そのイヤホンを外させたい

乳酸菌入りチョコレートの登場が意味するもの

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少し前にロッテが「乳酸菌ショコラ」という商品を出した。


「チョコを食べながら栄養素を摂取できるなんてなんだか得した気分〜♪」


これは友達の女の子の発言(彼女は決してバカじゃない。ただ幸せを感じやすいだけ)。僕も確かにそうだなぁと感じてそこで話は終わったのだが、よくよく考えてみるとこれって大多数の人が考えている以上にエポックメイキングな出来事のような気がしてきた。


そもそも、開発者を除いてチョコレートに乳酸菌を入れることを望む人がこの世界に果たして何人いただろうか。


僕から言わせれば、チョコレートというのは嗜好品の王様みたいなもので、食べることによってその無駄な「甘さ」を味わうことさえできれば特に他の見返りは求めない。だから「乳酸菌はチョコで摂る時代」というキャッチフレーズに対しては、お得感以上に余計なことすんなよなという思いの方が強かったりする。


まぁ、乳酸菌が入った分甘さ控え目などといった酷な話ではないみたいなので味が良ければそれでいいとは思います。


ただ、既存のものに何らかの付加価値を与えてお得感を演出し、消費者の購買欲求に火を点けるこうした流れはあらゆる商品についても既に生じている。小説や漫画で言えば、「もしドラ」以降に目立つようになった「物語」+「何らかの専門知識」という作品群がそれに当たるだろう。


「物語」というのも単体では実生活では何の役にも立たない知識の集積だ。だが、そこに「マネジメント」とか「経理」とか「農業」とか「恋愛工学」とかすぐに役立つ情報を盛り込むことで読者にそれを読む理由を与えてやる。錯綜する情報化社会に生きる今の大衆にとって、消費の理由こそ最も欲しいものである。多くの人間は自分の欲望が正確に分かっていないから。その内、小説だけでは飽き足らず「詩を読むことは脳にいい」なんてトチ狂った主張が出てきても自分はそれほど驚かないと思う。


だってもうチョコにまで来たんだぜ、それが。チョコは甘い。無駄に甘い。ただ甘いだけ。それで十分だったはずなのに。


世の中の呼吸がどんどん浅くなっていく。


チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)

チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)

壇蜜の小説家デビューについて


壇蜜さんが小説を書いたんですね。
タイトルは『光ラズノナヨ竹』



前にも書いたけど、新人賞という正規のルートで小説家として出発するのではなく、あらかじめ小説とは異なるジャンルで知名度を得た人物が新人作家としてデビューするという仕組みは今後ますます主流になってくるだろうと思う。


僕はこの流れをそれほど悪いものとは思っていません。


これまでと比べて小説の質そのものは下がるかもしれないけれど、それでも年寄りとワナビーしか読者のいない今の純文よりはマシなんじゃなかろうか。


というわけで、今度の壇蜜さんの小説も時間があったら目を通してみたい。遅ればせながらオール讀物を図書館で読もうかな。


全くの予想でしかないが、壇蜜さんの小説デビュー作は小説好きの人間が読んでもある程度満足できるものである気がする。これは、ただ単に藤沢周の小説の彼女の解説をチラッと読んでなんとなく良い感じだったからというだけの理由である。


でも、この人はテレビでの発言などを見ている限り、大衆に簡単に消費されない素質を持っている印象を受けます。文庫で出ている日記も日常のことであるのにどこか精神的に逸脱している感触があって魅力的だ。


元々グラビアで出てきて、年上女性のエロスを武器に新境地を開いたけれど、最近はそっち方面の活動は抑え気味で後続の橋本マナミなどに譲っているようです。「セクシーはお譲りします」という発言もニュースになってましたね。


何よりも事務所の売り出し方が上手だったのと、彼女の持つ知的な印象が同性をも惹きつけたというのが大きかったのだろうなぁ。


なにはともあれ、注目の人物が小説を書くというのは良いことだ。今後も時間が許せば芸能人が書いた小説はチェックしていこうと思う。

壇蜜日記2 (文春文庫)

壇蜜日記2 (文春文庫)

古さを感じさせない時間術の名著/アーノルド・ベネット『自分の時間』

自分の時間 (単行本)

自分の時間 (単行本)



アーノルド・ベネット『自分の時間』を読みました。


100年以上前にイギリスで出版された時間術の本で、著者は英文学史に名を残す小説家アーノルド・ベネット。


このたび装いを新たに再刊されたとのことで、書店の自己啓発本の棚のなか、違和感なく他の本と肩を並べています。


文芸というふわふわしたものが好きな人間としては、生き方のコツについても経営者やスポーツ選手の書いたものではなく、小説家の書いたものから学びたかったりします。本書を手に取ったのもそんな浮ついた理由からなのですが、実際に読み終えてみて、思ったより真面目に自己啓発をやっていたので少し驚きました。でも、結果的には読んで良かった。そこはさすが小説家。目に見える形での自己実現のみならず、自分の内面の基準に背くことなく充実した人生を送るための具体的なアドバイスが親切に書かれています。

最も多産な、しかも最も質の高いものを書きつづけた作家が、コーヒーなどを飲みながら、気安くそのやり方を語っているといった感じがある。


訳者の渡部昇一(『知的生活の方法』の人だ!笑)は解説のなかで本書の印象をこのように述べています。
僕も本書を読んで同じことを感じました。ページを繰っていると、静かに机に向かって文章を綴っている著者の姿を活字の向こうに思い浮かべることができる。
100年以上残る本というのは、やはり独自の品格があるものです。


1日の中に自分のために使う別の1日を設定する

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充実した完全な1日を送りたいと思ったら、頭の中で、1日の中にもうひとつ別の1日を設けるようにしなければならない。 p59


これが、本書で語られる時間術の大前提となる考え方です。ベネットの時間術は24時間のうち、労働の時間(8~9時間)には重きを置かず、仕事から解放される夜から次の日の朝にかけての時間を有意義に活用することを目指しています。


僕は現在会社員として労働力を売っていますが、たとえ仕事を一生懸命がんばったとしても出世や収入アップには直結しない環境に身を置いています。いわゆる名ばかりの正社員というやつです。元気なうちはまだいいけれど、何の打開策も講じずに毎日をテキトーにやり過ごしていたら、きっとどこかの段階で限界がくるだろうことは、まぁ薄々想像がつくわけです。だからそうならないためにも、プライベートの時間を有効活用して資本主義社会の中で評価される自分の価値を生み出し、さらに磨いていく必要があると今は考えています。


その意味で、本書の推奨する時間術は僕のニーズを満たしており、痒いところに手の届く内容でした。


労働時間以外の15時間を使い倒す


1日の内3分の1の時間を労働に奪われるなら、残りの3分の2で自分にとっての本当の人生の仕事に打ち込めばいいとベネットは言います。
会社員は平均で朝8~9時頃から夜の18時~19時くらいまで会社に拘束されるので(もちろん残業がないとして)、翌日再び会社に足を運ぶまでに大体15時間ほど自由な時間が残されています。それも毎日! 8時間を睡眠に使ったとしても7時間残るのでそこから食事や入浴などの時間を差し引いても、4時間ほどは手つかずで残るでしょう。どうですか? 意外に時間って余るもんでしょ。実際にはこの計算通りにいかない日も多いかと思いますが、帰宅して夕食べたら「あ~今日も終わった」と言って寝るまでの時間をダラダラ過ごすのと、会社の建物から出た瞬間に本来の1日が始まるという意識を持ち、就寝までの時間を無駄にせずに過ごすのとでは、長い目で見た場合大きな違いを生むことは明らかです。


さらに、自由な時間の中での生産性を高めたいなら、早起きすることが一番だとベネットは書いています。脳が疲れていない朝の1時間は夜の2時間に匹敵するのです。
僕自身、夜の時間はこうしてブログの文章を書いたり、本を読んだりして過ごしていますが、朝の時間は何かしらの勉強に当てるようにしています。疲れた状態の頭では思うように進まなかった問題に、朝全快した頭で再度挑戦してみるとすんなり解けてしまうことは往々にしてあります。朝の脳みそというのは、わたしたちが考えている以上に戦闘力が高いのです。


読書を役立てたいなら詩を読め


「効果的な読書」について書かれた章についても一言触れておきます。
読書で利益を得たいならば、何よりもまず詩を読むべきだとベネットは言うのです。逆張りだなぁ。笑

詩は最も崇高な喜びを与えてくれると同時に、最も深い知識を授けてくれる。要するに、詩にまさるものはないということだ。ところが、残念なことに、大多数の人は詩を読まない。
p130


ちまたに溢れる意識高めな本にはまず書かれていないであろうアドバイスだったので、意表を突かれたと同時に、普段から小説、詩、哲学など、実社会では無用とされてる書物ばかり読んでる身として少し勇気づけられました。


最後に、本書の中で一番グッときた一節を引用して終わります。

バランスのとれた賢明な1日を過ごせるかどうかは、ふだんとは違う時間に、たった一杯のお茶を飲めるかどうかにかかっているかもしれないのだ。 p24

匿名ブロガーの本懐

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まだ記事数も十分ではないが、ブログの運営方針について現在思っていることをここらで書き留めておきたい。


わたしはブロガーがブログそのものについて言及することに全く抵抗を感じないし、むしろ必要なことだと考えています。小説家や詩人が「小説とは何か?」、「詩とは何か?」という自問自答を繰り返しながら創作者としての階段を一段ずつ上っていくように、ブロガーも「ブログとは何か?」ひいては「文章とは何か?」「言葉とは何か?」という素朴な疑問に答える努力をすることで成長するのではないでしょうか。まぁ、スケールの違いは否めないし、そもそもブログを書くことに意味を見出そうとすること自体間違ったことなのかもしれないけれど。


先日、Twitterアルファブロガーが書いた記事がリツイートで回ってきた。記事の内容としては、「ブログ飯が盛り上がってるけどブログは儲からない。お前らいい加減目を覚ませ!」みたいな耳慣れたもので、流行をまぜっ返すような毒のある言い回しもあってか多くの人に読まれていた。内容に関してはおおむね異論はないのだけど、書き手のフラストレーションの蓄積が文章の節々から感じられ、正直読んでいて気分が悪かった。だから、この記事にもリンクは貼らない。癪だから。興味ある方はググればすぐ見つかると思うので読んでみて下さい。


後味は悪かったものの、上の記事を受けてブログというメディアの持つ価値についてあらためて考えさせられました。ブログで稼ぐことがこれほどまでに重要視され飽きもせずに繰り返し議論される理由は、お金が人類不変の関心事であるということが一つと、否定できない事実として、ブログがある程度の金額までなら努力次第で稼げてしまう、ということがあると思う。例えば、好んで詩を書いたり絵を描いたりしている人が自分はそれで食っていく、と宣言したとしてもほとんどの人は見向きもしないだろう。なぜなら、十中八九その夢が果たされないことを皆が知っているから。ところが、ブログに関しては現実にそれで生活費を稼ぎ出してしまう人間が少なからずいるものだから安定志向の人々の気持ちは掻き乱されることになる。そもそも他人事だから妬む方が悪いんですけどね。


いっそのこと、ブログから得られる収入なんて全部なしにしちゃえば、風通しが良くなっていいのではないか。いや、そもそも初期のブログってそういうものだったようです。今よりずっと牧歌的なものだったのにいつの間にかあり方が変わってしまった。だから、古参ブロガーと自称メディアクリエイター(新世代の若手ブロガー)の論争があれほどまでに白熱するわけで。


わたしはこのブログに、レビューを書いた本や映画のアフィリエイト広告を貼っているし、今後無理しない範囲でSEO対策も意識していこうかなと思ってる身なので、「フリーランスになってブログで稼ぐ!」のような風潮はむしろ歓迎です。でも、だからと言って、収益を生み出さない個人の日記ブログに存在価値はないかというと全然そんなことはないとも思っています。あぁ、どっちつかず。ブロガーのはしくれとしてもうちょっと尖った発言をしたいところですが、こういう白か黒かの二者択一って不毛ですよね。どちらもはっきりと選ばないまま個人のさじ加減でバランスを取った方が一番良い結果につながる気がする。小説で言えば、純文学とエンターテイメントの違いのようなもので、近年ではどちらも書ける越境的な作家さんもチラホラ出てきており線引きも曖昧になってきているので、ブログに関してもそこまで神経質になる必要はないような気がする。書く時の気分によって検索需要を意識するか否かを逐一判断すればそれでいいと思う。究極何書いたっていいんだからさ、ブログは。


しかしそうは言っても、わたしは自分の行為に何らかの意味を見出さないと落ち着かないめんどいタイプの人間なので、「なぜブログを書くのか?」という問いに対しては、ざっくりとした形でもいいのでひとまずの解答を持っておきたい。ではあらためて、「なぜわたしはブログを書くのか?」。金のため? 大いにあり得る。だが、それだけでは問いの半分も答えたことにならない。もしかしたら、自分は「ブログを書く」、または「文章を書く」ことによって生存競争とか社会的成功とは異なる地平での成長を望んでいるのかもしれません。カッコつけですが。


タレントのビートたけしの母親は早いうちから子供たちに熱心な教育を施したことで有名だ。だが、彼女の最大の功績は机上の学問を授けたことではなく、貧乏でも胸を張って生きていくことができるのだという事実を身をもって示したことでした。スーパーの値下げ商品のワゴンに殺到する人々を離れた場所から指差して彼女は幼いたけしに言った。「あのような人間になってはいけない」。わたしには彼女の人生哲学はあまりにストイックで弱冠息切れがしますが、それでもその潔い態度に憧れを抱きます。(ビートたけしの母親のエピソードは今手元に本がないため大体の記憶です)


生きる上で真に必要なのは、金でも名声でもなく美学、ロマンだ。なぜなら、金も名声も簡単に自分を裏切るから。自分を裏切らないのは自分でこしらえた信条だけである。ブログを書いていく中で、ずっと曖昧だった自分の人生に対する感覚が、わずかながらでも磨かれていく。そんな充実感を得ることができたら幸いです。


案の定抽象的な内容になってしまったけれど、ブログについて考えていることはひとまずこんなところです。また何か気づきがあったら付け足していこうと思う。

純文学ワナビーは必読。『響 〜小説家になる方法〜』の感想

厳しいーなぁ…

っとに、なんだったら売れんだよ。

芥川賞作家の肩書き持っててもこれだもんなぁ。

つーか最近は、受賞作ですら厳しいっスからね。

これ以上悪くなんねーだろって状況なのに、毎年きっちり更新してくれるなぁ。

っとに、

出版不況で漫画が売れねーとか言ってっけど、正直、こっちのほうが百倍厳しい…

どーなんのかなあ文芸は……


『響〜小説家になる方法〜』第1巻第1話「登校の日」より引用



現在スペリオール誌上で連載中。

3巻までしか出てないけど、これ、面白いです。



バクマン』の純文学版って感じかな。バリバリのエンターテイメントである少年漫画の世界と違って、純文の世界は感性重視というか万人に通じる必勝法がないところが面白い。天才は論理では説明できないものだってことがよく分かる。


                                                                              

こんな話


文芸の衰退を嘆く出版社の新人賞に、ある日募集要項をガンムシした手書き原稿が送られてくる。

開封もされずにゴミ箱行きとなった原稿を興味本位で読んだ女性編集者の花井は、『お伽の庭』と題されたそのアマチュアの小説に強い感銘を受ける。

作者の名前は鮎喰響。住所も年齢も職業も性別も電話番号も封筒には書かれてない。やる気あんのか? しかし、才能だけは本物なようだ。

鮎喰響の小説は出版界を、いや世界を変える。そう直感した花井は、何んとかして鮎喰と連絡を取り、掲載にこぎ着けようとするのだが……。


文芸にスターのいない時代

                                                                

「同じ人間が30年間トップにいる業界なんて異常です」



花井が先輩の編集者に言う印象的な台詞だ。



同じ人間とはもちろん村上春樹(作中では祖父江秋人という春樹としか思えない小説家が登場する)を指している。確かに、ここ数年に渡る春樹ブームは見てて複雑な気持ちになる。春樹の小説はわたしも大好きだし、彼の小説がこんなにも評価されるのは喜ばしいことだ。でも、他にも面白い作家いっぱいいるよ! とも同時に思うんですよね。メディア露出が少ないだけで単行本がすぐ絶版になっちゃう純文学作家がなんと多いことか。もったいない。まぁ、春樹はメディア露出は極端に少ない作家なので「それが実力」と言われればどうしようもないけれど。




太宰治のようなスターが再び登場すれば純文学も息を吹き返すはず……!


この時代に文芸誌買って読んでる物好きでも、そう考える人は少ないのではないか。小説で世界を変えるなんて所詮は夢物語。しかし、ほぼほぼ絶望だと分かっていても心の隅では大番狂わせを願っている。規格外の新人の登場を待ち望まずにはおれない。天才は遅れた頃にやってくると言いますしね。本作は、そんなあきらめの悪い純文学フォロワーの期待を裏切らない内容です。


自由を体現する小説家


主人公の響は確かに稀に見る天才です。ですが、フィクションの世界にはこれまで数え切れないほどの数の天才の姿が描かれてきたので、わたしは彼女の奔放な振る舞いを単なる天才の類型としか見れませんでした。よくいる天才、というのは言い方が矛盾している気がしますが、まぁ響はそんなよくいる天才の一人です。



わたしが魅力的に感じるのは、響のような型破りな存在に触れることで自身の才能について悩んだり、一度失った創作への情熱を取り戻したりする彼女の周囲の小説家たち(あるいは小説家の卵)の姿です。



彼らももちろん純文学というマイナーなジャンルを志す人間ですから、現実社会とは相容れない部分を例外なく持っています。普通に生活してるように見えても何となくギクシャクしてしまう。しかしそれでも、響のようにフリ切れるまでには至らない。その針がフリ切れないという不十分な点に彼らの人間としての魅力もあるし、同時に才能に関する課題もあるのだと思います。響という少女を通じて彼らの小説観、延いては人生観を知るのは、小説が好きな自分自身のことも客観的に見るかのようでした。「何で小説なんか読むんだろ?」そんな素朴な疑問が頭の中に浮かび、あらためて考えさせられた。が、結論は出ず。



上で軽くディスってしまった感のある村上春樹が、少し前に『職業としての小説家』という本を出しました。その中で、個人的に印象に残ってる一節があります。

小説というのは誰がなんと言おうと、疑いの余地なく、とても間口の広い表現形態なのです。そして考えようによっては、その間口の広さこそが、小説というものの持つ素朴で偉大なエネルギーの源泉の、重要な一部ともなっているのです。だから「誰にでも書ける」というのは、僕の見地からすれば、小説にとって誹謗ではなく、むしろ褒め言葉になるわけです。

村上春樹『職業としての小説家』p15より引用


小説を書くというのは、新規参入のハードルがないに等しい行為です。それは例えるなら風通しの良い大きな広場であり、入りたい人は誰でもウェルカムな状態を常に保っています。



しかし、万人に分け隔てなく解放されているからこそ、その場所を去っていく者もまた多い。何を書いても自由であり、実績を残すための定まった方法論もないというのは、表目上はのん気に見えても、裏では言い訳の許されない実力の世界です。時に自分を上回る圧倒的な才能を見せつけられ、一文字も書けなくなってしまうこともあるかもしれません。それでも、春樹の言葉を借りれば、社会の中の「自由人」としてのスタンスを崩さない小説家という人種は、潔くて素敵な存在だなぁと思います。



祖父江凛夏ちゃんを応援してます


わたしがこの作品で一番好きな人物は、人気作家祖父江秋人の一人娘祖父江凛夏ちゃんですね。彼女は影の主人公だと思う。



日本を代表する小説家を父に持ち、何でも卒なくこなし校内の人望も厚い彼女ですが、響の特別な才能を目の当たりにしてアイデンティティクライシスに陥ります。この先文壇にデビューしてどんな小説を書いていくのか。果たして親友の響とは異なる形で小説家としての自身の確固たる地位を築くことができるのかが大変気になるところ。こういう器用だけど二番手に甘んじざるをえない人の葛藤ってシンパシーを感じます。応援したい。響と二人でデビュー作で芥川賞同時受賞なんていう展開になったら楽しいなぁ。



コミックスの第4巻は6月末発売。待ち遠しいわー。


職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

異世界転生小説は新時代のピカレスク小説なのか?


「異世界転生小説」をご存知だろうか?


宮部みゆき東野圭吾といった一般文芸をメインに読んでいる人には聞きなれない言葉かもしれませんが、ライトノベルやウェブ小説の世界では王道の物語形式です。


簡単に説明すると、現代日本で暮らすパッとしない主人公がひょんなきっかけで中世ヨーロッパ風ファンタジー世界に召喚され(あるいはその場所で新たな生を受け)、元いた世界とは打って変わって大活躍する。そんな夢物語を描いた作品群の総称です。


トールキンの『指輪物語』や栗本薫の『グイン・サーガ』のように、主人公が異世界の住人(異世界ネイティブ)である従来のハイ・ファンタジー作品とは違い、資本主義以後の価値基準を持った現代人を主人公とした点がこのジャンル一番の特徴です。


試しに小説投稿サイト「小説家になろう」にアクセスしてみれば、読者の人気を獲得し、ランキング上位に掲載されている作品のほとんどがこのジャンルであることが分かるはず。異世界転生小説は一貫して絶大な人気を誇っているのです。


わたしはつい先日までオリジナルの小説を書こうと目論んでいたこともあり、このジャンルの作品を書いて同サイトに投稿してみようかと一瞬考えたりもしました。結局、ライバル多過ぎと思ってすぐやめましたが。笑


作り手の側からすると、現代の人間を主人公とする異世界転生小説には、


1.読者の共感を得やすい
2.異世界の設定を主人公目線で説明しやすい
3.単純に作者が書きやすい


という3つのメリットがあるようです。門戸は広いもののそのぶん作者の力量が問われるジャンルと言っていいでしょう。



さて、ここからが本題。
人気作のいくつかに目を通してみて、自分が昔読んでたファンタジーとはずいぶん変わったよなぁという感慨に打たれました。


主人公が異世界に飛ばされるという設定自体は90年代頃からもう既にあった(小野不由美さんの『十二国記』とかTVアニメの『モンスターファーム』とか)。だから、その点に関してはそれほど変化を感じない。でも、召喚、転位、転生する主人公の人となりが昔と比べて大分即物的になっていると感じました。はっきり言ってしまえば、どいつもこいつもゲスばっかなんです。笑 なんでこうなっちゃったんでしょう? おそらく、理由は二つある。


目次


〈理由その1〉読者層の高年齢化


まずファンタジーというジャンルの定義を明確にしておきます。


ポルノ小説家兼ライトノベル作家鏡裕之によれば、ある作品がファンタジーと呼べるか否かを判断する基準には、


1.資本主義成立以前の世界が、メインの背景
2.少年や少女が楽しめるように配慮されている

参考:『鏡裕之のゲームシナリオバイブル』


の2つがあるそうです。


この基準と異世界転生小説を照らし合わせてみた場合、1は合致しているが2については必ずしも当てはまるとは言えない。


確かに、現在ウェブで人気を博している異世界転生小説は、表面上は従来のジュブナイルファンタジーの型を忠実になぞったものである。しかしある程度読んでいけば分かることなのですが、そこに主人公(少年少女)の成長物語が描かれることは稀です。


異世界転生小説の主人公は、「俺TUEEEE」や「チート」と呼ばれる反則的な属性をはじめから持っており、異世界の社会秩序を自分の都合の良いように容易に改変することが可能です。これは、「無垢」が主人公の特性としてあった従来のジュブナイルファンタジーとは180度異なる設定ですよね。


従来のジュブナイルファンタジーにあった「ビルドゥングスロマン(教養小説)」としての顔が、異世界転生小説には決定的に欠けている。


このような変化の理由には、ライトノベル市場における読者層の高齢化があると考えられます。


80年代後半〜90年代の十代にかけてライトノベルを嬉々として読んでいた世代が、現在20代後半〜30代でそのまま継続してライトノベルを読んでいます。読者の年齢層は変わったものの、読者その人は元のままなんですね。


サラリーマンの給料日である毎月25日か末日の夜に大型書店に足を運び、ライトノベルもしくはウェブ小説の棚を観察してみて下さい。棚の前で、少なくない数のスーツを着た男性が商品を物色する光景を目にすることができるでしょう。


彼らが現今の異世界転生小説の主要な読者層です。作家も思春期の少年少女ではなく、目の肥えた大人の男性(その大部分は独身)向けに作品を書くようになる。結果、自ずと作品の主人公の心性も彼らの共感を呼ぶようなものに変化していきます。昔に比べてゲス度が高い主人公像には、現代日本社会で暮らす独身成人男性の厄介なルサンチマンが影響しているのです。


〈理由その2〉高度経済成長の終わりと企業の年功序列制度の廃止



高度経済成長と会社内の年功序列制度が終わりを迎えたことによって、ビジネスパーソンとしての成人男性の日常は今やかつてないほどストレスフルなものになっています。


飯田一史『ウェブ小説の衝撃: ネット発ヒットコンテンツのしくみ (単行本)』は、右肩下りを続ける出版業界におけるウェブ小説の可能性に注目した本です。本書によれば、異世界転生小説は、世界でも稀に見る労働時間の長さを誇るサラリーマン男性が過酷な日常を忘れて一時の安らぎを享受するのに最適なコンテンツだと説明しています。


彼らが求めているのは、成長や教訓ではなく、自身の低い収入や社会的な地位に対する慢性的な不全感を解消してくれるような読んでスカッとする物語です。そのための一番手っ取り早い要素として「俺TUEEEE」、「チート」、「ハーレム」などのテンプレが生み出され、類似した作品が量産されています。


飯田一史はこのような状況を、イギリス小説史においてチャールズ・ディケンズが果たした役割を引き合いに出すことで好意的に解釈していますが、わたし自身は正直疑問です。そんなのファンタジーって呼んでいいのか? なんて思ってしまう。架空の物語とは言え、自分たちの都合のいいようにしか世界を見ることのできない小説って違和感があるなぁと。一読者のわがままかもしれませんが。

異世界転生小説の新たなトレンド


以上のように、現状の異世界転生小説は独身成人男性の欲望を充足するためのツールとしてはとても優秀ですが、機能を重視するあまり小説としてのコクが足りないように感じられる。


じゃあ、どうすれば小説として進化させることができるのでしょう?


この質問に対する現状のわたしと答えは、「ジャンルの再定義」です。


どういうことか。
異世界転生小説のベースはファンタジーです。これは言うまでもありません。ですが、上に書いたように今やかつてのジュブナイルファンタジーとは全く別物になってしまっている。混じり気のないファンタジーではなく、多くの不純物が含まれている。


そこで「ファンタジーである」という事実を一度脇に置いておいて、その不純物に注目してみた結果あることに気づきました。



最近の異世界転生小説ってピカレスク小説っぽいんですよね。


ピカレスク小説家は悪漢小説、悪者小説とも呼び、16世紀〜17世紀にスペインを中心に流行した小説の形式。(Wikipediaより引用)

その特徴について見てみると、

1.一人称の自伝体
2.エピソードの並列・羅列
3.下層出身者で社会寄生的存在の主人公
4.社会批判的、風刺的性格
5.1〜4を持った上で写実主義的傾向を持った小説を指す。
(Wikipediaより引用)

とある。
1〜3を見ただけでも異世界転生小説とピカレスク小説の相性がかなり良いことが分かっていただけるだろうか。


「小説家になろう」に投稿される異世界転生小説の9割は一人称独白形式だし、ストーリーも忙しい現代人がスキマ時間に読み流せるよう一話ごとに山場を作って無理のない分量でまとまっている。さらに主人公も、ニート社畜、おっさん、オタクといった現代日本社会の中の底辺の人種ばかりである。4は作者のセンスと勉強次第でどうとでもなる事柄だ。5は「写実主義的傾向」というのが具体的に何を意味しているのか謎なため、この際無視していいと思う。


「小説家になろう」や最近オープンした「カクヨム」で異世界転生小説を書いていきたいという人は、ファンタジーという枠に必要以上に目を奪われるのはやめて、ピカレスク小説としての面白さを追求してみてはどうでしょうか。もしかしたら、これまでとは切り口の異なるユニークな作品が書けるかもしれませんよ。


実は、既にそれっぽい作品がいくつか世に出てたりします。転生した主人公が闇の陣営に属する作品も以前より多くなってきました。まだ下火ではあるけれど、新しいトレンドは絶えず生まれ続けているようです。サイト内の流行を一夜の内に変えてしまうような記念碑的な快作の出現を待ってます。


魔王の始め方 1 (ビギニングノベルズ)

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ウェブ小説の衝撃: ネット発ヒットコンテンツのしくみ (単行本)

ウェブ小説の衝撃: ネット発ヒットコンテンツのしくみ (単行本)

『進撃の巨人』を読んで個人の自由について考えた

進撃の巨人(19) (講談社コミックス)

進撃の巨人(19) (講談社コミックス)



進撃の巨人』が面白い。
何を今更?
世間でこんなにも人気を集めているというのに。


いや、それでもコミックとアニメの劇場版にあらためて目を通してみて、そのバトル漫画としての面白さと高いテーマ性に圧倒されました。作品が時代と握手してる感じがする。これは面白くならないはずがない。


目次


家畜は自分の不自由に気づかない


壁の内に追いやられてから100年、人類は一時的な平和の期間を通していつの間にか巨人の脅威を忘れ去っていました。たまにエレンのような変わった奴が彼らの危機意識の欠如を指摘してもガキの戯言としてしか受け取らない。「今まで大丈夫だったから」という何の根拠もない理由にすがって自分の頭で考えることを放棄している。そんな折、突如出現した超大型巨人によって壁はあっけなく穴を空けられてしまう。

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「一生壁の中から出られなくてもメシ食って寝てりゃ生きていけるよ……でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか……」
諫山創進撃の巨人』第1巻より引用


エレンのように自分に置かれた環境の理不尽さに気づける奴ってレアなんですよね。大抵の人間は疑念を持っていてもその感情を押し殺してぬるま湯の現状で妥協する。たとえそれがかりそめのユートピアだったとしてもです。だって敢えて口に出して人と違うこと言うのって面倒だし絶対叩かれますからね。


「それじゃまるで家畜じゃないか」
エレンの言葉は思考停止に陥った人々に対する辛辣な批評です。家畜は持ち主の手によって生かされてはいるけど死んで肉にされるまで自分の不自由に気づくことができないんです。


無知は不自由に直結する。
漫画の世界だけでなく我々が暮らす競争社会では、物を知らないというだけで多くのチャンスを失います。


例えば労働問題なんかにしても、日本人は当たり前のように休日返上でサービス残業してあり得ないほど超時間働いている人が多いですが、アメリカに目を向けると、仕事に関する考え方が良い意味でドライなことが分かる。彼らは会社が自分に何のリターンももたらさないと知るとすぐに出ていきます。ハードな仕事に従事するとしてもそれは一時のことであり、後からそこで得た対価をちゃんと自分や家族の生活に還元します。間違っても日本人のように会社への無駄な滅私奉公はしません。会社と従業員の立場は対等です。実際に目にしたわけではなく本で読んだだけでもこのようなことが分かります。これって知ると知らないでは雲泥の差がありますよね。知は力なり。


自由には困難が伴う


実際のところ、自由を求めるのはごく一部の命知らずな変人に限られます。調査兵団のメンバーみたいなね。彼らは現状に甘んじることをせず、壁の外の未知なる世界への探究心を失わない改革者の集まりです。


とはいえ、自由を手にするにはそれなりの責任が生じます。大多数の人間の空気に抗って自分だけ違うことをするとあらゆる方面から反発を受ける。麻酔なしで手術を受けるようなもので非常に痛いわけです。調査兵団に入団した新兵の五割は第一回目の壁外遠征で巨人に喰われます。その難関を乗り越えたものだけが、生存率の高い優秀な兵士へと成長していく。


何か新しいことを始めるのってなかなかつらいですよね。資格の勉強するにしても小説書くにしても副業するにしても、自分の望む結果が出るのかも判然としないまま忍耐強く続けなきゃいけない。やる理由よりもやらない理由の方が多く感じられる。めんどくさい。楽して勝ちたい。


でも、最後までやり遂げる人はちゃんといます。大多数の人が途中で諦めるのにも関わらず。


なぜか? 


成功した時の形ある見返りのためというのももちろんあるでしょうが、たぶんそれ以上に、周囲の空気に同調して楽をするより自分の意志に基づいて行動する方がずっと楽しいからだと思います。自分で頭で考えて決めたことなら結果うまくいかなくても胸を張って次に進めますから。


それでも自由を望んだ個人が結果手にするもの


自由のために困難に立ち向かった個人への最大の報酬、それは裁量権だとわたしは考えます。自分の意志で判断し行動する権利があれば人は幸福を感じることができる。


しかし、まだ右も左も分からないうちから闇雲に意思決定をする人に真の裁量権があるとは言い難い。せっかく自分の意志で決めてもその全部が的外れでその人に不利益しかもたらさないのであれば元も子もないです。


正しい選択をするには知識と経験の両方が必要です。多くを知っていること、選択するための能力があること、その二つが揃って初めて個人の裁量権は確立する。前者については、「無知の知」なんていう哲学の言葉があるように、自分が知っていないということを知ることが一番難しい。後者については、やはりそれなりの苦難に遭遇して逆境の中で自問自答を繰り返すことが大事かなと思います。人って残念ながら追い詰められないと自分の頭でものを考えないようにできています。


もちろん自由を求めないのも自由


ここまで不自由からの脱却、裁量権の獲得の重要性を書いてきましたが最後にちゃぶ台をひっくり返すようなことを。


そんなに気を張りつめて自由を望む必要ないです。嫌なら。


だって不自由に甘んじる自由だってあっていいはずでしょ。自由を求める人間が偉くてそうじゃない人間が偉くない、みたいな考え方は一方的で息苦しいしそれ自体が不自由な発想だとわたしなんかは思います。そもそも自由って個人の主観でしかないですから第三者が見て判断できるものじゃない。刑務所の中にいる人だって自分を自由だと思う人は百パー自由です。

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周りにかけ替えなのない家族、友人、恋人がいれば、いや別にそれすらいなくても、自分自身の尊厳を大事にして生きることさえできればハッピーです。そのためにはやっぱり裁量権が及ぶ範囲は広い方がいいよね、という話です。みんな同じ、でもみんなと同じじゃダメ。そんなアンビバレントな心意気を自分の中で両立させる余裕を常に持っていたいものです。

オレ達は皆
生まれた時から自由だ
それを拒むものがどれだけ強くても
関係無い
炎の水でも 氷の大地でも
何でもいい
それを見た者は
この世界で一番の自由を手に入れたものだ
戦え‼︎
そのためなら命なんか惜しくない
どれだけ世界が恐ろしくても
関係無い
どれだけ世界が残酷でも
関係無い
戦え‼︎
戦え‼︎
戦え‼︎
諫山 創進撃の巨人』第4巻より引用
自由論 (光文社古典新訳文庫)

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