そのイヤホンを外させたい

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ブログはタブラ・ラサ

戦国武将的価値観を乗り越える/花田清輝『鳥獣戯話』

今日は、花田清輝『鳥獣戯話』。

鳥獣戯話・小説平家 (講談社文芸文庫)

鳥獣戯話・小説平家 (講談社文芸文庫)


評論家としてのイメージが強い花田清輝だが、1960年代に入ってからいくつかの小説を書いている。その第1作目に当たるのがこの『鳥獣戯話』だ。タイトルはあの『鳥獣戯画』のもじりである。

僕は『復興期の精神』はじめ花田の評論作品も過去にいくつか読んでいる。その上でこの小説を読んだのだけど、不思議なことにジャンルの違いをそれほど感じなかった。きっと作者の中で評論と小説、二つの創作活動がしっかりと紐づけられているので、表現形式が変わっても似た印象を読者に与えるのだろう。

本作は歴史小説の体裁をとってはいるが、内容は直木賞の候補に挙がるようなエンターテイメントとは全く異なる。凝り固まった既成の歴史観ないしは社会的通念を覆す「アンチ歴史小説」と言ってもいい。

本作の主人公は戦国時代の武将武田信玄の実父、武田信虎である。

これまで多くの歴史作家たちが題材として取り上げてきた信玄ではなく、敢えてあまり人口に膾炙していない父の信虎を主人公に据えたところに本作の眼目がある。

修羅という言葉から、さっそく、いくさを連想し、鉦、太鼓、法螺貝、鬨ノ声、馬蹄のひびき、鉄砲の音などを、そら耳にきき、槍、なぎなた、刀のひらめきなどをまぼろしにみるのは、生涯の大半を戦場ですごした戦国武士にとってはきわめて自然であろうがーーしかし、この世の中には武士ばかりがいたわけではなく、かえって、ほんとうの修羅はーーいや、ほんとうというのがいいすぎなら、もう一つの修羅といいなおしてもいいがーー案外、舌さき三寸で生きていた口舌の徒のあいだにみいだされる。
p50より引用

息子信玄によって国外に追放された信虎は、それまでの武力を拠り所とする戦国武将的価値観と決別して「もう一つの修羅」と形容される独自の道を歩むことになる。

作者はそんな信虎の変遷の過程を「猿」、「狐」、「みみずく」という動物の姿、習性になぞらえながらファルスとして描くことで、信長や信玄に代表される戦国時代の支配者階級の欺瞞性を徐々に明らかにしていく。

われわれの時代にしても同じことであって、なるほど、いくさに明け、いくさに暮れていったとはいえ、それを、ただ、軍人の目でだけとらえたのでは、むろん、片手落ちのそしりをまぬがれまい。ところが、とくに戦国時代をあつかう段になると、わたしには、歴史家ばかりではなく、作家まで、時代をみる眼が、不意に武士的になってしまうような気がするのであるが、まちがっているだろうか。
p55より引用

歴史を、軍人の眼、武士の眼ではなく民衆のフラットな視線でとらえた時、そこには巷に溢れている「戦国武将に学ぶ!」的な本の中には書かれていない水面下の闘争を発見することができる。

そういった花田流の視点の持ち方は、歴史だけではなくあらゆる常識や社会通念をいま一度精査する上でも依然有効ではないか。

少なくとも、自分は「虎」であった男が、「猿」→「狐」→「みみずく」へと変わっていくこの精神の変身譚にこそ、多くの戦国時代を扱った作品にはない本当の乱世を目の当たりにした思いだった。

上田秋成『雨月物語』の感想

上田秋成雨月物語』を、後藤明生の現代語訳で読んだ。

雨月物語 (学研M文庫)

雨月物語 (学研M文庫)


子供の頃、実家の祖母が亡くなったすぐ後に生前から祖母と親しくしていた親戚のおばさんが、夜更け家族が寝静まったあと寝室に隣接する木の廊下を誰かがゆっくりギシギシと歩く音がする、きっと亡くなった祖母に違いない、という話を祖父にしていた。

今となっては眉唾な話だなぁと思わなくもないけれど、とにもかくにも、自分にとって『雨月物語』というタイトルが持つイメージはそういった原初的な恐怖と密接に結びついていた。

だがいざ作品を読んでみると、そこには確かな理性の光があり、作者上田秋成の意図が前面に押し出されているように感じられた。

作品中に描かれる怪奇的な出来事は、登場人物の世界に対する執着、怨念のようなものを原動力として起こるわけだが、その背後には作者上田秋成の閉鎖的な封建社会に対する嫌悪と反発の感情がある。

解説によれば、秋成は自身の物語論の中で物語を「いたづら言」、「あだごと」と定義し、それがつまらないもの、無意味なことであるがゆえに作者の意図、現実に対する批判を注ぎ込むことができるという考えを展開したらしい。

自分にとって、上記のような作者の意図によって『雨月物語』が執筆されたという事実はまず純粋な驚きだった。

怪異譚としての魅力もさることながら、切れ味の鋭い社会批判にもなっている。想像と現実、対極に位置する二つのものをその拮抗状態を維持しながら一つの作品の中に共存させている秋成の手腕に物語作家としての理想の姿を見た思いがした。

ビートたけし『アナログ』/聖性の代償

アナログ

アナログ


売れに売れているビートたけし『アナログ』を読んだので感想。


これまでバイオレンス映画ばかり撮ってきた作者が純愛小説を書いたということで話題になっているが、過去作のいくつかをポツポツと読んできた身としてはそれほど意外なことではなかった。


たけしさんの小説には、少年のようにてらいのないピュアな心性が一貫して描かれている。その意味では、今回の純愛物は自然な流れに思える。


タイトルが示すとおり、本作では仕事も恋愛もアナログを貫く男性を主人公に据えている。


確かに、電話やメールなど現代的な連絡ツールの介在しない男女の交流は「こんな出会いあったら素敵だな」と一瞬思わせる。だが、そんな設定は2時間ドラマでもできることで少し予定調和に感じた。仲良し男三人組の掛け合いもちょっとくどいかな。その点では、自分は本作のストーリーにはあまり乗れなかったと言っていい。


しかし、個人的に好きだったのは、本筋とは異なるインテリアデザイナーとしての主人公の仕事の様子が克明に描かれていることだ。主人公は自身が任された物件のデザインを考える上でもPC上ではなく、厚紙や段ボールなどを使った模型を作って発想を膨らませていく。そのものつくりの過程を手仕事の喜びと共にたどっていくのが読者としてとても楽しく、小説としての手触りのようなものを感じた。


また、本作では小説という形式を取ることで、映画を含めた北野武作品の中で繰り返し描かれてきた女性像が浮き彫りになっているように思えた。


本作には、作者自身の母親を彷彿とさせる主人公の母親が登場するのだが、彼女はすでに老人ホームで介護が必要な状態であり、作品の後半で他界する。


主人公は母の危篤の知らせを聞いて病院に駆けつけたために思い人であるみゆきとの木曜日の逢瀬を果たせないわけだが、作者はただ単純に主人公の恋路の障害物として母の死を持ってきたわけではないと思う。


主人公はみゆきのことを菩薩であり天使だと形容し彼女に亡き母親の面影を見ている。作者にとっての理想の女性像は自身が犠牲になりながらも献身的に尽くしてくれた母親である。


そのため、北野作品の中ではヒロインはある種の聖性が付与されていることが多い。だが、それには代償もあって『HANA-BI』や『Dolls』などの前例が示すように、ヒロインは自身に与えられた聖性を保つために何らかの身体的、精神的機能を奪われることになる。

HANA-BI [DVD]

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Dolls [ドールズ] [DVD]

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北野武の作品にはよく「狂暴なまでに」とか「暴力的な」のようなキャッチフレーズが使用されるが、これはヤクザ間のいざこざのような目に見える暴力を指すだけでなく、現代においては成立し難いピュアネスの反動ゆえに自身の聖域が損なわれていくような水面下の力に対しても当てはまる形容だと思う。


たけしさんはインタビューで次は宮部みゆきみたいの書きたいなんて洩してるみたいだが、確かにパズルをはめ込んでいくような構成はミステリーやサスペンス向きかもしれない。


ノワール小説の体裁をとったバカミスなんて書いたら面白いんじゃないかと思った。

団鬼六『花と蛇 1 誘拐の巻』を読んだ感想

前から積ん読状態だった団鬼六花と蛇』をようやっと読みました。

花と蛇〈1〉誘拐の巻 (幻冬舎アウトロー文庫)

花と蛇〈1〉誘拐の巻 (幻冬舎アウトロー文庫)


日本官能小説の第一人者によるSM小説の金字塔的作品です。

「ズベ公」という言葉に戸惑う

ヒロインの遠山静子財閥夫人は、義理の娘である桂子と共に葉桜団というズベ公グループに誘拐され、地獄のような責め苦にあうわけなんだけど、自分は最初この「ズベ公」という不良少女を指す言葉に馴染めなくて肝心のプレイに気持ちがなかなか入っていけませんでした。

本作が書かれた当時は上流階級の婦人を心身ともに陵辱する存在としてズベ公を持ってくるのがリアリティーがあっただろうけれど、今の時代にはちょっとそぐわない設定かなと思いました。今風に作り変えるなら田舎のDQNとかになるのだろうか。

ポルノ小説にも関わらず漂う品の良さ

作者はあとがきで本作を「自慰用の珍文」と称している。

確かに本作のストーリーはあってないようなもので、全体の8割があの手この手を使っての調教で占められています。構成としては読者のヌキを目的とした後発のポルノ小説と何ら変わりません。

しかし、際限無く続く調教の中で次第に露わになる静子夫人の凄絶なまでの美しさには、同ジャンルの作品にない品格のようなものがあり、ある意味において理想の女性の描き方をしているなと読んでいて感じました。夫人が同じく捕まった女探偵京子とその妹を救うために小唄を唄うシーンなんかは目眩を覚えるような鮮烈な印象がある。

でも、あと9巻はこちらがもたない

ただ、『花と蛇』は完結までに文庫であと9巻もあるんですよね。

あと9巻分このテンションが持続するのかと思うと、読者であるこっちがもたなそうです。

次巻はインターバルを置いてからまた読んでみたいと思います。

ジミー大西の半生を描いた小説『Jimmy』を読んだ感想

原作・明石家さんま『Jimmy』を読みました。

Jimmy (文春文庫)

Jimmy (文春文庫)

本書はNETFLIXで7月から独占配信予定だったオリジナルドラマのノベライズなのだけど、ドラマ内で明石家さんまを演じた小出恵介が未成年者との淫行疑惑で無期限活動休止となったため、ドラマの方はお蔵入りになるという残念な事情がある。出版社としては想定外の事態だったこともあり、本書はドラマ宣伝の帯が付いたままで書店に並べられています。


ジミー大西さんのことは『旅猿』などのテレビ番組で見せる自由奔放な言動や色彩に富んだ抽象画家としての独自な作風が昔からとても好きだったので、ドラマは残念だったけど小説の方を手に取ってみました。

「嘘みたいな話ばっかりですけど、全部ホンマです!」


これはジミーさんの育ての親である明石家さんまさんの言葉ですが、僕も本書を読んで「嘘だろ?」と何度も思いました。ジミーさんの人生って嘘みたいなホントの話で溢れてるんですよね。


その中には、天然おとぼけキャラで許してしまえる微笑ましいものもあれば、普通の人だったら笑って済まされないようなかなりきわどい出来事も含まれています。


事実、何をやらせても人並みにできず失敗ばかりしているジミーさんを当初吉本はクビにしようと考えていたほど。これは吉本の基準が厳しいというわけではなくて、どの会社でも通用しない社会不適合者を受け入れる素地のあった吉本でさえもジミーさんに対してはほぼ匙を投げていた。


それでも、さんまさんだけはジミーさんを見放すことなく面倒を見続けて、芸人、そして芸術家としての彼の才能を開花させていく。


たぶん、というか絶対、もしさんまさんがいなかったら芸人ジミー大西はこの世に存在しなかったろう。自分のみじめさや悲しさを笑いに振り替えていくさんまさんの哲学に触れることがなければ、ジミーさんは自分の個性を武器にして前に出ていくことはできなかったはず。


ジミーさんにとっての恩人はさんまさんだけではなく、あの岡本太郎も彼の絵の才能を認めエールを送っています。さんまさんや岡本太郎に見る目があったというこももちろんですが、ジミーさんの方でも自分が師事する人間に対しては鋭い嗅覚を持ち合わせていて、盲目的と形容してもよいほど慕って止みません。


そのような普通の人間ならばセーブしてしまう純粋な感情を躊躇いなく出せるのも、笑いや絵の才能と同様にジミーさんの魅力の一つだなぁと本書を読んで感じました。

関連記事

※『旅猿』に時たま出るジミーさんが好きです。

taiwahen.hatenablog.com

『源氏物語』を読む2〈澪標〉~〈藤のうら葉〉


小説家の角田光代さんによる新訳が刊行されたり、27時間テレビで短いドラマが放送されたりと、なにかと話題の『源氏物語』。自分はオーソドックスに与謝野晶子訳で読んでいます。


前回の記事はこちら↓
taiwahen.hatenablog.com


さて、物語も中盤を過ぎて若い頃はプレイボーイで通っていた光源氏も人の親になる。

独立した物語、「玉鬘十帖」

〈乙女〉の巻以降、源氏と亡き葵の上の息子である夕霧や悲劇の人夕顔の忘れ形見である玉鬘が登場し、物語をけん引していく。〈玉鬘〉から〈真木柱〉のいわゆる「玉鬘十帖」がここでの大部分を占めています。


「玉鬘十帖」はそこだけ取り出しても物語として成立するほど綺麗な構成になっている。そのためか、メロドラマとして出来過ぎな感じがして現代の読者としては逆に物足りなく感じた。


でも『更級日記』の作者を代表とする当時の文学少女たちは、玉鬘のシンデレラストーリーをきっと自分事のように熱心に読み進んだはずで、そう考えると、本作の中でも欠かせない部分と言えるかもしれない。

紫式部の小説観が垣間見える〈蛍〉

梅雨が例年よりも長く続いていつ晴れるとも思われないころの退屈さに六条院の人たちも絵や小説を写すのに没頭した。

〈蛍〉の巻の好きな一節です。
この章では作者紫式部の小説観が光源氏の言を通じて間接的に語られています。


光源氏は近頃どこの御殿に足を運んでも散らかっている小説類に半ば辟易した体で玉鬘に嫌味を言うが、それでいて最終的には小説の存在を肯定している。


小説には架空のことが書かれている。しかし、人間の美点と欠点が誇張されて書かれているのが小説だと考えるなら、その全てが嘘であると断言することはできない。


仏教のお経の中にも方便が用いられるように、小説の中には善と悪の両方が余すところなく描かれている。だからこそ、読む側に真実が伝わる。


このようにに考えれば、小説だって何だって結構なものだと言えるのである。


何だか漠然としていていまいちよく分からないのだけど、作者紫式部が小説に対して非常に大らかで視野の広い考えを持っていることが分かります。

六条院を夕霧と共に歩く〈野分〉

今回読んでいて、読者としての自分と最も距離が近いと感じた登場人物は光源氏の息子夕霧だった。


光源氏と亡き葵の上の息子である夕霧は父親に勝るとも劣らない美貌を持ちながらも、その恋路はなかなかうまく事が運ばない。


光源氏は若い時分の自身の過ちと同種の事態を息子が引き起こさないように、裏から夕霧の行動や進路をコントロールしようとする。


夕霧は父親の考えに逆らうこともせず着実に位を上げ、忍耐の末、一度は拒まれた幼馴染雲居の雁との結婚も果たす。


光源氏の青年時代が華やかだったの比べ、夕霧のそれは地味で味気ないものに見える。


〈野分〉は、暴風が吹き荒れる日に六条院のハーレムを訪れた夕霧が、偶然光源氏の正妻である紫の上の顔を目撃して心乱される場面から始まり、彼の目を通して花散里、玉鬘、明石の姫君など、父親が囲っている女性たちの姿を順番に描いていく。


この章は素晴らしいなぁと思いました。


登場人物それぞれの営みと関係性の輪郭が夕霧の視線を通じて粛々と描かれる一方で、外では暴風が吹き荒れている。そのコントラストが何とも言えず良い。青春を描いた短編の傑作だと思いました。この部分だけでも何度も読み返したくなる。


続きを読んだらまた感想を書きますね。
ノロノロしたペースで申し訳ないです。


余談ですが、僕は古文の知識に乏しいので与謝野訳でも主語が分からないことが多々あります。「あれ、内大臣って今誰だっけ?」みたいな感じで。


以下のサイトで各巻のあらすじを見ることができます。分かりやすくまとまっており度々お世話になりました。

『響〜小説家になる方法〜』がマンガ大賞を受賞したのであらためて感想書く

響?小説家になる方法?(1) (ビッグコミックス)


前々から本ブログで感想を書いていた柳本光晴響〜小説家になる方法〜』がマンガ大賞2017大賞を受賞したので、今日は遅ればせながらこれまでの総括の意味で感想を書きます。


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響〜小説家になる方法〜』はこんな話

文芸の衰退を嘆く出版社の新人賞に、ある日募集要項をガンムシした手書き原稿が送られてくる。

開封もされずにゴミ箱行きとなった原稿を興味本位で読んだ女性編集者の花井は、『お伽の庭』と題されたそのアマチュアの小説に強い感銘を受ける。

作者の名前は鮎喰響。住所も年齢も職業も性別も電話番号も封筒には書かれてない。やる気あんのか? しかし、才能だけは本物なようだ。

鮎喰響の小説は出版界を、いや世界を変える。そう直感した花井は、何んとかして鮎喰と連絡を取り、掲載にこぎ着けようとするのだが……。

響〜小説家になる方法〜』は、純文学の世界に彗星のごとく現れた響という1人の天才少女の破天荒な活躍を描いた作品です。

主人公響の圧倒的ポテンシャル

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本作の一番の読みどころは、主人公響の他を寄せつけない圧倒的才能と彼女が引き起こすトラブルの数々だ。

生まれて初めて書いた小説『お伽の庭』で颯爽とデビューし、そのまま同作で芥川賞直木賞をダブル受賞してしまうという響のスター性は、まじめに「小説家になる方法」を模索している作家志望の人たちからするとあまりにも現実離れしているように映るかもしれない。

が、長い芸術の歴史において天才とはいつも一つの事件であり、才能の乏しい人間に対して容赦のないものだ。

本作では、響が書く小説の具体的な内容は読者に明らかにされないが、作品を読んだ人間全てを感動させ虜にする並外れた力量を彼女が持っていることは、周囲の反応を通じて間接的に読者に分かる仕組みになっています。

天才は顰蹙を買ってなんぼ

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小説家の高橋源一郎山田詠美の対談本に『顰蹙文学カフェ』というのがある。

その本の中で、顰蹙を買うのも新人作家の才能と言っている箇所があるのですが、「響」を読んでそれを思い出しました。

石原慎太郎村上龍舞城王太郎、作品含めて存在自体が顰蹙の的でしたよね。

山田さんが言うように、新人は常に「若者・バカ者・よそ者」であるべきで、顰蹙は優等生が買おうと思っても買えるものではありません。

その点、響は作品ではなく言動で顰蹙買ってるんだけど、新人作家としての資格は十分に備えていると言っていいでしょう。

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)

顰蹙文学カフェ (講談社文庫)


天才少女との交流を通じて自負を取り戻していく文芸界隈の人々

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本作は普段小説、ましてや純文学なんて読まない人にもおすすめです。

なぜなら、読むと純文学が好きな人たちが何を考えてるのかがちょっと分かるからです。

本作における表の主人公を響とするなら、裏の主人公は、文芸を取り巻く現在の状況をある種の諦観と共に眺めている小説家や編集者たちです。

本音の部分では文学に対する理想がありながらも、低迷する出版業界を前にして知らぬ間に自分を殺していた人々。彼らが響という類まれなる才能と接触することによって否応なく変化し、失われていた何かを取り戻していく。その様子がそれぞれの立場で描かれているのが、いち文学好きとして親近感が持てます。

まとめ

もともと、マンガ賞をとる前から好きで読んでいた作品なので大々的に書店の棚に展開されるようなって嬉しいです。メディアミックスで実写映画になったらぜひ観に行きたい。