『源氏物語』を読む2〈澪標〉~〈藤のうら葉〉
与謝野晶子の源氏物語〈中〉六条院の四季 (角川ソフィア文庫)
- 作者: 与謝野晶子
- 出版社/メーカー: 角川学芸出版
- 発売日: 2008/04/01
- メディア: 文庫
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小説家の角田光代さんによる新訳が刊行されたり、27時間テレビで短いドラマが放送されたりと、なにかと話題の『源氏物語』。自分はオーソドックスに与謝野晶子訳で読んでいます。
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さて、物語も中盤を過ぎて若い頃はプレイボーイで通っていた光源氏も人の親になる。
独立した物語、「玉鬘十帖」
〈乙女〉の巻以降、源氏と亡き葵の上の息子である夕霧や悲劇の人夕顔の忘れ形見である玉鬘が登場し、物語をけん引していく。〈玉鬘〉から〈真木柱〉のいわゆる「玉鬘十帖」がここでの大部分を占めています。
「玉鬘十帖」はそこだけ取り出しても物語として成立するほど綺麗な構成になっている。そのためか、メロドラマとして出来過ぎな感じがして現代の読者としては逆に物足りなく感じた。
でも『更級日記』の作者を代表とする当時の文学少女たちは、玉鬘のシンデレラストーリーをきっと自分事のように熱心に読み進んだはずで、そう考えると、本作の中でも欠かせない部分と言えるかもしれない。
紫式部の小説観が垣間見える〈蛍〉
梅雨が例年よりも長く続いていつ晴れるとも思われないころの退屈さに六条院の人たちも絵や小説を写すのに没頭した。
〈蛍〉の巻の好きな一節です。
この章では作者紫式部の小説観が光源氏の言を通じて間接的に語られています。
光源氏は近頃どこの御殿に足を運んでも散らかっている小説類に半ば辟易した体で玉鬘に嫌味を言うが、それでいて最終的には小説の存在を肯定している。
小説には架空のことが書かれている。しかし、人間の美点と欠点が誇張されて書かれているのが小説だと考えるなら、その全てが嘘であると断言することはできない。
仏教のお経の中にも方便が用いられるように、小説の中には善と悪の両方が余すところなく描かれている。だからこそ、読む側に真実が伝わる。
このようにに考えれば、小説だって何だって結構なものだと言えるのである。
何だか漠然としていていまいちよく分からないのだけど、作者紫式部が小説に対して非常に大らかで視野の広い考えを持っていることが分かります。
六条院を夕霧と共に歩く〈野分〉
今回読んでいて、読者としての自分と最も距離が近いと感じた登場人物は光源氏の息子夕霧だった。
光源氏と亡き葵の上の息子である夕霧は父親に勝るとも劣らない美貌を持ちながらも、その恋路はなかなかうまく事が運ばない。
光源氏は若い時分の自身の過ちと同種の事態を息子が引き起こさないように、裏から夕霧の行動や進路をコントロールしようとする。
夕霧は父親の考えに逆らうこともせず着実に位を上げ、忍耐の末、一度は拒まれた幼馴染雲居の雁との結婚も果たす。
光源氏の青年時代が華やかだったの比べ、夕霧のそれは地味で味気ないものに見える。
〈野分〉は、暴風が吹き荒れる日に六条院のハーレムを訪れた夕霧が、偶然光源氏の正妻である紫の上の顔を目撃して心乱される場面から始まり、彼の目を通して花散里、玉鬘、明石の姫君など、父親が囲っている女性たちの姿を順番に描いていく。
この章は素晴らしいなぁと思いました。
登場人物それぞれの営みと関係性の輪郭が夕霧の視線を通じて粛々と描かれる一方で、外では暴風が吹き荒れている。そのコントラストが何とも言えず良い。青春を描いた短編の傑作だと思いました。この部分だけでも何度も読み返したくなる。
続きを読んだらまた感想を書きますね。
ノロノロしたペースで申し訳ないです。
余談ですが、僕は古文の知識に乏しいので与謝野訳でも主語が分からないことが多々あります。「あれ、内大臣って今誰だっけ?」みたいな感じで。
以下のサイトで各巻のあらすじを見ることができます。分かりやすくまとまっており度々お世話になりました。