そのイヤホンを外させたい

そのイヤホンを外させたい

物語を糧に生きるアラサー男子の方法序説。文芸や出版メディアの趨勢について気になったことを書いていきます。

小さな悪を滅すること/『ゴブリンスレイヤー』から読み取る時代の空気感

彼は「ゴブリン退治は人気がない」と、言葉少なに教えてくれた。
農村の依頼だから報酬が安く、新人向けだから熟練者は選ばない。 (p77より引用)


蝸牛くもゴブリンスレイヤー』を読んだ。


最近はずっと古典作品ばかり読んでいたので久しぶりのラノベは大変読みやすく、読者を飽きさせない趣向に富んでいるなぁと感じた。おもろい。


宝島社が年に1回刊行している『このライトノベルがすごい!』の2017年度版において、本作は文庫部門5位にランクインしている。


作者へのインタビューも一緒に掲載されていたので目を通したのだけど、特徴的なのは、作者自身が過去にインスパイアされた作品はアメコミやTRPGで占められており、小説やその作者に対する言及が一切見られないこと。


以前からこういう傾向は多く見られたものだけれど、それでも作者が影響を受けた書き手として上遠野浩平神坂一西尾維新などの名前は最低限挙がっていた気がする。今のライトノベルやWEB小説の読者は純文学なんてほとんど読まないのだろうな。


しかしながら、『ゴブリンスレイヤー』を生んだ想像力は的確に時代の空気感を捉えていると思う。

ゴブリン退治は3Kである


ゴブリンスレイヤーというのはその名の示す通り、ゴブリンばかり討伐している冒険者の通り名だ。


ゴブリンスレイヤーは銀等級という冒険者ギルドの中でも高位のライセンスを持ちながら、ドラゴンやオーガ、魔神王などハイクラスの獲物には一切興味を示さず、新米冒険者がやるような報酬額の低いゴブリン退治を愚直に続ける。


ただ、彼は自分より弱い敵のみをターゲットにすることによって手軽に金を稼ぎ、他の冒険者よりも楽をしようとしているわけではない。


読むとわかるが、本作においてゴブリンという存在は個体の戦闘力は低いものの、冒険者の隙を突く奸智に長け、敵に回すと厄介極まる醜悪な存在として設定されている。本作のヒロイン的存在である女神官も、冒険者としての最初のクエストで仲間を皆殺しにされ、ゴブリンスレイヤーによってからくも救出されている。


熟練した冒険者にとって、ゴブリン退治は報酬額の低いわりに面倒で厄介な仕事として認知されている。現代社会で言う3K(きつい、汚い、危険)の仕事と似たようなものである。


にも関わらず、ゴブリンスレイヤーはその仕事に対して自分なりの使命感(?)のようなものを持っており、ゴブリン殲滅という目的に向かって最適化された彼の言動や出で立ちはギルドの中でも悪目立ちしている。

遠くの巨悪より半径5メートル内の小悪に目を向ける必要性


本作には、ドラゴンや魔王などの巨悪と戦う他のファンタジー作品よりも、農村を襲って家畜や村娘を誘拐する小悪としてのゴブリンとの戦いの方がより熾烈を極めるという切実な感覚がモチーフとして扱われているように思う。


そしてその感覚は僕たちの住む社会の現状と陸続きとも言える。国際的なテロリズムポピュリズム政治の横行など、かつてないほどのスピードで世界の秩序は乱れ始めている。にも関わらず、日本人はじめ先進国に暮らす多くの人々はその変化に対して確固としたリアリティーを持てずにいる。


なぜなら、資本主義末期の格差社会の到来によって富裕層以外の人々は自分たちの生活圏内の安定を死守するだけで手一杯だから。彼方に存在するドラゴンや魔王は長期的には確かに問題だが、その前に半径5メートル内にひそむゴブリンを殲滅しなければ自分や大切な家族の命が危険に晒される。まさに死活問題だ。

ゴブリンはリトル・ピープル?


作品の中盤で登場人物がゴブリンの出所について議論する場面があり、印象的だった。


地の底に王国があるとか、あれは堕落したエルフやドワーフの成れの果てとか、誰かが何か失敗すると一匹湧いて出る、なんていう色々な憶説が飛び交う中、ゴブリンスレイヤーが奴らは月からやって来たと呟く。


月には草も木も水も何もない、岩だけの寂しい場所だ。だからゴブリンは自分たちが羨ましく、妬んでやって来る。


この場面ほか、作者はゴブリンを今ある世界に対する悪意の象徴として定義している。


この悪意の象徴としてのゴブリンの描き方が、僕には村上春樹1Q84』に登場するリトル・ピープルという謎の小人の描かれ方と被って見えた。


個体としては卑小、非力な存在だけれど、こちらが気を抜いている隙に内側に侵入し何をしでかすか予想のつかない神秘的かつ邪悪な存在。その点で両者は似ている部分がある。


読み物としての面白さと商品としての価値を損なうことなく、独自のモチーフを作品に響かせているという点で優れた作品だと思った。

女神官には、よくわからない。
あのような人の一生を破壊してしまうような事件が、本当によくある事なのか?
だとすれば自分は……その現実に直面して尚、地母神を信じ続けられるのだろうか?
結局、彼女にわかっている事は、たったの二つしかない。
自分は、未だ冒険者を続けているという事。
そしてもう一つ。
ゴブリンスレイヤーは、間違いなくゴブリンを皆殺しにした、という事。
だがしかし、それさえもまた、よくある話の一つに過ぎなかった……。
(p57〜58より引用)

『源氏物語』を読む1〈桐壺〉〜〈明石〉


紫式部源氏物語』の感想を書いていきたい。


気忙しい日常の中で生まれるぼんやりとした諦念や寂しさにそっと並走してくれるような長い小説を読みたいと考えたら、自然と本作が頭に浮かんできた。通読するなら今だ。


高校時代の古典の授業などで部分的には知ってはいても、この長大な作品が持つ物語としての奥行きと広がり、実際に読んでいく際の触感を知る人の数は案外少ないのではないか。


通して読んでいく中で、他からの借り物でない自分なりの理解が得られればいいなと思う。


今回は「桐壺」〜「明石」まで。

※角川文庫の与謝野晶子による全訳で読んでいます。古本屋で上中下巻合わせてたったの300円でした。

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予備知識なしのまっさらな読者として『源氏物語』に当たった時、主人公の光源氏始め彼を取り巻く人物群の業の深さのようなものに読み手としての自分がジワジワと引き込まれていくような錯覚を覚える。


本作においては、この業の深さに対する無意識の従属と畏怖が、雨や雷などの自然現象に対するそれとあいまって作品の通奏低音になっている気がする。


表面上だけ見れば、光源氏は最初の正妻である葵の上を放ったらかして次々と他の女性に懸想するプレイボーイとして描かれている。そんな彼の恋愛遍歴を順次たどっていくのも本作を読む醍醐味の一つではある。


しかし、光源氏が重ねる恋愛劇の背後には、実母である桐壺の更衣と帝の悲劇に起因する盲目的な母性の追求が常にトリガーとして存在するため、亡き実母の面影を宿す藤壺や若紫に異常なまでの執着を示す。たとえ、その情熱が自身や相手の破滅につながるものだとしても自身の出世以前から両親によって作られた業、カルマに呼応せざるをえない。そんな宿命の揺るぎなさ、やりきれなさ、美しさを描いている点で、本作は『伊勢物語』など類似の恋愛物語を凌ぐ重厚さを獲得しているのではないかと感じた。ただ、他作品をきちんと読んだことがないので、この点については断言できない。


現段階での本作の印象をまとめてしまえば上記のようなことになると思う。だが、読者である自分は、作品内に描かれた細やかな情景の一つ一つに接し、その様を思い浮かべ、積み重ねることによってしか全体の印象を自分の中に構築することはできなかった。まぁ、当たり前の話だけど。


そういった情景はたとえばどんなものだったか。


死んで運ばれていく夕顔の黒い髪の毛が彼女の身体を包む茣蓙(ござ)からはみ出ているのを目撃した源氏の動揺を描いた箇所であったりとか、自分でも無意識のままに生き霊として葵の上に取り憑き彼女を苦しめるほどの怨恨を胸に秘めた六条の御息所が、いつのまにか自身の着物に染み付いた香と焚き付けの匂いをいぶかしむ場面などが自分の場合それに該当する。


「明石」は、政敵の圧力によって一度都落ちした光源氏が京に戻り最愛の紫の上と再会するところで終わる。この時点で、源氏は藤壺を始めとした幾人かの女性と痛切な出会いと別れを繰り返している。その経験は源氏の顔をいくぶんかやつれさせ、悲哀を加えることはあっても、逆にそれによってますます彼の美貌を高めてもいる。そんな描写を作者はしている。


今日はここまで。
またゆるゆると更新します。


※宿命の逃れ難さを描くという点でソフォクレスの『オイディプス王』が頭に浮かんだ。国や時代は異なれど、基調となる作品は構造的に似ている部分が多い。

オイディプス王 (岩波文庫)

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ベッドはただ寝るだけの場所なんかじゃない。/シルヴィア・プラス『おやすみ、おやすみ』

子供の頃、ベッドは小さな秘密基地のようなものだった。


今日は珍しく、好きな絵本など紹介してみる。


本のタイトルは、『おやすみ、おやすみ』。

おやすみ、おやすみ (詩人が贈る絵本)

おやすみ、おやすみ (詩人が贈る絵本)


本のカバーには、「詩人が贈る絵本」という記載がある。


作者はアメリカの詩人シルヴィア・プラス
英米の小説を好んで読む人間なら、知っている人も多いかと思う。


しかし、多くの人の詩人シルヴィア・プラスに対するイメージは、類まれなる才能を持ちながらも、精神疾患によって自殺を余儀なくされた自己破滅型の詩人というものではなかろうか。


そのへんの事情は彼女の詩集や自伝的小説『ベル・ジャー』に詳しく書かれているので未読の人はぜひ読んでもらいたいと思うのだが、僕がそれ以上に本書『おやすみ、おやすみ』をおすすめしたいのは、上記のような負のイメージとは異なる、純粋で、遊び心に溢れた想像力の持ち主としてのシルヴィア・プラスを再発見することができるからだ。


僕は本屋で偶然この本を立ち読みしてびっくりした。「え、シルヴィア・プラスってこんな温かい作品を残してたの?」と意外に感じたことをよく覚えている。


ベッドはただ寝るだけの場所なんかじゃない。


と、プラスは言う。
もっと色んなベッドがこの世界にあっていいはずだと。

もう1つのベッドは
みんなの のぞみどおりのベッド。
なんていうか まるで
どこも シミばっかりのベッド。

黒いシミ 青いシミ ピンクのシミ
まったくもう シミばっかりの 毛布。
だれも だから 気にしない。
インキを そこらじゅうに こぼしても。

犬と ねこと インコが
どろだらけの足で
ベッド・カヴァーのうえで
いっしょになって ダンスしたって

ぜーんぜん もんだいなし!
こっちにも あっちにも ジャムのシミ
こっちにも あっちにも ペンキのシミ
どこも シミばっかりのベッドなら。

シルヴィア・プラス『おやすみ、おやすみ』(みすず書房)より引用。


この他にも、本書には奇想天外なベッドがいくつも登場する。


とても勝手な物言いになるけれど、彼女の短い生涯の中で、一時期でも本書のようなのびのびとした創作に打ち込めた期間があったことを大変うれしく思う。


ちなみに、本書の挿絵を担当しているは、『チョコレート工場の秘密』で日本でも有名なクウェンティン・ブレイク。とても可愛らしい。


子供と大人、両方の想像力を刺激してくれる1冊。眠れない夜の楽しい言い訳としてもお使いください。


プラスの生涯を描いた映画作品。詩人としての彼女の功績を詳しく知りたい人におすすめ。主演のグウィネス・パルトローが結構はまってます。

シルヴィア [DVD]

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「海」は異質な何かを運んでくる。/ジョゼフ・コンラッド『エイミー・フォスター』

前回の『闇の奥』に続き、コンラッドの短編作品を読んでいた。

コンラッド短篇集 (岩波文庫)

コンラッド短篇集 (岩波文庫)


本書には全部で6つの作品が収録されているが、その内の5つは「政治小説家」、「歴史小説家」としてのコンラッドを特徴づけるようなラインナップになっている。


もともと血湧き肉躍るような冒険小説や犯罪小説が好きなこともあって、それらの作品たちも十分楽しく読めたのだが、全て読み終えてから、さて、どれが一番印象に残りブログで言及したくなったか、というと、それは意外にも作品の装飾としては最も地味な『エイミー・フォスター』だった。


僕は、休日にキャンプや海水浴に行くような行動派ではないものの、文芸作品に描かれる「海」が好きだ。


コンラッドは言わずと知れた「海」の作家だから、作品内にそれが登場するのは何ら珍しいことではない。しかし、『エイミー・フォスター』に描かれる「海」は際立って魅力的に感じられる。


海辺の田舎町にエイミー・フォスターという、これといって特徴のない、どちらかというと鈍臭いタイプの女性が暮らしている。自身が可愛がっていたオウムが猫に襲われていても助けることができず、ネズミ捕りにかかったネズミを見ても泣き出してしまうようなエイミーの日常は、奉公先である農園とそこから歩いて行ける場所にある実家までの範囲に限られていて、彼女自身そのことを不満にも思っていない。そんなエイミーが、嵐による船の難破によって浜に流れ着いた言葉の通じない異邦人、ヤンコーを助けたことがきっかけで激しい恋に落ちる。


短い話だし、今後何かの機会に読む方もいるかもしれないので、本作の悲劇的な結末についてはこれ以上は触れないでおく。


ただ言えるのは、何か異質なものを不意に連れてきて、その偶然性、または必然性については沈黙を守り、ただ存在することによってのみ目の前の出来事を肯定し、最終的にはその全てを包摂する「海」の優しさと峻厳さの相反するイメージは、コンラッドの小説を読み解くにあたって重要な要素であるように僕は思う。


異郷の地で言葉の通じないヤンコーは、ポーランド人でありながら二十歳を過ぎてから英語を学び英語で小説を書いた作者自身の境遇に通じるものがある。コンラッドにとって、「海」は自分と他者の間を決定的に隔てるものであると同時に、国籍や言語の違いを超越した共通理念としてあったのかもしれない。


僕自身の中の特別な短編小説フォルダに、また一つ作品が加わりました。


*『エイミー・フォスター』はレイチェル・ワイズ主演で映画化しています。原作とは設定が異なるものの、作品内に登場する海と自然がとても綺麗です。おすすめ。

輝きの海 [DVD]

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虚無のゆくえ/ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)


19世紀末、貿易会社勤務の水夫マーロウは、派遣されたアフリカ奥地の出張所で川の上流に位置する最深部の出張所をあずかるクルツという人物の不可解な噂を聞くにおよび、彼を探すため船で川をさかのぼっていく。


ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』の物語の大筋はエンタメ小説のそれのように単純だ。


事実、作者コンラッドは長らく冒険譚やメロドラマを得意とする海洋小説家として知られており、彼の作品に対する文学的評価は後になってからついてきたものだった。僕は本作の後にコンラッドの短編作品もいくつか読んでいるのだが、そちらはモーパッサンの作品に冒険とロマンスの風味を加えたような、一般受けする、良い意味でも悪い意味でも隙のない作品が多い。


しかし、この『闇の奥』に関しては僕はすんなり読むことができなかった。読んで最初に持った印象は、その語りの捉えどころのなさだ。


マーロウが、アフリカ奥地での体験を時に観念的な言葉を織り交ぜながら滔々と語るという形式、これは作品構成の観点から見れば杜撰と言われても仕方がない。


だが、まるで一夜の悪夢を思わせる歪で不穏な空気が作品全体を包んでおり、文明の光の届かない未開の土地に対する根源的な畏怖の念と、その最深部にいるクルツという謎の人物の神秘性を否応なく高めてくれる。なにやら、抜き差しならないものを読まされているという興奮があるのだ。


でも、現代の読者は「未開の土地に対する根源的な恐怖」と言ってもピンとこないのではないかと思う。


コンラッドの生きた時代には、今とは異なり、世界地図の中にまだ文明人が足を踏み入れたことのない空白の領域が多く残っていた。

ところで、僕は子供の時分から、大変な地図気狂いだった。何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、濠州の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。中でも特に僕の心を捉えるようなことがあると、(いや、一つとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとその上に指先をおいては、そうだ成長(おおき)くなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。 (p17より引用)


男の子ならば一度は持ったことがあるであろうまだ見ぬ外の世界への憧れと情熱をマーロウは持っていた。クルツに関してもそれは同様だ。


そのようなピュアな心性が、列強による帝国主義、植民地化政策、土地の先住民に対するヨーロッパ的倫理観の押しつけ、という国家的イデオロギーと重なった時、末端にいる個人の内面に決定的な分裂が生じる。その結果として、事切れる前のクルツが発する有名な言葉、「地獄だ! 地獄だ!」(原文では「The horror! The horror!」)はあるのではないか。


僕は、過去の文学作品を読む際には、文学史的な意味合いにおける作品の評価とは別に、今ここにある自分がその作品を読む意味について考えを巡らすことをなるべく心掛けている。キツいけど。


確かに、今や世界地図の中に空白はなく、コンラッドが描いたような神秘の暗黒大陸は姿を消した。帝国主義や植民地化政策という歴史教科書的なキーワードにしたって、今の自分が当事者性を持つことはなかなか難しい。


しかし、上に書いたような国家をはじめとした権威的な何かと個人の理想の関係性は、世界地図の白紙の部分が消失したことによって今まで以上に錯綜してきたのではないかと思う。


インターネットやSNSの発達によって、多くの個人がいつ何時でもつながることができるようになった。今後は多様な社会が訪れる、と楽観的なことを言う人もいる。


しかし自分の周りを見回してみると、人々は他者の振る舞いに対してより非寛容的になり、移民を排斥し、一昔前の家族や親戚、地域共同体にあった相互扶助の関係性も機能停止の状態にあると思う。


結局、アフリカの最深部でクルツが眺めた虚無が世界全体に拡大し、彼が経験したと同じ孤独と諦観を僕らが日常的に味わうようになった。ただ、それだけの話なのではないだろうか。


現代のクルツは、一人部屋に引きこもってスマフォの画面を眺めて言う。


「地獄だ! 地獄だ!」





【キーラ・ナイトレイ出演作】文学作品が原作の映画4選

学生時代は時間がありあまるほどあり、映画を1日に3本鑑賞することも決して珍しくありませんでした。


でも、社会人になってプライベートの時間が限定されると、今では月に5本鑑賞できれば贅沢と言えるくらい映画との距離が遠ざかっています。


それでも、好きな文芸作品の映像化作品はなるべくチェックするようにしています。原作と映像作品の細かな違いとか見つけるの好きなんです。


いくつかの作品を観ている途中で感じたのは、キーラ・ナイトレイの顔をよく見るなぁということ。


パイレーツ・オブ・カリビアン』をはじめ大作映画への出演で、日本でもわりとポピュラーな女優さんかなと思います。


ジョー・ライト監督作品の常連である彼女は、誰もがタイトルだけは知っている文学作品の映像化でヒロインに抜擢されることが多いです。


どの作品でも安定感のある名演技をしているので、原作を読む際にはぜひ手にとってみてください。僕自身が原作含め鑑賞した範囲で4作品ほど挙げておきます。


ちなみに、彼女自身の愛読書はトルストイの『戦争と平和』とのこと。


1.プライドと偏見

プライドと偏見 [DVD]

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ジェーン・オースティンの代表作を映像化。本作はストーリーの特性上、派手な事件がほとんど起こらないため、おのずと役者の演技の技量に目がいきがちです。役者の何でもない所作が凡庸だと作品そのものが台無しになる。キーラは、聡明かつ天真爛漫なエリザベスを原作の雰囲気を損なうことなく演じ切っています。

自負と偏見 (新潮文庫)

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2.つぐない

つぐない [DVD]

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原作は現代英国文学の重鎮イアン・マキューアンのシックな長編小説。キーラ演じるセシーリアは、実の妹のたった一つの些細な嘘によって運命を狂わされ、悲劇的な結末に追いこまれていく。圧巻なのは、愛し合う一組の男女にとっては神聖なものである逢引の瞬間が、子供の目から見るとおぞましいものにしか映らないという残酷な行き違いが生じる場面です。個人的には、彼女の出演作でこれが一番好き。

贖罪〈上〉 (新潮文庫)

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3.わたしを離さないで

昨年日本でもTVドラマ化された作品の本国版。原作はカズオ・イシグロの同名小説。キーラは、ヘールシャムと呼ばれる寄宿学校で生活する仲良し3人組の一人ルースを演じる。このルースという少女の周囲で生じる悲劇は、彼女が置かれた環境によるものと彼女自身の特性によるものの両方が混在しており、その複雑性が人物の魅力を形成しているように思います。キーラは、そういった少女のやるせない感情を抑制の効いた演技で表現している。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

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4.アンナ・カレーニナ

アンナ・カレーニナ [DVD]

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19世紀ロシアの文豪トルストイの言わずと知れた姦通小説の傑作を映像化。単なる人妻の不倫の話なのに、ロシアの大地と社交界が舞台になるとたちまち一大スペクタクルになる。トルストイの作品には作者の俯瞰的な視線によって登場人物を駒のように動かし、そこから血の通った全体性、普遍性を作っていく特徴があると僕には感じられるのですが、この映画ではその感じがよく出ています。ヴロンスキーが原作よりもイケメン過ぎる気がする。小説の方では確か部分禿げがあったような気が……。

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

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おまけ.危険なメソッド

危険なメソッド [DVD]

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本作は小説原作ではないけれど、人文学つながりで心理学者、精神医学者のユングフロイトの一筋縄ではいかない関係性を文学と捉えることもアリかなと。キーラ扮するヒステリー患者ザビーナは二人の天才の間でファム・ファタールの役割を演じます。冒頭の精神病患者としての彼女の演技は鬼気迫るものがあり、女優としてのプロ意識の高さを感じます。

精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)

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ここまで書いてきて気づきましたが、キーラは悲劇のヒロインを演じることが多いですね。自然、作品そのものも後味の悪いものが多い。でも、もれなく面白いよ。

それでは。

ストロングセンスオブヒューマーのある小説家/ジェーン・オースティン『自負と偏見』

自負と偏見 (新潮文庫)

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ジェーン・オースティンの作品を好んで読む男性は多くはないだろう。


自分も学生の時に『自負と偏見』を試しに読んでみて、「これは男の読みものではない」と中途で放り出した記憶がある。


オースティンの小説は、当時イギリス社会においてまだ地位の低かった女性の恋愛と結婚を題材にしたものばかりだし、ドストエフスキーの作品のように「人生いかにして生きるべきか」を問うような重厚な文学とは程遠いので、オースティンの作品を敬遠する男性読者が多いのも仕方のない話だ。


しかし、今回あらためて『自負と偏見』を読んでみて自分の過去の評価が間違っていたことを知りました。昔「読めない」と感じたことは確かだけれど、どうしてこの面白さに気づかなかったかと今は不思議に感じられる。


サマセット・モームが『世界の十大小説』の中で、本作を「大した事件が起こるわけでもないのに、ページをめくる手が止まらなくなる」と絶賛しているらしいのだが、まさに同感だ。


月並みな言葉だけれど、「100パーセントの小説家」という形容はオースティンにこそふさわしいと思う。作者の優れた人間観察力に裏打ちされたエスプリの効いた楽しい小説である。


登場人物間の軽妙なやり取りを巧みな筆致で余すところなく描いている一方で、「これは女性だから書けるな」と思わせる情感に根ざした場面も少なくない。かと言って深刻にもならず、凡庸な女性作家のように感受性に振り回されることもない。少し離れた位置から無邪気な哲学者のように事の成り行きを眺めている。


的確、自由奔放な人物描写の冴えに加えて、オースティンは作品構成力も申し分ない。
妹の駆け落ちを別にすればこれといって大きな事件が起こらないにも関わらず、読者をグイグイと最後まで引っ張っていく無駄のないストーリーテリングは作家志望のお手本のようだ。現に、本作を映像化した作品も原作のプロットのまま面白いものになっていた。


オースティンは21歳の時に『初印象』という作品を書き上げ、10年以上後にそれを元にして本作を完成させたとのことだから、構成については納得いくまで練りに練ったのではないかと思う。


IBCパブリッシングが出しているラダーシリーズという英文リーダーのシリーズがある。


これは普通のペーパーバックを読むよりも少ない語彙力と文法力で過去の名作を読むことのできるシリーズで、自分は以前英語の勉強がてら本作の簡易英語版をパラパラと読んでいたことがあった。その中に、エリザベスの性格について触れている箇所があった。


She had a lively, playful mind and a strong sense of humor.


これは簡易版なので原文にはないのかもしれませんが、自分はこの“strong sense of humor”(ストロングセンスオブヒューマー)というのは言い得て妙だなと感じたのです。


オースティンの小説世界を一言で表現するとすれば、それは「ストロングセンスオブヒューマー」ということになると思う。そして、文学にしかない“何か”を考えた時に頭に浮かぶのもやはり「ストロングセンスオブヒューマー」だ。それはお笑い芸人がやってるような単純なユーモアの類ではない。


僕は、エリザベスが病気の姉ジェーンのために悪天候の中、足を泥だらけにして歩いていく場面がとても好きだ。読んでてゆきずりの優しさに触れたような何とも言えない気持ちになる。


「ストロングセンスオブヒューマー」という言葉は、そのような良い小説を読んだ時の説明し難い胸の高まりを形容してくれているような気がします。


また、僕は男なのでダーシー含め男性の登場人物に思い入れがあるのですが、中でもエリザベスの父親であるミスターベネットの人物造形は魅力的に感じる。


エリザベスの頭の良さというのは十中八九この父親からの遺伝であり、彼は資産家ではないにしろ社会的には成功している一家の大黒柱なのだが、彼の唯一の誤算、というか不運は、ミセスベネットという頭の悪いドイヒーな女性と夫婦になったことです。


とはいえ、それは今更どうこうできる問題ではないので、ミスターベネットは家族の愚かさに起因するあらゆる小事件について積極的に関わろうとはせず、常に悟りを開いたような姿勢を保っている。


そんな彼のエリザベスに対するアドバイスが飄々としていて面白い。


俗物コリンズのプロポーズをエリザベスが拒んだ際、親の期待を台無しにした彼女に対し、おとなしくコリンズと結婚しなければ親子の縁を切ると憤る母親とは反対に、コリンズと結婚するなら今度は自分が娘と親子の縁を切ると言ってのけた後、驚く母親に向かって、

「まあまあ、お前、わたしはね、二つばかりお前にお願いがあるんだが。一つはだね、わたしとしても、この際自由に考えさせてもらいたいということ。それからもう一つはね、やはりこれもわたしの部屋を自由に使わせてもらいたいということ。つまりね、一刻も早く、この書斎でひとりきりにさせてもらえればありがたい、ということなんだよ」(p180より引用)


なんて他人事のようなことを言ってのける彼に、愛着を感じずにはいられなかった。


男女分け隔てなく楽しめる作品なので、まだの方はぜひ。


それでは今日はこれで。


*文庫で読む場合、自分は中野好夫さんの翻訳をオススメします。非常に読みやすくオースティンの自由奔放な筆致の感じもよく出ている名訳です。