そのイヤホンを外させたい

社会に対してベタになると死ぬ/トークイベント:宮台真司×二村ヒトシ『希望の恋愛学』を語る

 

先日、社会学者の宮台真司さんとAV監督の二村ヒトシさんによるトークイベント『希望の恋愛学』を語るに参加してきた。


場所は下北沢にある世田区立男女共同参画センターらぷらす研修室。変な名前。

 

 

僕は知らなかったのだけれど、二人によるトークイベントはこれで通算4度目になるらしい。


それもあってか、とても自由な雰囲気でナンパやAVをはじめ色々なことに話は飛んでいたのだけど、二人が言わんとしてることはアプローチの方向は違えど共通しているように感じました。


自分的に気になった部分をちょっとまとめてみる。


目次

 

 社会は単なる“なりすまし”

 

まず、二人の話の大前提となっている考え方が二つ。

 

・個人にとってこの社会で生きることはそもそも“なりすまし”に過ぎない。


・真の性愛や猥褻は常にその“なりすまし”社会の外側に位置するものである。

 

大昔に人類は狩猟・採集の生活から農耕・牧畜の定住社会に移行した。


そのような社会においては、共同体を崩壊に導くような個人プレーは制度によって厳格に管理される。安定した生活を維持するには集団を乱すような逸脱は極力排除しなければならない。


しかし、人間には理性もあれば本能もあるので、常に統制のとれた社会の中で生きることに抵抗を感じる人種も当然のように出てくる。


そういった人々の鬱屈を晴らすために昔の共同体が用意したのが、定期的に行われる祝祭だった。自由セックスありのお祭りですね。


制度化された集団の外にガス抜きもしくは生物としての本来性への回帰の場を設けることによって、社会の秩序を保ってきたという長い長い歴史が人類にはある。

 

社会の外側に本当の自分に帰れる場所があるからこそ、人は動物とは異なり理性的な集団生活を営むことができたんですね。


現代でも、スケールの差はあれどそのような浄化の営みは機能していたのです。


ところが、宮台さんが言うには90年代後半のあたりからそのへんの事情が変わってきたという。


社会に100%調和するクソ人間の増加


社会というのはもともと人間の作ったものなのでよく見ればほころびも多いし、テキトーに対処してお茶を濁してしまえばいい事柄も実は多かったりする。
 

だが、近頃は欠陥だらけの世の中に必要以上に同調し、その結果他人への攻撃に走ったり、ストレスから精神を病んでしまう人が増えた。


「性で幸せになれない人間は制度に走る」

「権利の獲得と性で幸せになることを混同する人間が増えた」

 

2つとも宮台さんの言葉なのだが、どちらも同じことを言っている。


社会で最適化できれば自分は性愛においても満たされるという勘違いが多くの人に共通認識になっているということです。


こういう人はどちらかというと男性に多いのではなかろうか。


社会的なポジションをチラつかせることでしか女性を口説く術を知らないおっさんや、相手を物格化することで女性から性愛における表面上の快感だけを得ようとする恋愛工学性も上の最適化人間に該当するだろう。


だが、仮に社会というとんちんかんな枠組みの中で他人を思うがままにコントロールすることができたとして、そんなことに最大幸福を感じてる人間は色んな意味で不自由でありクソですよね。


二人が口を揃えて言ってたことであり、僕自身もあらためてそう思った次第だ。

 

社会に対してベタにならない


二人の話の中で一番に良いなと思った言葉です。


われわれは望むと望まざるに関わらず、今ある社会の中で生存していかなければいけない。毎日働いてちゃんと飯を食っていかなければならない。


でも、だからと言って社会に対して全面的信頼を置く必要はない。なぜなら、いつの時代だって人間性全てを包みこむ完璧な社会なんてなかったかし、たぶんこれからもありっこないからである。


本物の自分は社会の外側にしかいない。
その事実をちゃんと理解している人間だけが時々そこへ出かけて行って自分にとって大事な何かを獲得し、もといた場所に帰ってくることができる。


行きて帰りし物語」のリアルバージョンというわけです。僕はテクニックとかマウンティングなどよりこちらの方が好きですね。

 

*何度も話題に上がったカンパニー松尾さんの作品が非常に見てみたくなりました。今度借りてみます。

*(懇親会も楽しく飲み食いさせていただいた。ありがとうございました。)

 

社会という荒野を生きる。

社会という荒野を生きる。

 

 

 

 

二村ヒトシ/川崎貴子『モテと非モテの境界線』の感想

モテと非モテの境界線 AV監督と女社長の恋愛相談

モテと非モテの境界線 AV監督と女社長の恋愛相談



『モテと非モテの境界線』という対談集を読んだ。


著者(というより対談してる人)は、AV監督の二村ヒトシと、働く女性のサポートを事業の根幹にすえる人材会社を経営する川崎貴子


前者にについては過去に別の著作を読んで書評も書いているので知っていました。



が、後者の存在はこの本を読むまで知りませんでした。出会いに恵まれない女性ってわりと多いんですね。


独身男性として普通に暮らしてる分にはそういった女性の方々とは面白いほどエンカウントしないので、川崎さんがやられているような独身女性向けコンサルティングが需要があること自体新鮮な驚きがありました。


さて内容はというと、二村さんの著作を既にいくつか読んでいる身としては、それほど目新しい要素はないかなと思った。いつも通り、幼児期に形成される「心の穴」の理論を前提に、恋愛市場における男女のマッチングの困難さの確認に多くが割かれている。川崎さんは、自立した女性という立場から男性にありがちなキモい自己肯定を客観的にビシビシ糾弾する役割といった感じか。


二人の対談以外にも現実の独身男性の相談を受けたりと色々やってるのですが、それらを通して結局なにを言ってるのかと言えば、他人基準ではなく自分基準をちゃんと把握した上で恋愛や結婚はした方がいいよ、ということなのだと理解しました。


本書のタイトル通り、世の中にはモテる人と非モテの人の2種類がいることになっていて、パッと見ではその違いは明らかに感じられるのだけど、実際には両者の線引きはそう簡単にできない。なぜなら、「心の穴」への適切な対応が取れてないがゆえに不毛なモテ方をしてしまう人も存在するからだ。はた目には異性に不自由しないように見える人が、内面的には非モテのそれと全く同じ躓きがあるゆえにいつまで経っても自分にピッタリの相手に巡り会えないという事態も決して少なくないのである。


僕は、そのような不毛なモテスパイラルの後にはわりと深刻な女性不信が待っていることは分かっているつもりです。二村さんが理想としているようなお互いの「心の穴」をおざなりにすることのない異性との本来的な触れ合いが実現できれば、金などなくてもかなり幸福度の高い人生を送れるでしょうね。それはもう間違いない。


だがしかし、
それ結構ムズクね?
とも思うのである。やはり。


それができたら話は早いというか、逆にそれができないからこそ、女遊びにハマったり婚活塾で金ふんだくられたりするのではないかと思う次第である。卵が先か鶏が先かという話になっちゃうので恐縮ですが。


でもまぁ、本書でお二方が言うようにベストな恋愛と結婚のあり方ってそれこそ人それぞれなので、理想の恋愛のあり方を言葉で定義しようとしてる自体マニュアル思考に陥っている証左なのかもしれません。やっぱ難しいわ。


以上、簡単な感想でした。

乳酸菌入りチョコレートの登場が意味するもの

f:id:taiwahen:20161018214743j:plain


少し前にロッテが「乳酸菌ショコラ」という商品を出した。


「チョコを食べながら栄養素を摂取できるなんてなんだか得した気分〜♪」


これは友達の女の子の発言(彼女は決してバカじゃない。ただ幸せを感じやすいだけ)。僕も確かにそうだなぁと感じてそこで話は終わったのだが、よくよく考えてみるとこれって大多数の人が考えている以上にエポックメイキングな出来事のような気がしてきた。


そもそも、開発者を除いてチョコレートに乳酸菌を入れることを望む人がこの世界に果たして何人いただろうか。


僕から言わせれば、チョコレートというのは嗜好品の王様みたいなもので、食べることによってその無駄な「甘さ」を味わうことさえできれば特に他の見返りは求めない。だから「乳酸菌はチョコで摂る時代」というキャッチフレーズに対しては、お得感以上に余計なことすんなよなという思いの方が強かったりする。


まぁ、乳酸菌が入った分甘さ控え目などといった酷な話ではないみたいなので味が良ければそれでいいとは思います。


ただ、既存のものに何らかの付加価値を与えてお得感を演出し、消費者の購買欲求に火を点けるこうした流れはあらゆる商品についても既に生じている。小説や漫画で言えば、「もしドラ」以降に目立つようになった「物語」+「何らかの専門知識」という作品群がそれに当たるだろう。


「物語」というのも単体では実生活では何の役にも立たない知識の集積だ。だが、そこに「マネジメント」とか「経理」とか「農業」とか「恋愛工学」とかすぐに役立つ情報を盛り込むことで読者にそれを読む理由を与えてやる。錯綜する情報化社会に生きる今の大衆にとって、消費の理由こそ最も欲しいものである。多くの人間は自分の欲望が正確に分かっていないから。その内、小説だけでは飽き足らず「詩を読むことは脳にいい」なんてトチ狂った主張が出てきても自分はそれほど驚かないと思う。


だってもうチョコにまで来たんだぜ、それが。チョコは甘い。無駄に甘い。ただ甘いだけ。それで十分だったはずなのに。


世の中の呼吸がどんどん浅くなっていく。


チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)

チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)

壇蜜の小説家デビューについて


壇蜜さんが小説を書いたんですね。
タイトルは『光ラズノナヨ竹』



前にも書いたけど、新人賞という正規のルートで小説家として出発するのではなく、あらかじめ小説とは異なるジャンルで知名度を得た人物が新人作家としてデビューするという仕組みは今後ますます主流になってくるだろうと思う。


僕はこの流れをそれほど悪いものとは思っていません。


これまでと比べて小説の質そのものは下がるかもしれないけれど、それでも年寄りとワナビーしか読者のいない今の純文よりはマシなんじゃなかろうか。


というわけで、今度の壇蜜さんの小説も時間があったら目を通してみたい。遅ればせながらオール讀物を図書館で読もうかな。


全くの予想でしかないが、壇蜜さんの小説デビュー作は小説好きの人間が読んでもある程度満足できるものである気がする。これは、ただ単に藤沢周の小説の彼女の解説をチラッと読んでなんとなく良い感じだったからというだけの理由である。


でも、この人はテレビでの発言などを見ている限り、大衆に簡単に消費されない素質を持っている印象を受けます。文庫で出ている日記も日常のことであるのにどこか精神的に逸脱している感触があって魅力的だ。


元々グラビアで出てきて、年上女性のエロスを武器に新境地を開いたけれど、最近はそっち方面の活動は抑え気味で後続の橋本マナミなどに譲っているようです。「セクシーはお譲りします」という発言もニュースになってましたね。


何よりも事務所の売り出し方が上手だったのと、彼女の持つ知的な印象が同性をも惹きつけたというのが大きかったのだろうなぁ。


なにはともあれ、注目の人物が小説を書くというのは良いことだ。今後も時間が許せば芸能人が書いた小説はチェックしていこうと思う。

壇蜜日記2 (文春文庫)

壇蜜日記2 (文春文庫)

古さを感じさせない時間術の名著/アーノルド・ベネット『自分の時間』

自分の時間 (単行本)

自分の時間 (単行本)



アーノルド・ベネット『自分の時間』を読みました。


100年以上前にイギリスで出版された時間術の本で、著者は英文学史に名を残す小説家アーノルド・ベネット。


このたび装いを新たに再刊されたとのことで、書店の自己啓発本の棚のなか、違和感なく他の本と肩を並べています。


文芸というふわふわしたものが好きな人間としては、生き方のコツについても経営者やスポーツ選手の書いたものではなく、小説家の書いたものから学びたかったりします。本書を手に取ったのもそんな浮ついた理由からなのですが、実際に読み終えてみて、思ったより真面目に自己啓発をやっていたので少し驚きました。でも、結果的には読んで良かった。そこはさすが小説家。目に見える形での自己実現のみならず、自分の内面の基準に背くことなく充実した人生を送るための具体的なアドバイスが親切に書かれています。

最も多産な、しかも最も質の高いものを書きつづけた作家が、コーヒーなどを飲みながら、気安くそのやり方を語っているといった感じがある。


訳者の渡部昇一(『知的生活の方法』の人だ!笑)は解説のなかで本書の印象をこのように述べています。
僕も本書を読んで同じことを感じました。ページを繰っていると、静かに机に向かって文章を綴っている著者の姿を活字の向こうに思い浮かべることができる。
100年以上残る本というのは、やはり独自の品格があるものです。


1日の中に自分のために使う別の1日を設定する

f:id:taiwahen:20161018220023j:plain


充実した完全な1日を送りたいと思ったら、頭の中で、1日の中にもうひとつ別の1日を設けるようにしなければならない。 p59


これが、本書で語られる時間術の大前提となる考え方です。ベネットの時間術は24時間のうち、労働の時間(8~9時間)には重きを置かず、仕事から解放される夜から次の日の朝にかけての時間を有意義に活用することを目指しています。


僕は現在会社員として労働力を売っていますが、たとえ仕事を一生懸命がんばったとしても出世や収入アップには直結しない環境に身を置いています。いわゆる名ばかりの正社員というやつです。元気なうちはまだいいけれど、何の打開策も講じずに毎日をテキトーにやり過ごしていたら、きっとどこかの段階で限界がくるだろうことは、まぁ薄々想像がつくわけです。だからそうならないためにも、プライベートの時間を有効活用して資本主義社会の中で評価される自分の価値を生み出し、さらに磨いていく必要があると今は考えています。


その意味で、本書の推奨する時間術は僕のニーズを満たしており、痒いところに手の届く内容でした。


労働時間以外の15時間を使い倒す


1日の内3分の1の時間を労働に奪われるなら、残りの3分の2で自分にとっての本当の人生の仕事に打ち込めばいいとベネットは言います。
会社員は平均で朝8~9時頃から夜の18時~19時くらいまで会社に拘束されるので(もちろん残業がないとして)、翌日再び会社に足を運ぶまでに大体15時間ほど自由な時間が残されています。それも毎日! 8時間を睡眠に使ったとしても7時間残るのでそこから食事や入浴などの時間を差し引いても、4時間ほどは手つかずで残るでしょう。どうですか? 意外に時間って余るもんでしょ。実際にはこの計算通りにいかない日も多いかと思いますが、帰宅して夕食べたら「あ~今日も終わった」と言って寝るまでの時間をダラダラ過ごすのと、会社の建物から出た瞬間に本来の1日が始まるという意識を持ち、就寝までの時間を無駄にせずに過ごすのとでは、長い目で見た場合大きな違いを生むことは明らかです。


さらに、自由な時間の中での生産性を高めたいなら、早起きすることが一番だとベネットは書いています。脳が疲れていない朝の1時間は夜の2時間に匹敵するのです。
僕自身、夜の時間はこうしてブログの文章を書いたり、本を読んだりして過ごしていますが、朝の時間は何かしらの勉強に当てるようにしています。疲れた状態の頭では思うように進まなかった問題に、朝全快した頭で再度挑戦してみるとすんなり解けてしまうことは往々にしてあります。朝の脳みそというのは、わたしたちが考えている以上に戦闘力が高いのです。


読書を役立てたいなら詩を読め


「効果的な読書」について書かれた章についても一言触れておきます。
読書で利益を得たいならば、何よりもまず詩を読むべきだとベネットは言うのです。逆張りだなぁ。笑

詩は最も崇高な喜びを与えてくれると同時に、最も深い知識を授けてくれる。要するに、詩にまさるものはないということだ。ところが、残念なことに、大多数の人は詩を読まない。
p130


ちまたに溢れる意識高めな本にはまず書かれていないであろうアドバイスだったので、意表を突かれたと同時に、普段から小説、詩、哲学など、実社会では無用とされてる書物ばかり読んでる身として少し勇気づけられました。


最後に、本書の中で一番グッときた一節を引用して終わります。

バランスのとれた賢明な1日を過ごせるかどうかは、ふだんとは違う時間に、たった一杯のお茶を飲めるかどうかにかかっているかもしれないのだ。 p24

匿名ブロガーの本懐

f:id:taiwahen:20160520080218j:plain


まだ記事数も十分ではないが、ブログの運営方針について現在思っていることをここらで書き留めておきたい。


わたしはブロガーがブログそのものについて言及することに全く抵抗を感じないし、むしろ必要なことだと考えています。小説家や詩人が「小説とは何か?」、「詩とは何か?」という自問自答を繰り返しながら創作者としての階段を一段ずつ上っていくように、ブロガーも「ブログとは何か?」ひいては「文章とは何か?」「言葉とは何か?」という素朴な疑問に答える努力をすることで成長するのではないでしょうか。まぁ、スケールの違いは否めないし、そもそもブログを書くことに意味を見出そうとすること自体間違ったことなのかもしれないけれど。


先日、Twitterアルファブロガーが書いた記事がリツイートで回ってきた。記事の内容としては、「ブログ飯が盛り上がってるけどブログは儲からない。お前らいい加減目を覚ませ!」みたいな耳慣れたもので、流行をまぜっ返すような毒のある言い回しもあってか多くの人に読まれていた。内容に関してはおおむね異論はないのだけど、書き手のフラストレーションの蓄積が文章の節々から感じられ、正直読んでいて気分が悪かった。だから、この記事にもリンクは貼らない。癪だから。興味ある方はググればすぐ見つかると思うので読んでみて下さい。


後味は悪かったものの、上の記事を受けてブログというメディアの持つ価値についてあらためて考えさせられました。ブログで稼ぐことがこれほどまでに重要視され飽きもせずに繰り返し議論される理由は、お金が人類不変の関心事であるということが一つと、否定できない事実として、ブログがある程度の金額までなら努力次第で稼げてしまう、ということがあると思う。例えば、好んで詩を書いたり絵を描いたりしている人が自分はそれで食っていく、と宣言したとしてもほとんどの人は見向きもしないだろう。なぜなら、十中八九その夢が果たされないことを皆が知っているから。ところが、ブログに関しては現実にそれで生活費を稼ぎ出してしまう人間が少なからずいるものだから安定志向の人々の気持ちは掻き乱されることになる。そもそも他人事だから妬む方が悪いんですけどね。


いっそのこと、ブログから得られる収入なんて全部なしにしちゃえば、風通しが良くなっていいのではないか。いや、そもそも初期のブログってそういうものだったようです。今よりずっと牧歌的なものだったのにいつの間にかあり方が変わってしまった。だから、古参ブロガーと自称メディアクリエイター(新世代の若手ブロガー)の論争があれほどまでに白熱するわけで。


わたしはこのブログに、レビューを書いた本や映画のアフィリエイト広告を貼っているし、今後無理しない範囲でSEO対策も意識していこうかなと思ってる身なので、「フリーランスになってブログで稼ぐ!」のような風潮はむしろ歓迎です。でも、だからと言って、収益を生み出さない個人の日記ブログに存在価値はないかというと全然そんなことはないとも思っています。あぁ、どっちつかず。ブロガーのはしくれとしてもうちょっと尖った発言をしたいところですが、こういう白か黒かの二者択一って不毛ですよね。どちらもはっきりと選ばないまま個人のさじ加減でバランスを取った方が一番良い結果につながる気がする。小説で言えば、純文学とエンターテイメントの違いのようなもので、近年ではどちらも書ける越境的な作家さんもチラホラ出てきており線引きも曖昧になってきているので、ブログに関してもそこまで神経質になる必要はないような気がする。書く時の気分によって検索需要を意識するか否かを逐一判断すればそれでいいと思う。究極何書いたっていいんだからさ、ブログは。


しかしそうは言っても、わたしは自分の行為に何らかの意味を見出さないと落ち着かないめんどいタイプの人間なので、「なぜブログを書くのか?」という問いに対しては、ざっくりとした形でもいいのでひとまずの解答を持っておきたい。ではあらためて、「なぜわたしはブログを書くのか?」。金のため? 大いにあり得る。だが、それだけでは問いの半分も答えたことにならない。もしかしたら、自分は「ブログを書く」、または「文章を書く」ことによって生存競争とか社会的成功とは異なる地平での成長を望んでいるのかもしれません。カッコつけですが。


タレントのビートたけしの母親は早いうちから子供たちに熱心な教育を施したことで有名だ。だが、彼女の最大の功績は机上の学問を授けたことではなく、貧乏でも胸を張って生きていくことができるのだという事実を身をもって示したことでした。スーパーの値下げ商品のワゴンに殺到する人々を離れた場所から指差して彼女は幼いたけしに言った。「あのような人間になってはいけない」。わたしには彼女の人生哲学はあまりにストイックで弱冠息切れがしますが、それでもその潔い態度に憧れを抱きます。(ビートたけしの母親のエピソードは今手元に本がないため大体の記憶です)


生きる上で真に必要なのは、金でも名声でもなく美学、ロマンだ。なぜなら、金も名声も簡単に自分を裏切るから。自分を裏切らないのは自分でこしらえた信条だけである。ブログを書いていく中で、ずっと曖昧だった自分の人生に対する感覚が、わずかながらでも磨かれていく。そんな充実感を得ることができたら幸いです。


案の定抽象的な内容になってしまったけれど、ブログについて考えていることはひとまずこんなところです。また何か気づきがあったら付け足していこうと思う。

純文学ワナビーは必読。『響 〜小説家になる方法〜』の感想

厳しいーなぁ…

っとに、なんだったら売れんだよ。

芥川賞作家の肩書き持っててもこれだもんなぁ。

つーか最近は、受賞作ですら厳しいっスからね。

これ以上悪くなんねーだろって状況なのに、毎年きっちり更新してくれるなぁ。

っとに、

出版不況で漫画が売れねーとか言ってっけど、正直、こっちのほうが百倍厳しい…

どーなんのかなあ文芸は……


『響〜小説家になる方法〜』第1巻第1話「登校の日」より引用



現在スペリオール誌上で連載中。

3巻までしか出てないけど、これ、面白いです。



バクマン』の純文学版って感じかな。バリバリのエンターテイメントである少年漫画の世界と違って、純文の世界は感性重視というか万人に通じる必勝法がないところが面白い。天才は論理では説明できないものだってことがよく分かる。


                                                                              

こんな話


文芸の衰退を嘆く出版社の新人賞に、ある日募集要項をガンムシした手書き原稿が送られてくる。

開封もされずにゴミ箱行きとなった原稿を興味本位で読んだ女性編集者の花井は、『お伽の庭』と題されたそのアマチュアの小説に強い感銘を受ける。

作者の名前は鮎喰響。住所も年齢も職業も性別も電話番号も封筒には書かれてない。やる気あんのか? しかし、才能だけは本物なようだ。

鮎喰響の小説は出版界を、いや世界を変える。そう直感した花井は、何んとかして鮎喰と連絡を取り、掲載にこぎ着けようとするのだが……。


文芸にスターのいない時代

                                                                

「同じ人間が30年間トップにいる業界なんて異常です」



花井が先輩の編集者に言う印象的な台詞だ。



同じ人間とはもちろん村上春樹(作中では祖父江秋人という春樹としか思えない小説家が登場する)を指している。確かに、ここ数年に渡る春樹ブームは見てて複雑な気持ちになる。春樹の小説はわたしも大好きだし、彼の小説がこんなにも評価されるのは喜ばしいことだ。でも、他にも面白い作家いっぱいいるよ! とも同時に思うんですよね。メディア露出が少ないだけで単行本がすぐ絶版になっちゃう純文学作家がなんと多いことか。もったいない。まぁ、春樹はメディア露出は極端に少ない作家なので「それが実力」と言われればどうしようもないけれど。




太宰治のようなスターが再び登場すれば純文学も息を吹き返すはず……!


この時代に文芸誌買って読んでる物好きでも、そう考える人は少ないのではないか。小説で世界を変えるなんて所詮は夢物語。しかし、ほぼほぼ絶望だと分かっていても心の隅では大番狂わせを願っている。規格外の新人の登場を待ち望まずにはおれない。天才は遅れた頃にやってくると言いますしね。本作は、そんなあきらめの悪い純文学フォロワーの期待を裏切らない内容です。


自由を体現する小説家


主人公の響は確かに稀に見る天才です。ですが、フィクションの世界にはこれまで数え切れないほどの数の天才の姿が描かれてきたので、わたしは彼女の奔放な振る舞いを単なる天才の類型としか見れませんでした。よくいる天才、というのは言い方が矛盾している気がしますが、まぁ響はそんなよくいる天才の一人です。



わたしが魅力的に感じるのは、響のような型破りな存在に触れることで自身の才能について悩んだり、一度失った創作への情熱を取り戻したりする彼女の周囲の小説家たち(あるいは小説家の卵)の姿です。



彼らももちろん純文学というマイナーなジャンルを志す人間ですから、現実社会とは相容れない部分を例外なく持っています。普通に生活してるように見えても何となくギクシャクしてしまう。しかしそれでも、響のようにフリ切れるまでには至らない。その針がフリ切れないという不十分な点に彼らの人間としての魅力もあるし、同時に才能に関する課題もあるのだと思います。響という少女を通じて彼らの小説観、延いては人生観を知るのは、小説が好きな自分自身のことも客観的に見るかのようでした。「何で小説なんか読むんだろ?」そんな素朴な疑問が頭の中に浮かび、あらためて考えさせられた。が、結論は出ず。



上で軽くディスってしまった感のある村上春樹が、少し前に『職業としての小説家』という本を出しました。その中で、個人的に印象に残ってる一節があります。

小説というのは誰がなんと言おうと、疑いの余地なく、とても間口の広い表現形態なのです。そして考えようによっては、その間口の広さこそが、小説というものの持つ素朴で偉大なエネルギーの源泉の、重要な一部ともなっているのです。だから「誰にでも書ける」というのは、僕の見地からすれば、小説にとって誹謗ではなく、むしろ褒め言葉になるわけです。

村上春樹『職業としての小説家』p15より引用


小説を書くというのは、新規参入のハードルがないに等しい行為です。それは例えるなら風通しの良い大きな広場であり、入りたい人は誰でもウェルカムな状態を常に保っています。



しかし、万人に分け隔てなく解放されているからこそ、その場所を去っていく者もまた多い。何を書いても自由であり、実績を残すための定まった方法論もないというのは、表目上はのん気に見えても、裏では言い訳の許されない実力の世界です。時に自分を上回る圧倒的な才能を見せつけられ、一文字も書けなくなってしまうこともあるかもしれません。それでも、春樹の言葉を借りれば、社会の中の「自由人」としてのスタンスを崩さない小説家という人種は、潔くて素敵な存在だなぁと思います。



祖父江凛夏ちゃんを応援してます


わたしがこの作品で一番好きな人物は、人気作家祖父江秋人の一人娘祖父江凛夏ちゃんですね。彼女は影の主人公だと思う。



日本を代表する小説家を父に持ち、何でも卒なくこなし校内の人望も厚い彼女ですが、響の特別な才能を目の当たりにしてアイデンティティクライシスに陥ります。この先文壇にデビューしてどんな小説を書いていくのか。果たして親友の響とは異なる形で小説家としての自身の確固たる地位を築くことができるのかが大変気になるところ。こういう器用だけど二番手に甘んじざるをえない人の葛藤ってシンパシーを感じます。応援したい。響と二人でデビュー作で芥川賞同時受賞なんていう展開になったら楽しいなぁ。



コミックスの第4巻は6月末発売。待ち遠しいわー。


職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)