そのイヤホンを外させたい

虚無のゆくえ/ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)


19世紀末、貿易会社勤務の水夫マーロウは、派遣されたアフリカ奥地の出張所で川の上流に位置する最深部の出張所をあずかるクルツという人物の不可解な噂を聞くにおよび、彼を探すため船で川をさかのぼっていく。


ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』の物語の大筋はエンタメ小説のそれのように単純だ。


事実、作者コンラッドは長らく冒険譚やメロドラマを得意とする海洋小説家として知られており、彼の作品に対する文学的評価は後になってからついてきたものだった。僕は本作の後にコンラッドの短編作品もいくつか読んでいるのだが、そちらはモーパッサンの作品に冒険とロマンスの風味を加えたような、一般受けする、良い意味でも悪い意味でも隙のない作品が多い。


しかし、この『闇の奥』に関しては僕はすんなり読むことができなかった。読んで最初に持った印象は、その語りの捉えどころのなさだ。


マーロウが、アフリカ奥地での体験を時に観念的な言葉を織り交ぜながら滔々と語るという形式、これは作品構成の観点から見れば杜撰と言われても仕方がない。


だが、まるで一夜の悪夢を思わせる歪で不穏な空気が作品全体を包んでおり、文明の光の届かない未開の土地に対する根源的な畏怖の念と、その最深部にいるクルツという謎の人物の神秘性を否応なく高めてくれる。なにやら、抜き差しならないものを読まされているという興奮があるのだ。


でも、現代の読者は「未開の土地に対する根源的な恐怖」と言ってもピンとこないのではないかと思う。


コンラッドの生きた時代には、今とは異なり、世界地図の中にまだ文明人が足を踏み入れたことのない空白の領域が多く残っていた。

ところで、僕は子供の時分から、大変な地図気狂いだった。何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、濠州の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。中でも特に僕の心を捉えるようなことがあると、(いや、一つとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとその上に指先をおいては、そうだ成長(おおき)くなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。 (p17より引用)


男の子ならば一度は持ったことがあるであろうまだ見ぬ外の世界への憧れと情熱をマーロウは持っていた。クルツに関してもそれは同様だ。


そのようなピュアな心性が、列強による帝国主義、植民地化政策、土地の先住民に対するヨーロッパ的倫理観の押しつけ、という国家的イデオロギーと重なった時、末端にいる個人の内面に決定的な分裂が生じる。その結果として、事切れる前のクルツが発する有名な言葉、「地獄だ! 地獄だ!」(原文では「The horror! The horror!」)はあるのではないか。


僕は、過去の文学作品を読む際には、文学史的な意味合いにおける作品の評価とは別に、今ここにある自分がその作品を読む意味について考えを巡らすことをなるべく心掛けている。キツいけど。


確かに、今や世界地図の中に空白はなく、コンラッドが描いたような神秘の暗黒大陸は姿を消した。帝国主義や植民地化政策という歴史教科書的なキーワードにしたって、今の自分が当事者性を持つことはなかなか難しい。


しかし、上に書いたような国家をはじめとした権威的な何かと個人の理想の関係性は、世界地図の白紙の部分が消失したことによって今まで以上に錯綜してきたのではないかと思う。


インターネットやSNSの発達によって、多くの個人がいつ何時でもつながることができるようになった。今後は多様な社会が訪れる、と楽観的なことを言う人もいる。


しかし自分の周りを見回してみると、人々は他者の振る舞いに対してより非寛容的になり、移民を排斥し、一昔前の家族や親戚、地域共同体にあった相互扶助の関係性も機能停止の状態にあると思う。


結局、アフリカの最深部でクルツが眺めた虚無が世界全体に拡大し、彼が経験したと同じ孤独と諦観を僕らが日常的に味わうようになった。ただ、それだけの話なのではないだろうか。


現代のクルツは、一人部屋に引きこもってスマフォの画面を眺めて言う。


「地獄だ! 地獄だ!」