そのイヤホンを外させたい

「禁止」と「侵犯」の哲学ージョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』


人間の性と死の臨界を探る途方もない試みがここにある。


それまでの哲学者が暗黙の了解で目を背けてきたことを全部俎上に乗せて解剖を試みている。


ところどころにニーチェの影響が見受けられ、バタイユがこの哲学者に心底惚れこんでいたのがよく分かる。思想の根幹の部分にもいかにもニーチェ的な転倒、倒錯の考え方が応用されている。


男女の性にまつわる事柄は、なぜわれわれをこれほど強く魅了するのか。そんな素朴な疑問をもって読み進めていくと腑に落ちる箇所が多い。


バタイユによれば、人間の性は「禁止」と「侵犯」の概念を当てはめることで説明がつく。


大昔、人間は動物的な本能に支配された自然状態の中で生きていたが、次第に親族間での性行為や婚約、排泄物やそれにまつわる身体の器官、女性の経血などの自身の動物性そのものを忌み嫌い否定するようになった。その結果生み出されたのが、「禁止」である。


しかし、人間はそれによって完全には自然と決別できなかった。「禁止」は、理性の世界の構築のために隠蔽された秘めやかな部分(バタイユの言葉では「呪われた部分」)に、それまでになかった神秘性、魔性を付与した。規範的な世界に生きる人間はその魅惑に抗うことができず、「禁止」のルールを破り、元いた自然状態に帰還しようと欲する。これが「侵犯」である。「侵犯」は、かつて自分たちの意思で動物性を否定して得た世界をさらに否定するという二重の否定であり、こんな天邪鬼的な複雑なことをするのは地上で人間だけである。


そして、「禁止」→「侵犯」という一見無駄にしか見えないあまりに人間的なプロセスは、新しい価値をわれわれにもたらした。「禁止」の「侵犯」を経て人間が立ち戻った自然は、前の自然とは似ているようでいて全く本質の異なる聖なる力を帯びた「何か」に変わっていた。その「何か」こそエロティシズムなのであり、それは動物性の対極に位置する至高の内的経験なのである。


自分は、女性とのセックスの際に卑猥な発言をしたり、いつの日か唐突に訪れる死に怯えたりすることが、自分にとってあるまじき恥辱だと感じることが多くあるのだが、この本を読んで、自分は甘ちゃんだと感じた。まだまだ性と死に対する嫌悪と恐怖が足りていない。もっともっと恥ずかしがったり怯えたりするべきなのである。過剰なほどに。なぜなら、バタイユによれば人間の生きる目的は過剰に消費することでしかないからだ。一番やってはいけないのが、そこに存在するものをないものとして目を背けることである。


そういった意味において、バタイユのこの本は、人間の性と死のめくるめく連なりを深くつぶさに追っていくための免罪符の役割を果たしてくれると言える。