そのイヤホンを外させたい

ブログ名変更のお知らせ

ブログの名前を変えた。失恋してロングヘアーをばっさり短く切る女子のような心境で。


題名に私自身の願望が如実にあらわれているなぁ。


理由は、約3ヶ月の間頑張ってみたもののまともに小説が書けなかったことによる。そんなバカな……。


掌編めいたものはポツポツと書き始めても納得のいかないものばかりですぐに筆を止めてしまう。そもそも書いていて全く手応えが感じられない。おかしいな? 向いてないのかな? 結局自分が楽しいと思えないことを無理してやっていてもいずれ限界が来るだろうと思いやむなく中断した。


ショック。満を持して取り掛かったのでこんなはずではなかったという思いが強い。


しかし、まぁいっか。書けなかったことは事実。今回はその実感に素直に従うことにした。一旦諦める。


できなかったことを悔やんでいてもしょうがない。間を空けずに別のことをしよう。別のことって? 二、三日考えた末、地道に既存のブログを更新していくという面白みのない結論に落ち着いた。フツー笑。いや、もうなんか僕は普通のことがしたい。曲がりなりにも生きてきて世の中に必勝法なんてないことは十分理解できたつもりだ。それに今更ながら気づいたが、ブログ書くの結構性に合ってる気がする。


これまでの人生至るところで寄り道を繰り返してきた自信があるが、こうなったら気が済むまで寄り道してやろうか。


まだ現段階ではわりと錯綜しているが、一つはっきりと分かっていることがある。


私には言ってやりたいことが山程あるのだ。


上手に言えるか、言えないか、それが問題だ。


途中で飽きてやめるかもしれない。続くかもしれない。それはまだ分からない。とゆーか今考える必要はない。まぁ、ベストは尽くしますよ。イヤホン外させたいですから。生きてるからには。



小説家、大石圭誕生秘話



大石圭、小説家。
1993年『履き忘れたもう片方の靴』が文藝賞佳作となりデビュー。その後、官能、ホラー小説の分野で頭角を現し、角川ホラー文庫光文社文庫を中心に数多くの作品を発表。2003年には、映画『呪怨』のノベライズも担当した実力派作家。


デビュー前、会社員生活を送っていた30歳の大石は、ある晩突然の激しい腹痛と吐き気に襲われた。慌ててベッドから飛び起きトイレに駆け込んで嘔吐すると、吐瀉物は血まみれだった。


翌日、病院に行きレントゲンを撮ったところ、そこには白っぽい不吉な影が写り込んでいた。


「もしかしたら、胃癌かもしれないって」

帰宅した大石が彼の妻にそう告げると、彼女は激しくショックを受けた様子だった。


大石自身、突然の出来事に動揺していたが、不思議と取り乱すことはなかった。来るべき死に備えて、彼は身辺整理をし、遺書も書いた。人はいつか必ず死ぬ。自分の場合、それが思っていたよりも早かっただけ。彼はそう思い込もうとした。


だが、そんな大石の覚悟は良い意味で裏切られることになる。最初の検査から1週間後に受けた胃カメラによる検査結果は「異常なし」。嘔吐の原因は単なる胃炎であった。


この出来事をきっかけに、大石の中で何かが変わった。彼は自分の周りにあるものすべてを、それまでよりもよりしっかりと見、しっかりと聞き、しっかりと実感するようになった。自分の生の時間は限られている、という認識が、彼の生き方を根本的に変えた。


大石が小説家としてデビューするのは、その出来事から2年後のことである。


・もし、あの時、死んでいたら、僕はただひとつの小説も書くことはなかった。そう思うと、今も少しだけ不思議な気がする。もちろん、僕の小説なんて、あってもなくても、世の中には何ひとつ影響はないのだけれど……。
ー『甘い鞭』(角川ホラー文庫)「あとがき」より引用ー


甘い鞭 (角川ホラー文庫)

甘い鞭 (角川ホラー文庫)


小説を読むことは究極のライフハックである



小説家の保坂和志は、過酷な現代社会を個人が生きるために必要なことを訊かれて、「それはたとえばカフカを読むことだ」と述べている。


ごく一般には、人生に役立つ知識やノウハウの意識的な蓄積こそ最も効率的な生存戦略だと信じられている。だがそれではダメだと保坂和志は言う。なぜなら、そのような情報を自分の中に入れれば入れるほど実は対象に飲み込まれていく結果を招くのであるから。その容赦のない力に抵抗するための「カフカを読め」なのである。


・やっぱり、知れば知るほどわからないっていうほうがずっと面白いと思うんだよね。だから「わかった」って言う人に対しては、「浅薄」だって思わなきゃいけない。p25 『考える練習』


小説好きの人間としておれは保坂和志の主張はとてもよく分かるし、より多くの人に同じ価値観が浸透すればいいと思っている。


だが、もし第三者から貴重な時間を費やして小説を読むことの具体的なメリットを訊かれた際には、一体何と答えるのが正解だろうか? 答えに窮して黙り込んでしまうのも困りものなので、ある程度説得力のある回答を示しておきたい。


「そういう質問をしたりされたりすること自体がダメ」なんて保坂和志なら言いそうだが、おれのようなカスは、相手の立場を考慮に入れてある程度向こうのニーズに沿った形で回答を示す努力をしないと、話さえまともに聞いてもらえないことが多々ある。ただ、「大きな力に抗うためです」とキリリと宣言したところで、キモがられるだけだろうし、たぶんバカ認定される。おれはそれがフツーに嫌だ。たとえ対象が語りえない事柄であったとしても、他人と話をする以上こちらの考えを理解し納得してもらいたい。語りえないことに対しては間違っていてもいいから敢えて発言する図太さだって時には必要なのだ。


では、普段小説なんて全く読まない人間に、すぐには利益に結びつかないそれらを手に取ってもらうには、何と言ってアピールするのが適当か?


やり方は人それぞれあるだろうけど、おれ自身これがベストだなって思うのは、流行りの「情報断捨離」の切り口から話を始めることである。


まず、相手の共感を得る。「ネットに常時接続してたり、自己啓発本やビジネス本ばかり読んでたら、だんだん精神的に消耗して感覚死んできますよね?」みたいな感じで。


次に、その精神的消耗の理由をソース込みできちんと説明し分からせてあげる。




チェコ好きの日記」の過去記事ですが、非常に分かりやすくて面白いですね。


すぐ役に立ちそうな目先の知識ばかり追いかけていると、徐々に自分自身の欲望を見極めることが困難になってくる。これは誰もが内心で思ってることですから、説明にはそれほど苦労しないはずです。


自分の意志とは無関係になだれ込んでくる情報の嵐と距離を取ることが第一ステップ。その後、「情報断捨離」のおかげで空いたスペースを利用して自分の本当の欲望を探していくのが第二ステップです。


もし小説を読んで最も何らかの利益を得られるタイミングがあるとするなら、きっとこの第二ステップにおいてでしょう。小説は瀕死の感覚を蘇らせ、個人に真の欲望を自覚させます。断捨離後、ヨーグルトを食べて空っぽになった腸を綺麗に掃除し善玉菌を増やすように、情報断捨離をするわれわれも空っぽになった脳の中に文学という栄養を送り込むことで、より豊かな心を手に入れることができるはずです。どうですか? 一面的ではあるけれど、これならまぁ、相手もある程度は納得してくれるのではないでしょうか。少なくとも小説を読むことは暇つぶしのためだけではない、ということは理解してくれるはず。


まとめ


たとえそれが二日でも三日でもいい、情報を遮断し、ひとつの作品と長い時間をかけてじっくりと向き合う。そんな時間を持つことができれば最高だ。なぜなら、あなたという存在に「違いの分かる感じ」が出てくるから。「違いの分かる感じ」は万能だとは決して言えません。しかし、分かる人には分かってもらえる。そして、分かってくれる人のことをきっとあなたもよく分かる。小説を読むことは、詰まるところ本当の自分を探しにいく旅だと思います。これを本物のライフハックと呼ばずに他に何と呼ぶのか? 





女性作家のデビュー作二つ

松浦理英子の『葬儀の日』と山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』を続けて読んだ。



1978年、2004年と発表年に隔たりはあるが、作品の圧倒的存在感によって文芸シーンに新風を巻き起こした点で共通している。



女性作家のこのような天才的なデビュー作には、一体どんなものを食べて育ったらこんなひと味もふた味も違う小説が書けるのだろうか? といつも嫉妬させられる。特に、『人のセックスを笑うな』には作者の知識武装はほとんどなく、完全に世界と一対一で人間と風景を描いている。男性作家のものは、いかに良く書けていても決してお空の上ってわけではなさそうに感じるのだが。


どちらも、読み終わって「万歳!」と思わず叫びたくなるようなナイスな出来映えです。


夢を追うことは合理的な生存戦略かもしれない


それでも、夢を追うしかない。/2016年の挨拶とブログ書籍化のお知らせ - デマこい!



夢か安定か。
そんな二者択一が個人の人生設計に大きく影響を及ぼす時代があった。


現在でも、たて前としてその選択は残っていて、多くの人が昔と同じように考えより現実的な人生航路へと舵を切ろうとする。


しかし、冷静になって周囲を見てみると、もはや安定の道などどこにもないという事実に気づかされる。目の前にあるのは、どう進もうと安全の保証はない茨の道だけだ。安定は無理ゲー化したのだ。


正社員という雇用形態で働いていたとしても、所詮は名ばかり。未来に対して何の確約も得られない。大企業でも20~30年が寿命だし、運良く長く続いたしても年功序列の人事制度が崩れ去った今、仕事で実績を残しても昇級や賞与のアップは期待できない。


現今のポスト資本主義社会がこの先もしばらく継続することを考えると、われわれの心の平穏はますます難しくなるのではないかと想像する。社会が緩やかな停滞に入れば、そのしわ寄せはどうしても個々人の内面に及ぶからだ。


先行き不透明の社会でストレスなく生きるには、たとえそれが小さな事業でしかないとしても自分の好きなことを仕事にすることである。


自分の好きなことを仕事にするために全力投球する方が、ない見返りを求めてがむしゃらに残業をするよりもよっぽど現実的だし、精神衛生上良いことは明白である。


かつて、夢を追うことはいつまで経っても大人になれない証拠と見なされた。だが、今後は夢を明確にすること自体が生存戦略であり、大人であることの証明になっていくのかもしれない。


自分にとって何か一つでも情熱を持って打ち込めるものがあるなら、あなたは恵まれている。ぜひ、チャレンジしてみるべきだ。人にはそれぞれの闘い方がある。今それに取り掛かることできっと未来への投資になると思いますよ。


映画『ブラック・スワン』に見る面白い悲劇の作り方


ダーレン・アロノフスキー監督『ブラック・スワン』は、観る人によって評価が分かれるものの、ぼくは比類のない傑作だと思っています。


自分がこの作品の何に魅力を感じるのかというと、それは、力強いプロット、ラストの鮮烈なカタルシス、そして何よりも作品全体から感じ取れる気品にある。


これらは物語を書く上で、特に悲劇を書く上で作品の成否を分ける普遍的な要素であると言えそうなので、その成り立ちについて少し突っ込んで考えてみたい。感銘を受けた作品というのは、解剖したくなるものです。

アリストテレスによる悲劇の定義


古代ギリシアの哲学者アリストテレスは『詩学』の中で、悲劇とは、一定の大きさをそなえた完結した高貴な行為のミメーシス(再現または模倣の意)であると述べています。


そして、悲劇からはどのような種類の喜びを求めてよいというわけではなく、悲劇固有の喜びを求めなければ感情のカタルシス(浄化)を達成することはできないとも説明しています。


では、アリストテレスの言う悲劇固有の喜びとはどのようなものでしょうか?


いくつかの要素が絡み合っていますが、端的に言ってしまうと、悲劇固有の喜びとは、幸福に値する人間が不幸になる、もしくは、不幸に値しないにも関わらず不幸に陥る人間に対するあわれみと怖れの感情から来る内的な覚醒のことです。


ブラック・スワン』の主人公ニナは、幼い頃からクラシックバレエの練習のみに打ち込んできた優等生です。彼女は自分自身のためにも、自分を生むためにバレリーナの道を諦めた母親のためにも、『白鳥の湖』でプリマ(主役)を演じることを心の底から願っています。彼女は目標達成のためなら努力を惜しまない優れた人格を持っており、その生き方には不幸に値するような要素はほとんど見られません。しかし、彼女はその真面目さ、優れた人格ゆえに自分に与えられた黒鳥のパートを演じる中で次第に心を病んでいくのです。


アリストテレスは、悲劇の登場人物は性格的に劣った人よりも優れた人物に設定しなければならないと断った上で、彼もしくは彼女の顛落の原因は彼ら自身の邪悪さによるのではなく、大きなあやまちによるのでなければならない、と言っています。そのような条件を満たした作品は、最も悲劇らしい悲劇という印象を観ている側に与えるのです。

何よりも大事なのはプロット


悲劇で最も重要なのは出来事の組み立て、筋です。現代の言葉で言えばプロットですね。


筋(プロット)は悲劇の原理であり、いわば魂である、とまでアリストテレスを言い切っています。
古代の哲学者がなぜここまで筋(プロット)を重要視していたかと言うと、それは彼が芸術作品の美は大きさと秩序にあると考えていたからです。


悲劇は、始め、中間、終わりの三幕で構成され、なおかつ観客の目からその全体を見渡せる長さのものでなければなりません。この考え方は、現代のハリウッド映画の創作方法にも深く浸透しており、もちろん『ブラック・スワン』も同様のメソッドで作られています。本作では、劇場の看板バレリーナであるベスの引退から、ニナが新たな『白鳥の湖』のプリマに抜擢されるまでが第一幕。理想の黒鳥のイメージを兼ね備えた奔放な女性リリーとの交流を経て、その結果精神に異常をきたしたニナが自分の中の黒鳥に目覚め舞台上で完璧な演技を披露するまでが第二幕。その代償に白鳥として現実に致命傷を負わなければならなくなるまでが第三幕といったところです。

外的な目的、内的な欲求


ハリウッド映画の観点からもう少し。


脚本家志望必携の書、ニール・D・ヒックス『ハリウッド脚本術』によれば、物語の人物には「外的な目的」と「内的な欲求」の二つがあると述べられています。


「外的な目的」とは、人物の実際の行動目標のことです。例えば、銀行強盗をするとか、野武士から村を守るとか、カジキマグロを捕まえるとか、自分の元いた時代に帰るとかいったような具体的な行動です。


一方「内的な欲求」というのは、その「外的な目的」を達成することによって解決される人物の内面の葛藤を指します。


ブラック・スワン』のニナに関してこの二つの欲求を考えるならば、以下のようになります。


外的な目的: 『白鳥の湖』の黒鳥のパートを完璧に演じ切ること。

内的な欲求: 利己的な母親に縛り付けられた自身のアイデンティティーを解放すること。


面白いのは、「外的な目的」の達成が登場人物を不幸に導く結果になるとしても、「内的な欲求」が同時に満たされているならば、ある意味においてその人物は救われるということです。


ニナは黒鳥を演じることに最終的に成功しますが、それは彼女の肉体の破滅をも同時に意味します。しかし、彼女は喝采の中、「完璧」という感想を漏らし満足の表情を浮かべます。このような逆説的な内面の救済のあり方こそ、優れた悲劇が観客におよぼす最大の効果と言えるでしょう。

筋(プロット)を彩る様々な要素


悲劇の構造の要となる部分については、上に書いた通りです。ですが、物語を作る上ではその他にも様々な演出、アリストテレスの言葉で言えば「装飾」が必要とされます。


ギリシア悲劇で言えば、音楽や衣装またはコロスの役割がこの「装飾」に当たります。その他には、英雄の身体に生まれながらにして何らかの印が刻まれているというのもそうです。それらは、メインプロットの持つ劇的効果をより一層高める働きをします。


ブラック・スワン』は、「装飾」の点で見ても非常に優れています。


まず、クラシックバレエという題材が魅力的で設定勝ちしてると思います。自然劇中に流れる音楽も秀逸なものばかりですし、ニナを演じるために一年間肉体トレーニングに励んだというナタリー・ポートマンの鍛え抜かれた筋肉のしなやかさ、その緊張のバランスに目を奪われます。


印という点においては、ニナは幼少の頃から母親から受けるプレッシャーで自身の背中を爪で引っ掻いて傷つけてしまうという悪癖を持っています。その引っ掻き傷は、次第に黒鳥的な邪悪さに支配されていく彼女の未来を暗示する象徴とも言えそうです。


加えて、本作はサイコスリラーというジャンル映画の特色も兼ね備えており、物語の筋(プロット)をよりキャッチーでポップな形で届ける工夫が見られます。映画レビューなどを読むと、本作をジャンル映画という観点からでしか捉えていないものが多々あり少し残念です。サイコスリラーというのは作品を彩る「装飾」の一つに過ぎません。


有名作なので既にご覧になった方も多いかと予想しますが、物語を書く上で参考にもなるし、単純に面白いのであらためてオススメしておきます。


アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

ちゃんとモテる力/二村ヒトシ『すべてはモテるためである』

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)


ネット上の性愛カテゴリーをベースにものを考えてる人間でこの本に目を通してないのはモグリ。そう言われても仕方のない本であるから、遅まきながら読んでみました。


『すべてはモテるためである』(以下「すべモテ」)には、二種類の男性読者層が想定されていると思う。


一方は、この本を買う大多数を占めるであろういわゆる「非モテ」の男性、他方は、女性との恋愛およびそれに付随するセックスにおいてそこそこの経験値をもっている「リア充」もしくは「ヤリチン」の男性だ。後者は基本的に自分を「モテている」と信じていらっしゃるので、本書を手にする機会は前者よりも圧倒的に少ないだろう。しかし、そのような男性にこそ読んでもらいたい、というのが著者の二村さんの真意であるようだ。なぜなら、「モテ」という概念ときちんと向き合えてない点で、両者は同族だからである。

非モテ」の読者へのアドバイスに比べ、「リア充」「ヤリチン」の読者へ向けたそれは、本人に自覚がないというハンデを埋める分だけより手厳しいものになっている。以下、読んでてソワソワした文章。

「オレは『自分がある』し、なにが好きか自分の言葉で言えるし、自意識過剰になるほどヘマじゃないぜ」って、あなた。
あなたが、いちばん臆病でバカな男です。バカの中のバカ。
あなたは幸か不幸か、学校の勉強や会社の仕事がソツなくテキパキと、できちゃう人なのでしょう。そんなあなたは、自分が「エラソーな」と思われることにも「臆病」と思われることにも敏感ですし、要領もいいですから、一見それほどエラソーにも臆病にも見えないようにふるまえています。
あたなは、あまりへんなコンプレックスを持つことなく、ここまでこれた。だからあなたは「暗い奴」ではない。「自分の居場所」もあると思ってて「自分は輝いてる」とも思ってる。
でもモテてない。
もしくは、モテてはいるけれども相手の女性と「ちゃんと愛しあえない」あるいは「自分がモテたくないような女性からモテる」から、いつも「もっといい女にモテたい、もっともったモテたい」と思っていて、ぜんぜん幸せではない。


世間に流布している「モテる男性像」に対して、このような批判のまなざしをもっている点で、「すべモテ」は他の数多くの恋愛ハウツー本よりも優れています。著者の視点が高いところにあるのです。


こと性愛に関して、「視点が高い」ということはその分「感度が良い」と表現してもいい。


今少なくない数の信者を獲得している恋愛工学の発案者藤沢数希さんとの対談においても、性愛に対する両者の感度の違いは明らかだった。


二村ヒトシと藤沢数希の対談が全く噛み合ってなくて面白かった - はてな匿名ダイアリー


全部読んだわけではないですが、発展性のある内容とは百歩譲っても言い難い。


記事の冒頭で、二村さんが最も「切実」で本質を突いた質問をしているのだが、藤沢さんはその質問から無意識に身をかわして手近にある楽な「切実」(コンプレックスとかオスとしての自尊心とか)をもち出すことで、話の核心から議論を遠ざけたように感じられる。藤沢さんはたぶん、頭はキレるけどその分鈍感な人なのだと思う。二人の嚙み合わなさの原因は、記事執筆者の言うように、恋愛におけるゴール設定やセックスの趣味の相違を含めた恋愛の感度の違いである。恋愛工学のメソッドは究極、先の引用において二村さんが「バカの中のバカ」と表現した「リア充」や「ヤリチン」を目指すためのものでしかない。二村さんの恋愛論は、恋愛工学のようなシステマティックな思想と決して水と油の関係ではなく、後者の合理性の行き着く先を見越した上で展開されているようにぼくには思えるのだが、どうだろう?(もちろん「すべモテ」の大部分は恋愛工学が出現するよりもずっと前に書かれたものである。しかし、書物の世界では古いものが新しいものを乗り越える視座をもっていることは決して珍しいことではない。)


ちなみに、ぼく自身の意見としては、恋愛工学生は色んな女性とセックスできるし男女の事柄についてある程度分かった気になれるから、「大勢の女性の中からオンリーワン」を探すなどと耳触りの良い理想論を好き勝手に展開できるのだろうと思っている。しかし、彼らは結局、恋愛のダイナミズムのようなものに押し潰されるのではないか。サバき切れないものをサバこうとする、あるいはサバいたつもりになっているといつかしっぺ返しをくうと思う。


さてそれでは、「モテる」とは何だ? 「すべモテ」の中ではどのように説明されているか。


残念ながら、そのものズバリといった答えは明示されていない。ただ、非モテ男性のための処方箋としての答えは書かれていた。


「モテる」とは、自分を知っているということだ。ひいては自分の穴の深さを知っているがために目の前の異性の穴の深さも推し量れるということだ。自分が何が好きなのかをちゃんと理解していてエラソーにならずにきちんと他人に説明できる。飾らない自分に適度な自信をもっている。そのような人こそ「ちゃんとモテる」力のある人であるはずだ。キモチワルい故にモテない「非モテ」も、本当はキモチワルいにも関わらずインチキな自己肯定をしてあたかもモテているように見せている「リア充」「ヤリチン」も、「ちゃんとモテる」ために目指す約束の地は同じなのである。


非モテはこんなん読むのかーww」などと調子こいてる恋愛プレーヤーこそ読んで返り討ちにあってください。