そのイヤホンを外させたい

「海」は異質な何かを運んでくる。/ジョゼフ・コンラッド『エイミー・フォスター』

前回の『闇の奥』に続き、コンラッドの短編作品を読んでいた。

コンラッド短篇集 (岩波文庫)

コンラッド短篇集 (岩波文庫)


本書には全部で6つの作品が収録されているが、その内の5つは「政治小説家」、「歴史小説家」としてのコンラッドを特徴づけるようなラインナップになっている。


もともと血湧き肉躍るような冒険小説や犯罪小説が好きなこともあって、それらの作品たちも十分楽しく読めたのだが、全て読み終えてから、さて、どれが一番印象に残りブログで言及したくなったか、というと、それは意外にも作品の装飾としては最も地味な『エイミー・フォスター』だった。


僕は、休日にキャンプや海水浴に行くような行動派ではないものの、文芸作品に描かれる「海」が好きだ。


コンラッドは言わずと知れた「海」の作家だから、作品内にそれが登場するのは何ら珍しいことではない。しかし、『エイミー・フォスター』に描かれる「海」は際立って魅力的に感じられる。


海辺の田舎町にエイミー・フォスターという、これといって特徴のない、どちらかというと鈍臭いタイプの女性が暮らしている。自身が可愛がっていたオウムが猫に襲われていても助けることができず、ネズミ捕りにかかったネズミを見ても泣き出してしまうようなエイミーの日常は、奉公先である農園とそこから歩いて行ける場所にある実家までの範囲に限られていて、彼女自身そのことを不満にも思っていない。そんなエイミーが、嵐による船の難破によって浜に流れ着いた言葉の通じない異邦人、ヤンコーを助けたことがきっかけで激しい恋に落ちる。


短い話だし、今後何かの機会に読む方もいるかもしれないので、本作の悲劇的な結末についてはこれ以上は触れないでおく。


ただ言えるのは、何か異質なものを不意に連れてきて、その偶然性、または必然性については沈黙を守り、ただ存在することによってのみ目の前の出来事を肯定し、最終的にはその全てを包摂する「海」の優しさと峻厳さの相反するイメージは、コンラッドの小説を読み解くにあたって重要な要素であるように僕は思う。


異郷の地で言葉の通じないヤンコーは、ポーランド人でありながら二十歳を過ぎてから英語を学び英語で小説を書いた作者自身の境遇に通じるものがある。コンラッドにとって、「海」は自分と他者の間を決定的に隔てるものであると同時に、国籍や言語の違いを超越した共通理念としてあったのかもしれない。


僕自身の中の特別な短編小説フォルダに、また一つ作品が加わりました。


*『エイミー・フォスター』はレイチェル・ワイズ主演で映画化しています。原作とは設定が異なるものの、作品内に登場する海と自然がとても綺麗です。おすすめ。

輝きの海 [DVD]

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