そのイヤホンを外させたい

ベッドはただ寝るだけの場所なんかじゃない。/シルヴィア・プラス『おやすみ、おやすみ』

子供の頃、ベッドは小さな秘密基地のようなものだった。


今日は珍しく、好きな絵本など紹介してみる。


本のタイトルは、『おやすみ、おやすみ』。

おやすみ、おやすみ (詩人が贈る絵本)

おやすみ、おやすみ (詩人が贈る絵本)


本のカバーには、「詩人が贈る絵本」という記載がある。


作者はアメリカの詩人シルヴィア・プラス
英米の小説を好んで読む人間なら、知っている人も多いかと思う。


しかし、多くの人の詩人シルヴィア・プラスに対するイメージは、類まれなる才能を持ちながらも、精神疾患によって自殺を余儀なくされた自己破滅型の詩人というものではなかろうか。


そのへんの事情は彼女の詩集や自伝的小説『ベル・ジャー』に詳しく書かれているので未読の人はぜひ読んでもらいたいと思うのだが、僕がそれ以上に本書『おやすみ、おやすみ』をおすすめしたいのは、上記のような負のイメージとは異なる、純粋で、遊び心に溢れた想像力の持ち主としてのシルヴィア・プラスを再発見することができるからだ。


僕は本屋で偶然この本を立ち読みしてびっくりした。「え、シルヴィア・プラスってこんな温かい作品を残してたの?」と意外に感じたことをよく覚えている。


ベッドはただ寝るだけの場所なんかじゃない。


と、プラスは言う。
もっと色んなベッドがこの世界にあっていいはずだと。

もう1つのベッドは
みんなの のぞみどおりのベッド。
なんていうか まるで
どこも シミばっかりのベッド。

黒いシミ 青いシミ ピンクのシミ
まったくもう シミばっかりの 毛布。
だれも だから 気にしない。
インキを そこらじゅうに こぼしても。

犬と ねこと インコが
どろだらけの足で
ベッド・カヴァーのうえで
いっしょになって ダンスしたって

ぜーんぜん もんだいなし!
こっちにも あっちにも ジャムのシミ
こっちにも あっちにも ペンキのシミ
どこも シミばっかりのベッドなら。

シルヴィア・プラス『おやすみ、おやすみ』(みすず書房)より引用。


この他にも、本書には奇想天外なベッドがいくつも登場する。


とても勝手な物言いになるけれど、彼女の短い生涯の中で、一時期でも本書のようなのびのびとした創作に打ち込めた期間があったことを大変うれしく思う。


ちなみに、本書の挿絵を担当しているは、『チョコレート工場の秘密』で日本でも有名なクウェンティン・ブレイク。とても可愛らしい。


子供と大人、両方の想像力を刺激してくれる1冊。眠れない夜の楽しい言い訳としてもお使いください。


プラスの生涯を描いた映画作品。詩人としての彼女の功績を詳しく知りたい人におすすめ。主演のグウィネス・パルトローが結構はまってます。

シルヴィア [DVD]

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「海」は異質な何かを運んでくる。/ジョゼフ・コンラッド『エイミー・フォスター』

前回の『闇の奥』に続き、コンラッドの短編作品を読んでいた。

コンラッド短篇集 (岩波文庫)

コンラッド短篇集 (岩波文庫)


本書には全部で6つの作品が収録されているが、その内の5つは「政治小説家」、「歴史小説家」としてのコンラッドを特徴づけるようなラインナップになっている。


もともと血湧き肉躍るような冒険小説や犯罪小説が好きなこともあって、それらの作品たちも十分楽しく読めたのだが、全て読み終えてから、さて、どれが一番印象に残りブログで言及したくなったか、というと、それは意外にも作品の装飾としては最も地味な『エイミー・フォスター』だった。


僕は、休日にキャンプや海水浴に行くような行動派ではないものの、文芸作品に描かれる「海」が好きだ。


コンラッドは言わずと知れた「海」の作家だから、作品内にそれが登場するのは何ら珍しいことではない。しかし、『エイミー・フォスター』に描かれる「海」は際立って魅力的に感じられる。


海辺の田舎町にエイミー・フォスターという、これといって特徴のない、どちらかというと鈍臭いタイプの女性が暮らしている。自身が可愛がっていたオウムが猫に襲われていても助けることができず、ネズミ捕りにかかったネズミを見ても泣き出してしまうようなエイミーの日常は、奉公先である農園とそこから歩いて行ける場所にある実家までの範囲に限られていて、彼女自身そのことを不満にも思っていない。そんなエイミーが、嵐による船の難破によって浜に流れ着いた言葉の通じない異邦人、ヤンコーを助けたことがきっかけで激しい恋に落ちる。


短い話だし、今後何かの機会に読む方もいるかもしれないので、本作の悲劇的な結末についてはこれ以上は触れないでおく。


ただ言えるのは、何か異質なものを不意に連れてきて、その偶然性、または必然性については沈黙を守り、ただ存在することによってのみ目の前の出来事を肯定し、最終的にはその全てを包摂する「海」の優しさと峻厳さの相反するイメージは、コンラッドの小説を読み解くにあたって重要な要素であるように僕は思う。


異郷の地で言葉の通じないヤンコーは、ポーランド人でありながら二十歳を過ぎてから英語を学び英語で小説を書いた作者自身の境遇に通じるものがある。コンラッドにとって、「海」は自分と他者の間を決定的に隔てるものであると同時に、国籍や言語の違いを超越した共通理念としてあったのかもしれない。


僕自身の中の特別な短編小説フォルダに、また一つ作品が加わりました。


*『エイミー・フォスター』はレイチェル・ワイズ主演で映画化しています。原作とは設定が異なるものの、作品内に登場する海と自然がとても綺麗です。おすすめ。

輝きの海 [DVD]

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虚無のゆくえ/ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)


19世紀末、貿易会社勤務の水夫マーロウは、派遣されたアフリカ奥地の出張所で川の上流に位置する最深部の出張所をあずかるクルツという人物の不可解な噂を聞くにおよび、彼を探すため船で川をさかのぼっていく。


ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』の物語の大筋はエンタメ小説のそれのように単純だ。


事実、作者コンラッドは長らく冒険譚やメロドラマを得意とする海洋小説家として知られており、彼の作品に対する文学的評価は後になってからついてきたものだった。僕は本作の後にコンラッドの短編作品もいくつか読んでいるのだが、そちらはモーパッサンの作品に冒険とロマンスの風味を加えたような、一般受けする、良い意味でも悪い意味でも隙のない作品が多い。


しかし、この『闇の奥』に関しては僕はすんなり読むことができなかった。読んで最初に持った印象は、その語りの捉えどころのなさだ。


マーロウが、アフリカ奥地での体験を時に観念的な言葉を織り交ぜながら滔々と語るという形式、これは作品構成の観点から見れば杜撰と言われても仕方がない。


だが、まるで一夜の悪夢を思わせる歪で不穏な空気が作品全体を包んでおり、文明の光の届かない未開の土地に対する根源的な畏怖の念と、その最深部にいるクルツという謎の人物の神秘性を否応なく高めてくれる。なにやら、抜き差しならないものを読まされているという興奮があるのだ。


でも、現代の読者は「未開の土地に対する根源的な恐怖」と言ってもピンとこないのではないかと思う。


コンラッドの生きた時代には、今とは異なり、世界地図の中にまだ文明人が足を踏み入れたことのない空白の領域が多く残っていた。

ところで、僕は子供の時分から、大変な地図気狂いだった。何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、濠州の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。中でも特に僕の心を捉えるようなことがあると、(いや、一つとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとその上に指先をおいては、そうだ成長(おおき)くなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。 (p17より引用)


男の子ならば一度は持ったことがあるであろうまだ見ぬ外の世界への憧れと情熱をマーロウは持っていた。クルツに関してもそれは同様だ。


そのようなピュアな心性が、列強による帝国主義、植民地化政策、土地の先住民に対するヨーロッパ的倫理観の押しつけ、という国家的イデオロギーと重なった時、末端にいる個人の内面に決定的な分裂が生じる。その結果として、事切れる前のクルツが発する有名な言葉、「地獄だ! 地獄だ!」(原文では「The horror! The horror!」)はあるのではないか。


僕は、過去の文学作品を読む際には、文学史的な意味合いにおける作品の評価とは別に、今ここにある自分がその作品を読む意味について考えを巡らすことをなるべく心掛けている。キツいけど。


確かに、今や世界地図の中に空白はなく、コンラッドが描いたような神秘の暗黒大陸は姿を消した。帝国主義や植民地化政策という歴史教科書的なキーワードにしたって、今の自分が当事者性を持つことはなかなか難しい。


しかし、上に書いたような国家をはじめとした権威的な何かと個人の理想の関係性は、世界地図の白紙の部分が消失したことによって今まで以上に錯綜してきたのではないかと思う。


インターネットやSNSの発達によって、多くの個人がいつ何時でもつながることができるようになった。今後は多様な社会が訪れる、と楽観的なことを言う人もいる。


しかし自分の周りを見回してみると、人々は他者の振る舞いに対してより非寛容的になり、移民を排斥し、一昔前の家族や親戚、地域共同体にあった相互扶助の関係性も機能停止の状態にあると思う。


結局、アフリカの最深部でクルツが眺めた虚無が世界全体に拡大し、彼が経験したと同じ孤独と諦観を僕らが日常的に味わうようになった。ただ、それだけの話なのではないだろうか。


現代のクルツは、一人部屋に引きこもってスマフォの画面を眺めて言う。


「地獄だ! 地獄だ!」





【キーラ・ナイトレイ出演作】文学作品が原作の映画4選

学生時代は時間がありあまるほどあり、映画を1日に3本鑑賞することも決して珍しくありませんでした。


でも、社会人になってプライベートの時間が限定されると、今では月に5本鑑賞できれば贅沢と言えるくらい映画との距離が遠ざかっています。


それでも、好きな文芸作品の映像化作品はなるべくチェックするようにしています。原作と映像作品の細かな違いとか見つけるの好きなんです。


いくつかの作品を観ている途中で感じたのは、キーラ・ナイトレイの顔をよく見るなぁということ。


パイレーツ・オブ・カリビアン』をはじめ大作映画への出演で、日本でもわりとポピュラーな女優さんかなと思います。


ジョー・ライト監督作品の常連である彼女は、誰もがタイトルだけは知っている文学作品の映像化でヒロインに抜擢されることが多いです。


どの作品でも安定感のある名演技をしているので、原作を読む際にはぜひ手にとってみてください。僕自身が原作含め鑑賞した範囲で4作品ほど挙げておきます。


ちなみに、彼女自身の愛読書はトルストイの『戦争と平和』とのこと。


1.プライドと偏見

プライドと偏見 [DVD]

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ジェーン・オースティンの代表作を映像化。本作はストーリーの特性上、派手な事件がほとんど起こらないため、おのずと役者の演技の技量に目がいきがちです。役者の何でもない所作が凡庸だと作品そのものが台無しになる。キーラは、聡明かつ天真爛漫なエリザベスを原作の雰囲気を損なうことなく演じ切っています。

自負と偏見 (新潮文庫)

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2.つぐない

つぐない [DVD]

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原作は現代英国文学の重鎮イアン・マキューアンのシックな長編小説。キーラ演じるセシーリアは、実の妹のたった一つの些細な嘘によって運命を狂わされ、悲劇的な結末に追いこまれていく。圧巻なのは、愛し合う一組の男女にとっては神聖なものである逢引の瞬間が、子供の目から見るとおぞましいものにしか映らないという残酷な行き違いが生じる場面です。個人的には、彼女の出演作でこれが一番好き。

贖罪〈上〉 (新潮文庫)

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3.わたしを離さないで

昨年日本でもTVドラマ化された作品の本国版。原作はカズオ・イシグロの同名小説。キーラは、ヘールシャムと呼ばれる寄宿学校で生活する仲良し3人組の一人ルースを演じる。このルースという少女の周囲で生じる悲劇は、彼女が置かれた環境によるものと彼女自身の特性によるものの両方が混在しており、その複雑性が人物の魅力を形成しているように思います。キーラは、そういった少女のやるせない感情を抑制の効いた演技で表現している。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

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4.アンナ・カレーニナ

アンナ・カレーニナ [DVD]

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19世紀ロシアの文豪トルストイの言わずと知れた姦通小説の傑作を映像化。単なる人妻の不倫の話なのに、ロシアの大地と社交界が舞台になるとたちまち一大スペクタクルになる。トルストイの作品には作者の俯瞰的な視線によって登場人物を駒のように動かし、そこから血の通った全体性、普遍性を作っていく特徴があると僕には感じられるのですが、この映画ではその感じがよく出ています。ヴロンスキーが原作よりもイケメン過ぎる気がする。小説の方では確か部分禿げがあったような気が……。

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

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おまけ.危険なメソッド

危険なメソッド [DVD]

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本作は小説原作ではないけれど、人文学つながりで心理学者、精神医学者のユングフロイトの一筋縄ではいかない関係性を文学と捉えることもアリかなと。キーラ扮するヒステリー患者ザビーナは二人の天才の間でファム・ファタールの役割を演じます。冒頭の精神病患者としての彼女の演技は鬼気迫るものがあり、女優としてのプロ意識の高さを感じます。

精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)

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ここまで書いてきて気づきましたが、キーラは悲劇のヒロインを演じることが多いですね。自然、作品そのものも後味の悪いものが多い。でも、もれなく面白いよ。

それでは。

ストロングセンスオブヒューマーのある小説家/ジェーン・オースティン『自負と偏見』

自負と偏見 (新潮文庫)

自負と偏見 (新潮文庫)


ジェーン・オースティンの作品を好んで読む男性は多くはないだろう。


自分も学生の時に『自負と偏見』を試しに読んでみて、「これは男の読みものではない」と中途で放り出した記憶がある。


オースティンの小説は、当時イギリス社会においてまだ地位の低かった女性の恋愛と結婚を題材にしたものばかりだし、ドストエフスキーの作品のように「人生いかにして生きるべきか」を問うような重厚な文学とは程遠いので、オースティンの作品を敬遠する男性読者が多いのも仕方のない話だ。


しかし、今回あらためて『自負と偏見』を読んでみて自分の過去の評価が間違っていたことを知りました。昔「読めない」と感じたことは確かだけれど、どうしてこの面白さに気づかなかったかと今は不思議に感じられる。


サマセット・モームが『世界の十大小説』の中で、本作を「大した事件が起こるわけでもないのに、ページをめくる手が止まらなくなる」と絶賛しているらしいのだが、まさに同感だ。


月並みな言葉だけれど、「100パーセントの小説家」という形容はオースティンにこそふさわしいと思う。作者の優れた人間観察力に裏打ちされたエスプリの効いた楽しい小説である。


登場人物間の軽妙なやり取りを巧みな筆致で余すところなく描いている一方で、「これは女性だから書けるな」と思わせる情感に根ざした場面も少なくない。かと言って深刻にもならず、凡庸な女性作家のように感受性に振り回されることもない。少し離れた位置から無邪気な哲学者のように事の成り行きを眺めている。


的確、自由奔放な人物描写の冴えに加えて、オースティンは作品構成力も申し分ない。
妹の駆け落ちを別にすればこれといって大きな事件が起こらないにも関わらず、読者をグイグイと最後まで引っ張っていく無駄のないストーリーテリングは作家志望のお手本のようだ。現に、本作を映像化した作品も原作のプロットのまま面白いものになっていた。


オースティンは21歳の時に『初印象』という作品を書き上げ、10年以上後にそれを元にして本作を完成させたとのことだから、構成については納得いくまで練りに練ったのではないかと思う。


IBCパブリッシングが出しているラダーシリーズという英文リーダーのシリーズがある。


これは普通のペーパーバックを読むよりも少ない語彙力と文法力で過去の名作を読むことのできるシリーズで、自分は以前英語の勉強がてら本作の簡易英語版をパラパラと読んでいたことがあった。その中に、エリザベスの性格について触れている箇所があった。


She had a lively, playful mind and a strong sense of humor.


これは簡易版なので原文にはないのかもしれませんが、自分はこの“strong sense of humor”(ストロングセンスオブヒューマー)というのは言い得て妙だなと感じたのです。


オースティンの小説世界を一言で表現するとすれば、それは「ストロングセンスオブヒューマー」ということになると思う。そして、文学にしかない“何か”を考えた時に頭に浮かぶのもやはり「ストロングセンスオブヒューマー」だ。それはお笑い芸人がやってるような単純なユーモアの類ではない。


僕は、エリザベスが病気の姉ジェーンのために悪天候の中、足を泥だらけにして歩いていく場面がとても好きだ。読んでてゆきずりの優しさに触れたような何とも言えない気持ちになる。


「ストロングセンスオブヒューマー」という言葉は、そのような良い小説を読んだ時の説明し難い胸の高まりを形容してくれているような気がします。


また、僕は男なのでダーシー含め男性の登場人物に思い入れがあるのですが、中でもエリザベスの父親であるミスターベネットの人物造形は魅力的に感じる。


エリザベスの頭の良さというのは十中八九この父親からの遺伝であり、彼は資産家ではないにしろ社会的には成功している一家の大黒柱なのだが、彼の唯一の誤算、というか不運は、ミセスベネットという頭の悪いドイヒーな女性と夫婦になったことです。


とはいえ、それは今更どうこうできる問題ではないので、ミスターベネットは家族の愚かさに起因するあらゆる小事件について積極的に関わろうとはせず、常に悟りを開いたような姿勢を保っている。


そんな彼のエリザベスに対するアドバイスが飄々としていて面白い。


俗物コリンズのプロポーズをエリザベスが拒んだ際、親の期待を台無しにした彼女に対し、おとなしくコリンズと結婚しなければ親子の縁を切ると憤る母親とは反対に、コリンズと結婚するなら今度は自分が娘と親子の縁を切ると言ってのけた後、驚く母親に向かって、

「まあまあ、お前、わたしはね、二つばかりお前にお願いがあるんだが。一つはだね、わたしとしても、この際自由に考えさせてもらいたいということ。それからもう一つはね、やはりこれもわたしの部屋を自由に使わせてもらいたいということ。つまりね、一刻も早く、この書斎でひとりきりにさせてもらえればありがたい、ということなんだよ」(p180より引用)


なんて他人事のようなことを言ってのける彼に、愛着を感じずにはいられなかった。


男女分け隔てなく楽しめる作品なので、まだの方はぜひ。


それでは今日はこれで。


*文庫で読む場合、自分は中野好夫さんの翻訳をオススメします。非常に読みやすくオースティンの自由奔放な筆致の感じもよく出ている名訳です。

【感想】劇場版『名探偵コナン から紅の恋歌』

劇場版『名探偵コナン から紅の恋歌』を観てきた。

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劇場版『名探偵コナン から紅の恋歌』 公式サイト


コナン映画は8割方観てきたのだけど、映画館に足を運んだのは今回が初めて。


コナンがスケボーに乗って無茶苦茶するお約束のアクション・シーンは、映画館の大音量で観ると迫力がある。

過去作と比べてどうか。


コナン映画を少なくない数観てきた人なら分かると思うのだが、正直、作品によってアタリハズレはある。


1年に1回新作が公開になるから、「今年の出来はどうかな?」というボジョレーヌーヴォーに近い認識がある。


映画館に行くかどうかで迷ってる方いると思うので僕個人の実感を書いておくと、本作はアタリです。


コナン映画は、シリーズに馴染みのない観客のためにいつも作品の冒頭にコナン(新一)による簡単なストーリーの概要と人物紹介が入るのだが、経験上、ここでの演出がカッコ悪いと作品そのものも不発に終わる傾向があるように思う。台詞自体がいつも大体同じなだけに、そのぶん作り手のセンスが如実に表れる部分なのかもしれない。

ミステリーとラブコメの巧みな並走


『コナン』が、本格ミステリー漫画であると同時にラブコメ漫画として需要されているのは周知の通りだ。本作においてもそのスタンスは変わらない。


2時間という枠組みの中で、推理と恋愛のプロットを隙なく展開し、なおかつその二つの要素を作品のモチーフである「百人一首」というアイテムで結ぶという脚本の妙にプロの力量を見た気がした。


後になってから知ったのだけど、本作の脚本は大倉崇裕さんという推理作家が担当している。


脚本を推理作家が関わるのは、第6作の『ベイカー街の亡霊』の野沢尚氏以来とのこと。


『ベイカー街の亡霊』はシリーズの中でも評価の高い作品である。


ミステリーとラブコメの融合という観点から見た場合、本作の脚本のレベルは申し分ないし、百人一首や競技かるたのような古き良き日本の美しさも同時に味わえるので観る側の満足度は高いだろう。

難点があるとすれば……


ただ、本作は主人公であるコナンよりも大阪の高校生探偵、服部平次と幼馴染である遠山和葉にスポットが当たっているので、いつものようにコナン(新一)と蘭のピュアなやり取りを期待するとガッカリするかもしれない。

まとめ

  • 映画館だとアクション・シーンの迫力がすごい。
  • 脚本、演出共にクオリティー高いので観るかどうか迷ってるなら観るべき。
  • 服部、和葉をはじめとした大阪勢が好きな人はより楽しめる。


次回作もぜひ観に行きたい。

推理×恋愛の名作といえば『赤毛のレドメイン家』。
あの江戸川乱歩が高く評価したことで有名。↓

赤毛のレドメイン家 (創元推理文庫 111-1)

赤毛のレドメイン家 (創元推理文庫 111-1)


『まおゆう』の感想/全てのWEB小説が異世界に逃げてるわけじゃない。

だいぶ今更だけど、橙乃ままれ『まおゆう』を読んだ。


わりと長めの作品なので、とりあえず1巻のみ。


期待していた以上に面白くてびっくりした。


勇者と魔王が手を結んで世界から戦争を失くすという物語の骨格は、誰もが一度は思い浮かべる厨二病設定だ。しかし、大抵の人間はアイディア止まりで、そこからどのようにストーリーを展開させればいいのか見当がつかない。


橙乃ままれは、歴史、経済、軍事に関する実用的な知識をドラクエ的なファンタジー世界の中に導入することで、大人が読んで満足できる機能的な味わいを作品に与えることに成功している。


本作が画期的だと思う理由は2つある。


本作が普通の小説とは形式の異なる「戯曲小説」であるというのがまず1点。


地の文がなく登場人物の会話のみでの構成には賛否両論あると思うが、様々な情報が溢れ、その峻別に多大な労力を費やすことを余儀なくされるインターネット時代の読者を視野に入れた場合、本書の形式は、時代や読者のいる環境に合わせた小説としての健全な変化と言ってもいいのではないかと自分は思う。


2点目は、本作がドラクエ的な異世界を舞台にしているにも関わらず、白黒で割り切れない複雑化した世界に対して理念の戦争を仕掛け、より良き着地点を模索するという姿勢において読者のいる現実と陸続きになっているということだ。


昨今の異世界を舞台にしたライトノベルは昔のそれと異なり、あまりにも読者に都合のいいように話が進行するため「現実からの逃亡」と見なされることが多い。


事実、辛い現実を忘れるための慰めとして書かれた作品がWEB小説には多い。
個人的には好きではないけれど、『WEB小説の衝撃』を読むとそういった作品の傾向が必ずしも悪いことではないと分かるので、ここでは敢えてその是非は問わない。


『まおゆう』を純粋に良いなと感じるのは、ドラクエ的、RPG的な異世界の設定を、現実からの逃避ではなく、現実を理解し乗り越えるためのわれわれネット世代の共通言語として効果的に使っていることだ。


今の若い世代(と言っても30代のおっさんまで含まれるが)には、戦中派や団塊の世代にあったような古典的教養が欠如している。そのような知的基盤の薄弱は、物事を語る上で大きなハンデとなり最大の弱点になっている。


もちろん、反知性主義に抗うことは重要だ。だが、それと並行して自分たちの世代にしかない言語を最大限に活用し、欠落を埋める努力をすることもまた大事なのではないかと思う。


そういった意味で、『まおゆう』やその他の異世界を舞台にした作品にあるようなドラクエ的な世界観は、いささか危なっかしい面もあるけれど、かつての神話やフォークロアが当時の民衆にもたらしたのと類似の役割を、今の読者に対して果たすかもしれない。


少なくとも、『まおゆう』は異世界に逃げていない。


これは課題図書かも。↓