ブログ名変更のお知らせ
小説家、大石圭誕生秘話
・もし、あの時、死んでいたら、僕はただひとつの小説も書くことはなかった。そう思うと、今も少しだけ不思議な気がする。もちろん、僕の小説なんて、あってもなくても、世の中には何ひとつ影響はないのだけれど……。
ー『甘い鞭』(角川ホラー文庫)「あとがき」より引用ー
- 作者: 大石圭
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2009/05/23
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 9回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
小説を読むことは究極のライフハックである
・やっぱり、知れば知るほどわからないっていうほうがずっと面白いと思うんだよね。だから「わかった」って言う人に対しては、「浅薄」だって思わなきゃいけない。p25 『考える練習』
まとめ
女性作家のデビュー作二つ
夢を追うことは合理的な生存戦略かもしれない
映画『ブラック・スワン』に見る面白い悲劇の作り方
ダーレン・アロノフスキー監督『ブラック・スワン』は、観る人によって評価が分かれるものの、ぼくは比類のない傑作だと思っています。
自分がこの作品の何に魅力を感じるのかというと、それは、力強いプロット、ラストの鮮烈なカタルシス、そして何よりも作品全体から感じ取れる気品にある。
これらは物語を書く上で、特に悲劇を書く上で作品の成否を分ける普遍的な要素であると言えそうなので、その成り立ちについて少し突っ込んで考えてみたい。感銘を受けた作品というのは、解剖したくなるものです。
アリストテレスによる悲劇の定義
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは『詩学』の中で、悲劇とは、一定の大きさをそなえた完結した高貴な行為のミメーシス(再現または模倣の意)であると述べています。
そして、悲劇からはどのような種類の喜びを求めてよいというわけではなく、悲劇固有の喜びを求めなければ感情のカタルシス(浄化)を達成することはできないとも説明しています。
では、アリストテレスの言う悲劇固有の喜びとはどのようなものでしょうか?
いくつかの要素が絡み合っていますが、端的に言ってしまうと、悲劇固有の喜びとは、幸福に値する人間が不幸になる、もしくは、不幸に値しないにも関わらず不幸に陥る人間に対するあわれみと怖れの感情から来る内的な覚醒のことです。
『ブラック・スワン』の主人公ニナは、幼い頃からクラシックバレエの練習のみに打ち込んできた優等生です。彼女は自分自身のためにも、自分を生むためにバレリーナの道を諦めた母親のためにも、『白鳥の湖』でプリマ(主役)を演じることを心の底から願っています。彼女は目標達成のためなら努力を惜しまない優れた人格を持っており、その生き方には不幸に値するような要素はほとんど見られません。しかし、彼女はその真面目さ、優れた人格ゆえに自分に与えられた黒鳥のパートを演じる中で次第に心を病んでいくのです。
アリストテレスは、悲劇の登場人物は性格的に劣った人よりも優れた人物に設定しなければならないと断った上で、彼もしくは彼女の顛落の原因は彼ら自身の邪悪さによるのではなく、大きなあやまちによるのでなければならない、と言っています。そのような条件を満たした作品は、最も悲劇らしい悲劇という印象を観ている側に与えるのです。
何よりも大事なのはプロット
悲劇で最も重要なのは出来事の組み立て、筋です。現代の言葉で言えばプロットですね。
筋(プロット)は悲劇の原理であり、いわば魂である、とまでアリストテレスを言い切っています。
古代の哲学者がなぜここまで筋(プロット)を重要視していたかと言うと、それは彼が芸術作品の美は大きさと秩序にあると考えていたからです。
悲劇は、始め、中間、終わりの三幕で構成され、なおかつ観客の目からその全体を見渡せる長さのものでなければなりません。この考え方は、現代のハリウッド映画の創作方法にも深く浸透しており、もちろん『ブラック・スワン』も同様のメソッドで作られています。本作では、劇場の看板バレリーナであるベスの引退から、ニナが新たな『白鳥の湖』のプリマに抜擢されるまでが第一幕。理想の黒鳥のイメージを兼ね備えた奔放な女性リリーとの交流を経て、その結果精神に異常をきたしたニナが自分の中の黒鳥に目覚め舞台上で完璧な演技を披露するまでが第二幕。その代償に白鳥として現実に致命傷を負わなければならなくなるまでが第三幕といったところです。
外的な目的、内的な欲求
ハリウッド映画の観点からもう少し。
脚本家志望必携の書、ニール・D・ヒックス『ハリウッド脚本術』によれば、物語の人物には「外的な目的」と「内的な欲求」の二つがあると述べられています。
「外的な目的」とは、人物の実際の行動目標のことです。例えば、銀行強盗をするとか、野武士から村を守るとか、カジキマグロを捕まえるとか、自分の元いた時代に帰るとかいったような具体的な行動です。
一方「内的な欲求」というのは、その「外的な目的」を達成することによって解決される人物の内面の葛藤を指します。
『ブラック・スワン』のニナに関してこの二つの欲求を考えるならば、以下のようになります。
外的な目的: 『白鳥の湖』の黒鳥のパートを完璧に演じ切ること。
内的な欲求: 利己的な母親に縛り付けられた自身のアイデンティティーを解放すること。
面白いのは、「外的な目的」の達成が登場人物を不幸に導く結果になるとしても、「内的な欲求」が同時に満たされているならば、ある意味においてその人物は救われるということです。
ニナは黒鳥を演じることに最終的に成功しますが、それは彼女の肉体の破滅をも同時に意味します。しかし、彼女は喝采の中、「完璧」という感想を漏らし満足の表情を浮かべます。このような逆説的な内面の救済のあり方こそ、優れた悲劇が観客におよぼす最大の効果と言えるでしょう。
筋(プロット)を彩る様々な要素
悲劇の構造の要となる部分については、上に書いた通りです。ですが、物語を作る上ではその他にも様々な演出、アリストテレスの言葉で言えば「装飾」が必要とされます。
ギリシア悲劇で言えば、音楽や衣装またはコロスの役割がこの「装飾」に当たります。その他には、英雄の身体に生まれながらにして何らかの印が刻まれているというのもそうです。それらは、メインプロットの持つ劇的効果をより一層高める働きをします。
『ブラック・スワン』は、「装飾」の点で見ても非常に優れています。
まず、クラシックバレエという題材が魅力的で設定勝ちしてると思います。自然劇中に流れる音楽も秀逸なものばかりですし、ニナを演じるために一年間肉体トレーニングに励んだというナタリー・ポートマンの鍛え抜かれた筋肉のしなやかさ、その緊張のバランスに目を奪われます。
印という点においては、ニナは幼少の頃から母親から受けるプレッシャーで自身の背中を爪で引っ掻いて傷つけてしまうという悪癖を持っています。その引っ掻き傷は、次第に黒鳥的な邪悪さに支配されていく彼女の未来を暗示する象徴とも言えそうです。
加えて、本作はサイコスリラーというジャンル映画の特色も兼ね備えており、物語の筋(プロット)をよりキャッチーでポップな形で届ける工夫が見られます。映画レビューなどを読むと、本作をジャンル映画という観点からでしか捉えていないものが多々あり少し残念です。サイコスリラーというのは作品を彩る「装飾」の一つに過ぎません。
有名作なので既にご覧になった方も多いかと予想しますが、物語を書く上で参考にもなるし、単純に面白いのであらためてオススメしておきます。
- 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
- 発売日: 2012/12/19
- メディア: DVD
- クリック: 4回
- この商品を含むブログ (37件) を見る
- 作者: アリストテレース,ホラーティウス,松本仁助,岡道男
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1997/01/16
- メディア: 文庫
- 購入: 13人 クリック: 140回
- この商品を含むブログ (60件) を見る
ちゃんとモテる力/二村ヒトシ『すべてはモテるためである』
- 作者: 二村ヒトシ,青木光恵
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2012/12/02
- メディア: 文庫
- 購入: 7人 クリック: 125回
- この商品を含むブログ (34件) を見る
ネット上の性愛カテゴリーをベースにものを考えてる人間でこの本に目を通してないのはモグリ。そう言われても仕方のない本であるから、遅まきながら読んでみました。
『すべてはモテるためである』(以下「すべモテ」)には、二種類の男性読者層が想定されていると思う。
一方は、この本を買う大多数を占めるであろういわゆる「非モテ」の男性、他方は、女性との恋愛およびそれに付随するセックスにおいてそこそこの経験値をもっている「リア充」もしくは「ヤリチン」の男性だ。後者は基本的に自分を「モテている」と信じていらっしゃるので、本書を手にする機会は前者よりも圧倒的に少ないだろう。しかし、そのような男性にこそ読んでもらいたい、というのが著者の二村さんの真意であるようだ。なぜなら、「モテ」という概念ときちんと向き合えてない点で、両者は同族だからである。
「非モテ」の読者へのアドバイスに比べ、「リア充」「ヤリチン」の読者へ向けたそれは、本人に自覚がないというハンデを埋める分だけより手厳しいものになっている。以下、読んでてソワソワした文章。
「オレは『自分がある』し、なにが好きか自分の言葉で言えるし、自意識過剰になるほどヘマじゃないぜ」って、あなた。
あなたが、いちばん臆病でバカな男です。バカの中のバカ。
あなたは幸か不幸か、学校の勉強や会社の仕事がソツなくテキパキと、できちゃう人なのでしょう。そんなあなたは、自分が「エラソーな」と思われることにも「臆病」と思われることにも敏感ですし、要領もいいですから、一見それほどエラソーにも臆病にも見えないようにふるまえています。
あたなは、あまりへんなコンプレックスを持つことなく、ここまでこれた。だからあなたは「暗い奴」ではない。「自分の居場所」もあると思ってて「自分は輝いてる」とも思ってる。
でもモテてない。
もしくは、モテてはいるけれども相手の女性と「ちゃんと愛しあえない」あるいは「自分がモテたくないような女性からモテる」から、いつも「もっといい女にモテたい、もっともったモテたい」と思っていて、ぜんぜん幸せではない。
世間に流布している「モテる男性像」に対して、このような批判のまなざしをもっている点で、「すべモテ」は他の数多くの恋愛ハウツー本よりも優れています。著者の視点が高いところにあるのです。
こと性愛に関して、「視点が高い」ということはその分「感度が良い」と表現してもいい。
今少なくない数の信者を獲得している恋愛工学の発案者藤沢数希さんとの対談においても、性愛に対する両者の感度の違いは明らかだった。
二村ヒトシと藤沢数希の対談が全く噛み合ってなくて面白かった - はてな匿名ダイアリー
全部読んだわけではないですが、発展性のある内容とは百歩譲っても言い難い。
記事の冒頭で、二村さんが最も「切実」で本質を突いた質問をしているのだが、藤沢さんはその質問から無意識に身をかわして手近にある楽な「切実」(コンプレックスとかオスとしての自尊心とか)をもち出すことで、話の核心から議論を遠ざけたように感じられる。藤沢さんはたぶん、頭はキレるけどその分鈍感な人なのだと思う。二人の嚙み合わなさの原因は、記事執筆者の言うように、恋愛におけるゴール設定やセックスの趣味の相違を含めた恋愛の感度の違いである。恋愛工学のメソッドは究極、先の引用において二村さんが「バカの中のバカ」と表現した「リア充」や「ヤリチン」を目指すためのものでしかない。二村さんの恋愛論は、恋愛工学のようなシステマティックな思想と決して水と油の関係ではなく、後者の合理性の行き着く先を見越した上で展開されているようにぼくには思えるのだが、どうだろう?(もちろん「すべモテ」の大部分は恋愛工学が出現するよりもずっと前に書かれたものである。しかし、書物の世界では古いものが新しいものを乗り越える視座をもっていることは決して珍しいことではない。)
ちなみに、ぼく自身の意見としては、恋愛工学生は色んな女性とセックスできるし男女の事柄についてある程度分かった気になれるから、「大勢の女性の中からオンリーワン」を探すなどと耳触りの良い理想論を好き勝手に展開できるのだろうと思っている。しかし、彼らは結局、恋愛のダイナミズムのようなものに押し潰されるのではないか。サバき切れないものをサバこうとする、あるいはサバいたつもりになっているといつかしっぺ返しをくうと思う。
さてそれでは、「モテる」とは何だ? 「すべモテ」の中ではどのように説明されているか。
残念ながら、そのものズバリといった答えは明示されていない。ただ、非モテ男性のための処方箋としての答えは書かれていた。
「モテる」とは、自分を知っているということだ。ひいては自分の穴の深さを知っているがために目の前の異性の穴の深さも推し量れるということだ。自分が何が好きなのかをちゃんと理解していてエラソーにならずにきちんと他人に説明できる。飾らない自分に適度な自信をもっている。そのような人こそ「ちゃんとモテる」力のある人であるはずだ。キモチワルい故にモテない「非モテ」も、本当はキモチワルいにも関わらずインチキな自己肯定をしてあたかもモテているように見せている「リア充」「ヤリチン」も、「ちゃんとモテる」ために目指す約束の地は同じなのである。
「非モテはこんなん読むのかーww」などと調子こいてる恋愛プレーヤーこそ読んで返り討ちにあってください。
- 作者: 藤沢数希
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2015/07/24
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (1件) を見る