そのイヤホンを外させたい

『20歳の自分に受けさせたい文章講義』はアラサーが読んでも得るところが大きかった


量か質か。

ブログを書いている人間なら、たびたび耳にするであろう二者択一だ。

今のところ、量は質を凌駕するという考え方が優勢かと思います。

量をこなさないと質も上がらないのでつべこべ言わず書け、ということですね。

とはいえ、いかに早く大量に記事を生産することが重要だと言っても、早い段階から文章の書き方を文章術の本などで学んで、書き手としてのレベルアップを図っておいて決して損はないでしょう。

20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)

20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)


『20歳の自分に受けさせたい文章講義』は、これまで刺激的な内容の新書を世に送り出してきた星海社新書のラインナンップのなかでも、マスターピースと呼べる1冊だと思う。

著者の古賀史健氏は、堀江貴文の『ゼロ』や『嫌われる勇気』といったベストセラーを手掛けた売れっ子のライターである。

もっとも、本書の刊行はそれら2冊よりも前である。

ライターとしての自身の文章術を1冊の本として体系化する作業は、著者のキャリアにプラスに作用したことは間違いない。

タイトルの「20歳」という言葉を見て、初歩的な文章テクニックしか載っていないと思うのは早合点だ。

おそらく、日頃ビジネス文書などを書き慣れた会社員の方が、本書にとっての良い読者になれるのではないかと思う。

ほら、20歳かそこらの頃って、既存の文章術なんかに頼らずとも自分はうまい文章が書けるはずという根拠のない自身があったりするじゃないですか。

だから、本書を一読してもあまり響かないんじゃないかな。自分の物書きとしての至らなさをそこそこ客観的に見ることのできるアラサーだからこそ、読んで身に染みる部分も多い。

本書のなかで、著者は“書く技術”はそのまま“考える技術”だと言っている。
では、“考える”とは具体的にどういうことか。それは、頭のなかの「ぐるぐる」を、伝わる言葉に“翻訳”するということである。

上手い文章を書くために必要なのは、この“翻訳”の意識と技術なのだ。

以下、“翻訳”の技術を向上させるのに必要な4つの要素と、ためになったテクニックを順にメモしておく。


リズム

文章を語る上でよく引き合いに出される「文体」という言葉。

その正体は、文章のリズムである。

リズムの悪い文章は読みにくい。

では、どうすれば文章にリズムが出るのか。

カギは接続詞である。

接続詞を意識するだけで文章は論理破綻し難くなる。

リズムの良し悪しは、文と文のつなげ方、論理展開で決まる。

構成

接続詞が論理展開を補強する接着剤の役割なら、論理そのものは「主張」、「理由」、「事実」の組み合わせによって構成される。

書き手の「主張」が客観的な「事実」に基づいた「理由」によって裏打ちされたとき、読み手はその文章を論理的だと感じる。

実際には、「事実」→「主張」→「理由」の順で構成する書き方が自然で書き手の言わんとするところがスムーズに伝わりやすい。

読者

読者に「当時者意識」を起こさせるための起“転”承結のテクニックは汎用性が高い。

文章の冒頭で仮説を立てて読者の興味を引けば途中で飽きずに最後まで読み切ってくれる。

ブロガーにとって、この箇所が最も役に立つかもしれない。

編集

推敲とは、単に文章の誤字脱字を赤ペンで直す作業を指すのではない。

鬼軍曹になったつもりで、不必要と思われる箇所はバッサリと大胆にカットしよう。

推敲とは、つまるところ「もったいない」や「せっかく書いたのに」というサンクコスト(埋没費用)をいかに捨て去るかが勝負なのだ。

文章でも映像でもプロの仕事は削りの技術を学ぶ格好の教材だ。

一流の書き手は例外なく優れた編集者でもあるのだから、どんどん吸収して盗むべし。


ブログは、基本的には何を書いてもいいという個人の自由な表現の場だ。

しかし、その自由さゆえに何をどのように書いたらいいのか途方に暮れることがある。

そういうときは、回り道をいとわず、本書にあるような文章術を試してみてほしい。思っていた以上の気づきがあるし、文章の幅も広がるはずだ。

非恋の時代に心を病むことについて/トイアンナ『恋愛障害』

交際相手のいない男女の割合が過去最高を記録したというニュースが話題になっていた。


本格的な「恋愛氷河期」の時代がやってきたのかもしれない。


結婚願望のある人が8割を超えるというのは、多くの人が現在恋愛をしたくてもできない状態にあることを如実に物語っている。


ちょうどタイミング良く、現代の恋愛の困難さについて書かれた本を読み終えたところでした。



著者はライターのトイアンナさん。ブログもよくバズってるので恋愛クラスタの住人なら知らない人はいないでしょう。


「恋愛障害」というのは本書における著者の造語で、恋愛において対等なパートナーシップを作ることができず長期的に苦しむことを指す。



本書は、大きく分けて以下の3つのパートで構成されています。


1.「恋愛障害」の様々な症例を男女ともに列挙


2.不安や寂しさの原因となる過去の記憶と向き合い、ポジティブな方向に解釈を変える方法について


3.日頃の行動を通じて自尊心を回復させる具体的な訓練法について



1のパートだけでも十分な情報量です。外資系企業でのマーケティング業務や500人以上にも及ぶヒアリングおよび恋愛相談という豊富な経験が活きており、読んでるこちらがちょっと嫌味に感じるくらい詳細なタイプ分けをしてくれています。


女性パートは、僕自身が似たタイプの女性に遭遇した経験があり、なんだか既視感がありました。男性にコントロールされやすい女性って総じて心が無防備なんですよね。だから、こちらから弱点がはっきり見えるし、その部分を攻撃すると簡単にダメージを与えることができる。多くのクズ男は感覚でやってると思いますが、本書では彼女たちの成り立ちや普通の女性との違いについても説明されているので、あらためて腑に落ちるところが多かったです。


男性パートは、恐る恐るという感じで読みました。笑

男性の方で、もしこの本を読んでいて辛くなったら、本を閉じて休憩してください。私の経験では、男性のほうが「自分は傷ついてなんかいない」と強がる傾向にあります。ページをめくりながら笑えなくなってきたら、一度コーヒーブレイクを取りましょう。 p77


との前置きがあったものの、いざ読んでみるとやはり少しだけ腹が立ちました。笑
ダメなのは自分だと頭では理解しているのに、それでも「いや、俺だけのせいではないだろ」という強い反発を覚えました。


二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』を読んだ時にも同じ焦燥感を抱きました。


すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)



男性ってインチキな自己肯定をしていても女性と比べてそれを同性から指摘されることが極端に少ないので、そのぶん自覚を促すためには第三者からの辛口な批判が必要になるのだと思います。



2については、幼児期~思春期における親(特に母親)との歪んだ関係性や、学校でいじめに遭ったなどのマイナスの情動記憶が、いかにその後の恋愛のハードルを上げ得るかということが詳しく書かれています。これは心理学の本なんかにもよく出てくるので、ほぼ間違いのない事実なんでしょう。


現在の自分が抱える不安感や寂しさの原因であるつらい過去と向き合う重要性を、著者は面白い比喩で表現しているので引用します。

たとえば夜寝ている時に、誰かに見られている気がして目が覚め、窓の外に白い影がユラユラしていて怖くて眠れなくなった場合を考えてみましょう。
この時に、その白い影の実体がなんなのか確認しないと、漠然とした恐怖が続いて眠れなくなってしまいます。でも、思い切って窓を開けて確認したら、昼間干したワイシャツだったとしたらどうでしょう。その後安心してグッスリ眠れるはずです。
現在の漠然とした不安感や孤独感も、多くはこの昼間干したワイシャツと似ています。p124


過去の記憶に蓋をして見ないようにすればするほど、それは存在感を増し、恐怖の感情を呼び起こすということが分かります。勇気を出して目を向けてみれば、拍子抜けするほど些細な出来事だったりもすることも珍しくないようです。


3は、日頃の生活を通じて、失われた自尊心を取り戻すための具体的な方策が色々と書かれています。

  • 「ついでの買い物をお願いする」
  • 「好きな食べ物を作って一人占めする」
  • 「返信をスルーする」
  • 「自分の胸がときめく服を買う」


などなど、手取り足取り。


まるでリハビリじゃないですか!
これこそ正に「恋愛障害」ですよ。


今後、こういう人がますます増えていくだろうことは目に見えてますから、これはゆゆしき事態だと思う。小中学校のカリキュラムに「恋愛」を加えてもいいのではないか。中途半端な理解しか促さない性教育を補てんする目的で。


そして、さらに問題なのは、冒頭に挙げたニュースにもあるように、たとえ「恋愛障害」であっても、交際相手がいる時点で優秀というのが今の日本社会なのです。


「恋愛障害」というのは、考えようによっては日々激化する恋愛市場において不器用ながらも格闘した名誉の負傷、勲章であって、真の不安要素は傷つくことを必要以上に恐れて傍観者を決め込んでいるその他大勢なのかもしれません。


恋愛はもはやスキルでいいのかもしれない。

社会に対してベタになると死ぬ/トークイベント:宮台真司×二村ヒトシ『希望の恋愛学』を語る

 

先日、社会学者の宮台真司さんとAV監督の二村ヒトシさんによるトークイベント『希望の恋愛学』を語るに参加してきた。


場所は下北沢にある世田区立男女共同参画センターらぷらす研修室。変な名前。

 

 

僕は知らなかったのだけれど、二人によるトークイベントはこれで通算4度目になるらしい。


それもあってか、とても自由な雰囲気でナンパやAVをはじめ色々なことに話は飛んでいたのだけど、二人が言わんとしてることはアプローチの方向は違えど共通しているように感じました。


自分的に気になった部分をちょっとまとめてみる。


目次

 

 社会は単なる“なりすまし”

 

まず、二人の話の大前提となっている考え方が二つ。

 

・個人にとってこの社会で生きることはそもそも“なりすまし”に過ぎない。


・真の性愛や猥褻は常にその“なりすまし”社会の外側に位置するものである。

 

大昔に人類は狩猟・採集の生活から農耕・牧畜の定住社会に移行した。


そのような社会においては、共同体を崩壊に導くような個人プレーは制度によって厳格に管理される。安定した生活を維持するには集団を乱すような逸脱は極力排除しなければならない。


しかし、人間には理性もあれば本能もあるので、常に統制のとれた社会の中で生きることに抵抗を感じる人種も当然のように出てくる。


そういった人々の鬱屈を晴らすために昔の共同体が用意したのが、定期的に行われる祝祭だった。自由セックスありのお祭りですね。


制度化された集団の外にガス抜きもしくは生物としての本来性への回帰の場を設けることによって、社会の秩序を保ってきたという長い長い歴史が人類にはある。

 

社会の外側に本当の自分に帰れる場所があるからこそ、人は動物とは異なり理性的な集団生活を営むことができたんですね。


現代でも、スケールの差はあれどそのような浄化の営みは機能していたのです。


ところが、宮台さんが言うには90年代後半のあたりからそのへんの事情が変わってきたという。


社会に100%調和するクソ人間の増加


社会というのはもともと人間の作ったものなのでよく見ればほころびも多いし、テキトーに対処してお茶を濁してしまえばいい事柄も実は多かったりする。
 

だが、近頃は欠陥だらけの世の中に必要以上に同調し、その結果他人への攻撃に走ったり、ストレスから精神を病んでしまう人が増えた。


「性で幸せになれない人間は制度に走る」

「権利の獲得と性で幸せになることを混同する人間が増えた」

 

2つとも宮台さんの言葉なのだが、どちらも同じことを言っている。


社会で最適化できれば自分は性愛においても満たされるという勘違いが多くの人に共通認識になっているということです。


こういう人はどちらかというと男性に多いのではなかろうか。


社会的なポジションをチラつかせることでしか女性を口説く術を知らないおっさんや、相手を物格化することで女性から性愛における表面上の快感だけを得ようとする恋愛工学性も上の最適化人間に該当するだろう。


だが、仮に社会というとんちんかんな枠組みの中で他人を思うがままにコントロールすることができたとして、そんなことに最大幸福を感じてる人間は色んな意味で不自由でありクソですよね。


二人が口を揃えて言ってたことであり、僕自身もあらためてそう思った次第だ。

 

社会に対してベタにならない


二人の話の中で一番に良いなと思った言葉です。


われわれは望むと望まざるに関わらず、今ある社会の中で生存していかなければいけない。毎日働いてちゃんと飯を食っていかなければならない。


でも、だからと言って社会に対して全面的信頼を置く必要はない。なぜなら、いつの時代だって人間性全てを包みこむ完璧な社会なんてなかったかし、たぶんこれからもありっこないからである。


本物の自分は社会の外側にしかいない。
その事実をちゃんと理解している人間だけが時々そこへ出かけて行って自分にとって大事な何かを獲得し、もといた場所に帰ってくることができる。


行きて帰りし物語」のリアルバージョンというわけです。僕はテクニックとかマウンティングなどよりこちらの方が好きですね。

 

*何度も話題に上がったカンパニー松尾さんの作品が非常に見てみたくなりました。今度借りてみます。

*(懇親会も楽しく飲み食いさせていただいた。ありがとうございました。)

 

社会という荒野を生きる。

社会という荒野を生きる。

 

 

 

 

二村ヒトシ/川崎貴子『モテと非モテの境界線』の感想

モテと非モテの境界線 AV監督と女社長の恋愛相談

モテと非モテの境界線 AV監督と女社長の恋愛相談



『モテと非モテの境界線』という対談集を読んだ。


著者(というより対談してる人)は、AV監督の二村ヒトシと、働く女性のサポートを事業の根幹にすえる人材会社を経営する川崎貴子


前者にについては過去に別の著作を読んで書評も書いているので知っていました。



が、後者の存在はこの本を読むまで知りませんでした。出会いに恵まれない女性ってわりと多いんですね。


独身男性として普通に暮らしてる分にはそういった女性の方々とは面白いほどエンカウントしないので、川崎さんがやられているような独身女性向けコンサルティングが需要があること自体新鮮な驚きがありました。


さて内容はというと、二村さんの著作を既にいくつか読んでいる身としては、それほど目新しい要素はないかなと思った。いつも通り、幼児期に形成される「心の穴」の理論を前提に、恋愛市場における男女のマッチングの困難さの確認に多くが割かれている。川崎さんは、自立した女性という立場から男性にありがちなキモい自己肯定を客観的にビシビシ糾弾する役割といった感じか。


二人の対談以外にも現実の独身男性の相談を受けたりと色々やってるのですが、それらを通して結局なにを言ってるのかと言えば、他人基準ではなく自分基準をちゃんと把握した上で恋愛や結婚はした方がいいよ、ということなのだと理解しました。


本書のタイトル通り、世の中にはモテる人と非モテの人の2種類がいることになっていて、パッと見ではその違いは明らかに感じられるのだけど、実際には両者の線引きはそう簡単にできない。なぜなら、「心の穴」への適切な対応が取れてないがゆえに不毛なモテ方をしてしまう人も存在するからだ。はた目には異性に不自由しないように見える人が、内面的には非モテのそれと全く同じ躓きがあるゆえにいつまで経っても自分にピッタリの相手に巡り会えないという事態も決して少なくないのである。


僕は、そのような不毛なモテスパイラルの後にはわりと深刻な女性不信が待っていることは分かっているつもりです。二村さんが理想としているようなお互いの「心の穴」をおざなりにすることのない異性との本来的な触れ合いが実現できれば、金などなくてもかなり幸福度の高い人生を送れるでしょうね。それはもう間違いない。


だがしかし、
それ結構ムズクね?
とも思うのである。やはり。


それができたら話は早いというか、逆にそれができないからこそ、女遊びにハマったり婚活塾で金ふんだくられたりするのではないかと思う次第である。卵が先か鶏が先かという話になっちゃうので恐縮ですが。


でもまぁ、本書でお二方が言うようにベストな恋愛と結婚のあり方ってそれこそ人それぞれなので、理想の恋愛のあり方を言葉で定義しようとしてる自体マニュアル思考に陥っている証左なのかもしれません。やっぱ難しいわ。


以上、簡単な感想でした。

乳酸菌入りチョコレートの登場が意味するもの

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少し前にロッテが「乳酸菌ショコラ」という商品を出した。


「チョコを食べながら栄養素を摂取できるなんてなんだか得した気分〜♪」


これは友達の女の子の発言(彼女は決してバカじゃない。ただ幸せを感じやすいだけ)。僕も確かにそうだなぁと感じてそこで話は終わったのだが、よくよく考えてみるとこれって大多数の人が考えている以上にエポックメイキングな出来事のような気がしてきた。


そもそも、開発者を除いてチョコレートに乳酸菌を入れることを望む人がこの世界に果たして何人いただろうか。


僕から言わせれば、チョコレートというのは嗜好品の王様みたいなもので、食べることによってその無駄な「甘さ」を味わうことさえできれば特に他の見返りは求めない。だから「乳酸菌はチョコで摂る時代」というキャッチフレーズに対しては、お得感以上に余計なことすんなよなという思いの方が強かったりする。


まぁ、乳酸菌が入った分甘さ控え目などといった酷な話ではないみたいなので味が良ければそれでいいとは思います。


ただ、既存のものに何らかの付加価値を与えてお得感を演出し、消費者の購買欲求に火を点けるこうした流れはあらゆる商品についても既に生じている。小説や漫画で言えば、「もしドラ」以降に目立つようになった「物語」+「何らかの専門知識」という作品群がそれに当たるだろう。


「物語」というのも単体では実生活では何の役にも立たない知識の集積だ。だが、そこに「マネジメント」とか「経理」とか「農業」とか「恋愛工学」とかすぐに役立つ情報を盛り込むことで読者にそれを読む理由を与えてやる。錯綜する情報化社会に生きる今の大衆にとって、消費の理由こそ最も欲しいものである。多くの人間は自分の欲望が正確に分かっていないから。その内、小説だけでは飽き足らず「詩を読むことは脳にいい」なんてトチ狂った主張が出てきても自分はそれほど驚かないと思う。


だってもうチョコにまで来たんだぜ、それが。チョコは甘い。無駄に甘い。ただ甘いだけ。それで十分だったはずなのに。


世の中の呼吸がどんどん浅くなっていく。


チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)

チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)

壇蜜の小説家デビューについて


壇蜜さんが小説を書いたんですね。
タイトルは『光ラズノナヨ竹』



前にも書いたけど、新人賞という正規のルートで小説家として出発するのではなく、あらかじめ小説とは異なるジャンルで知名度を得た人物が新人作家としてデビューするという仕組みは今後ますます主流になってくるだろうと思う。


僕はこの流れをそれほど悪いものとは思っていません。


これまでと比べて小説の質そのものは下がるかもしれないけれど、それでも年寄りとワナビーしか読者のいない今の純文よりはマシなんじゃなかろうか。


というわけで、今度の壇蜜さんの小説も時間があったら目を通してみたい。遅ればせながらオール讀物を図書館で読もうかな。


全くの予想でしかないが、壇蜜さんの小説デビュー作は小説好きの人間が読んでもある程度満足できるものである気がする。これは、ただ単に藤沢周の小説の彼女の解説をチラッと読んでなんとなく良い感じだったからというだけの理由である。


でも、この人はテレビでの発言などを見ている限り、大衆に簡単に消費されない素質を持っている印象を受けます。文庫で出ている日記も日常のことであるのにどこか精神的に逸脱している感触があって魅力的だ。


元々グラビアで出てきて、年上女性のエロスを武器に新境地を開いたけれど、最近はそっち方面の活動は抑え気味で後続の橋本マナミなどに譲っているようです。「セクシーはお譲りします」という発言もニュースになってましたね。


何よりも事務所の売り出し方が上手だったのと、彼女の持つ知的な印象が同性をも惹きつけたというのが大きかったのだろうなぁ。


なにはともあれ、注目の人物が小説を書くというのは良いことだ。今後も時間が許せば芸能人が書いた小説はチェックしていこうと思う。

壇蜜日記2 (文春文庫)

壇蜜日記2 (文春文庫)

古さを感じさせない時間術の名著/アーノルド・ベネット『自分の時間』

自分の時間 (単行本)

自分の時間 (単行本)



アーノルド・ベネット『自分の時間』を読みました。


100年以上前にイギリスで出版された時間術の本で、著者は英文学史に名を残す小説家アーノルド・ベネット。


このたび装いを新たに再刊されたとのことで、書店の自己啓発本の棚のなか、違和感なく他の本と肩を並べています。


文芸というふわふわしたものが好きな人間としては、生き方のコツについても経営者やスポーツ選手の書いたものではなく、小説家の書いたものから学びたかったりします。本書を手に取ったのもそんな浮ついた理由からなのですが、実際に読み終えてみて、思ったより真面目に自己啓発をやっていたので少し驚きました。でも、結果的には読んで良かった。そこはさすが小説家。目に見える形での自己実現のみならず、自分の内面の基準に背くことなく充実した人生を送るための具体的なアドバイスが親切に書かれています。

最も多産な、しかも最も質の高いものを書きつづけた作家が、コーヒーなどを飲みながら、気安くそのやり方を語っているといった感じがある。


訳者の渡部昇一(『知的生活の方法』の人だ!笑)は解説のなかで本書の印象をこのように述べています。
僕も本書を読んで同じことを感じました。ページを繰っていると、静かに机に向かって文章を綴っている著者の姿を活字の向こうに思い浮かべることができる。
100年以上残る本というのは、やはり独自の品格があるものです。


1日の中に自分のために使う別の1日を設定する

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充実した完全な1日を送りたいと思ったら、頭の中で、1日の中にもうひとつ別の1日を設けるようにしなければならない。 p59


これが、本書で語られる時間術の大前提となる考え方です。ベネットの時間術は24時間のうち、労働の時間(8~9時間)には重きを置かず、仕事から解放される夜から次の日の朝にかけての時間を有意義に活用することを目指しています。


僕は現在会社員として労働力を売っていますが、たとえ仕事を一生懸命がんばったとしても出世や収入アップには直結しない環境に身を置いています。いわゆる名ばかりの正社員というやつです。元気なうちはまだいいけれど、何の打開策も講じずに毎日をテキトーにやり過ごしていたら、きっとどこかの段階で限界がくるだろうことは、まぁ薄々想像がつくわけです。だからそうならないためにも、プライベートの時間を有効活用して資本主義社会の中で評価される自分の価値を生み出し、さらに磨いていく必要があると今は考えています。


その意味で、本書の推奨する時間術は僕のニーズを満たしており、痒いところに手の届く内容でした。


労働時間以外の15時間を使い倒す


1日の内3分の1の時間を労働に奪われるなら、残りの3分の2で自分にとっての本当の人生の仕事に打ち込めばいいとベネットは言います。
会社員は平均で朝8~9時頃から夜の18時~19時くらいまで会社に拘束されるので(もちろん残業がないとして)、翌日再び会社に足を運ぶまでに大体15時間ほど自由な時間が残されています。それも毎日! 8時間を睡眠に使ったとしても7時間残るのでそこから食事や入浴などの時間を差し引いても、4時間ほどは手つかずで残るでしょう。どうですか? 意外に時間って余るもんでしょ。実際にはこの計算通りにいかない日も多いかと思いますが、帰宅して夕食べたら「あ~今日も終わった」と言って寝るまでの時間をダラダラ過ごすのと、会社の建物から出た瞬間に本来の1日が始まるという意識を持ち、就寝までの時間を無駄にせずに過ごすのとでは、長い目で見た場合大きな違いを生むことは明らかです。


さらに、自由な時間の中での生産性を高めたいなら、早起きすることが一番だとベネットは書いています。脳が疲れていない朝の1時間は夜の2時間に匹敵するのです。
僕自身、夜の時間はこうしてブログの文章を書いたり、本を読んだりして過ごしていますが、朝の時間は何かしらの勉強に当てるようにしています。疲れた状態の頭では思うように進まなかった問題に、朝全快した頭で再度挑戦してみるとすんなり解けてしまうことは往々にしてあります。朝の脳みそというのは、わたしたちが考えている以上に戦闘力が高いのです。


読書を役立てたいなら詩を読め


「効果的な読書」について書かれた章についても一言触れておきます。
読書で利益を得たいならば、何よりもまず詩を読むべきだとベネットは言うのです。逆張りだなぁ。笑

詩は最も崇高な喜びを与えてくれると同時に、最も深い知識を授けてくれる。要するに、詩にまさるものはないということだ。ところが、残念なことに、大多数の人は詩を読まない。
p130


ちまたに溢れる意識高めな本にはまず書かれていないであろうアドバイスだったので、意表を突かれたと同時に、普段から小説、詩、哲学など、実社会では無用とされてる書物ばかり読んでる身として少し勇気づけられました。


最後に、本書の中で一番グッときた一節を引用して終わります。

バランスのとれた賢明な1日を過ごせるかどうかは、ふだんとは違う時間に、たった一杯のお茶を飲めるかどうかにかかっているかもしれないのだ。 p24