストイアンナ・カレーニナ
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
メルヴィル『白鯨』
ジョイス『ユリシーズ
マン『魔の山
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』
ガルシア・マルケス百年の孤独
池澤夏樹『静かな大地』
ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』


文学の満漢全席といった感じ。
著者自身の作品はちょっとマイナーですが、それ以外は、文学愛好家でなくとも一度はタイトルを耳にしたことがあるであろう作品ばかりです。

さて、みなさんはこの中で何作読んだことがあるでしょうか?

自分の場合は不真面目ながらも文学部卒なので、7作品は読んでいました。
とは言え、長い上に難解なので一応最後まで読み切ったといこと以外、何一つ記憶に残っていない作品もあります。

たとえば、『アブサロム、アブサロム!』。アメリカ文学のゼミで3ヶ月くらい掛けて読んだはずなのに、物語のキーパーソンであるトマス・サトペンという名前しか頭に残っていない。本書の解説を読んで、「へぇ、だからタイトルが『アブサロム、アブサロム!』なんだ」と初めて理解したほどです。

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)

アブサロム、アブサロム!(上) (講談社文芸文庫)


フォークナーは『八月の光』も『響きと怒り』も読んでるはずなのに、そっちも綺麗さっぱり忘れてます。いつか機会があったら読み返したいと思うのですが、文学ってつくづくコストパフォーマンスの悪い代物だと感じます。

池澤さんの小説論の根本にあるのは、物語、小説というのは、人間を描くと同時にその人が動く「場」としての世界を描くものである、という考え方です。当然、「場」としての世界のあり方が変われば、そこで生きる人間のあり方も変わる。つまり、物語、小説は人と世界の関係の変遷について書かれたもの、と言い表すことができる。

大ざっぱに言ってしまえば、昔の方が人と世界の関係は単純でした。

本書ではその一例として『パルムの僧院』が挙げられています。

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)


スタンダールの生きた時代には、世界に対して作者が全幅の信頼を寄せていた。

どういうことかというと、語り手である作者の目が、作品中の事件や登場人物の心情など物語の隅々まで行き届いてるんですね。

いわゆる“神の視点"をもってして作者は小説を書いていた。本書にも登場するトルストイの『アンナ・カレーニナ』や日本では三島由紀夫の作品でもこの特徴が見られます。池澤さんは、個人的にはあまりこのスタンスが好きではなないらしい。

現代の作家はたとえ三人称で作品を書いていても、読者に分かるのは、場面ごとの主要登場人物が見た光景や心情のみに限定されることが多い。

小説にとってどちらが良いとは一概には言えませんが、スタンダールに関しては、彼の墓碑銘である「生きた、書いた、愛した」が象徴してるように、作者と小説の幸福な関係性が成立していました。


が、19世紀も後半に差し掛かると、そのような作者と小説の関係性は次第に揺らいでくる。

その先駆けとして本書に挙がっているのは、メルヴィルの『白鯨』です。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)


池澤さんは本作を早過ぎたポスト・モダン小説と言っています。

『白鯨』のどこがそれまでの小説と異なるのかというと、その内容が構造的である以上に羅列的であるという点です。

『白鯨』のストーリーは単純明快です。語り手はイシュメールという男で、彼が乗り込んだ捕鯨船ピークオッド号の船長エイハブは、かつて自分の足を噛み切った大きな白鯨に対して猛烈な復讐心を燃やしており、どこまでも追っていきます。エイハブと白鯨の対決が本作のクライマックスで描かれます。

話の筋だけ見れば単純ですが、実際『白鯨』は文庫本で上下巻ある長い作品です。じゃあ、何が書かれているのかというと、鯨学や捕鯨の歴史その他博物学的なウンチクがこれでもかというほど詰め込まれているのです。

物語である以上に鯨百科事典みたいな感じなんですね。普通の小説と違って、何か一つの出来事が起こってその結果別の出来事が起こるという原因と結果の関係がなく、チャプターA、B、Cがその順序である必要がない。B、C、Aにしても場合によっては構わない。この点こそが、本作がポスト・モダン的、データベース的と呼ばれるゆえんです。

この構造的→羅列的な作品世界の変遷が、そのまま20世紀以降のリアルな世界のあり方に呼応しています。本作に登場するジョイスの『ユリシーズ』しかり、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』しかり、多層化し、複雑化した世界の姿を物語を通じて捉え直そうとする一つの試みの結実です。

20世紀以降、文学をはじめ美術や建築の分野でモダニズム運動が盛んになり、芸術家の生み出す作品はそれまでに比べより抽象度が増し、一般人には理解の難しいものになりました。第1次世界大戦という未曾有の戦争体験を経て「これまでの方法論では、自分たちが目の前にした世界の混沌を表現することはできない」という暗黙の理解が敏感な芸術家の中に生まれたのです。

山田詠美さんだったと思うが、日本の小説家は直木賞を受賞するような売れっ子の人の方が、誰もが思い浮かべるような文豪っぽい雰囲気を出しており、それに比べ純文学の人はどこにでもいるようなしょぼい感じがする。逆にそうじゃないと今は書けない、言っていたのを思い出しました。

たしか、この本だったと思う。↓

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)


直木賞作家というのは、スタンダールがそうであったように、自分の描く登場人物と世界に何の疑いも持たず作品を書く。だから、現代にあっても作者と小説の幸福な関係性を表面的には築くことができる。

しかし、純分作家の場合は、作者が描く世界の前提が既に崩れているので、既存のステレオタイプな小説家像の中に埋没していては優れた作品を書くことはできないのだろうと思います。

そういったことを踏まえて本書を読んみると、小説、特に文学とカテゴライズされる作品を読んだり書いたりすることは、一般人が考えている以上に、自分ら個人の生き方と世界のあり方に密接に関わる大変アクチュアルな営みであるなーとあらためて実感しました。

小説もしくは小説家とリアル世界の関係性という点で、本書の中で感銘を受けた言葉を引用して今日は終わりたいと思います。

本来だったら小説家というのは最後に来るものです。どういうことかというと、何か歴史的な事件が起こる。そうするとまずジャーナリストが駆けつける。それからしばらくして、この問題をどう扱うかと論じる。評論家が出てくる。社会学者が分析する。それからさらにしばらくして、社会全体に一定の了解ができたときに、はじめて作家は出ていって、その話全体をフィクションに仕立てる。その出来事が持っている本当の意味、当事者の側と周囲の側、被害者と加害者、両方を含めた大きな輪を描いて、意味を中に閉じ込める。これが作家の本来の仕事なんです。
p357より引用


余談ですが、小説家志望の人はブロガーとして大成しないことが多いように感じます。なぜでしょう?

作品を書くのに忙しくてブログを書く時間を捻出できないという理由がある一方で、ある物事に対して即座に判断を下さないという気質が、ブログという媒体が書き手に与える「書け!書け!」という要求を無意識に回避するのでは、と自分は推察しています。

ブログでうまく盛り込める何かなら、わざわざ物語というまわりくどい形式で表現しないですからね。

やはり、牛になることはどうしても必要なようです。

ではでは。