【書評】海原育人『ドラゴンキラーあります』
一昔前のラノベ。シリーズ全3巻完結。
1巻目の『ドラゴンキラーあります』はリアルタイムで読んで面白かった記憶があり、先日ブックオフで続編の『ドラゴンキラーいっぱいあります』、『ドラゴンキラー売ります』を見つけたので買って読み切った。
他レーベルの人気作に比べて当時それほど話題にならなかった本作だが、久しぶりに読んでみると古き良きラノベといった感じで普通に良作である。
竜の肉を食べて超人的な身体能力を獲得した人間=「ドラゴンキラー」とするシンプルな設定とハードボイルドな世界観の相性が良い。ニヒルな主人公と他登場人物の軽妙な掛け合いもグッド。あとがきを見るにかなりタイトな執筆スケジュールだったらしく、最後駆け足で終わってしまった感は否めないが、それはある程度仕方ないだろう。
本作を出したC★NOVElS大賞は正統なファンタジーとして緻密な世界観を持った作品を多く輩出しており、なかなか良い仕事してたよなと今更ながら思う。
アニメ化はしなかったけど忘れられつつある名作として、ここに軽くメモっておきたい。
【書評】ファン・ジョンウン『誰でもない』
初の韓国文学。
向こうで話題の作家の本邦初訳ということで、「韓国って位置は隣だけど小説はこれまであんまり意識してこなかったからなぁ。一体どんな感じだろう」とドキドキした気持ちで本を開いた。
この作品群における作者の問題意識というのは明白である。朝鮮戦争の爪痕がいまだに残り、90年代以降に本格化した格差社会の中で個人としての本来性を喪失し、本のタイトルにあるように「誰でもない」交換可能な存在として生きざるを得ない人々の、経済的にも精神的にもどこか心もとない不穏な日常を様々な視点から切り取っている。
確かに、「文学を通じて社会を描く」という点では作者の優れた嗅覚と批判精神は評価されてしかるべきだ。しかしながら、日本文学を読み慣れているものにとっては、それだけではいささか不満が残る。
日本においては、戦後から現在に至る長い時間を通じて、他の国には当然のようにある文学と社会のシンプルな関係、いわゆる「政治と文学」が機能不全を起こし続けてきた。なぜなら「文学を通じて社会を描く」というのは、成熟した近代社会において初めて可能だからであり、その成立条件をいくつかの点で決定的に満たしていないこの国においては、作家がそれをベタに試みたとしても永遠にキャンセルされ続けてしまう陥穽がある。
そのため、日本の作家は「文学を通じて社会を描く」ことについてある種の躊躇いを抱きがちである。だが、その前提があったからこそ、現代日本文学は世界の中でも例がないような先進性、多様性を獲得することが可能になったと僕は思っている。
以上のような事情を踏まえた上で本作を読むと、社会派文学として優秀なことは否定しないが、かつてのラテンアメリカ文学のような、現代日本の文芸シーンに波紋を呼ぶような異物感は存在しない。そういうものを期待していただけに読む前にハードルが高くなり過ぎていたのもあるかもしれない。
ともあれ、韓国文学をまだ1作しか読んでないので本書のみで全体を語ることはできない。機会を見つけて、他作品も読んでいきたいと思う。
アニメを通じて戦後日本の思想的陥穽を浮き彫りにする/宇野常寛『母性のディストピア』
2017年は、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』や國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』など、有名どころの批評家、哲学者の著書が立て続けに刊行され、人文書としてはまれに見る豊作の年だったらしい。
そもそも、一度冷静になって考えてほしい。
この国のあまりに貧しい現実に凡庸な常識論で対抗することと、宮崎駿、富野由悠季、押井守といった固有名について考えることと、どちらが長期的に、本当の意味で、人類にとって生産的であろうか。想像力の必要な仕事だろうか。
安倍晋三とかSEALDsとかいった諸々について語ることと、ナウシカについて、シャアについて語ることのどちらが有意義か。答えは明白ではないだろうか。
何もかもが茶番と化し、世界の、時代の全てに置いていかれているこの国で、現実について語る価値がどこにあるというのだろうか。いま、この国にアニメ以上に語る価値のあるものがどこにあるのだろうか。(p9より引用)
一見現実逃避的な主張から始まる本書だが、実際には戦後アニメという特異な表現形式について徹底的に思考を深めることによって、戦後日本社会が陥った袋小路の構造を暴き、それについての処方箋となるような想像力のヒントを模索するという意図のもと書かれている。過去の著者の本の中では最も社会的、政治的な問題意識を含んでいる。
「母性のディストピア」とはなにか。それは、戦後この国が一貫して陥ってきた思想的陥穽を指す。自分を無条件に承認してくれる「母」の膝の上で甘えながら「父」になることを夢見続ける未成熟な少年の似姿としての社会、矮小な父性と肥大した母性の結託によって近代社会としての成熟を永遠にキャンセルし続ける絶望的な状況を著者はそう呼び表す。
本書の大部分は、その「母性のディストピア」にそれぞれの戦略で対峙した宮崎駿、富野由悠季、押井守の3人のアニメ作家の代表作を論じている。
僕は熱心なアニメファンではないので、各作品の分析の妥当性についてははっきりしたことは分からないのだけれど、少なくとも著者の論旨は終始明快であり、門外漢である自分でも興味をそそられる内容だった。
本書の記述には政治と文学、公と私、現実と虚構、生活と芸術、映像の世紀とネットワークの世紀、冷戦の時代とテロの時代、市場とゲーム、「アトムの命題」と「ゴジラの命題」などなど、二項対立の図式が多く用いられ、著者の提示する世界認識を説得力のあるものにしている。
こうした割り切りの良さ、バッサリ感は、『リトルピープルの時代』や『ゼロ年代の想像力』にも少なからずあった特徴で、評論家としての欠点、弱点を同業者から指摘されつつも、東浩紀以後の数少ない集客力のある論客として著者が一定の読者を獲得している理由でもある気がする。一昔前の文芸批評にあったような時代と並走する感じが著者の批評文にはある。
ただ難点をあげるなら、ネットワークの世紀、拡張現実の時代に突入した後の世界における虚構の可能性として「ゴジラの命題」の有効性を指摘し、『シン・ゴジラ』における世界を情報の束として解釈する80年代から90年代前半のオタク的知性の復権を叫んでいるのには少し違和感を持った。
これは、僕自身が『シン・ゴジラ』に全然乗れなかったというのがまずあるのだけど、錯綜するネットワークの世紀、テロの時代を超克する想像力のヒントがあの映画にあるようには思えない。逆に自分は『シン・ゴジラ』に関して庵野秀明のアニメ監督としての思想的退行を見た思いがした。
また、最後に著者が提唱する「中間なもの」についてもう少しページを費やして説明が欲しかった。たぶん、この思想は東浩紀の「観光客」や國分功一郎の「中動態」と共鳴する時代的な要請だと思うので、ぜひ次作でその可能性について詰めてもらいたいと思った。
やたらと実効性ばかりを問われる昨今において徹底的にアニメについて考え続け、より良きものを探る、という著者のブレない姿勢に励まされました。
【感想】窪美澄『ふがいない僕は空を見た』
窪美澄『ふがいない僕は空を見た』を読んだ。
第8回 女による女のためのR-18文学賞大賞受賞の短編『ミクマリ』を含む5つの連作短編集である。
賞の性質に沿って性を前面に押し出した内容ではあるが、官能小説のようなセックスへの耽溺を露骨に描くのではなく、子供から大人までそれぞれの語り手が自身と切っても切り離せない「付属物としての性」をもてあます様子が多角的に描かれている。
近年女性が書く性愛小説が多く刊行され1つのジャンルとして成立しつつある。R18文学賞はその先駆けだといっていい。
僕は個人的にそういった風潮はありだと思っている。しかし、もともと性愛小説というのはかなり保守的なジャンルでもあって誰が書いても似通った内容になりがちである。特に書き手が女性だとどうしても耽美に傾くきらいがある。
その点、この小説の作者は性に対してフェアな視線を全編を通じて保ち得ていると感じた。語り手それぞれの年齢や立場に合わせた飾らない言葉で性の本質に迫ろうとする姿勢に好感を持った。
タナダユキ監督による実写映画も良かった。他作品も読むかもしれません。
『ゲーム・オブ・スローンズ』の中毒性について思うこと
毎晩1〜2話のペースで海外ドラマの『ゲーム・オブ・スローンズ』を観ている。
事前に評判は耳にしていたからある程度面白いだろうことは分かっていたのだが、実際に観始めるとその期待値をやすやすと超えてくる感じでキレーにハマってしまった。あと少しで第2シーズンが終わる。まだ未消化分が多くあることが嬉しい。
本作の特徴としては、エロスとバイオレンスの二つの要素が挙げられ、20分に1度くらいの頻度で女性の裸体や血なまぐさいシーンが挿入される。性と暴力は作品全体にとって欠かせないスパイスになっている。
ふと思ったのは、本作が放送開始した2011年はアメリカでは長期に渡ったイラク戦争がようやく終結を見た年でもある。大規模な戦闘自体は早い段階で決着していたものの、米軍の完全撤収までには結局開戦から10年あまりの年月が費やされた。
本作における性と暴力の描写は、それがファンタジー世界のこととはいえ、かなりリアルに現実の戦争を視聴者に想起させるものだ。日本人の自分でもそう感じるのだからアメリカ人はなおさらである。
アメリカという国が凄いと感じるのは、普通長期に渡る戦争がようやく終わる頃って、国全体に「もう戦争はゴリゴリ」という厭戦ムードが高まり過激な暴力描写の含まれる作品は忌避されるんじゃないかと思うのだけど、現実には全然そうならなくて、他国との戦闘と国民の日常生活が完全に分離されているように見えることだ。これって日本だったら考えられない現実認識のあり方だよなぁと思う。この割り切りの良さにアメリカという国の良いところと悪いところ両方がある気がした。
国のことから作品そのものの面白さに話を戻す。本作を観始めたら途中で止まらなくなって一気に最新のものまで観てしまったという人は多いのではないだろうか。『24』をはじめ海外ドラマってそういった中毒性がある作品が多い。
ドラマではないけれど、僕がここ最近で同じような中毒性を感じたのは漫画の『キングダム』である。この作品も読んでいると一種のトランス状態になってきてあっという間に最新巻まで読んでしまう。
純粋な意味での「面白さ」で見た場合、『ゲーム・オブ・スローンズ』と『キングダム』はエンタメ作品として現時点で行けるところまでは行った作品ではないかと思う。自分の好きな小説は、それが純文学にしろ大衆小説にしろ、この二つの作品と同じ土俵で戦う限り勝つことは難しいだろう。
さらに言えば、ひと昔前までは映像作品はテレビがある家でしか観ることが難しかった。だから、持ち運びが容易な小説と棲み分けができていたけれど、今はスマフォが普及したので場所の制限なく気軽に映画、テレビ、ゲームを楽しむことができる。それらは視覚効果に優れ、なおかつ取っつきやすいので、娯楽としての小説の立場は今後もっと危うくなるだろう。
しかし、『ゲーム・オブ・スローンズ』のような現代のエンタメ作品のチャンピオンが提供する類の「面白さ」は、今の世の中においてそれほど稀少なものではなく、程度の差こそあれ市場に溢れ返っている。だから、単純な意味での「面白さ」に対する消費者の期待値はむしろ下がっているような気もする。「面白さ」だけではもう足りない、と感じる消費者のニーズが今後生まれてくる可能性はあると思う。
「面白い」の飽和がもたらすのが、消費者による「面白い」の再定義または多様化であるとするなら、文芸は最もその欲望の変化に対応できる表現形式だと自分は思うのだけど、どうでしょうか。
純粋な楽しみとして観始めた作品だけど、予想外に色々と考えさせられました。
上田秋成『雨月物語』の感想
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子供の頃、実家の祖母が亡くなったすぐ後に生前から祖母と親しくしていた親戚のおばさんが、夜更け家族が寝静まったあと寝室に隣接する木の廊下を誰かがゆっくりギシギシと歩く音がする、きっと亡くなった祖母に違いない、という話を祖父にしていた。
今となっては眉唾な話だなぁと思わなくもないけれど、とにもかくにも、自分にとって『雨月物語』というタイトルが持つイメージはそういった原初的な恐怖と密接に結びついていた。
だがいざ作品を読んでみると、そこには確かな理性の光があり、作者上田秋成の意図が前面に押し出されているように感じられた。
作品中に描かれる怪奇的な出来事は、登場人物の世界に対する執着、怨念のようなものを原動力として起こるわけだが、その背後には作者上田秋成の閉鎖的な封建社会に対する嫌悪と反発の感情がある。
解説によれば、秋成は自身の物語論の中で物語を「いたづら言」、「あだごと」と定義し、それがつまらないもの、無意味なことであるがゆえに作者の意図、現実に対する批判を注ぎ込むことができるという考えを展開したらしい。
自分にとって、上記のような作者の意図によって『雨月物語』が執筆されたという事実はまず純粋な驚きだった。
怪異譚としての魅力もさることながら、切れ味の鋭い社会批判にもなっている。想像と現実、対極に位置する二つのものをその拮抗状態を維持しながら一つの作品の中に共存させている秋成の手腕に物語作家としての理想の姿を見た思いがした。
『源氏物語』を読む2〈澪標〉~〈藤のうら葉〉
与謝野晶子の源氏物語〈中〉六条院の四季 (角川ソフィア文庫)
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小説家の角田光代さんによる新訳が刊行されたり、27時間テレビで短いドラマが放送されたりと、なにかと話題の『源氏物語』。自分はオーソドックスに与謝野晶子訳で読んでいます。
前回の記事はこちら↓
taiwahen.hatenablog.com
さて、物語も中盤を過ぎて若い頃はプレイボーイで通っていた光源氏も人の親になる。
独立した物語、「玉鬘十帖」
〈乙女〉の巻以降、源氏と亡き葵の上の息子である夕霧や悲劇の人夕顔の忘れ形見である玉鬘が登場し、物語をけん引していく。〈玉鬘〉から〈真木柱〉のいわゆる「玉鬘十帖」がここでの大部分を占めています。
「玉鬘十帖」はそこだけ取り出しても物語として成立するほど綺麗な構成になっている。そのためか、メロドラマとして出来過ぎな感じがして現代の読者としては逆に物足りなく感じた。
でも『更級日記』の作者を代表とする当時の文学少女たちは、玉鬘のシンデレラストーリーをきっと自分事のように熱心に読み進んだはずで、そう考えると、本作の中でも欠かせない部分と言えるかもしれない。
紫式部の小説観が垣間見える〈蛍〉
梅雨が例年よりも長く続いていつ晴れるとも思われないころの退屈さに六条院の人たちも絵や小説を写すのに没頭した。
〈蛍〉の巻の好きな一節です。
この章では作者紫式部の小説観が光源氏の言を通じて間接的に語られています。
光源氏は近頃どこの御殿に足を運んでも散らかっている小説類に半ば辟易した体で玉鬘に嫌味を言うが、それでいて最終的には小説の存在を肯定している。
小説には架空のことが書かれている。しかし、人間の美点と欠点が誇張されて書かれているのが小説だと考えるなら、その全てが嘘であると断言することはできない。
仏教のお経の中にも方便が用いられるように、小説の中には善と悪の両方が余すところなく描かれている。だからこそ、読む側に真実が伝わる。
このようにに考えれば、小説だって何だって結構なものだと言えるのである。
何だか漠然としていていまいちよく分からないのだけど、作者紫式部が小説に対して非常に大らかで視野の広い考えを持っていることが分かります。
六条院を夕霧と共に歩く〈野分〉
今回読んでいて、読者としての自分と最も距離が近いと感じた登場人物は光源氏の息子夕霧だった。
光源氏と亡き葵の上の息子である夕霧は父親に勝るとも劣らない美貌を持ちながらも、その恋路はなかなかうまく事が運ばない。
光源氏は若い時分の自身の過ちと同種の事態を息子が引き起こさないように、裏から夕霧の行動や進路をコントロールしようとする。
夕霧は父親の考えに逆らうこともせず着実に位を上げ、忍耐の末、一度は拒まれた幼馴染雲居の雁との結婚も果たす。
光源氏の青年時代が華やかだったの比べ、夕霧のそれは地味で味気ないものに見える。
〈野分〉は、暴風が吹き荒れる日に六条院のハーレムを訪れた夕霧が、偶然光源氏の正妻である紫の上の顔を目撃して心乱される場面から始まり、彼の目を通して花散里、玉鬘、明石の姫君など、父親が囲っている女性たちの姿を順番に描いていく。
この章は素晴らしいなぁと思いました。
登場人物それぞれの営みと関係性の輪郭が夕霧の視線を通じて粛々と描かれる一方で、外では暴風が吹き荒れている。そのコントラストが何とも言えず良い。青春を描いた短編の傑作だと思いました。この部分だけでも何度も読み返したくなる。
続きを読んだらまた感想を書きますね。
ノロノロしたペースで申し訳ないです。
余談ですが、僕は古文の知識に乏しいので与謝野訳でも主語が分からないことが多々あります。「あれ、内大臣って今誰だっけ?」みたいな感じで。
以下のサイトで各巻のあらすじを見ることができます。分かりやすくまとまっており度々お世話になりました。