そのイヤホンを外させたい

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ブログはタブラ・ラサ

団鬼六『花と蛇 1 誘拐の巻』を読んだ感想

前から積ん読状態だった団鬼六花と蛇』をようやっと読みました。

花と蛇〈1〉誘拐の巻 (幻冬舎アウトロー文庫)

花と蛇〈1〉誘拐の巻 (幻冬舎アウトロー文庫)


日本官能小説の第一人者によるSM小説の金字塔的作品です。

「ズベ公」という言葉に戸惑う

ヒロインの遠山静子財閥夫人は、義理の娘である桂子と共に葉桜団というズベ公グループに誘拐され、地獄のような責め苦にあうわけなんだけど、自分は最初この「ズベ公」という不良少女を指す言葉に馴染めなくて肝心のプレイに気持ちがなかなか入っていけませんでした。

本作が書かれた当時は上流階級の婦人を心身ともに陵辱する存在としてズベ公を持ってくるのがリアリティーがあっただろうけれど、今の時代にはちょっとそぐわない設定かなと思いました。今風に作り変えるなら田舎のDQNとかになるのだろうか。

ポルノ小説にも関わらず漂う品の良さ

作者はあとがきで本作を「自慰用の珍文」と称している。

確かに本作のストーリーはあってないようなもので、全体の8割があの手この手を使っての調教で占められています。構成としては読者のヌキを目的とした後発のポルノ小説と何ら変わりません。

しかし、際限無く続く調教の中で次第に露わになる静子夫人の凄絶なまでの美しさには、同ジャンルの作品にない品格のようなものがあり、ある意味において理想の女性の描き方をしているなと読んでいて感じました。夫人が同じく捕まった女探偵京子とその妹を救うために小唄を唄うシーンなんかは目眩を覚えるような鮮烈な印象がある。

でも、あと9巻はこちらがもたない

ただ、『花と蛇』は完結までに文庫であと9巻もあるんですよね。

あと9巻分このテンションが持続するのかと思うと、読者であるこっちがもたなそうです。

次巻はインターバルを置いてからまた読んでみたいと思います。

ジミー大西の半生を描いた小説『Jimmy』を読んだ感想

原作・明石家さんま『Jimmy』を読みました。

Jimmy (文春文庫)

Jimmy (文春文庫)

本書はNETFLIXで7月から独占配信予定だったオリジナルドラマのノベライズなのだけど、ドラマ内で明石家さんまを演じた小出恵介が未成年者との淫行疑惑で無期限活動休止となったため、ドラマの方はお蔵入りになるという残念な事情がある。出版社としては想定外の事態だったこともあり、本書はドラマ宣伝の帯が付いたままで書店に並べられています。


ジミー大西さんのことは『旅猿』などのテレビ番組で見せる自由奔放な言動や色彩に富んだ抽象画家としての独自な作風が昔からとても好きだったので、ドラマは残念だったけど小説の方を手に取ってみました。

「嘘みたいな話ばっかりですけど、全部ホンマです!」


これはジミーさんの育ての親である明石家さんまさんの言葉ですが、僕も本書を読んで「嘘だろ?」と何度も思いました。ジミーさんの人生って嘘みたいなホントの話で溢れてるんですよね。


その中には、天然おとぼけキャラで許してしまえる微笑ましいものもあれば、普通の人だったら笑って済まされないようなかなりきわどい出来事も含まれています。


事実、何をやらせても人並みにできず失敗ばかりしているジミーさんを当初吉本はクビにしようと考えていたほど。これは吉本の基準が厳しいというわけではなくて、どの会社でも通用しない社会不適合者を受け入れる素地のあった吉本でさえもジミーさんに対してはほぼ匙を投げていた。


それでも、さんまさんだけはジミーさんを見放すことなく面倒を見続けて、芸人、そして芸術家としての彼の才能を開花させていく。


たぶん、というか絶対、もしさんまさんがいなかったら芸人ジミー大西はこの世に存在しなかったろう。自分のみじめさや悲しさを笑いに振り替えていくさんまさんの哲学に触れることがなければ、ジミーさんは自分の個性を武器にして前に出ていくことはできなかったはず。


ジミーさんにとっての恩人はさんまさんだけではなく、あの岡本太郎も彼の絵の才能を認めエールを送っています。さんまさんや岡本太郎に見る目があったというこももちろんですが、ジミーさんの方でも自分が師事する人間に対しては鋭い嗅覚を持ち合わせていて、盲目的と形容してもよいほど慕って止みません。


そのような普通の人間ならばセーブしてしまう純粋な感情を躊躇いなく出せるのも、笑いや絵の才能と同様にジミーさんの魅力の一つだなぁと本書を読んで感じました。

関連記事

※『旅猿』に時たま出るジミーさんが好きです。

taiwahen.hatenablog.com

『源氏物語』を読む2〈澪標〉~〈藤のうら葉〉


小説家の角田光代さんによる新訳が刊行されたり、27時間テレビで短いドラマが放送されたりと、なにかと話題の『源氏物語』。自分はオーソドックスに与謝野晶子訳で読んでいます。


前回の記事はこちら↓
taiwahen.hatenablog.com


さて、物語も中盤を過ぎて若い頃はプレイボーイで通っていた光源氏も人の親になる。

独立した物語、「玉鬘十帖」

〈乙女〉の巻以降、源氏と亡き葵の上の息子である夕霧や悲劇の人夕顔の忘れ形見である玉鬘が登場し、物語をけん引していく。〈玉鬘〉から〈真木柱〉のいわゆる「玉鬘十帖」がここでの大部分を占めています。


「玉鬘十帖」はそこだけ取り出しても物語として成立するほど綺麗な構成になっている。そのためか、メロドラマとして出来過ぎな感じがして現代の読者としては逆に物足りなく感じた。


でも『更級日記』の作者を代表とする当時の文学少女たちは、玉鬘のシンデレラストーリーをきっと自分事のように熱心に読み進んだはずで、そう考えると、本作の中でも欠かせない部分と言えるかもしれない。

紫式部の小説観が垣間見える〈蛍〉

梅雨が例年よりも長く続いていつ晴れるとも思われないころの退屈さに六条院の人たちも絵や小説を写すのに没頭した。

〈蛍〉の巻の好きな一節です。
この章では作者紫式部の小説観が光源氏の言を通じて間接的に語られています。


光源氏は近頃どこの御殿に足を運んでも散らかっている小説類に半ば辟易した体で玉鬘に嫌味を言うが、それでいて最終的には小説の存在を肯定している。


小説には架空のことが書かれている。しかし、人間の美点と欠点が誇張されて書かれているのが小説だと考えるなら、その全てが嘘であると断言することはできない。


仏教のお経の中にも方便が用いられるように、小説の中には善と悪の両方が余すところなく描かれている。だからこそ、読む側に真実が伝わる。


このようにに考えれば、小説だって何だって結構なものだと言えるのである。


何だか漠然としていていまいちよく分からないのだけど、作者紫式部が小説に対して非常に大らかで視野の広い考えを持っていることが分かります。

六条院を夕霧と共に歩く〈野分〉

今回読んでいて、読者としての自分と最も距離が近いと感じた登場人物は光源氏の息子夕霧だった。


光源氏と亡き葵の上の息子である夕霧は父親に勝るとも劣らない美貌を持ちながらも、その恋路はなかなかうまく事が運ばない。


光源氏は若い時分の自身の過ちと同種の事態を息子が引き起こさないように、裏から夕霧の行動や進路をコントロールしようとする。


夕霧は父親の考えに逆らうこともせず着実に位を上げ、忍耐の末、一度は拒まれた幼馴染雲居の雁との結婚も果たす。


光源氏の青年時代が華やかだったの比べ、夕霧のそれは地味で味気ないものに見える。


〈野分〉は、暴風が吹き荒れる日に六条院のハーレムを訪れた夕霧が、偶然光源氏の正妻である紫の上の顔を目撃して心乱される場面から始まり、彼の目を通して花散里、玉鬘、明石の姫君など、父親が囲っている女性たちの姿を順番に描いていく。


この章は素晴らしいなぁと思いました。


登場人物それぞれの営みと関係性の輪郭が夕霧の視線を通じて粛々と描かれる一方で、外では暴風が吹き荒れている。そのコントラストが何とも言えず良い。青春を描いた短編の傑作だと思いました。この部分だけでも何度も読み返したくなる。


続きを読んだらまた感想を書きますね。
ノロノロしたペースで申し訳ないです。


余談ですが、僕は古文の知識に乏しいので与謝野訳でも主語が分からないことが多々あります。「あれ、内大臣って今誰だっけ?」みたいな感じで。


以下のサイトで各巻のあらすじを見ることができます。分かりやすくまとまっており度々お世話になりました。

『響〜小説家になる方法〜』がマンガ大賞を受賞したのであらためて感想書く

響?小説家になる方法?(1) (ビッグコミックス)


前々から本ブログで感想を書いていた柳本光晴響〜小説家になる方法〜』がマンガ大賞2017大賞を受賞したので、今日は遅ればせながらこれまでの総括の意味で感想を書きます。


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響〜小説家になる方法〜』はこんな話

文芸の衰退を嘆く出版社の新人賞に、ある日募集要項をガンムシした手書き原稿が送られてくる。

開封もされずにゴミ箱行きとなった原稿を興味本位で読んだ女性編集者の花井は、『お伽の庭』と題されたそのアマチュアの小説に強い感銘を受ける。

作者の名前は鮎喰響。住所も年齢も職業も性別も電話番号も封筒には書かれてない。やる気あんのか? しかし、才能だけは本物なようだ。

鮎喰響の小説は出版界を、いや世界を変える。そう直感した花井は、何んとかして鮎喰と連絡を取り、掲載にこぎ着けようとするのだが……。

響〜小説家になる方法〜』は、純文学の世界に彗星のごとく現れた響という1人の天才少女の破天荒な活躍を描いた作品です。

主人公響の圧倒的ポテンシャル

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本作の一番の読みどころは、主人公響の他を寄せつけない圧倒的才能と彼女が引き起こすトラブルの数々だ。

生まれて初めて書いた小説『お伽の庭』で颯爽とデビューし、そのまま同作で芥川賞直木賞をダブル受賞してしまうという響のスター性は、まじめに「小説家になる方法」を模索している作家志望の人たちからするとあまりにも現実離れしているように映るかもしれない。

が、長い芸術の歴史において天才とはいつも一つの事件であり、才能の乏しい人間に対して容赦のないものだ。

本作では、響が書く小説の具体的な内容は読者に明らかにされないが、作品を読んだ人間全てを感動させ虜にする並外れた力量を彼女が持っていることは、周囲の反応を通じて間接的に読者に分かる仕組みになっています。

天才は顰蹙を買ってなんぼ

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小説家の高橋源一郎山田詠美の対談本に『顰蹙文学カフェ』というのがある。

その本の中で、顰蹙を買うのも新人作家の才能と言っている箇所があるのですが、「響」を読んでそれを思い出しました。

石原慎太郎村上龍舞城王太郎、作品含めて存在自体が顰蹙の的でしたよね。

山田さんが言うように、新人は常に「若者・バカ者・よそ者」であるべきで、顰蹙は優等生が買おうと思っても買えるものではありません。

その点、響は作品ではなく言動で顰蹙買ってるんだけど、新人作家としての資格は十分に備えていると言っていいでしょう。

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)


天才少女との交流を通じて自負を取り戻していく文芸界隈の人々

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本作は普段小説、ましてや純文学なんて読まない人にもおすすめです。

なぜなら、読むと純文学が好きな人たちが何を考えてるのかがちょっと分かるからです。

本作における表の主人公を響とするなら、裏の主人公は、文芸を取り巻く現在の状況をある種の諦観と共に眺めている小説家や編集者たちです。

本音の部分では文学に対する理想がありながらも、低迷する出版業界を前にして知らぬ間に自分を殺していた人々。彼らが響という類まれなる才能と接触することによって否応なく変化し、失われていた何かを取り戻していく。その様子がそれぞれの立場で描かれているのが、いち文学好きとして親近感が持てます。

まとめ

もともと、マンガ賞をとる前から好きで読んでいた作品なので大々的に書店の棚に展開されるようなって嬉しいです。メディアミックスで実写映画になったらぜひ観に行きたい。

ラノベも純文学も小説の1ジャンルでしかない


上記まとめを読みました。


ラノベは文学か?」 みたいな議論は定期的にTLに上がってくる。


これは「漫画は芸術か?」の議論と同じで個人的にはどうでもいいことだと思う。


だが、本音の部分では全然どうでもよくないと感じている自分もいるので、その相反する感情を一度言語化しておきたい。

ラノベも純文学も両方読めばいい


上記のような議論に対してどうでもよさを感じる最大の理由は、僕自身がラノベと純文学両方読むからだと思う。


当たり前だけど、両者を読み比べると全く趣を異にしている。文章に基準を置くか否かなんて些細な問題に思えるほどに。


どっちもいいよね。両方読めば違いをそのまま認めることができるのだけど、これがどちらか一方に偏っているとフラットに考えることが難しくなり、自分の好きな側に肩入れし、相手には厳しくなりがちだ。


やっぱり人間自分の好きなものが一番って思いたいですからね。

純文学も1つのジャンルに過ぎない


今回のまとめに限らず、この類の議論を眺めていていつも不思議に感じるのは、ラノベを好んで読む人の方が純文学を読む人よりも文学に対して高尚なイメージを抱きがちだということだ。文学は他の小説ジャンルよりも尊いものという思い込みが根底にある気がする。


実際のところ、そんなことは全然ない。昔はともかく、今の日本の純文学のできばえはひどいもんである。


でも、その「ひどい」というのは一般人が持つひと昔前の権威的な文学の枠組みの中で見た場合失格というだけで、過去の作家たちに比べて現代の純文作家が劣っているという意味ではないです。硬派と軟派の違いというか。


下の記事でも書いたように、現代の文学者は〇〇派とか〇〇世代のような団体戦から各々が自分の向きたい方角を向いて戦う個人戦に移行しているので、戦後のような大文字で語られる芸術としての文学はもはや存在しないのだと思います。

taiwahen.hatenablog.com


作家が文学という霧のかかった霊峰から降りてきて、1つのジャンルでしかなくなった。そういう感じなんだと思います。

文学も文学じゃないものも等価で流通する


ジャンルとしての純文学を文学であると定義するための判断基準は、読者の側ではなく、今のところ文芸誌や芥川賞などの文学賞が握っている。それらに携わる人々が「これは文学だ」と認めたものが文学作品として流通する。


突き詰めればそれだけのことでしかないわけです。だから「ラノベは文学か?」なんていう議論は冒頭でも言ったとおりどうでもいいことなんだと思います。


僕は、文芸誌や芥川賞に代表されるいかにもな文学はとうに死んだと思っていますが、読者がそれぞれの基準で判断する文学は延命可能だと考えています。


ただその場合、対象範囲は今やジャンルの1つになった純文学を含め、ライトノベルやその他のジャンルにも広がるでしょうね。


純文学なのに文学じゃない作品もあるし、ラノベなのにこれは文学だと読者に思わせるようは作品があっても何ら不思議ではない。ジャンルどうこうではなく、作家や作品ごとに読者が判断すればいいのではないでしょうか。


ただ、その膨大な作品群の中で、真贋を見分ける能力を現代の読者が獲得できるかどうかについては大きな疑問符がつきますが……。


今日はそんな感じです。


※個人的にはラノベのことは嫌いになっても「ブギーポップ」だけは嫌いにならないでいただきたい。ぜひ文学史にのせてほしい。

ブギーポップは笑わない (電撃文庫 (0231))

ブギーポップは笑わない (電撃文庫 (0231))

蛇の出す刺身は食べる気にならない/川上弘美『蛇を踏む』

蛇を踏む (文春文庫)

蛇を踏む (文春文庫)


第115回芥川賞を受賞した作品です。


僕は作者の川上弘美さんに個人的に恩がある。


高校生の時、現文の授業で川上さんのデビュー作である『神様』を読んで純文学に開眼した。


それまで、漱石の『こころ』のKの自殺場面の抜粋や志賀直哉の『城の崎にて』など教科書に掲載されている名作を読んではいたものの、これがつまらなくてつまらなくて……。何が良いのかさっぱりわからなかった。


でも『神様』は違った。熊と一緒に川原に行く、という「熊」という一点のみが非日常であとは徹頭徹尾日常を貫くこの短い作品には、教科書的な文学にはない魅力があった。


教室の窓から外を見ると、晴天の下で白いユニフォームを着た野球部連中が午前中にも関わらず砂ぼこり吹き荒れるグラウンドをせっせとランニングしていた。ウチの高校は強豪だったから部員数も多いしよく朝から練習していた。ただグラウンドの砂ぼこりだけは凄くずっと改善しなかった。そんな風景が今でも記憶に残っている。


『蛇を踏む』は、語り手であるサナダさんが職場に行く途中に偶然蛇を踏んでしまうところから始まる。

踏まれたらおしまいですね


蛇自身がそう言っていることから、何か決定的なことが起こったであろうことは間違いないけれど、サナダさん当人としてみれば、それは日常の中で生じる些細な事柄の一つに過ぎない。


川上作品においては、日常性と非日常性、あるいは人為的なものと超自然的なものの間が常にフラットにつながっているので、登場人物は日常から非日常へと軽々と越境していく。

蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった。


という一節が暗示するように、本作における「蛇」が何のメタファーであるかを無理やり解釈しようとするのは、いささか野暮な読み方だと思う。


「蛇」は母であり、他人であり、ここではないどこか、魅惑的な世界へ語り手を誘う使者であるらしい。しかし、結局のところそれが良いものなのか悪いものなのかどうかは判然としない。


ただ、サナダさんが蛇との生活に一時的な安穏を得ている反面、一抹の畏怖の念も抱いていることが細部から伝わってくる。


たとえば、刺身。

「ああおいしい」女も言って自分のコップにつぎ足し、それを見た私もまた飲み干してつぎ足し、じきに瓶は空っぽになった。
「もう二本冷やしてあるのよ」女はつくねを皿に取りながら言う。
気味が悪かったが、つくねがおいしそうなので私も皿に取った。女はどんどん食べる。少しだけ箸でつついて汁が出たので、つい食べた。自分でつくったような味だった。つくねを食べてはビールを飲み、いんげんを食べてはまたビールを飲んだ。しかし刺身にはどうしても箸をつけられなかった。蛇が並べた刺身かと思うと、どうにも気味が悪かった。女は醤油と山葵をたっぷりとつけて刺身もどんどん食べる。
(p16より引用)


つくねもいんげんもビールも問題ないけど、刺身だけはどうも気が乗らなくて箸をつけることができない。


些細なことだけれど、これはサナダさんと蛇の関係性を考えるにあたって注目すべき点だと僕は思うのです。


蛇は蛇らしからぬ面倒見の良さで語り手を魅了し誘惑するけれど、つまるところはやっぱり冷たい体表を持つあの蛇なのであって、決して全幅の信頼を寄せていい相手ではない。


その原始的な畏怖のようなものが、『今昔物語』などの大昔の説話にも通じるような普遍性もあって……。


作者の持ち味であるほのぼのとした文体に蛇的なひんやりとした触感が浸入してくる感じが絶妙な作品でした。

「東野・岡村の旅猿」おすすめの回をTOP10で振り返る

僕はそれほどバラエティにはくわしい方ではないけれど、中には例外的に好きで観続けている番組もあります。


たとえば東野・岡村の旅猿 プライベートでごめんなさい…」がそう。


人気番組だから知っている人も多いだろう。ジャンルとしては旅番組に分類されるけど、出演者が自然体でそこまで頑張らない感じで、何も考えずに観れるし、おまけに癒し効果もある。


最近では、満島ひかりを旅のゲストに迎えたのが記憶に新しい。深夜枠にも関わらず豪華ですね。


本記事では、僕がこれまで観た中で個人的に面白かったおすすめの回をTOP10の形式で紹介します。

10位. トルコの旅


シリーズ初の女性ゲストとしてmisonoを迎えたものの、ゲストに配慮しないスタッフの粗野な演出に彼女が苛立っているのがひしひしと伝わってくる。普段は勝手な言動が目立つ東野さんがフォローに回っているのが新鮮。misonoさんの後も「旅猿」は数名の女性ゲストが登場するがなかなかしっくりいかないことが多い。トルコがそのはじまり。途中で登場する出川さんが救いの神に見える。

9位. 木下プロデュース、軽井沢・BBQの旅


「築地で海外ドラマ観まくりの旅」で初登場するも全く旅してる感じがなく不完全燃焼で終わった「旅猿」ファンのTKO木下が、リベンジの意味で軽井沢でのBBQをプロデュース。東野ら先輩芸人からの振りを無駄にすることなくボケを返していく木下はだいぶ健闘している。いつもの「旅猿」にあるゆるさはないが、笑える場面は多い。

8位. 北海道・知床 ヒグマを観ようの旅


女性ゲストとしてELTの持田香織を迎える。持田さんの参加は意外にも番組に新たな魅力を付与したと思う。過去何人かいた女性ゲストの中でも一番ちょうどいい空気感で「旅猿」と相性が良い。出演者、スタッフからも好評だったようでその後も何度かゲストに呼ばれている。

7位. 岩手・八幡平でキャンプと秘湯の旅


旅猿」の準レギュラーである出川哲朗ジミー大西の初共演の回。この回のジミー大西によるハーモニカ演奏のくだりで腹がよじれるほど笑った。BBQに秘湯までのハイキングと、四人が揃う旅の中では最も充実した内容になっている。

6位. 奥多摩で初キャンプの旅


初期の頃の東野と岡村二人だけの旅が結局一番好き、という人が旅猿ファンには多い。東野いわく「旅力」をつけるために雨降りの中、道具一式を買って奥多摩でBBQをすることに。行きの車中での会話やウイスキーを飲んで酔いつぶれてしまった岡村さんの様子など、プライベート感満載で観ててほっこりします。

5位. 出川哲朗ともう一度インドの旅


岡村休業中のピンチヒッターとして出川さんを迎え再度インドへ。この回はある意味で伝説で、タレント出川哲朗の魅力がこれでもかというほど詰まっている。予定時刻よりも早く駅に着いてしまう寝台列車、うんこを踏む東野、ガンジス川沐浴の直前に腹をこわす出川。爆笑の連続。

4位. スイスの旅


ジミー大西初登場回。久しぶりに見たジミーさんはやっぱり規格外の面白さだった。洗練されたスイスで炊飯ジャーを持ち歩き、ゆかりご飯を朝食に振る舞う。普通の芸人にはない発想である。ジミーさんの魅力に加え、ソーセージやチーズフォンデュなどの食べ物が美味しそう。そしてスイスの山並み。圧倒的画力。

3位. 中国の旅


旅猿」名物と言えば出演者とスタッフの「いざこざ」。それが最も味わえるのは中国の旅。スタッフの言葉を勘違いして冬の極寒の中国に薄着で来てしまった東野さんのイライラが止まらない。なだめる岡村さん。少林寺の稽古を眺める東野さんの死んだような目が印象的。防寒具が一つずつ増えていくごとに東野さんの機嫌が良くなっていくのが観てて微笑ましい。

2位. 地獄谷温泉で野猿の写真を撮ろう!の旅


「癒し」という点で個人的にお気に入りの回。動物写真家・福田幸広さんを先生に迎え、地獄谷温泉の猿を撮りに行く。他の回と比べて笑いの要素は少ないけれど、終始雪景色で不思議とリラックスした気持ちで観ることができます。観光案内所に訊いてたまたま宿泊することになった旅館は『千と千尋の神隠し』の湯屋のモデル。DVDでは、「是非見て欲しい奈良の旅」を併録。

1位. 南房総 岡村復帰の旅


岡村復帰後初の旅。旅館に籠って海外ドラマの『24』をひたすら観るという当時としては斬新な企画内容は、その後の「旅猿」の方向性をある程度固めたと思う。推測だが、復帰直後の岡村さんの負担を減らそうという東野さんとスタッフの心遣いが企画内容に反映されているように思う。何度も観たくなる魅力がある。DVDでは、「パラオでイルカと泳ごう!の旅」を併録。


以上、私的トップ10でした。これから観ようという方の参考になればうれしいです。


自分はレンタルおよびセルで観ましたが、旅猿のDVDは、初期は別として前編と後編に分かれたものが多いため、まとめて観るならhuluがお得だと思います。


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ではでは。