そのイヤホンを外させたい

異世界転生小説は新時代のピカレスク小説なのか?


「異世界転生小説」をご存知だろうか?


宮部みゆき東野圭吾といった一般文芸をメインに読んでいる人には聞きなれない言葉かもしれませんが、ライトノベルやウェブ小説の世界では王道の物語形式です。


簡単に説明すると、現代日本で暮らすパッとしない主人公がひょんなきっかけで中世ヨーロッパ風ファンタジー世界に召喚され(あるいはその場所で新たな生を受け)、元いた世界とは打って変わって大活躍する。そんな夢物語を描いた作品群の総称です。


トールキンの『指輪物語』や栗本薫の『グイン・サーガ』のように、主人公が異世界の住人(異世界ネイティブ)である従来のハイ・ファンタジー作品とは違い、資本主義以後の価値基準を持った現代人を主人公とした点がこのジャンル一番の特徴です。


試しに小説投稿サイト「小説家になろう」にアクセスしてみれば、読者の人気を獲得し、ランキング上位に掲載されている作品のほとんどがこのジャンルであることが分かるはず。異世界転生小説は一貫して絶大な人気を誇っているのです。


わたしはつい先日までオリジナルの小説を書こうと目論んでいたこともあり、このジャンルの作品を書いて同サイトに投稿してみようかと一瞬考えたりもしました。結局、ライバル多過ぎと思ってすぐやめましたが。笑


作り手の側からすると、現代の人間を主人公とする異世界転生小説には、


1.読者の共感を得やすい
2.異世界の設定を主人公目線で説明しやすい
3.単純に作者が書きやすい


という3つのメリットがあるようです。門戸は広いもののそのぶん作者の力量が問われるジャンルと言っていいでしょう。



さて、ここからが本題。
人気作のいくつかに目を通してみて、自分が昔読んでたファンタジーとはずいぶん変わったよなぁという感慨に打たれました。


主人公が異世界に飛ばされるという設定自体は90年代頃からもう既にあった(小野不由美さんの『十二国記』とかTVアニメの『モンスターファーム』とか)。だから、その点に関してはそれほど変化を感じない。でも、召喚、転位、転生する主人公の人となりが昔と比べて大分即物的になっていると感じました。はっきり言ってしまえば、どいつもこいつもゲスばっかなんです。笑 なんでこうなっちゃったんでしょう? おそらく、理由は二つある。


目次


〈理由その1〉読者層の高年齢化


まずファンタジーというジャンルの定義を明確にしておきます。


ポルノ小説家兼ライトノベル作家鏡裕之によれば、ある作品がファンタジーと呼べるか否かを判断する基準には、


1.資本主義成立以前の世界が、メインの背景
2.少年や少女が楽しめるように配慮されている

参考:『鏡裕之のゲームシナリオバイブル』


の2つがあるそうです。


この基準と異世界転生小説を照らし合わせてみた場合、1は合致しているが2については必ずしも当てはまるとは言えない。


確かに、現在ウェブで人気を博している異世界転生小説は、表面上は従来のジュブナイルファンタジーの型を忠実になぞったものである。しかしある程度読んでいけば分かることなのですが、そこに主人公(少年少女)の成長物語が描かれることは稀です。


異世界転生小説の主人公は、「俺TUEEEE」や「チート」と呼ばれる反則的な属性をはじめから持っており、異世界の社会秩序を自分の都合の良いように容易に改変することが可能です。これは、「無垢」が主人公の特性としてあった従来のジュブナイルファンタジーとは180度異なる設定ですよね。


従来のジュブナイルファンタジーにあった「ビルドゥングスロマン(教養小説)」としての顔が、異世界転生小説には決定的に欠けている。


このような変化の理由には、ライトノベル市場における読者層の高齢化があると考えられます。


80年代後半〜90年代の十代にかけてライトノベルを嬉々として読んでいた世代が、現在20代後半〜30代でそのまま継続してライトノベルを読んでいます。読者の年齢層は変わったものの、読者その人は元のままなんですね。


サラリーマンの給料日である毎月25日か末日の夜に大型書店に足を運び、ライトノベルもしくはウェブ小説の棚を観察してみて下さい。棚の前で、少なくない数のスーツを着た男性が商品を物色する光景を目にすることができるでしょう。


彼らが現今の異世界転生小説の主要な読者層です。作家も思春期の少年少女ではなく、目の肥えた大人の男性(その大部分は独身)向けに作品を書くようになる。結果、自ずと作品の主人公の心性も彼らの共感を呼ぶようなものに変化していきます。昔に比べてゲス度が高い主人公像には、現代日本社会で暮らす独身成人男性の厄介なルサンチマンが影響しているのです。


〈理由その2〉高度経済成長の終わりと企業の年功序列制度の廃止



高度経済成長と会社内の年功序列制度が終わりを迎えたことによって、ビジネスパーソンとしての成人男性の日常は今やかつてないほどストレスフルなものになっています。


飯田一史『ウェブ小説の衝撃: ネット発ヒットコンテンツのしくみ (単行本)』は、右肩下りを続ける出版業界におけるウェブ小説の可能性に注目した本です。本書によれば、異世界転生小説は、世界でも稀に見る労働時間の長さを誇るサラリーマン男性が過酷な日常を忘れて一時の安らぎを享受するのに最適なコンテンツだと説明しています。


彼らが求めているのは、成長や教訓ではなく、自身の低い収入や社会的な地位に対する慢性的な不全感を解消してくれるような読んでスカッとする物語です。そのための一番手っ取り早い要素として「俺TUEEEE」、「チート」、「ハーレム」などのテンプレが生み出され、類似した作品が量産されています。


飯田一史はこのような状況を、イギリス小説史においてチャールズ・ディケンズが果たした役割を引き合いに出すことで好意的に解釈していますが、わたし自身は正直疑問です。そんなのファンタジーって呼んでいいのか? なんて思ってしまう。架空の物語とは言え、自分たちの都合のいいようにしか世界を見ることのできない小説って違和感があるなぁと。一読者のわがままかもしれませんが。

異世界転生小説の新たなトレンド


以上のように、現状の異世界転生小説は独身成人男性の欲望を充足するためのツールとしてはとても優秀ですが、機能を重視するあまり小説としてのコクが足りないように感じられる。


じゃあ、どうすれば小説として進化させることができるのでしょう?


この質問に対する現状のわたしと答えは、「ジャンルの再定義」です。


どういうことか。
異世界転生小説のベースはファンタジーです。これは言うまでもありません。ですが、上に書いたように今やかつてのジュブナイルファンタジーとは全く別物になってしまっている。混じり気のないファンタジーではなく、多くの不純物が含まれている。


そこで「ファンタジーである」という事実を一度脇に置いておいて、その不純物に注目してみた結果あることに気づきました。



最近の異世界転生小説ってピカレスク小説っぽいんですよね。


ピカレスク小説家は悪漢小説、悪者小説とも呼び、16世紀〜17世紀にスペインを中心に流行した小説の形式。(Wikipediaより引用)

その特徴について見てみると、

1.一人称の自伝体
2.エピソードの並列・羅列
3.下層出身者で社会寄生的存在の主人公
4.社会批判的、風刺的性格
5.1〜4を持った上で写実主義的傾向を持った小説を指す。
(Wikipediaより引用)

とある。
1〜3を見ただけでも異世界転生小説とピカレスク小説の相性がかなり良いことが分かっていただけるだろうか。


「小説家になろう」に投稿される異世界転生小説の9割は一人称独白形式だし、ストーリーも忙しい現代人がスキマ時間に読み流せるよう一話ごとに山場を作って無理のない分量でまとまっている。さらに主人公も、ニート社畜、おっさん、オタクといった現代日本社会の中の底辺の人種ばかりである。4は作者のセンスと勉強次第でどうとでもなる事柄だ。5は「写実主義的傾向」というのが具体的に何を意味しているのか謎なため、この際無視していいと思う。


「小説家になろう」や最近オープンした「カクヨム」で異世界転生小説を書いていきたいという人は、ファンタジーという枠に必要以上に目を奪われるのはやめて、ピカレスク小説としての面白さを追求してみてはどうでしょうか。もしかしたら、これまでとは切り口の異なるユニークな作品が書けるかもしれませんよ。


実は、既にそれっぽい作品がいくつか世に出てたりします。転生した主人公が闇の陣営に属する作品も以前より多くなってきました。まだ下火ではあるけれど、新しいトレンドは絶えず生まれ続けているようです。サイト内の流行を一夜の内に変えてしまうような記念碑的な快作の出現を待ってます。


魔王の始め方 1 (ビギニングノベルズ)

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ウェブ小説の衝撃: ネット発ヒットコンテンツのしくみ (単行本)

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『進撃の巨人』を読んで個人の自由について考えた

進撃の巨人(19) (講談社コミックス)

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進撃の巨人』が面白い。
何を今更?
世間でこんなにも人気を集めているというのに。


いや、それでもコミックとアニメの劇場版にあらためて目を通してみて、そのバトル漫画としての面白さと高いテーマ性に圧倒されました。作品が時代と握手してる感じがする。これは面白くならないはずがない。


目次


家畜は自分の不自由に気づかない


壁の内に追いやられてから100年、人類は一時的な平和の期間を通していつの間にか巨人の脅威を忘れ去っていました。たまにエレンのような変わった奴が彼らの危機意識の欠如を指摘してもガキの戯言としてしか受け取らない。「今まで大丈夫だったから」という何の根拠もない理由にすがって自分の頭で考えることを放棄している。そんな折、突如出現した超大型巨人によって壁はあっけなく穴を空けられてしまう。

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「一生壁の中から出られなくてもメシ食って寝てりゃ生きていけるよ……でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか……」
諫山創進撃の巨人』第1巻より引用


エレンのように自分に置かれた環境の理不尽さに気づける奴ってレアなんですよね。大抵の人間は疑念を持っていてもその感情を押し殺してぬるま湯の現状で妥協する。たとえそれがかりそめのユートピアだったとしてもです。だって敢えて口に出して人と違うこと言うのって面倒だし絶対叩かれますからね。


「それじゃまるで家畜じゃないか」
エレンの言葉は思考停止に陥った人々に対する辛辣な批評です。家畜は持ち主の手によって生かされてはいるけど死んで肉にされるまで自分の不自由に気づくことができないんです。


無知は不自由に直結する。
漫画の世界だけでなく我々が暮らす競争社会では、物を知らないというだけで多くのチャンスを失います。


例えば労働問題なんかにしても、日本人は当たり前のように休日返上でサービス残業してあり得ないほど超時間働いている人が多いですが、アメリカに目を向けると、仕事に関する考え方が良い意味でドライなことが分かる。彼らは会社が自分に何のリターンももたらさないと知るとすぐに出ていきます。ハードな仕事に従事するとしてもそれは一時のことであり、後からそこで得た対価をちゃんと自分や家族の生活に還元します。間違っても日本人のように会社への無駄な滅私奉公はしません。会社と従業員の立場は対等です。実際に目にしたわけではなく本で読んだだけでもこのようなことが分かります。これって知ると知らないでは雲泥の差がありますよね。知は力なり。


自由には困難が伴う


実際のところ、自由を求めるのはごく一部の命知らずな変人に限られます。調査兵団のメンバーみたいなね。彼らは現状に甘んじることをせず、壁の外の未知なる世界への探究心を失わない改革者の集まりです。


とはいえ、自由を手にするにはそれなりの責任が生じます。大多数の人間の空気に抗って自分だけ違うことをするとあらゆる方面から反発を受ける。麻酔なしで手術を受けるようなもので非常に痛いわけです。調査兵団に入団した新兵の五割は第一回目の壁外遠征で巨人に喰われます。その難関を乗り越えたものだけが、生存率の高い優秀な兵士へと成長していく。


何か新しいことを始めるのってなかなかつらいですよね。資格の勉強するにしても小説書くにしても副業するにしても、自分の望む結果が出るのかも判然としないまま忍耐強く続けなきゃいけない。やる理由よりもやらない理由の方が多く感じられる。めんどくさい。楽して勝ちたい。


でも、最後までやり遂げる人はちゃんといます。大多数の人が途中で諦めるのにも関わらず。


なぜか? 


成功した時の形ある見返りのためというのももちろんあるでしょうが、たぶんそれ以上に、周囲の空気に同調して楽をするより自分の意志に基づいて行動する方がずっと楽しいからだと思います。自分で頭で考えて決めたことなら結果うまくいかなくても胸を張って次に進めますから。


それでも自由を望んだ個人が結果手にするもの


自由のために困難に立ち向かった個人への最大の報酬、それは裁量権だとわたしは考えます。自分の意志で判断し行動する権利があれば人は幸福を感じることができる。


しかし、まだ右も左も分からないうちから闇雲に意思決定をする人に真の裁量権があるとは言い難い。せっかく自分の意志で決めてもその全部が的外れでその人に不利益しかもたらさないのであれば元も子もないです。


正しい選択をするには知識と経験の両方が必要です。多くを知っていること、選択するための能力があること、その二つが揃って初めて個人の裁量権は確立する。前者については、「無知の知」なんていう哲学の言葉があるように、自分が知っていないということを知ることが一番難しい。後者については、やはりそれなりの苦難に遭遇して逆境の中で自問自答を繰り返すことが大事かなと思います。人って残念ながら追い詰められないと自分の頭でものを考えないようにできています。


もちろん自由を求めないのも自由


ここまで不自由からの脱却、裁量権の獲得の重要性を書いてきましたが最後にちゃぶ台をひっくり返すようなことを。


そんなに気を張りつめて自由を望む必要ないです。嫌なら。


だって不自由に甘んじる自由だってあっていいはずでしょ。自由を求める人間が偉くてそうじゃない人間が偉くない、みたいな考え方は一方的で息苦しいしそれ自体が不自由な発想だとわたしなんかは思います。そもそも自由って個人の主観でしかないですから第三者が見て判断できるものじゃない。刑務所の中にいる人だって自分を自由だと思う人は百パー自由です。

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周りにかけ替えなのない家族、友人、恋人がいれば、いや別にそれすらいなくても、自分自身の尊厳を大事にして生きることさえできればハッピーです。そのためにはやっぱり裁量権が及ぶ範囲は広い方がいいよね、という話です。みんな同じ、でもみんなと同じじゃダメ。そんなアンビバレントな心意気を自分の中で両立させる余裕を常に持っていたいものです。

オレ達は皆
生まれた時から自由だ
それを拒むものがどれだけ強くても
関係無い
炎の水でも 氷の大地でも
何でもいい
それを見た者は
この世界で一番の自由を手に入れたものだ
戦え‼︎
そのためなら命なんか惜しくない
どれだけ世界が恐ろしくても
関係無い
どれだけ世界が残酷でも
関係無い
戦え‼︎
戦え‼︎
戦え‼︎
諫山 創進撃の巨人』第4巻より引用
自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)




ブログ名変更のお知らせ

ブログの名前を変えた。失恋してロングヘアーをばっさり短く切る女子のような心境で。


題名に私自身の願望が如実にあらわれているなぁ。


理由は、約3ヶ月の間頑張ってみたもののまともに小説が書けなかったことによる。そんなバカな……。


掌編めいたものはポツポツと書き始めても納得のいかないものばかりですぐに筆を止めてしまう。そもそも書いていて全く手応えが感じられない。おかしいな? 向いてないのかな? 結局自分が楽しいと思えないことを無理してやっていてもいずれ限界が来るだろうと思いやむなく中断した。


ショック。満を持して取り掛かったのでこんなはずではなかったという思いが強い。


しかし、まぁいっか。書けなかったことは事実。今回はその実感に素直に従うことにした。一旦諦める。


できなかったことを悔やんでいてもしょうがない。間を空けずに別のことをしよう。別のことって? 二、三日考えた末、地道に既存のブログを更新していくという面白みのない結論に落ち着いた。フツー笑。いや、もうなんか僕は普通のことがしたい。曲がりなりにも生きてきて世の中に必勝法なんてないことは十分理解できたつもりだ。それに今更ながら気づいたが、ブログ書くの結構性に合ってる気がする。


これまでの人生至るところで寄り道を繰り返してきた自信があるが、こうなったら気が済むまで寄り道してやろうか。


まだ現段階ではわりと錯綜しているが、一つはっきりと分かっていることがある。


私には言ってやりたいことが山程あるのだ。


上手に言えるか、言えないか、それが問題だ。


途中で飽きてやめるかもしれない。続くかもしれない。それはまだ分からない。とゆーか今考える必要はない。まぁ、ベストは尽くしますよ。イヤホン外させたいですから。生きてるからには。



小説家、大石圭誕生秘話



大石圭、小説家。
1993年『履き忘れたもう片方の靴』が文藝賞佳作となりデビュー。その後、官能、ホラー小説の分野で頭角を現し、角川ホラー文庫光文社文庫を中心に数多くの作品を発表。2003年には、映画『呪怨』のノベライズも担当した実力派作家。


デビュー前、会社員生活を送っていた30歳の大石は、ある晩突然の激しい腹痛と吐き気に襲われた。慌ててベッドから飛び起きトイレに駆け込んで嘔吐すると、吐瀉物は血まみれだった。


翌日、病院に行きレントゲンを撮ったところ、そこには白っぽい不吉な影が写り込んでいた。


「もしかしたら、胃癌かもしれないって」

帰宅した大石が彼の妻にそう告げると、彼女は激しくショックを受けた様子だった。


大石自身、突然の出来事に動揺していたが、不思議と取り乱すことはなかった。来るべき死に備えて、彼は身辺整理をし、遺書も書いた。人はいつか必ず死ぬ。自分の場合、それが思っていたよりも早かっただけ。彼はそう思い込もうとした。


だが、そんな大石の覚悟は良い意味で裏切られることになる。最初の検査から1週間後に受けた胃カメラによる検査結果は「異常なし」。嘔吐の原因は単なる胃炎であった。


この出来事をきっかけに、大石の中で何かが変わった。彼は自分の周りにあるものすべてを、それまでよりもよりしっかりと見、しっかりと聞き、しっかりと実感するようになった。自分の生の時間は限られている、という認識が、彼の生き方を根本的に変えた。


大石が小説家としてデビューするのは、その出来事から2年後のことである。


・もし、あの時、死んでいたら、僕はただひとつの小説も書くことはなかった。そう思うと、今も少しだけ不思議な気がする。もちろん、僕の小説なんて、あってもなくても、世の中には何ひとつ影響はないのだけれど……。
ー『甘い鞭』(角川ホラー文庫)「あとがき」より引用ー


甘い鞭 (角川ホラー文庫)

甘い鞭 (角川ホラー文庫)


小説を読むことは究極のライフハックである



小説家の保坂和志は、過酷な現代社会を個人が生きるために必要なことを訊かれて、「それはたとえばカフカを読むことだ」と述べている。


ごく一般には、人生に役立つ知識やノウハウの意識的な蓄積こそ最も効率的な生存戦略だと信じられている。だがそれではダメだと保坂和志は言う。なぜなら、そのような情報を自分の中に入れれば入れるほど実は対象に飲み込まれていく結果を招くのであるから。その容赦のない力に抵抗するための「カフカを読め」なのである。


・やっぱり、知れば知るほどわからないっていうほうがずっと面白いと思うんだよね。だから「わかった」って言う人に対しては、「浅薄」だって思わなきゃいけない。p25 『考える練習』


小説好きの人間としておれは保坂和志の主張はとてもよく分かるし、より多くの人に同じ価値観が浸透すればいいと思っている。


だが、もし第三者から貴重な時間を費やして小説を読むことの具体的なメリットを訊かれた際には、一体何と答えるのが正解だろうか? 答えに窮して黙り込んでしまうのも困りものなので、ある程度説得力のある回答を示しておきたい。


「そういう質問をしたりされたりすること自体がダメ」なんて保坂和志なら言いそうだが、おれのようなカスは、相手の立場を考慮に入れてある程度向こうのニーズに沿った形で回答を示す努力をしないと、話さえまともに聞いてもらえないことが多々ある。ただ、「大きな力に抗うためです」とキリリと宣言したところで、キモがられるだけだろうし、たぶんバカ認定される。おれはそれがフツーに嫌だ。たとえ対象が語りえない事柄であったとしても、他人と話をする以上こちらの考えを理解し納得してもらいたい。語りえないことに対しては間違っていてもいいから敢えて発言する図太さだって時には必要なのだ。


では、普段小説なんて全く読まない人間に、すぐには利益に結びつかないそれらを手に取ってもらうには、何と言ってアピールするのが適当か?


やり方は人それぞれあるだろうけど、おれ自身これがベストだなって思うのは、流行りの「情報断捨離」の切り口から話を始めることである。


まず、相手の共感を得る。「ネットに常時接続してたり、自己啓発本やビジネス本ばかり読んでたら、だんだん精神的に消耗して感覚死んできますよね?」みたいな感じで。


次に、その精神的消耗の理由をソース込みできちんと説明し分からせてあげる。




チェコ好きの日記」の過去記事ですが、非常に分かりやすくて面白いですね。


すぐ役に立ちそうな目先の知識ばかり追いかけていると、徐々に自分自身の欲望を見極めることが困難になってくる。これは誰もが内心で思ってることですから、説明にはそれほど苦労しないはずです。


自分の意志とは無関係になだれ込んでくる情報の嵐と距離を取ることが第一ステップ。その後、「情報断捨離」のおかげで空いたスペースを利用して自分の本当の欲望を探していくのが第二ステップです。


もし小説を読んで最も何らかの利益を得られるタイミングがあるとするなら、きっとこの第二ステップにおいてでしょう。小説は瀕死の感覚を蘇らせ、個人に真の欲望を自覚させます。断捨離後、ヨーグルトを食べて空っぽになった腸を綺麗に掃除し善玉菌を増やすように、情報断捨離をするわれわれも空っぽになった脳の中に文学という栄養を送り込むことで、より豊かな心を手に入れることができるはずです。どうですか? 一面的ではあるけれど、これならまぁ、相手もある程度は納得してくれるのではないでしょうか。少なくとも小説を読むことは暇つぶしのためだけではない、ということは理解してくれるはず。


まとめ


たとえそれが二日でも三日でもいい、情報を遮断し、ひとつの作品と長い時間をかけてじっくりと向き合う。そんな時間を持つことができれば最高だ。なぜなら、あなたという存在に「違いの分かる感じ」が出てくるから。「違いの分かる感じ」は万能だとは決して言えません。しかし、分かる人には分かってもらえる。そして、分かってくれる人のことをきっとあなたもよく分かる。小説を読むことは、詰まるところ本当の自分を探しにいく旅だと思います。これを本物のライフハックと呼ばずに他に何と呼ぶのか? 





女性作家のデビュー作二つ

松浦理英子の『葬儀の日』と山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』を続けて読んだ。



1978年、2004年と発表年に隔たりはあるが、作品の圧倒的存在感によって文芸シーンに新風を巻き起こした点で共通している。



女性作家のこのような天才的なデビュー作には、一体どんなものを食べて育ったらこんなひと味もふた味も違う小説が書けるのだろうか? といつも嫉妬させられる。特に、『人のセックスを笑うな』には作者の知識武装はほとんどなく、完全に世界と一対一で人間と風景を描いている。男性作家のものは、いかに良く書けていても決してお空の上ってわけではなさそうに感じるのだが。


どちらも、読み終わって「万歳!」と思わず叫びたくなるようなナイスな出来映えです。


夢を追うことは合理的な生存戦略かもしれない


それでも、夢を追うしかない。/2016年の挨拶とブログ書籍化のお知らせ - デマこい!



夢か安定か。
そんな二者択一が個人の人生設計に大きく影響を及ぼす時代があった。


現在でも、たて前としてその選択は残っていて、多くの人が昔と同じように考えより現実的な人生航路へと舵を切ろうとする。


しかし、冷静になって周囲を見てみると、もはや安定の道などどこにもないという事実に気づかされる。目の前にあるのは、どう進もうと安全の保証はない茨の道だけだ。安定は無理ゲー化したのだ。


正社員という雇用形態で働いていたとしても、所詮は名ばかり。未来に対して何の確約も得られない。大企業でも20~30年が寿命だし、運良く長く続いたしても年功序列の人事制度が崩れ去った今、仕事で実績を残しても昇級や賞与のアップは期待できない。


現今のポスト資本主義社会がこの先もしばらく継続することを考えると、われわれの心の平穏はますます難しくなるのではないかと想像する。社会が緩やかな停滞に入れば、そのしわ寄せはどうしても個々人の内面に及ぶからだ。


先行き不透明の社会でストレスなく生きるには、たとえそれが小さな事業でしかないとしても自分の好きなことを仕事にすることである。


自分の好きなことを仕事にするために全力投球する方が、ない見返りを求めてがむしゃらに残業をするよりもよっぽど現実的だし、精神衛生上良いことは明白である。


かつて、夢を追うことはいつまで経っても大人になれない証拠と見なされた。だが、今後は夢を明確にすること自体が生存戦略であり、大人であることの証明になっていくのかもしれない。


自分にとって何か一つでも情熱を持って打ち込めるものがあるなら、あなたは恵まれている。ぜひ、チャレンジしてみるべきだ。人にはそれぞれの闘い方がある。今それに取り掛かることできっと未来への投資になると思いますよ。